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クレハトリ・アヤハトリ伝承でんしょう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

クレハトリ・アヤハトリ伝承でんしょう[1](クレハトリ・アヤハトリでんしょう、かんあな伝承でんしょう[2][3])とは大阪おおさか池田いけだ詳細しょうさいえば豊島としまぐん)、兵庫ひょうごけん西宮にしのみやつたわる伝承でんしょう

概要がいよう

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応神天皇おうじんてんのう37ねん306ねん)に(くれ、華南かなん当時とうじ中国ちゅうごくあるいはあずますすむ六朝りくちょう)から(クレハトリ)・かん(アヤハトリ)の2の織姫おりひめがこのわたり、織物おりもの染色せんしょく技術ぎじゅつつたえたという伝説でんせつである[4][5][6]

日本書紀にほんしょき』には「応神天皇おうじんてんのう37ねん(306ねんはるがつじょう阿知あち使ぬし(あちのおみ)・みやこ使ぬし(つかのおみ)がぬいこうおんな(きぬぬいめ)をもとめてこううららわたり、いたくれ国王こくおうからこうおんなあにひめおとうとひめあなかんよんめい織姫おりひめたまわり、応神天皇おうじんてんのう41ねん310ねんはるがつじょうに、くに武庫むこ西宮にしのみや)にいた」という記述きじゅつがみられる[4]。ちなみに高麗こうらいった意味いみ不明ふめいである[4]

豊嶋とよしまぐん伝承でんしょうでは、あなかんめい武庫川むこがわから猪名川いながわのぼり、唐船とうせんふちげん池田いけだ新町しんまち)に上陸じょうりく人々ひとびと機織はたおり技術ぎじゅつつたえて死後しごは「呉服ごふく神社じんじゃ」に、かんは「あな神社じんじゃ」にまつられたという[4]一説いっせつにはにん猪名川いながわほとり唐船とうせんふち到着とうちゃくしたのち満寿美ますみまちにある「染殿そめどの」という井戸いどいとめた建石たていしまちの「ほしみや」で星明ほしあかりにらされてり、五月ごがつやまの「衣掛きぬかけまつ」でぬのし、池田いけだ人々ひとびと機織はたおりの方法ほうほうおしえたという。そしてそのせつではにん死後しご姫室ひめむろ」と「梅室うめむろ」というふたつのづかほうむられクレハトリは「呉服ごふく神社じんじゃ」にアヤハトリは「きょ太神おおがしゃ」にまつられたとつたえられている[6]

ではつぎに『日本書紀にほんしょき雄略天皇ゆうりゃくてんのう14ねん正月しょうがつじょうしたくためおうしん37ねんはるがつじょうくらべてもらいたい[4]

はさみ村主むらぬしあお(むさのすぐりあお、阿知あち使ぬし子孫しそん大和やまと高市たかいちぐん明日香あすかむらとうくれこく使つかいともざいわざ織姫おりひめ)のかんおよころもぬいぬいひめ)のあにひめおとうとひめらと住吉すみよし住吉すみよし)にく。いそ(しはつみち、住吉すみよしから東住吉ひがしすみよしにかけてのみち)をとおり、くれざか東住吉ひがしすみよし喜連きれ)と名付なづける。三月さんがつくれじんたちはひのきくま飛鳥あすか)にく。ころもぬいぬいひめ)のあにひめだいさんりん神社じんじゃまつり、おとうとひめかんころもぬいとする。ざいわざ織姫おりひめ)のかん飛鳥あすかころもぬい伊勢いせころもぬい(『和名わみょうしょう』に伊勢いせこくいちしむらぐんくれきょうがみえる)のである」

これはせま村主むらぬしあおひのきくまみん使博徳ひろのりからの帰朝きちょう記事きじであるが、地名ちめいの「いそ」などは『万葉集まんようしゅう』(きゅうきゅうきゅうばん)からも確認かくにん出来できほか、「くれざか」にかんしても経路けいろなどについてもわかる[4]

応神天皇おうじんてんのう20ねんあききゅうがつじょうに、「じゅうねんあききゅうがつに、やまとかんじき(やまとのあやのあたい)の阿知あち使ぬし、その使ぬしならびにおのれ党類とうるいじゅうななけんひきいて(まうけ)り」とえ、現在げんざい池田いけだ西宮にしのみやに「クレハトリ・アヤハトリ」として継承けいしょうされている織姫おりひめ伝承でんしょうはこのみじか文章ぶんしょうにかかっている。はち世紀せいきはいってやまとかん繁栄はんえいし、雄略ゆうりゃく出来事できごと応神おうしんおさむ投影とうえいされたのである。またこのかたち坂上さかがみによってつくられたとおもわれる[4]

このいいつたえができたのかにかんしてだが、まず『日本書紀にほんしょき』にはクレハトリ・アヤハトリにかんすることがかれているが技術ぎじゅつつたえたなどとかはかれていない。『池田いけだ 概説がいせつへん』には「かん池田いけだ織物おりもの技術ぎじゅつつたえたとされていますが、日本書紀にほんしょきにはこのような記述きじゅつはなく、この伝承でんしょうがいつ、なぜ、どのようにして誕生たんじょうしたのか、はっきりしたことはわかっていません。」という記述きじゅつがある[5]。またいいつたえの歴史れきし文章ぶんしょうあらわされたもののひとつにはにわそう(くれはのしょう)という名前なまえ登場とうじょうする1000 ねんほどまえのころまでさかのぼるともわれている[6]

結果けっかてきにこの伝承でんしょうがいつころできたか確定かくていする史料しりょう存在そんざいしないが、元禄げんろく14ねん(1701ねん)にできた『ぐんだん』や寛政かんせい10ねん(1798ねん)刊行かんこうの『摂津せっつ名所めいしょ図会ずえ』などに、この伝承でんしょうかんする記述きじゅつがあることから、江戸えど時代じだい前期ぜんきまでには現在げんざいつたえられているような姿すがたになっていたとかんがえられている[5]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ クレハトリ・アヤハトリ伝承でんしょう|池田いけだ”. www.city.ikeda.osaka.jp. 2023ねん6がつ7にち閲覧えつらん
  2. ^ Kokushi-Daijiten-Henshū-Iinkai へん『Kokushi daijiten. 4: Ki - Ku』(Dai 1 han, dai 5 satsu hakkō)Yoshikawa kōbunkan、Tōkyō、8、952ぺーじISBN 978-4-642-00504-3 
  3. ^ Nihon rekishi daijiten henshū ienkai へん『Nihon rekishi daijiten. 1: A - U』(2.Aufl.)Kawade shohō shinsha、Tōkyō、1985ねん、180ぺーじISBN 978-4-309-60901-0 
  4. ^ a b c d e f g 豊嶋とよしまぐんの「織姫おりひめ伝承でんしょう」について-クレハトリ・アヤハトリ(かん伝承でんしょう)-”. 豊中とよなか歴史れきし同好どうこうかい. 2023ねん6がつ5にち閲覧えつらん
  5. ^ a b c かん(クレハトリ・アヤハトリ) | 池田いけだ市立しりつ図書館としょかん”. lib-ikedacity.jp. 2023ねん6がつ5にち閲覧えつらん
  6. ^ a b c クレハトリ・アヤハトリのいいつたえについて”. 池田いけだ. 2023ねん6がつ5にち閲覧えつらん