バラク・ハージブ

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ケルマーン・カラヒタイあさから転送てんそう

バラク・ハージブ(? - 1234ねん/1235ねん[1])は、13世紀せいき初頭しょとうイランケルマーン成立せいりつしたカラヒタイあさ建国けんこくしゃ在位ざいい1223ねん - 1234ねん/1235ねん)。

バラク・ハージブはちぎり中央ちゅうおうアジア建国けんこくした西にしりょう(カラ・キタイ)の皇族こうぞく出身しゅっしんであるため[2]かれてた政権せいけん出自しゅつじにちなんだカラヒタイばれる[3]。また、バラク・ハージブがアッバースあさカリフからあたえられた称号しょうごうより、クトゥルグ・カンクトゥルグ・スルターンともばれる。

1218ねん西にしりょうがモンゴル帝国ていこく併合へいごうされたのち、バラク・ハージブとともにケルマーンに定住ていじゅうした一団いちだんイスラーム改宗かいしゅうし、現地げんちてた地方ちほう政権せいけんがケルマーンのカラヒタイあさはじまりである[4]。ケルマーンのカラヒタイあさモンゴル帝国ていこくイルハンあさ属国ぞっこくとして、やく80ねんあいだ中央ちゅうおうアジアに存続そんぞくした。カラヒタイあさには9にん君主くんしゅがおり[3]、うち2にん女性じょせいだった[5]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

バラク・ハージブは本来ほんらい西にしりょう軍人ぐんじんだったが[6]1210ねんにバナーカトのたたかいで西にしりょうぐんホラズム・シャーあさやぶれたときぐん指揮しきかんつとめていたおとうとのターヤンクー[7]ともにホラズム・シャーあさ捕虜ほりょとなった。ホラズム・シャーあさ降伏ごうぶくしたバラクは侍従じじゅう(ハージブ)として仕官しかんし、王子おうじギヤースッディーン・ピール・シャーのしたではエスファハーン長官ちょうかんつとめた[6]

1219ねんのモンゴル帝国ていこくホラズム侵攻しんこうのち、ギヤースッディーンの廷臣ていしん対立たいりつしたバラクはインド滞在たいざいする王子おうじジャラールッディーン・メングベルディーもとかう[6]行軍こうぐん妨害ぼうがいしたグヴァシール(ケルマーン)の長官ちょうかんやぶり、グヴァシールのしろ包囲ほういした[6]包囲ほういちゅう、バラクはジャラールッディーンに財宝ざいほう献上けんじょうし、かれむすめめとらせて婚姻こんいんむすび、帰順きじゅんちかった[6]。ジャラールッディーンはペルシアに帰国きこくするさいにバラクのグヴァシール長官ちょうかん地位ちいみとめ、やがてバラクの権威けんいはケルマーンしゅう全土ぜんどわた[3]

1226ねんにジャラールッディーンがイラク転戦てんせんしたのち、バラクは独立どくりつはかり、モンゴル帝国ていこく使者ししゃおくった[8]反逆はんぎゃくったジャラールッディーンがケルマーンにかえすと、バラクは堅固けんご城砦じょうさいもって抵抗ていこうし、両者りょうしゃ和解わかいする。ジャラールッディーンとのあらそいにやぶれたギヤースッディーンがケルマーンに亡命ぼうめいすると、バラクはかれとその母親ははおや、500にん従者じゅうしゃたちを殺害さつがいした[9]

のちにバラクはイスラームに改宗かいしゅうしてバグダードのカリフにスルターン称号しょうごう請求せいきゅうし、「クトゥルグ・スルターン(幸福こうふくなスルターン)」の称号しょうごうみとめられる[10][11]。ジャラールッディーンの死後しご、モンゴルぐんがホラズムぐん残党ざんとうスィースターン攻撃こうげきしたおり、バラクはかれらに臣従しんじゅうし、老齢ろうれい自分じぶん代理だいりとしてのルクヌッディーンをモンゴルの宮廷きゅうてい派遣はけんした[1]。ルクヌッディーンの移動いどうちゅうにバラクはぼっし、おいのクトブッディーンがケルマーンの王位おうい簒奪さんだつした[1]

そののカラヒタイあさ[編集へんしゅう]

バラク・ハージブの死後しご、ルクヌッディーンとクトブッディーンはモンゴルの宮廷きゅうてい有力ゆうりょくしゃたちのちから背景はいけいにしてケルマーンの王位おういあらそった。

オゴデイ・カアンはルクヌッディーンのケルマーン王位おういみとめ、グユク・カンの即位そくいには大臣だいじんチンカイ支持しじされたルクヌッディーンが王位おうい保持ほじした。モンケがカアンに即位そくいしてグユクの党派とうは失脚しっきゃくすると、クトブッディーンがマフムード・ヤラワチ支持しじてケルマーンの王位おういにする[12]1253ねん(もしくは1254ねん)、王位おういあらそいにやぶれたルクヌッディーンはクトブッディーンによって殺害さつがいされる[12]フレグせい西にしにあたって、クトブッディーンはフレグに臣従しんじゅうちかい、1257ねん(もしくは1258ねん)にぼっした[13]

モンケはクトブッディーンののハッジャージュをケルマーンのおうふうじるが、ハッジャージュはおさなく、クトブッディーンのつまのクトルグ・テルケンがハッジャージュを後見こうけんした。成長せいちょうしたハッジャージュはクトルグ・テルケンと対立たいりつ、クトルグ・テルケンは女婿じょせいにあたるイルハンあさアバカ・ハンにたすけをもとめ、アバカよりケルマーンの支配しはいけんみとめられる[14]。ハッジャージュはインドの奴隷どれい王朝おうちょう亡命ぼうめいし、王位おうい奪還だっかんたさないまま帰国きこくちゅうぼっした[14]

アフマド・テグデルがイルハンあさのハンに即位そくいしたのち1282ねんにクトブッディーンの次男じなんのジャラールッディーン・ソユルガトミシュはテグデルよりケルマーンの王位おういみとめられ、クトルグ・テルケンを廃位はいいした[14]。クトルグ・テルケンはタブリーズのイルハンあさ宮廷きゅうていのがれ、イルハンあさかんじんはソユルガトミシュとクトルグ・テルケンの和解わかいのぞんだ[15]同年どうねんにクトルグ・テルケンは亡命ぼうめいさきのタブリーズで客死かくしする[15]

アルグンがテグデルをってイルハンあさのハンに即位そくいすると、テグデルの後援こうえんでケルマーン王位おういたソユルガトミシュは裁判さいばんにかけられるが、王位おうい保持ほじみとめられた[15]1291ねんにイルハンあさのハンに即位そくいしたゲイハトゥつまのパードシャー・ハトゥンをケルマーンの支配しはいしゃとし、よく1292ねん帰国きこくしたパードシャーによってソユルガトミシュは処刑しょけいされる。

1306ねん、シャー・ジハーンは告発こくはつけてオルジェイトゥ・ハンの宮廷きゅうてい召喚しょうかんされた[16]。シャー・ジハーンはオルジェイトゥにばっせられなかったものの、ケルマーンへの帰国きこくみとめられなかった。ケルマーンはイルハンあさ統治とうちかれ、シャー・ジハーンはシーラーズ隠棲いんせいした[17]。シャー・ジハーンはシーラーズで財貨ざいかたくわ[17]かれむすめムザッファルあさ建国けんこくしゃムバーリズッディーン・ムハンマドもととついだ[5]

カラヒタイあさ歴代れきだい君主くんしゅ[編集へんしゅう]

  1. バラク・ハージブ(在位ざいい1223ねん - 1234ねんもしくは1235ねん
  2. ルクヌッディーン・ホージャ・ムハンマド - バラク・ハージブの
  3. クトブッディーン - ターヤンクーの
  4. スルターン・ハッジャージュ(在位ざいい:1257ねんもしくは1258ねん - 1271ねん) - クトブッディーンの
  5. クトルグ・テルケン(在位ざいい:1271ねん - 1282ねん) - クトブッディーンのつま
  6. ジャラールッディーン・ソユルガトミシュ(在位ざいい:1282ねん - 1292ねん) - クトブッディーンの次男じなん
  7. パードシャー・ハトゥン - クトブッディーンの。ソユルガトミシュのあね。イルハンあさアバカもととつぎ、アバカの死後しごゲイハトゥきさきとされた
  8. ムハンマド・シャー - ハッジャージュの
  9. シャー・ジハーン(在位ざいい:1303ねん - 1306ねん) - ソユルガトミシュの

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c ドーソン『モンゴル帝国ていこく』4かん、135ぺーじ
  2. ^ ドーソン『モンゴル帝国ていこく』4かん、137ぺーじ
  3. ^ a b c ドーソン『モンゴル帝国ていこく』4かん、8ぺーじ
  4. ^ Tjong Ding Yih. “Qarakhitay (Hsi Liao) Cash Coins Inscribed KANGGUO”. 2013ねん1がつ27にち閲覧えつらん
  5. ^ a b Biran, Michal. (2005). The Empire of the Qara Khitai in Eurasian History: Between China and the Islamic World. Cambridge University Press. 87–89ぺーじ
  6. ^ a b c d e ドーソン『モンゴル帝国ていこく』4かん、7ぺーじ
  7. ^ ドーソン『モンゴル帝国ていこく』4かん、136ぺーじ
  8. ^ ドーソン『モンゴル帝国ていこく』4かん、21-22ぺーじ
  9. ^ ドーソン『モンゴル帝国ていこく』4かん、35ぺーじ
  10. ^ ドーソン『モンゴル帝国ていこく』4かん、135,137ぺーじ
  11. ^ アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニー. 世界せかい征服せいふくしゃ歴史れきし 2かん. https://archive.org/details/historyoftheworl011648mbp/page/n129/mode/2up?view=theater 
  12. ^ a b ドーソン『モンゴル帝国ていこく』4かん、136ぺーじ
  13. ^ ドーソン『モンゴル帝国ていこく』4かん、136ぺーじ、ドーソン『モンゴル帝国ていこく』5かん、271ぺーじ
  14. ^ a b c ドーソン『モンゴル帝国ていこく』5かん、271ぺーじ
  15. ^ a b c ドーソン『モンゴル帝国ていこく』5かん、272ぺーじ
  16. ^ ドーソン『モンゴル帝国ていこく』6かん、169ぺーじ
  17. ^ a b ドーソン『モンゴル帝国ていこく』6かん、170ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国ていこく』4かんこうとおる訳注やくちゅう, 東洋文庫とうようぶんこ, 平凡社へいぼんしゃ, 1973ねん6がつ
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国ていこく』5かんこうとおる訳注やくちゅう, 東洋文庫とうようぶんこ, 平凡社へいぼんしゃ, 1976ねん12がつ
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国ていこく』6かんこうとおる訳注やくちゅう, 東洋文庫とうようぶんこ, 平凡社へいぼんしゃ, 1979ねん11月)
  • アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニー. 世界せかい征服せいふくしゃ歴史れきし 2かん. https://archive.org/stream/historyoftheworl011648mbp/historyoftheworl011648mbp_djvu.txt 
  • Biran, Michal. (2005). The Empire of the Qara Khitai in Eurasian History: Between China and the Islamic World. Cambridge University Press. pp. 87–89. ISBN 0-521-84226-3