コロンビア の政党 せいとう コロンビア革命 かくめい 軍 ぐん ejercito revolucionario colombiano
党 とう の紋章 もんしょう
党首 とうしゅ
ロドリゴ・ロンドーニョ・エチェベリ 前身 ぜんしん 政党 せいとう
自由党 じゆうとう 系 けい の武装 ぶそう 農民 のうみん 運動 うんどう 本部 ほんぶ 所在地 しょざいち
コロンビア ボゴタ 代議員 だいぎいん 議席 ぎせき 数 すう
元老 げんろう 院 いん 議席 ぎせき 数 すう
コロンビア
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党 とう 旗 はた
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コロンビア革命 かくめい 軍 ぐん (コロンビアかくめいぐん、スペイン語 ご : F uerzas A rmadas R evolucionarias de C olombia 、略称 りゃくしょう ・通称 つうしょう :FARC=ファルク [1] )は、コロンビア の政党 せいとう [1] である。嘗 かつ ては中南米 ちゅうなんべい 最大 さいだい の反 はん 体制 たいせい 武装 ぶそう 勢力 せいりょく であり、コロンビア国内 こくない のみならず、ベネズエラ 、パナマ 、ペルー 、ブラジル 、エクアドル など[2] 周辺 しゅうへん 諸国 しょこく でも活動 かつどう していた。農民 のうみん 主体 しゅたい のゲリラであるにもかかわらず、幹部 かんぶ にはインテリ 層 そう も含 ふく まれ、組織 そしき のホームページ を運用 うんよう (現在 げんざい は閉鎖 へいさ 中 ちゅう )して宣伝 せんでん や情報 じょうほう 収集 しゅうしゅう 活動 かつどう も行 おこな っていた。2016年 ねん 11月24日 にち 、コロンビア政府 せいふ と戦闘 せんとう 終結 しゅうけつ で合意 ごうい [1] して武装 ぶそう 解除 かいじょ し、2017年 ねん 以降 いこう はFARCという略称 りゃくしょう はそのままで合法 ごうほう 政党 せいとう に移行 いこう し、2021年 ねん に「Comunes」へ改称 かいしょう した(後述 こうじゅつ )。
1819年 ねん にスペイン から独立 どくりつ して以降 いこう 、コロンビアでは自由党 じゆうとう と保守党 ほしゅとう による二 に 大 だい 政党 せいとう 制 せい による議会 ぎかい 政治 せいじ が行 おこな われてきた。自由党 じゆうとう は零細 れいさい 農家 のうか や新興 しんこう 財閥 ざいばつ 、都市 とし 労働 ろうどう 者 しゃ などを支持 しじ 基盤 きばん とし、保守党 ほしゅとう はカトリック教会 きょうかい や地主 じぬし などの支配 しはい 層 そう を支持 しじ 基盤 きばん としていたが、基本 きほん 的 てき に両 りょう 党 とう とも寡頭制 せい の維持 いじ という点 てん では共通 きょうつう していた。コロンビアはラテンアメリカ では珍 めずら しくクーデター や独裁 どくさい 政権 せいけん をほとんど経験 けいけん せず、「西半球 にしはんきゅう で最 もっと も古 ふる い民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 国家 こっか 」と評 ひょう される反面 はんめん 、二 に 大 だい 政党 せいとう 以外 いがい の政治 せいじ 勢力 せいりょく による政治 せいじ 参加 さんか が阻害 そがい されてきた。
1899年 ねん にはコーヒー 価格 かかく の暴落 ぼうらく により千 せん 日 にち 戦争 せんそう と呼 よ ばれる内戦 ないせん が発生 はっせい 。死者 ししゃ は全土 ぜんど で10万 まん 人 にん にも達 たっ したとされる。1948年 ねん には自由党 じゆうとう のカリスマ的 てき 政治 せいじ 家 か ホルヘ・エリエセル・ガイタン が暗殺 あんさつ されボゴタ暴動 ぼうどう が起 お きると、1950年代 ねんだい 後半 こうはん まで続 つづ いた内戦 ないせん で10万 まん 人 にん とも20万 まん 人 にん とも言 い われる犠牲 ぎせい 者 しゃ が出 で た。これらの内戦 ないせん は自由 じゆう ・保守 ほしゅ 両 りょう 党 とう の伝統 でんとう 的 てき な政党 せいとう 対立 たいりつ を背景 はいけい としたものであったが、両 りょう 党 とう が内戦 ないせん を終 お わらせるため政権 せいけん のたらい回 まわ しである「国民 こくみん 戦線 せんせん 」協定 きょうてい を結 むす ぶと、寡頭体制 たいせい から排除 はいじょ された農民 のうみん や貧困 ひんこん 層 そう は不満 ふまん を募 つの らせ反 はん 政府 せいふ 武装 ぶそう 闘争 とうそう を展開 てんかい した。
1959年 ねん にキューバ革命 かくめい が起 お きると、コロンビアでもその影響 えいきょう を強 つよ く受 う けた組織 そしき が次々 つぎつぎ と旗揚 はたあ げした。FARCもその一 ひと つであり、1964年 ねん 5月27日 にち に結成 けっせい された。自由党 じゆうとう 系 けい の武装 ぶそう 農民 のうみん 運動 うんどう から出発 しゅっぱつ し、1966年 ねん 、伝説 でんせつ 的 てき な指導 しどう 者 しゃ マヌエル・マルランダ が最高 さいこう 司令 しれい 官 かん に就任 しゅうにん 。コロンビアの寡頭制 せい の打倒 だとう 、農地 のうち 改革 かいかく 、富 とみ の再 さい 分配 ぶんぱい を掲 かか げ、マルクス・レーニン主義 しゅぎ の社会 しゃかい 主義 しゅぎ 革命 かくめい 政権 せいけん 樹立 じゅりつ を目的 もくてき とした。
勢力 せいりょく の拡大 かくだい [ 編集 へんしゅう ]
1980年代 ねんだい 初頭 しょとう まで勢力 せいりょく は1,000人 にん 規模 きぼ だったが、80年代 ねんだい 半 なか ばより麻薬 まやく 密売 みつばい 組織 そしき と協力 きょうりょく 関係 かんけい を結 むす び、コカイン 原料 げんりょう のコカ 栽培 さいばい 地 ち やコカイン精製 せいせい 工場 こうじょう 、コカイン密輸 みつゆ ルートを保護 ほご することで多額 たがく の軍資金 ぐんしきん を獲得 かくとく 。政府 せいふ 軍 ぐん より高性能 こうせいのう の兵器 へいき を備 そな えることで急速 きゅうそく に勢力 せいりょく を拡大 かくだい させた。その規模 きぼ は、1995年 ねん にコロンビア政府 せいふ が麻薬 まやく カルテルを壊滅 かいめつ させると、FARCがコカイン取引 とりひき に直接 ちょくせつ 参入 さんにゅう することで急 きゅう 成長 せいちょう し、1995年 ねん 当時 とうじ 6,000人 にん 規模 きぼ だったのが2000年代 ねんだい には3倍 ばい の18,000人 にん に膨 ふく れ上 あ がった。一時 いちじ はコロンビア全土 ぜんど の3分 ぶん の1(日本 にっぽん と同 おな じ面積 めんせき )を実効 じっこう 支配 しはい 下 した に置 お き、支配 しはい 地域 ちいき でのコカ栽培 さいばい への課税 かぜい 、住民 じゅうみん からの徴税 ちょうぜい 、企業 きぎょう 恐喝 きょうかつ 、要人 ようじん 誘拐 ゆうかい による身代金 みのしろきん やコカイン取引 とりひき で毎年 まいとし 推定 すいてい 8億 おく ドルもの活動 かつどう 資金 しきん を得 え ていたとみられる。
1990年代 ねんだい 、コロンビアでは世界 せかい の誘拐 ゆうかい 事件 じけん の6割 わり に相当 そうとう する3600人 にん が誘拐 ゆうかい されており、1996年 ねん から2004年 ねん までの8年間 ねんかん に外国 がいこく 人 じん 324人 にん が誘拐 ゆうかい された。FARCは資金 しきん 獲得 かくとく のため誘拐 ゆうかい 戦術 せんじゅつ を多用 たよう し、日本人 にっぽんじん もターゲットとなった。
1991年 ねん 8月 がつ 、アンティオキア県 けん の水力 すいりょく 発電 はつでん 所 しょ で東芝 とうしば の日本人 にっぽんじん 技術 ぎじゅつ 者 しゃ 2人 にん がFARCに誘拐 ゆうかい され、身代金 みのしろきん 200万 まん ドルの支払 しはら いで約 やく 4ヵ月 かげつ 後 ご に解放 かいほう された。
1998年 ねん 9月と2001年 ねん 8月 がつ には元 もと 山梨 やまなし 県議 けんぎ が2度 ど 誘拐 ゆうかい され、いずれも無事 ぶじ 解放 かいほう されたが、2001年 ねん 2月 がつ に首都 しゅと ボゴタ で誘拐 ゆうかい されFARCに引 ひ き渡 わた された矢崎総業 やざきそうぎょう の現地 げんち 合弁 ごうべん 会社 かいしゃ の日本人 にっぽんじん 副 ふく 社長 しゃちょう は身代金 みのしろきん 2500万 まん ドル(約 やく 27億 おく 円 えん )を要求 ようきゅう され、解放 かいほう 交渉 こうしょう は長期 ちょうき に及 およ んだ。副 ふく 社長 しゃちょう は山岳 さんがく 地帯 ちたい のFARC支配 しはい 地 ち を連 つ れ回 まわ された後 のち 、2003年 ねん 11月、ボゴタ郊外 こうがい で射殺 しゃさつ 遺体 いたい で発見 はっけん された(コロンビア邦人 ほうじん 副 ふく 社長 しゃちょう 誘拐 ゆうかい 事件 じけん )。
2010年 ねん 3月、カリ 在住 ざいじゅう の日本人 にっぽんじん 男性 だんせい がFARCに誘拐 ゆうかい されたが、約 やく 5ヵ月 かげつ 後 ご 、監禁 かんきん 場所 ばしょ を特定 とくてい したコロンビア軍 ぐん 特殊 とくしゅ 部隊 ぶたい の急襲 きゅうしゅう で解放 かいほう された。
和平 わへい 交渉 こうしょう の失敗 しっぱい [ 編集 へんしゅう ]
1984年 ねん に政府 せいふ との和平 わへい 交渉 こうしょう に応 おう じ、翌年 よくねん 愛国 あいこく 同盟 どうめい (英語 えいご 版 ばん ) という合法 ごうほう 政党 せいとう を創設 そうせつ 。議会 ぎかい に議員 ぎいん を送 おく り込 こ んだが、議員 ぎいん や関係 かんけい 者 しゃ は3,000人 にん も暗殺 あんさつ され、1994年 ねん には政党 せいとう 資格 しかく を消失 しょうしつ して国政 こくせい から離脱 りだつ した。
1998年 ねん に大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん したアンドレス・パストラーナ・アランゴ は反 はん 政府 せいふ 左翼 さよく ゲリラとの対話 たいわ による和平 わへい 実現 じつげん を公約 こうやく に掲 かか げ、1999年 ねん 1月 がつ からFARCと和平 わへい 交渉 こうしょう を再開 さいかい した。政府 せいふ は交渉 こうしょう のためコロンビア南部 なんぶ の広大 こうだい な地域 ちいき から国軍 こくぐん と警察 けいさつ 部隊 ぶたい を撤退 てったい させ非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい を設 もう けたが、交渉 こうしょう は不調 ふちょう に終 お わった。FARCは首都 しゅと ボゴタ 南部 なんぶ のサン・ビセンテ・デル・カグアン に事実 じじつ 上 じょう の首都 しゅと を置 お き、一時 いちじ は武力 ぶりょく で政権 せいけん を奪取 だっしゅ するのではないかという話 はなし も現実味 げんじつみ を帯 お びるほど勢力 せいりょく は強大 きょうだい で活動 かつどう は活発 かっぱつ だったが、2001年 ねん 9月11日 にち のアメリカ同時 どうじ 多発 たはつ テロ事件 じけん 以降 いこう は国際 こくさい 社会 しゃかい がテロ に対 たい して非常 ひじょう に厳 きび しい姿勢 しせい を示 しめ すようになり、コロンビア政府 せいふ も米国 べいこく に同調 どうちょう する形 かたち でFARCに対 たい し強硬 きょうこう な態度 たいど で臨 のぞ むようになった。
2002年 ねん 2月 がつ 20日 はつか 、南部 なんぶ のネイバ からボゴタへ向 む かう国内線 こくないせん プロペラ機 き がFARC構成 こうせい 員 いん にハイジャック され、和平 わへい 交渉 こうしょう 担当 たんとう の上院 じょういん 議員 ぎいん が拉致 らち される事件 じけん が発生 はっせい すると、これを契機 けいき に政府 せいふ は最終 さいしゅう 的 てき に交渉 こうしょう を打 う ち切 き り、国軍 こくぐん を展開 てんかい させ事実 じじつ 上 じょう FARCの支配 しはい 下 か にあった非 ひ 武装 ぶそう 地帯 ちたい を奪回 だっかい した。
対話 たいわ から対決 たいけつ へ[ 編集 へんしゅう ]
FARC戦闘 せんとう 員 いん によるパレード
2002年 ねん 8月 がつ に就任 しゅうにん したアルバロ・ウリベ 大統領 だいとうりょう は1983年 ねん に父親 ちちおや をFARCに殺害 さつがい されており「力 ちから による内戦 ないせん 終結 しゅうけつ 」 を掲 かか げ、対 たい FARC強硬 きょうこう 策 さく を選択 せんたく した。「Plan Patriota(愛国 あいこく 計画 けいかく )」 と呼 よ ばれるウリベ政権 せいけん 下 か での徹底的 てっていてき な掃討 そうとう 作戦 さくせん の結果 けっか 、FARCは勢力 せいりょく を減退 げんたい させ、ベネズエラとの国境 こっきょう 地帯 ちたい やコロンビア南西 なんせい 部 ぶ のジャングル 地帯 ちたい に追 お い込 こ まれた。相次 あいつ ぐ幹部 かんぶ の逮捕 たいほ や殺害 さつがい 、兵士 へいし の脱走 だっそう 、大量 たいりょう 投降 とうこう で兵力 へいりょく は10,000人 にん を切 き るなど弱体 じゃくたい 化 か が進 すす んでいるとされた。
2007年 ねん 8月 がつ からベネズエラ大統領 だいとうりょう ウゴ・チャベス を仲介 ちゅうかい 役 やく にして人質 ひとじち 解放 かいほう 交渉 こうしょう が始 はじ まり、同年 どうねん 末 まつ から2008年 ねん 2月 がつ にかけて750人 にん の誘拐 ゆうかい した人質 ひとじち のうち6人 にん を解放 かいほう したが、交渉 こうしょう に当 あ たっていたNo.2のラウル・レジェス が3月1日 にち 早朝 そうちょう にエクアドル領内 りょうない で他 た の23名 めい とともにコロンビア空軍 くうぐん の爆 ばく 撃 げき を受 う けて殺害 さつがい された。その際 さい 、コロンビア当局 とうきょく が押収 おうしゅう したパソコン の記録 きろく などから、FARCが放射 ほうしゃ 性 せい 物質 ぶっしつ のウラン 50キログラムを入手 にゅうしゅ していた可能 かのう 性 せい が強 つよ まった(核兵器 かくへいき を製造 せいぞう するためではなく、転売 てんばい 目的 もくてき とみられる)。また7日 にち には最高 さいこう 幹部 かんぶ の1人 ひとり であるイバン・リオス が部下 ぶか の護衛 ごえい に殺害 さつがい された。これで最高 さいこう 幹部 かんぶ 7人 にん のうち2人 にん を短期間 たんきかん に失 うしな ったことになり、FARCにとっては大 おお きな打撃 だげき となった。
2008年 ねん 5月24日 にち 、コロンビア政府 せいふ 当局 とうきょく 者 しゃ はFARC最高 さいこう 幹部 かんぶ のマヌエル・マルランダが同年 どうねん 3月26日 にち 夕方 ゆうがた に死亡 しぼう していたと発表 はっぴょう した。死因 しいん は心臓 しんぞう 発作 ほっさ だった。
なお、2007年 ねん 12月19日 にち から2008年 ねん 5月 がつ 29日 にち までの記録 きろく として、FARC広報 こうほう 部長 ぶちょう のYahoo 電子 でんし メール ボックスが公開 こうかい されている[3] 。
人質 ひとじち 救出 きゅうしゅつ 作戦 さくせん の成功 せいこう [ 編集 へんしゅう ]
2008年 ねん 7月 がつ 2日 にち 、コロンビア軍 ぐん は、誘拐 ゆうかい 後 ご 、約 やく 6年間 ねんかん 拘束 こうそく されていたイングリッド・ベタンクール 元 もと 大統領 だいとうりょう 候補 こうほ ら人質 ひとじち 15人 にん を救 すく うべく救出 きゅうしゅつ 作戦 さくせん を実行 じっこう した。作戦 さくせん は、民間 みんかん 人 じん を偽装 ぎそう した軍人 ぐんじん が行 おこな い、まず偽 にせ の人質 ひとじち 移送 いそう 計画 けいかく を幹部 かんぶ に信 しん じ込 こ ませ、民間 みんかん 機 き に偽装 ぎそう した軍 ぐん のヘリコプター に人質 ひとじち を乗 の せた。その後 ご 、同乗 どうじょう したゲリラ兵 へい 2人 にん を拘束 こうそく し、機内 きない で「我々 われわれ は国軍 こくぐん です。皆 みな さんは解放 かいほう されました」と告 つ げた。機内 きない では歓声 かんせい が上 あ がった。作戦 さくせん は一発 いっぱつ も発砲 はっぽう することなく終了 しゅうりょう した。なお、フランス 国籍 こくせき も持 も つベタンクールのため、フランス政府 せいふ が作戦 さくせん を支援 しえん した可能 かのう 性 せい が指摘 してき されている。また、後 のち に作戦 さくせん に参加 さんか した兵士 へいし の1人 ひとり が、国際 こくさい 法 ほう で濫用 らんよう を禁止 きんし されている赤十字 せきじゅうじ の標 しめぎ 章 あきら を、無断 むだん で身 み につけていたことが判明 はんめい し、非難 ひなん を受 う けた。これを受 う けて大統領 だいとうりょう は演説 えんぜつ で謝罪 しゃざい した。
幹部 かんぶ の死 し と和平 わへい 交渉 こうしょう 再開 さいかい [ 編集 へんしゅう ]
2010年 ねん 9月23日 にち 、コロンビア軍 ぐん はFARC軍事 ぐんじ 部門 ぶもん 司令 しれい 官 かん のホルヘ・ブリセーニョ・スアレス(通称 つうしょう モノ・ホホイ)を軍事 ぐんじ 作戦 さくせん の末 すえ に殺害 さつがい したと発表 はっぴょう した。コロンビアのフアン・マヌエル・サントス 大統領 だいとうりょう は「FARCに対 たい する大 おお きな勝利 しょうり だ」と語 かた った。
2011年 ねん 11月4日 にち 、コロンビア政府 せいふ はFARC最高 さいこう 幹部 かんぶ アルフォンソ・カノをカウカ県 けん の山岳 さんがく 地帯 ちたい で10時間 じかん 以上 いじょう にわたる戦闘 せんとう の末 すえ に殺害 さつがい した[4] 。カノは、2008年 ねん 3月 がつ に死亡 しぼう したマルランダの後継 こうけい 者 しゃ としてFARCを率 ひき いていた。FARCはカノの死後 しご 、新 あら たにロドリゴ・ロンドーニョ・エチェベリ(通称 つうしょう ティモチェンコ司令 しれい 官 かん )を指導 しどう 者 しゃ に選出 せんしゅつ し、武装 ぶそう 闘争 とうそう の継続 けいぞく を宣言 せんげん した。
2012年 ねん 2月 がつ 26日 にち 、FARCは拉致 らち 後 ご 10年 ねん 以上 いじょう 拘束 こうそく していた軍 ぐん ・警察 けいさつ 関係 かんけい 者 しゃ の人質 ひとじち 10名 めい を解放 かいほう するとともに、「今後 こんご 身代金 みのしろきん 目的 もくてき の民間 みんかん 人 じん の誘拐 ゆうかい は行 おこ なわない」とする声明 せいめい を発表 はっぴょう した。
2012年 ねん 9月4日 にち 、コロンビア政府 せいふ とFARCの和平 わへい 交渉 こうしょう が10月からノルウェー のオスロ で行 おこ なわれることが発表 はっぴょう された。8月に政府 せいふ がFARCと予備 よび 交渉 こうしょう を行 おこ ない、公式 こうしき 交渉 こうしょう をオスロで行 おこ なった後 のち 、キューバ のハバナ で交渉 こうしょう が継続 けいぞく される[5] 。
2014年 ねん 11月18日 にち 、FARCは行方 ゆくえ 不明 ふめい になった軍 ぐん 高官 こうかん ら3名 めい の軍人 ぐんじん を拘束 こうそく していることを認 みと め、これを受 う けてサントス大統領 だいとうりょう は和平 わへい 交渉 こうしょう の中断 ちゅうだん を決 き めた。政府 せいふ とFARCは2012年 ねん 11月から和平 わへい 交渉 こうしょう を続 つづ けており、これまでに農業 のうぎょう 、政治 せいじ 参加 さんか 、麻薬 まやく 問題 もんだい の3つのテーマで合意 ごうい に達 たっ している[6] 。
和平 わへい 合意 ごうい と武装 ぶそう 解除 かいじょ [ 編集 へんしゅう ]
2015年 ねん 9月23日 にち 、コロンビア政府 せいふ はFARCと続 つづ けてきた和平 わへい 交渉 こうしょう について、半年 はんとし 以内 いない に妥結 だけつ することを発表 はっぴょう した。半 はん 世紀 せいき に及 およ んだコロンビア国内 こくない 紛争 ふんそう は終結 しゅうけつ に向 む けて大 おお きく動 うご き出 だ した。サントス大統領 だいとうりょう は同日 どうじつ 、キューバの首都 しゅと ハバナでFARC最高 さいこう 幹部 かんぶ ティモチェンコと会談 かいだん し、紛争 ふんそう 中 ちゅう の重大 じゅうだい 犯罪 はんざい を裁 さば く特別 とくべつ 法廷 ほうてい の設置 せっち 、犠牲 ぎせい 者 しゃ への補償 ほしょう 、和平 わへい 合意 ごうい 後 ご 60日 にち 以内 いない に武装 ぶそう 解除 かいじょ を行 おこな うことなどで合意 ごうい に達 たっ した。50年 ねん 以上 いじょう 続 つづ いた紛争 ふんそう による死者 ししゃ は約 やく 22万 まん 人 にん に達 たっ し、世界 せかい で最 もっと も長 なが い内戦 ないせん の一 ひと つに挙 あ げられる[7] 。
2016年 ねん 6月22日 にち 、コロンビア政府 せいふ とFARCは停戦 ていせん で合意 ごうい し、共同 きょうどう で声明 せいめい を発表 はっぴょう した。同 どう 23日 にち 、キューバの首都 しゅと ハバナで、サントス大統領 だいとうりょう とFARCのティモチェンコ最高 さいこう 司令 しれい 官 かん が国連 こくれん 事務 じむ 総長 そうちょう の潘 はん 基 はじめ 文 ぶん 、キューバのラウル・カストロ 国家 こっか 評議 ひょうぎ 会 かい 議長 ぎちょう 、チリ のミシェル・バチェレ 大統領 だいとうりょう 、ベネズエラのニコラス・マドゥロ 大統領 だいとうりょう らの同席 どうせき の下 した で停戦 ていせん 協定 きょうてい に署名 しょめい した[8] 。
合意 ごうい では、FARCが合意 ごうい から60日 にち 以内 いない に武装 ぶそう 放棄 ほうき し、180日 にち 以内 いない に全 すべ ての武器 ぶき を国連 こくれん 主導 しゅどう の国際 こくさい 委員 いいん 会 かい に引 ひ き渡 わた す。国内 こくない 23ヶ所 かしょ に武器 ぶき の引 ひ き渡 わた し場所 ばしょ が設 もう けられ、治安 ちあん 当局 とうきょく がFARC戦闘 せんとう 員 いん の安全 あんぜん を保障 ほしょう する。FARC戦闘 せんとう 員 いん への逮捕 たいほ 命令 めいれい は一時 いちじ 停止 ていし されるが、合意 ごうい 違反 いはん は処罰 しょばつ される。
国連 こくれん がFARCの所持 しょじ する武器 ぶき を受 う け取 と り、放棄 ほうき された武器 ぶき で米国 べいこく ニューヨーク にある国連 こくれん 本部 ほんぶ 、コロンビア国内 こくない 、キューバのハバナにモニュメントが作 つく られる。
2016年 ねん 8月 がつ 24日 にち 、コロンビア政府 せいふ とFARCは共同 きょうどう 声明 せいめい で50年 ねん 以上 いじょう にわたる内戦 ないせん の終結 しゅうけつ に合意 ごうい したと発表 はっぴょう した。これによりFARCは武装 ぶそう 解除 かいじょ される。10月2日 にち に国民 こくみん 投票 とうひょう にかけられ、世論 せろん 調査 ちょうさ では賛成 さんせい が多数 たすう を占 し める模様 もよう 。だが、元 もと 大統領 だいとうりょう ら2人 にん が反対 はんたい 票 ひょう を投 とう じる意向 いこう を示 しめ し、野党 やとう などはFARCの武力 ぶりょく 壊滅 かいめつ を主張 しゅちょう している[9] 。
2016年 ねん 10月2日 にち 、和平 わへい 合意 ごうい の是非 ぜひ を問 と う国民 こくみん 投票 とうひょう の結果 けっか 、反対 はんたい が賛成 さんせい を僅差 きんさ で上回 うわまわ り否決 ひけつ された[10] 。恩赦 おんしゃ や減刑 げんけい について「譲歩 じょうほ しすぎ」との批判 ひはん があったためである[1] 。
修正 しゅうせい された和平 わへい 案 あん は2016年 ねん 11月24日 にち に政府 せいふ とFARCで合意 ごうい され[1] 、両者 りょうしゃ はボゴタで和平 わへい 合意 ごうい に調印 ちょういん し、コロンビア議会 ぎかい での審議 しんぎ で承認 しょうにん された。合意 ごうい 内容 ないよう は、武装 ぶそう 解除 かいじょ 、元 もと ゲリラに対 たい する恩赦 おんしゃ ・減刑 げんけい と安全 あんぜん や自由 じゆう な政治 せいじ 活動 かつどう の保障 ほしょう 、職業 しょくぎょう 訓練 くんれん による社会 しゃかい 復帰 ふっき 支援 しえん 、土地 とち を持 も たない農民 のうみん への支援 しえん 、政府 せいふ とFARCによる和平 わへい 合意 ごうい 履行 りこう の検証 けんしょう である[1] 。
2017年 ねん 6月26日 にち 、国連 こくれん 監視 かんし 団 だん はFARCの武装 ぶそう 解除 かいじょ が完了 かんりょう したことを発表 はっぴょう した。全国 ぜんこく 26ヵ所 かしょ の監視 かんし 所 しょ で登録 とうろく されたFARCの銃器 じゅうき 7132丁 ちょう を回収 かいしゅう し、6月27日 にち に最後 さいご の武器 ぶき 引 ひ き渡 わた しと武装 ぶそう 放棄 ほうき の終了 しゅうりょう を祝 いわ うセレモニーがメタ県 けん で行 おこな われ、サントス大統領 だいとうりょう も出席 しゅっせき した。FARCの武装 ぶそう 解除 かいじょ により半 はん 世紀 せいき に及 およ んだ内戦 ないせん は事実 じじつ 上 じょう 終結 しゅうけつ した[11] 。
2017年 ねん 9月1日 にち 、FARCは合法 ごうほう 政党 せいとう 「人民 じんみん 革命 かくめい 代替 だいたい 勢力 せいりょく (Fuerza Armada Revolucionaria del Común、FARC)」を設立 せつりつ した(政党 せいとう 名 めい は2021年 ねん 1月 がつ 、「Comunes」のみに変更 へんこう された[12] )。和平 わへい 合意 ごうい に基 もと づき上下 じょうげ 両院 りょういん に5議席 ぎせき ずつ与 あた えられる。今後 こんご は武装 ぶそう 闘争 とうそう を放棄 ほうき し、合法 ごうほう 的 てき な政党 せいとう 活動 かつどう による政治 せいじ 参加 さんか を目指 めざ す。が、世論 せろん 調査 ちょうさ では営利 えいり 誘拐 ゆうかい や麻薬 まやく 取引 とりひき を資金 しきん 源 げん にしてきたFARCへの不信 ふしん 感 かん は根強 ねづよ く、不 ふ 支持 しじ は87%に達 たっ した[13] 。
和平 わへい 成立 せいりつ 後 ご [ 編集 へんしゅう ]
2018年 ねん 3月11日 にち 、上下 じょうげ 両院 りょういん 議員 ぎいん 選挙 せんきょ が実施 じっし されFARCから74人 にん の候補者 こうほしゃ が立候補 りっこうほ したが、両院 りょういん ともに1人 ひとり も当選 とうせん できず惨敗 ざんぱい した。和平 わへい 合意 ごうい に基 もと づき2026年 ねん まで自動的 じどうてき に両院 りょういん に10議席 ぎせき が与 あた えられるが、内戦 ないせん 後 ご 初 はつ の政治 せいじ 参加 さんか となった両院 りょういん 選 せん でのFARCの得票 とくひょう 率 りつ は1%にも満 み たず、過去 かこ に多 おお くの殺人 さつじん や誘拐 ゆうかい に関与 かんよ したFARCへの国民 こくみん 感情 かんじょう の厳 きび しさを改 あらた めて浮 う き彫 ぼ りにする形 かたち となった。また、同年 どうねん 5月 がつ の大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ への出馬 しゅつば を表明 ひょうめい していたFARC代表 だいひょう のロドリゴ・ロンドーニョは持病 じびょう の心臓 しんぞう 病 びょう の悪化 あっか や世論 せろん の逆風 ぎゃくふう などを理由 りゆう に出馬 しゅつば を取 と り下 さ げた[14] 。大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ には和平 わへい 合意 ごうい の尊重 そんちょう を主張 しゅちょう する前 ぜん ボゴタ市長 しちょう のグスタボ・ペトロ が出馬 しゅつば したが、決選 けっせん 投票 とうひょう の末 すえ に和平 わへい 協定 きょうてい 見直 みなお しを主張 しゅちょう する右派 うは のイバン・ドゥケ 前 ぜん 上院 じょういん 議員 ぎいん に敗 やぶ れた[15] 。
なお、和平 わへい に反対 はんたい してFARCから離脱 りだつ した1500人 にん 程度 ていど の反 はん 主流 しゅりゅう 派 は は武装 ぶそう 解除 かいじょ を拒否 きょひ して現在 げんざい も麻薬 まやく 密輸 みつゆ 等 とう の非合法 ひごうほう 活動 かつどう を継続 けいぞく しており、コロンビア政府 せいふ は引 ひ き続 つづ きFARC分離 ぶんり 派 は に対 たい する武力 ぶりょく 掃討 そうとう 作戦 さくせん を展開 てんかい 中 ちゅう である。
武装 ぶそう 闘争 とうそう の再開 さいかい [ 編集 へんしゅう ]
2019年 ねん 8月 がつ 29日 にち 、FARC元 もと 幹部 かんぶ はコロンビア政府 せいふ との和平 わへい を破棄 はき し、武装 ぶそう 闘争 とうそう を再開 さいかい すると宣言 せんげん した。政府 せいふ との和平 わへい 交渉 こうしょう を主導 しゅどう したイバン・マルケスは「世界中 せかいじゅう の人々 ひとびと は抑圧 よくあつ に立 た ち向 む かうため武器 ぶき をとる権利 けんり を持 も っている」として、政府 せいふ に対 たい する武装 ぶそう 闘争 とうそう の再開 さいかい を宣言 せんげん する動画 どうが を公開 こうかい した。別 べつ の左翼 さよく ゲリラ「ELN(民族 みんぞく 解放 かいほう 軍 ぐん ) 」との連携 れんけい も視野 しや に入 い れるとしている[16] 。コロンビア政府 せいふ とFARCの和平 わへい 合意 ごうい 以降 いこう 、FARC元 もと 兵士 へいし 150人 にん と左翼 さよく 活動 かつどう 家 か 500人 にん が殺害 さつがい されており、政府 せいふ が和平 わへい 合意 ごうい を順守 じゅんしゅ していないことを武装 ぶそう 闘争 とうそう 再開 さいかい の理由 りゆう に挙 あ げた。FARCによるテロの犠牲 ぎせい 者 しゃ 遺族 いぞく が自 みずか ら報復 ほうふく に及 およ んだり殺 ころ し屋 や に依頼 いらい したりしており、和平 わへい 履行 りこう をチェックしているNPO法人 ほうじん 「インデパス」によると和平 わへい 後 ご 5年 ねん で301人 にん の元 もと ゲリラが殺害 さつがい された[1] 。
マルケスに同調 どうちょう する元 もと 兵士 へいし は2000人 にん 程度 ていど とみられる。一方 いっぽう 、合法 ごうほう 政党 せいとう FARC代表 だいひょう ロドリゴ・ロンドーニョは「元 もと 兵士 へいし の大半 たいはん は和平 わへい 合意 ごうい を尊重 そんちょう する」と述 の べ、武装 ぶそう 闘争 とうそう 再開 さいかい を宣言 せんげん したマルケスら強硬 きょうこう 派 は を除名 じょめい 処分 しょぶん した。
2020年 ねん 9月14日 にち 、FARCは過去 かこ に引 ひ き起 お こした誘拐 ゆうかい 事件 じけん について、被害 ひがい 者 しゃ と家族 かぞく に謝罪 しゃざい した。FARCは声明 せいめい で「我々 われわれ による誘拐 ゆうかい の被害 ひがい 者 しゃ やその家族 かぞく に公式 こうしき に謝罪 しゃざい する」「誘拐 ゆうかい は重大 じゅうだい な過 あやま ちだった。反省 はんせい するしかない。被害 ひがい 者 しゃ の心 しん に深 ふか い傷 きず を残 のこ した」と述 の べた。FARCが誘拐 ゆうかい を謝罪 しゃざい したのは初 はじ めて[17] 。
テロ組織 そしき 指定 してい の解除 かいじょ [ 編集 へんしゅう ]
2021年 ねん 11月30日 にち 、米国 べいこく のアントニー・ブリンケン 国務 こくむ 長官 ちょうかん はFARCのテロ組織 そしき 指定 してい を解除 かいじょ したことを発表 はっぴょう した。2016年 ねん の和平 わへい 合意 ごうい 以降 いこう 、FARCは武装 ぶそう 解除 かいじょ しており、テロ行為 こうい を行 おこな う統一 とういつ された組織 そしき ではなくなったことを理由 りゆう に挙 あ げた[18] 。
他 た の組織 そしき との関 かか わり[ 編集 へんしゅう ]
上記 じょうき のように、麻薬 まやく カルテル (コロンビア系 けい マフィア )との関係 かんけい が深 ふか い。特 とく に、コロンビアの2大 だい マフィアと呼 よ ばれるメデジン・カルテル とカリ・カルテル とは非常 ひじょう に深 ふか い関係 かんけい にあり、彼 かれ らマフィアはゲリラの圧倒的 あっとうてき な武力 ぶりょく と引 ひ き換 か えに、FARCを支援 しえん [19] 、ゲリラが大統領 だいとうりょう 候補 こうほ の暗殺 あんさつ をする一方 いっぽう でマフィアは多 おお くの議員 ぎいん にヤミ献金 けんきん を送 おく るなどしていた[2] 。
それ以外 いがい は、FARCはロシアン・マフィア からロシア 製 せい の武器 ぶき を供給 きょうきゅう してもらう代 か わりに、麻薬 まやく カルテルから得 え た麻薬 まやく や、自分 じぶん たちで栽培 さいばい した麻薬 まやく をマフィアに提供 ていきょう している[2] 。ヨーロッパ に運 はこ ばれるコロンビア産 さん のコカイン の3割 わり 以上 いじょう はロシアン・マフィアが運 はこ んでいるとされる[2] 。
また、FARCやELNなどの左翼 さよく ゲリラが国土 こくど の3分 ぶん の1近 ちか くまで勢力 せいりょく を伸 の ばしている中 なか で、1997年 ねん にそれら左翼 さよく ゲリラに対抗 たいこう するため、極右 きょくう 私兵 しへい 組織 そしき 「AUC(コロンビア自警 じけい 軍 ぐん 連合 れんごう ) 」なども現 あらわ れている。
日本 にっぽん の公安調査庁 こうあんちょうさちょう の公式 こうしき サイトによれば、コロンビア革命 かくめい 軍 ぐん は、レバノン のヒズボラ との関係 かんけい を有 ゆう しているとの報告 ほうこく が公開 こうかい されている。
使用 しよう する武器 ぶき は、ロシア製 せい が中心 ちゅうしん だが、アメリカ製 せい の銃火 じゅうか 器 き も好 この んで使用 しよう する。
参考 さんこう ・脚注 きゃくちゅう [ 編集 へんしゅう ]