コロンビアの歴史 れきし では、コロンビア共和 きょうわ 国 こく の歴史 れきし について述 の べる。
エル・ドラード 伝説 でんせつ を生 う み出 だ したムイスカ人 じん の黄金 おうごん の筏 いかだ
紀元前 きげんぜん 10450年 ねん 頃 ごろ に、ボゴタ近郊 きんこう のエル・アブラ("El Abra") の遺跡 いせき で先史 せんし 文化 ぶんか の萌芽 ほうが が見 み られる。中央 ちゅうおう アメリカから渡 わた ってきた諸 しょ 族 ぞく の影響 えいきょう が大 おお きくトウモロコシも彼 かれ らによって持 も ち込 こ まれたが、巨大 きょだい な石造 せきぞう 建築 けんちく は持 も ち込 こ まれず、独自 どくじ に生 う まれることもなかった。サン・アグスティン の遺跡 いせき も恐 おそ らく彼 かれ らによるものだと思 おも われている。紀元前 きげんぜん 1000年 ねん 、アメリカ・インディアン のグループは南 みなみ アメリカ でインカ帝国 ていこく に次 つ いで最 もっと も優 すぐ れていたといわれる行政 ぎょうせい システムであったカシケ と呼 よ ばれる首長 しゅちょう による一種 いっしゅ の首長 しゅちょう 制 せい 国家 こっか 群 ぐん ("cacicazgos")を発展 はってん させた。その好例 こうれい をチブチャ系 けい のムイスカ人 じん 、タイロナ 、カリマ (スペイン語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 、キンバヤ (スペイン語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 、シヌー などの部族 ぶぞく とその文化 ぶんか に見 み ることができる。紀元前 きげんぜん 300年 ねん ごろ、現在 げんざい のニカラグア に相当 そうとう する地域 ちいき からチブチャ系 けい の人々 ひとびと が渡 わた って来 き てからは、以降 いこう 彼 かれ らを中心 ちゅうしん に独自 どくじ の文化 ぶんか が育 はぐく まれた。
特 とく にボゴタ盆地 ぼんち に居住 きょじゅう していたムイスカ人 じん は発展 はってん の度合 どあい が高 たか く、定住 ていじゅう 農耕 のうこう によりトウモロコシ とジャガイモ を栽培 さいばい し、カピバラ の一種 いっしゅ を家畜 かちく 化 か して、生産 せいさん 物 ぶつ を低地 ていち 民 みん のコカ や木綿 こわた と交換 こうかん することにより生計 せいけい を立 た てていた。
植民 しょくみん 地 ち 化 か から解放 かいほう 戦争 せんそう まで[ 編集 へんしゅう ]
クリストバル・コロン のアメリカ大陸 あめりかたいりく 上陸 じょうりく
西暦 せいれき 1500年 ねん に、ロドリゴとバスティダスに率 ひき いられたスペイン人 じん 探検 たんけん 家 か がカリブ海 かりぶかい 沿岸 えんがん を訪 おとず れるとそれに続 つづ いて1502年 ねん 、クリストバル・コロン ( クリストファー・コロンブス)はカリブ海 かりぶかい とチョコ(Choco)の西岸 せいがん を航行 こうこう する。
1508年 ねん 、それまでにパナマ地峡 ちきょう を征服 せいふく していたバスコ・バルボア はウラバを征服 せいふく し始 はじ める。1513年 ねん 、ヨーロッパ人 じん は太平洋 たいへいよう を初 はじ めて発見 はっけん し、Mar del Surすなわち「南 みなみ の海 うみ 」と名付 なづ けると、続 つづ いてペルー とチリ に到達 とうたつ する。
1510年 ねん 11月にサンタ・マリア・ラ・アンティグア・デル・ダリエン (Santa María la Antigua del Darién) が今 いま のチョコ県 けん に建設 けんせつ され、南 みなみ アメリカ発 はつ のヨーロッパ人 じん による恒久 こうきゅう 的 てき な入植 にゅうしょく 地 ち となった。その地域 ちいき の先住民 せんじゅうみん 族 ぞく は、チブチャ 系 けい (Chibchan) とカリブ系 けい (Karib,今 いま のカリブ族 ぞく )が多数 たすう を占 し めていたが、最大 さいだい の王国 おうこく だったムイスカ族 ぞく のバカタ王国 おうこく が征服 せいふく 者 しゃ ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダ により征服 せいふく された結果 けっか 、病気 びょうき 、搾取 さくしゅ などにより著 いちじる しい人口 じんこう 減少 げんしょう が起 お こった。ムイスカ人 じん の首都 しゅと バカタはサンタフェ・デ・ボゴタ と改名 かいめい され、以降 いこう スペイン人 じん の統治 とうち の拠点 きょてん となる。
スペイン人 じん はアメリカ征服 せいふく 後 ご 、どの地域 ちいき でもそうしたように16世紀 せいき になると アフリカ から奴隷 どれい を送 おく り込 こ み始 はじ める。その後 ご カルタヘナ・デ・インディアス はペルーからの黄金 おうごん の積出 つみだ し港 みなと となり、富 とみ を狙 ねら ってのジャマイカを拠点 きょてん にしたイギリスからの攻撃 こうげき が激 はげ しくなった。スペインはイギリスからの防衛 ぼうえい のために1717年 ねん にアンデス北部 ほくぶ を ヌエバ・グラナダ副 ふく 王 おう 領 りょう として、ペルー副 ふく 王 おう 領 りょう から独立 どくりつ して組織 そしき した。この副 ふく 王 おう 領 りょう は資金 しきん 不足 ふそく により一旦 いったん 廃止 はいし されるが、1739年 ねん に再 ふたた び北部 ほくぶ 南米 なんべい をベネスエラ などと共 とも にヌエバ・グラナダ副 ふく 王 おう 領 りょう が再編 さいへん され、サンタフェ・デ・ボゴタ に首都 しゅと を置 お いた。しかし、その後 ご も カルタヘナ などの都市 とし に対 たい してイギリス海軍 かいぐん や海賊 かいぞく の攻撃 こうげき は続 つづ き、現在 げんざい も城壁 じょうへき が残 のこ っている。
1781年 ねん ソコーロで増税 ぞうぜい に反対 はんたい したクリオージョ 達 いたる がコムネーロスの反乱 はんらん を起 お こした。これはメスティーソやインディヘナをも含 ふく めた人民 じんみん 蜂起 ほうき であり、革命 かくめい 委員 いいん 会 かい (コムン)が結成 けっせい されたためにコムネーロスと呼 よ ばれたが、結局 けっきょく は増税 ぞうぜい の実施 じっし が見送 みおく られてこの反乱 はんらん は終結 しゅうけつ した。
独立 どくりつ の志士 しし 達 たち とシモン・ボリーバルの独立 どくりつ 戦争 せんそう [ 編集 へんしゅう ]
アントニオ・ナリーニョ
ククタの会議 かいぎ でのフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデル とシモン・ボリーバル を始 はじ めとするコロンビア独立 どくりつ の志士 しし たち
19世紀 せいき 始 はじ めに始 はじ まったベネスエラや、ラ・プラタ地域 ちいき での独立 どくりつ 運動 うんどう と呼応 こおう してこの地 ち でも独立 どくりつ 戦争 せんそう が始 はじ まり、スペイン軍 ぐん と独立 どくりつ 派 は の死闘 しとう が繰 く り広 ひろ げられた。独立 どくりつ 運動 うんどう は10年 ねん 以上 いじょう に及 およ んだ。
1806年 ねん からフランシスコ・デ・ミランダ に率 ひき いられた解放 かいほう 軍 ぐん により、隣 となり のベネスエラ総督 そうとく 領 りょう から解放 かいほう 戦争 せんそう が始 はじ まったことを受 う けて、ヌエバ・グラナダでも独立 どくりつ 戦争 せんそう が始 はじ まった。1810年 ねん 7月 がつ 、アントニオ・ナリーニョ が副 ふく 王 おう を追放 ついほう してサンタフェ・デ・ボゴタを中心 ちゅうしん にクンディナマルカ共和 きょうわ 国 こく のスペインからの独立 どくりつ を宣言 せんげん した。同時 どうじ にカルタヘナがカルタヘナ共和 きょうわ 国 こく の独立 どくりつ を宣言 せんげん して、すぐにカルタヘナを中心 ちゅうしん としたカリブ海 かりぶかい 側 がわ の五 ご 州 しゅう がヌエバ・グラナダ連合 れんごう 州 しゅう として合流 ごうりゅう した。
翌 よく 1811年 ねん のボゴタの議会 ぎかい でボゴタ以外 いがい の地方 ちほう 諸 しょ 州 しゅう とボゴタはヌエバ・グラナダ連合 れんごう 州 しゅう としてナリーニョの下 した に合流 ごうりゅう し、軍隊 ぐんたい の指揮 しき 権 けん と全体 ぜんたい の指導 しどう 権 けん をボゴタが持 も つことを認 みと められた。ナリーニョとフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデル は1812年 ねん に崩壊 ほうかい したベネスエラ共和 きょうわ 国 こく を代表 だいひょう として抵抗 ていこう を続 つづ けていた、シモン・ボリーバル を統 すべ 領 りょう とするベネスエラ人 じん 独立 どくりつ 勢力 せいりょく らと協力 きょうりょく してスペイン軍 ぐん と戦 たたか い、ボリーバルも1813年 ねん にはベネスエラを再 ふたた び解放 かいほう するが、本国 ほんごく でのフェルナンド7世 せい の反動 はんどう 的 てき 復位 ふくい によってスペイン軍 ぐん は再 ふたた び勢力 せいりょく を増 ま した。連邦 れんぽう 派 は (カルタヘナ派 は )と集権 しゅうけん 派 は (ボゴタ派 は )の不一致 ふいっち を突 つ かれる形 かたち で1814年 ねん 2月 がつ にはボゴタが陥落 かんらく し、ナリーニョはスペインに連行 れんこう され、投獄 とうごく されてしまった。ボリーバルはその後 ご カリブ海 かりぶかい 側 がわ のカルタヘナを拠点 きょてん にスペイン軍 ぐん と戦 たたか いボゴタを奪還 だっかん したものの、1815年 ねん 6月 がつ にカルタヘナで起 お きた王 おう 党派 とうは の蜂起 ほうき に敗 やぶ れ、辛 かろ うじてイギリス領 りょう ジャマイカ に逃 のが れた。1816年 ねん 5月 がつ 、スペイン軍 ぐん の攻撃 こうげき によりボゴタは陥落 かんらく した。
しかし、ボリーバルはジャマイカで有名 ゆうめい なジャマイカ書簡 しょかん を書 か いた後 のち 、イギリスなどと友好 ゆうこう 関係 かんけい を結 むす んで援助 えんじょ を受 う けることに成功 せいこう し、さらにハイチ に渡 わた ってハイチ南部 なんぶ を支配 しはい していたアレクサンドル・ペション 大統領 だいとうりょう に、ラテンアメリカの解放 かいほう 後 ご 、黒人 こくじん 奴隷 どれい を解放 かいほう することを条件 じょうけん に物心 ぶっしん 両面 りょうめん の援助 えんじょ を受 う けた。1816年 ねん にはまたもやベネスエラに上陸 じょうりく したが、ジャネーロの協力 きょうりょく を取 と り付 つ けただけで敗 やぶ れてしまい、ハイチに引 ひ き返 かえ すことになった。そうこうしているうちにボゴタが陥落 かんらく してしまったが1817年 ねん 、今度 こんど は準備 じゅんび を整 ととの えてベネスエラに再 さい 侵攻 しんこう し、スペイン軍 ぐん の裏 うら をかいてまずヌエバ・グラナダを解放 かいほう しようとした。ベネスエラのアンゴストゥーラ が解放 かいほう された後 のち 、1818年 ねん にはジャネーロ (オリノコ川 がわ 流域 りゅういき の平原 へいげん 部 ぶ =リャノ に住 す む、牧童 ぼくどう たちのこと。ベネスエラのガウチョ )の頭目 とうもく だったホセ・アントニオ・パエスの力 ちから を借 か りることに成功 せいこう し、1819年 ねん にはアンゴストゥーラを臨時 りんじ 首都 しゅと としてのベネスエラ第 だい 三 さん 共和 きょうわ 国 こく が再建 さいけん され、コロンビア共和 きょうわ 国 こく も創設 そうせつ された。
1819年 ねん 8月 がつ のボヤカの戦 たたか い に勝利 しょうり するとボゴタが解放 かいほう され、ヌエバ・グラナダも最終 さいしゅう 的 てき に解放 かいほう されて、ボリーバルはコロンビア共和 きょうわ 国 こく の建国 けんこく を正式 せいしき に宣言 せんげん し、コロンビアの首都 しゅと も改名 かいめい されたボゴタに定 さだ められた。こうしてボリーバルはヌエバ・グラナダを拠点 きょてん に故国 ここく ベネスエラの解放 かいほう を進 すす め、1821年 ねん にカラボボの戦 たたか い (1821年 ねん ) (英語 えいご 版 ばん ) での勝利 しょうり によりカラカスが解放 かいほう されると、ベネスエラも最終 さいしゅう 的 てき に解放 かいほう され、両国 りょうこく は改 あらた めて正式 せいしき にコロンビア共和 きょうわ 国 こく を形成 けいせい した。1820年 ねん には解放 かいほう されたグアヤキル が、1822年 ねん にはキト が併合 へいごう され、このコロンビア共和 きょうわ 国 こく は現在 げんざい のコロンビア、ベネスエラ、エクアドル、パナマの全 すべ て及 およ びペルー 、ガイアナ 、ブラジル の一部 いちぶ を含 ふく む北部 ほくぶ 南米 なんべい 一帯 いったい を占 し める大 だい 国家 こっか となった。
ボリーバルがペルー ・ボリビア 方面 ほうめん の解放 かいほう に向 む かう中 なか 、1821年 ねん 9月 がつ 、ヌエバ・グラナダ人 じん で、ヌエバ・グラナダを代表 だいひょう してボリーバルの副官 ふっかん を務 つと めていたサンタンデルはコロンビア共和 きょうわ 国 こく の副 ふく 大統領 だいとうりょう となり、不在 ふざい の大統領 だいとうりょう に代 か わってヌエバ・グラナダを治 おさ めていたが、1827年 ねん のボリーバルの帰還 きかん 後 ご 、コロンビア共和 きょうわ 国 こく を集権 しゅうけん 的 てき にまとめようとするボリーバルと、連邦 れんぽう 的 てき な要求 ようきゅう をするサンタンデルや、ベネスエラを支配 しはい する アントニオ・パエス の不満 ふまん は大 おお きくなっていった。サンタンデルは1828年 ねん にはボリーバルの暗殺 あんさつ を謀 はか ったため亡命 ぼうめい した。さらにキトを巡 めぐ ってのコロンビアとペルーの戦争 せんそう も起 お き、もはやボリーバルの威信 いしん の低下 ていか は明 あき らかであった。その後 ご もボリーバルはコロンビアの分裂 ぶんれつ を回避 かいひ すべく統治 とうち したが、上手 うま く行 い かず、ベネスエラが独立 どくりつ を要求 ようきゅう した。コロンビア共和 きょうわ 国 こく の維持 いじ は解放 かいほう 者 しゃ の力量 りきりょう をもってしても不可能 ふかのう かと思 おも われた。
1830年 ねん にエクアドル (旧 きゅう 「南部 なんぶ 地区 ちく 」。キト とグアヤキル とクエンカ が連合 れんごう して赤道 あかみち 共和 きょうわ 国 こく を名乗 なの った)と、故郷 こきょう ベネスエラはパエスの指導 しどう 下 か で完全 かんぜん 独立 どくりつ を果 は たし、南米 なんべい 大陸 たいりく 統合 とうごう の夢 ゆめ に敗 やぶ れ、自分 じぶん の政治 せいじ 的 てき な努力 どりょく が全 すべ て無為 むい に終 お わったことを悟 さと った解放 かいほう 者 しゃ は終身 しゅうしん 大統領 だいとうりょう を辞職 じしょく し、ヨーロッパに向 む かってマグダレーナ川 がわ を下 くだ る中 なか 、サンタ・マルタ 付近 ふきん で失意 しつい 内 ない に病死 びょうし した。翌 よく 1831年 ねん にラファエル・ウルダネータ 政権 せいけん が崩壊 ほうかい すると同時 どうじ にコロンビア共和 きょうわ 国 こく も崩壊 ほうかい し、残存 ざんそん 部 ぶ がヌエバ・グラナダ共和 きょうわ 国 こく として再 さい 編成 へんせい を図 はか った。
ヌエバ・グラナダ共和 きょうわ 国 こく 時代 じだい からコロンビア合衆国 がっしゅうこく まで[ 編集 へんしゅう ]
首都 しゅと ボゴタ のカテドラル
分離 ぶんり 独立 どくりつ 後 ご は政情 せいじょう が不安定 ふあんてい な時期 じき が長期 ちょうき に及 およ んだが、文民 ぶんみん 統治 とうち の原則 げんそく は維持 いじ され続 つづ けた。また、政党 せいとう 間 あいだ の対立 たいりつ が小康 しょうこう 状態 じょうたい になるも、両 りょう 党 とう ともに支持 しじ 基盤 きばん を富裕 ふゆう 層 そう (保守党 ほしゅとう はローマ・カトリック教会 きょうかい および大 だい 地主 じぬし 、自由党 じゆうとう は新興 しんこう 企業 きぎょう 家 か )のため、農民 のうみん などに対 たい する圧政 あっせい が続 つづ き、政党 せいとう 間 あいだ の争 あらそ いと複雑 ふくざつ に絡 から み合 あ い、経済 けいざい 的 てき には安定 あんてい した発展 はってん を遂 と げたが、政治 せいじ 的 てき には依然 いぜん 不安定 ふあんてい な社会 しゃかい 情勢 じょうせい が続 つづ いた。
1832年 ねん 、亡命 ぼうめい 先 さき からサンタンデルが帰国 きこく しヌエバ・グラナダ共和 きょうわ 国 こく の大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん した。この時代 じだい には保護 ほご 貿易 ぼうえき により産業 さんぎょう が発展 はってん し、奴隷 どれい 貿易 ぼうえき が廃止 はいし され、公 おおやけ 教育 きょういく が拡充 かくじゅう するなど連邦 れんぽう 的 てき な政治 せいじ が進 すす んだ。また、1840年代 ねんだい には後 のち に主 しゅ 産業 さんぎょう となるコーヒー が栽培 さいばい され始 はじ めた。政治 せいじ 面 めん ではこの時期 じき に大 だい コロンビア時代 じだい から続 つづ く中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 派 は と連邦 れんぽう 派 は が、保守党 ほしゅとう と自由党 じゆうとう に組織 そしき し直 なお された。1849年 ねん には商人 しょうにん や職人 しょくにん 、新興 しんこう ブルジョワジー 、小農 しょうのう などの連邦 れんぽう 派 は が自由党 じゆうとう を結成 けっせい し、同年 どうねん これに対抗 たいこう して貴族 きぞく や大 だい 地主 じぬし 、教会 きょうかい などを支持 しじ 基盤 きばん に保守党 ほしゅとう が結成 けっせい された。これにより現在 げんざい まで続 つづ く二 に 大 だい 政党 せいとう 制 せい が確立 かくりつ したが、両 りょう 党 とう は寡頭支配 しはい 体制 たいせい の維持 いじ という点 てん で共通 きょうつう していた。
1849年 ねん から1853年 ねん まで大統領 だいとうりょう を務 つと めた自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ のホセ・イラリオ・ロペス はイエズス会 かい の追放 ついほう 、教会 きょうかい 財産 ざいさん の没収 ぼっしゅう 、黒人 こくじん 奴隷 どれい 制 せい の廃止 はいし などの反 はん 教会 きょうかい 、自由 じゆう 主義 しゅぎ 政策 せいさく を採 と った。これ以降 いこう 1880年 ねん までコロンビアでは自由 じゆう 主義 しゅぎ 政権 せいけん が続 つづ くことになる。自由 じゆう 主義 しゅぎ 政権 せいけん は自由 じゆう 貿易 ぼうえき をも望 のぞ み、1855年 ねん に「手工業 しゅこうぎょう 共和 きょうわ 国 こく 」と呼 よ ばれたホセ・マリア・メロ 将軍 しょうぐん の政権 せいけん が打倒 だとう されると、保護 ほご 貿易 ぼうえき は廃 はい されて自由 じゆう 貿易 ぼうえき が導入 どうにゅう され、育 そだ っていた工業 こうぎょう の基盤 きばん が壊滅 かいめつ した。これ以降 いこう 他 た のラテンアメリカ諸国 しょこく と同様 どうよう にコロンビアでもイギリス 資本 しほん による経済 けいざい 支配 しはい が進 すす むことになる。
1857年 ねん には自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ マリアーノ・オスピナ・ロドリゲス が大統領 だいとうりょう になり、1858年 ねん にはロドリゲスの手 て によりグラナダ連合 れんごう が発足 ほっそく した。しかしロドリゲスはイエズス会 かい の帰国 きこく を認 みと めて教会 きょうかい 特権 とっけん を復活 ふっかつ させ、中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 化 か を図 はか るなど自由 じゆう 主義 しゅぎ を掲 かか げながらも保守 ほしゅ 化 か したため、1861年 ねん に自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ だったカウカ州 しゅう 知事 ちじ のトマス・シプリアーノ・ド・モスケラ が蜂起 ほうき し、7月 がつ にはボゴタに入 はい ってロドリゲスを追放 ついほう した。こうしてモスケラが政権 せいけん を握 にぎ ると、1863年 ねん に成立 せいりつ したリオ・ネグロ憲法 けんぽう では自由 じゆう 主義 しゅぎ 的 てき な内容 ないよう が採択 さいたく され、グラナダ連合 れんごう は各州 かくしゅう が外交 がいこう 権 けん を持 も つ八 はち 州 しゅう からなる連邦 れんぽう 制 せい 国家 こっか 、コロンビア合衆国 がっしゅうこく となった。この自由 じゆう 主義 しゅぎ の時代 じだい に首都 しゅと ボゴタでは科学 かがく や文芸 ぶんげい が発展 はってん を見 み せ、ボゴタは「南米 なんべい のアテネ 」と呼 よ ばれるようになった
1880年 ねん に保守 ほしゅ 派 は のラファエル・ヌニェス (スペイン語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) が自由党 じゆうとう 右派 うは と保守党 ほしゅとう に推 お されて大統領 だいとうりょう になると、ヌニェスはスペインに独立 どくりつ を承認 しょうにん させ、国立 こくりつ 銀行 ぎんこう を建設 けんせつ して経済 けいざい の安定 あんてい を図 はか った。こうしてヌニェスの時代 じだい にククタ 周辺 しゅうへん でのコーヒー栽培 さいばい の拡大 かくだい によりコロンビアの主 しゅ 産業 さんぎょう がコーヒー輸出 ゆしゅつ となり、イギリス資本 しほん によって鉄道 てつどう 網 もう も拡大 かくだい していき、欧米 おうべい に依存 いぞん 的 てき な経済 けいざい 構造 こうぞう が確立 かくりつ した。1884年 ねん に再選 さいせん されたヌニェスは連邦 れんぽう 制 せい を廃止 はいし しようとし、政治 せいじ と教育 きょういく にカトリック教会 きょうかい が参加 さんか することを認 みと めたため、1885年 ねん には自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ が反乱 はんらん を起 お こし、内戦 ないせん が勃発 ぼっぱつ した。ヌニェスがこの内戦 ないせん に勝利 しょうり すると、1886年 ねん にリオ・ネグロ憲法 けんぽう は放棄 ほうき されて、カトリック教会 きょうかい と国家 こっか の同盟 どうめい 、中央 ちゅうおう 政府 せいふ の権限 けんげん 拡大 かくだい 、大統領 だいとうりょう の任期 にんき を六 ろく 年 ねん に延長 えんちょう 、中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 主義 しゅぎ などを盛 も りこんで教権 きょうけん の強 つよ い中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 的 てき な憲法 けんぽう 改正 かいせい がなされ、ここで現在 げんざい まで続 つづ くコロンビア共和 きょうわ 国 こく が成立 せいりつ した。
コロンビア共和 きょうわ 国 こく 成立 せいりつ からボゴタ暴動 ぼうどう まで[ 編集 へんしゅう ]
レティシアを巡 めぐ ってのペルーとの戦争 せんそう に備 そな えるコロンビア軍 ぐん (1932年 ねん )
こうして建国 けんこく 当初 とうしょ から自由 じゆう ・保守 ほしゅ 両 りょう 党 とう の対立 たいりつ が続 つづ いたが、1894年 ねん にヌニェスが死 し ぬと再 ふたた び両 りょう 党 とう の緊張 きんちょう は高 たか まった。1899年 ねん にはラファエル・ウリベ・ウリベ (スペイン語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 将軍 しょうぐん の指導 しどう する自由党 じゆうとう 急進 きゅうしん 派 は による蜂起 ほうき が起 お こり、1902年 ねん まで続 つづ く「千 せん 日 にち 戦争 せんそう 」勃発 ぼっぱつ した。この内戦 ないせん でコロンビアはおよそ10万 まん 人 にん の犠牲 ぎせい 者 しゃ を出 だ したといわれている。また、この戦争 せんそう が収 おさ まった後 のち 、かねてからパナマを欲 ほっ していたアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のパナマ運河 うんが 地帯 ちたい 永久 えいきゅう 租借 そしゃく 案 あん を、コロンビア上院 じょういん が拒否 きょひ したことを受 う けて、アメリカはパナマ地峡 ちきょう の独立 どくりつ 派 は を援助 えんじょ し、1903年 ねん に地峡 ちきょう 地帯 ちたい がパナマ共和 きょうわ 国 こく として独立 どくりつ した。
千 せん 日 にち 戦争 せんそう 後 ご に保守党 ほしゅとう のラファエル・レイェス (英語 えいご 版 ばん ) が大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん すると、独裁 どくさい は強化 きょうか され、保護 ほご 貿易 ぼうえき に基 もと づいて国内 こくない 工業 こうぎょう の育成 いくせい が図 はか られた。この路線 ろせん は1930年 ねん まで続 つづ いた保守党 ほしゅとう 政権 せいけん によって継承 けいしょう された。保守党 ほしゅとう 政権 せいけん は1921年 ねん にパナマの独立 どくりつ を承認 しょうにん してアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく との問題 もんだい が解決 かいけつ した。これにより合衆国 がっしゅうこく からの膨大 ぼうだい な投資 とうし が流 なが れ込 こ み、それまでのイギリス資本 しほん から新 あら たに合衆国 がっしゅうこく 資本 しほん への従属 じゅうぞく が始 はじ まった。ユナイテッド・フルーツ 社 しゃ によるバナナ ・プランテーション の建設 けんせつ が進 すす むのもこの頃 ころ である。しかし、1929年 ねん に世界 せかい 恐慌 きょうこう が起 お こると、恐慌 きょうこう による経済 けいざい の不安定 ふあんてい 化 か を受 う けて1880年 ねん から50年 ねん 近 ちか く続 つづ いた保守党 ほしゅとう の時代 じだい も終焉 しゅうえん した。また、1910年代 ねんだい からアンティオキア地方 ちほう の開発 かいはつ と発展 はってん が進 すす み、コーヒーの最大 さいだい 産地 さんち となったアンティオキアの中心 ちゅうしん 地 ち のメデジン は、ボゴタを抜 ぬ いてコロンビアの成長 せいちょう の原動力 げんどうりょく となった
世界 せかい 恐慌 きょうこう による経済 けいざい の不安定 ふあんてい 化 か を受 う けて1930年 ねん にエンリケ・エラヤ・エレーラ が労働 ろうどう 者 しゃ の支持 しじ を得 え て選挙 せんきょ に勝利 しょうり し、自由党 じゆうとう 政権 せいけん が復活 ふっかつ した。エレーラは1932年 ねん 9月 がつ のコロンビア・ペルー戦争 せんそう に勝利 しょうり し、南部 なんぶ アマゾン国境 こっきょう のレティシア の領有 りょうゆう 権 けん を確保 かくほ した。
1934年 ねん には自由党 じゆうとう のアルフォンソ・ロペス・プマレホ が大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん し、部分 ぶぶん 的 てき な土地 とち 改革 かいかく などが行 おこな われた。プマレホはこの実績 じっせき により1942年 ねん に再選 さいせん されるが、政策 せいさく に失敗 しっぱい して1945年 ねん 辞任 じにん した。プマレホの政治 せいじ は農民 のうみん や労働 ろうどう 者 しゃ の利益 りえき に適 かな ったものだったが、それは寡頭支配 しはい 体制 たいせい が崩 くず れる程 ほど のものではなかった。そしてそのような情勢 じょうせい の中 なか 現 あらわ れたのがホルヘ・エリエセル・ガイタン だった。自由党 じゆうとう 員 いん だったガイタンは1928年 ねん にユナイテッド・フルーツ 社 しゃ によるバナナ労働 ろうどう 者 しゃ 虐殺 ぎゃくさつ 事件 じけん を批判 ひはん したことによりカリスマ的 てき な魅力 みりょく を発揮 はっき した政治 せいじ 家 か であり、ポプリスモ 的 てき なガイタン主義 しゅぎ を掲 かか げてそれまで寡頭支配 しはい 体制 たいせい の枠外 わくがい に置 お かれていた農民 のうみん 、労働 ろうどう 者 しゃ 、学生 がくせい から圧倒的 あっとうてき な支持 しじ を受 う けていた。
ボゴタ 暴動 ぼうどう によってボリバル広場 ひろば で炎上 えんじょう する路面 ろめん 電車 でんしゃ
1946年 ねん 以降 いこう の十 じゅう 数 すう 年間 ねんかん はラ・ビオレンシア (暴力 ぼうりょく )の時代 じだい と謂 い われ、争 あらそ いが頂点 ちょうてん に達 たっ した。
1946年 ねん に保守党 ほしゅとう 政権 せいけん が誕生 たんじょう すると、徐々 じょじょ に保守 ほしゅ 党派 とうは が自由党 じゆうとう 派 は に対 たい するテロを繰 く り広 ひろ げるようになった。1948年 ねん の選挙 せんきょ はこのような状況 じょうきょう の中 なか で行 おこな われることになったが、同年 どうねん 開催 かいさい されたボゴタでのOEA 会議 かいぎ 最中 さいちゅう に、当選 とうせん 確実 かくじつ といわれた自由党 じゆうとう 党首 とうしゅ ガイタンが暗殺 あんさつ されると、自由党 じゆうとう 派 は の市民 しみん と保守党 ほしゅとう 派 は の市民 しみん が衝突 しょうとつ し、ボゴタ暴動 ぼうどう (ボゴタソ)が勃発 ぼっぱつ した。ポプリスモ的 てき なカリスマだったガイタンが暗殺 あんさつ されたことによりこの暴動 ぼうどう を収 おさ める能力 のうりょく を持 も った政治 せいじ 家 か はおらず、この一連 いちれん の暴動 ぼうどう によりコロンビアは19世紀 せいき のような「暴力 ぼうりょく 」の時代 じだい を迎 むか えた。1946年 ねん から1950年代 ねんだい 末 まつ までの「暴力 ぼうりょく 」の時代 じだい の死者 ししゃ は、全 すべ て併 あわ せると20万 まん 人 にん にも及 およ ぶと推測 すいそく される。1950年 ねん に保守党 ほしゅとう から就任 しゅうにん した超 ちょう 保守 ほしゅ 派 は のラウレアーノ・ゴメス 大統領 だいとうりょう は、事態 じたい を収拾 しゅうしゅう するためと称 しょう して教会 きょうかい の政治 せいじ 的 てき 権利 けんり の復活 ふっかつ などを骨子 こっし とした独裁 どくさい を激 はげ しくしていき、それに伴 ともな い暴力 ぼうりょく も拡大 かくだい して行 い った。しかし、この内戦 ないせん の中 なか でも工業 こうぎょう 生産 せいさん は増加 ぞうか した。また、この不安定 ふあんてい な情勢 じょうせい の中 なか でもゴメスは反共 はんきょう を示 しめ して共産党 きょうさんとう 系 けい と自由党 じゆうとう 系 けい のゲリラを弾圧 だんあつ する傍 かたわ ら、朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう にもラテンアメリカで唯一 ゆいいつ 軍隊 ぐんたい を派遣 はけん した。
軍事 ぐんじ 政権 せいけん を率 ひき いたグスタボ・ロハス・ピニージャ
地方 ちほう での暴力 ぼうりょく が拡大 かくだい し、ゴメスの独裁 どくさい が自由党 じゆうとう だけではなく、保守党 ほしゅとう や支配 しはい 層 そう からも受 う け入 い れがたいものになっていくと、事態 じたい を収拾 しゅうしゅう するために両 りょう 党 とう が軍部 ぐんぶ に介入 かいにゅう を要請 ようせい した。このため、1953年 ねん 6月14日 にち に軍事 ぐんじ クーデターにより朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう の英雄 えいゆう グスタボ・ロハス・ピニージャ 将軍 しょうぐん が政権 せいけん を握 にぎ り、コロンビア史上 しじょう 三 さん 度目 どめ の軍事 ぐんじ 政権 せいけん が発足 ほっそく した。
ロハスはカリスマを発揮 はっき して民兵 みんぺい の武装 ぶそう 解除 かいじょ を行 おこな い、部分 ぶぶん 的 てき に「暴力 ぼうりょく 」を収 おさ めることに成功 せいこう したが、 1955年 ねん ロハスが人民 じんみん 弾圧 だんあつ を行 おこな った地主 じぬし 達 たち に恩赦 おんしゃ をかけたために農民 のうみん が蜂起 ほうき し(ビジャリカ戦争 せんそう )、1956年 ねん ロハスに敬意 けいい を示 しめ さなかったという理由 りゆう で多数 たすう の市民 しみん が虐殺 ぎゃくさつ される「牛 うし の首輪 くびわ 」虐殺 ぎゃくさつ 事件 じけん の発生 はっせい などにより、次第 しだい に民衆 みんしゅう の間 あいだ でも反 はん ロハス感情 かんじょう が強 つよ まって行 い った。また、ロハスは労働 ろうどう 者 しゃ 保護 ほご に努 つと める中 なか で、次第 しだい に自由党 じゆうとう 、保守党 ほしゅとう から離 はな れてアルゼンチン のフアン・ペロン のような独自 どくじ のポプリスモ的 てき 支持 しじ 基盤 きばん を労働 ろうどう 者 しゃ に持 も とうとしたため、両 りょう 党 とう の寡頭支配 しはい 層 そう も反 はん ロハス感情 かんじょう を抱 だ いていった。こうして反 はん ロハス勢力 せいりょく が結集 けっしゅう したため、1957年 ねん にロハスは大統領 だいとうりょう を辞職 じしょく しスペイン へ亡命 ぼうめい した。
1958年 ねん には、寡頭支配 しはい 層 そう によって自由 じゆう ・保守 ほしゅ 両 りょう 党 とう による「国民 こくみん 戦線 せんせん 」体制 たいせい が成立 せいりつ した。これは両 りょう 党 とう 間 あいだ で4年 ねん 毎 ごと に政権 せいけん を交替 こうたい するという「たらいまわし」連立 れんりつ 政策 せいさく であった。背景 はいけい にはロハスのような自由党 じゆうとう と保守党 ほしゅとう の特権 とっけん を侵 おか しかねない政権 せいけん の成立 せいりつ を寡頭支配 しはい 層 そう が恐 おそ れたことがあるが、しかし、これに反対 はんたい する自由党 じゆうとう 系 けい 農民 のうみん の蜂起 ほうき が相次 あいつ いだ。
1959年 ねん のキューバ革命 かくめい の影響 えいきょう を受 う けて、1961年 ねん にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のケネディ大統領 だいとうりょう 主導 しゅどう によって「進歩 しんぽ のための同盟 どうめい 」が発足 ほっそく すると、コロンビアは同盟 どうめい のモデル国家 こっか となったが、社会 しゃかい 問題 もんだい の根本 こんぽん 的 てき 解決 かいけつ には至 いた らずゲリラ活動 かつどう は活発 かっぱつ 化 か し、1966年 ねん にはコロンビア革命 かくめい 軍 ぐん (FARC)が発足 ほっそく した。1968年 ねん にメデジン公 こう 会議 かいぎ で解放 かいほう の神学 しんがく が誕生 たんじょう した。1970年 ねん の大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ では亡命 ぼうめい 先 さき から帰 かえ ったロハスが独自 どくじ に国家 こっか 人民 じんみん 同盟 どうめい (ANAPO党 とう )から出馬 しゅつば し政界 せいかい 復帰 ふっき を目指 めざ すものの、不正 ふせい 選挙 せんきょ で敗北 はいぼく すると学生 がくせい を中心 ちゅうしん とした左翼 さよく ゲリラ4月 がつ 19日 にち 運動 うんどう (M-19)が生 う まれた。
1974年 ねん 「国民 こくみん 戦線 せんせん 」体制 たいせい 終了 しゅうりょう 。通常 つうじょう 選挙 せんきょ が執 と り行 おこな われる。1978年 ねん に就任 しゅうにん した自由党 じゆうとう のフリオ・セサル・トゥルバイ・アヤラ 大統領 だいとうりょう は、高 たか まる反 はん 政府 せいふ 活動 かつどう を戒厳 かいげん 令 れい を布告 ふこく して弾圧 だんあつ し、多 おお くの活動 かつどう 家 か が秘密 ひみつ 警察 けいさつ による拉致 らち や拷問 ごうもん を受 う け、その多 おお くが失踪 しっそう した。1982年 ねん に就任 しゅうにん した保守党 ほしゅとう のベリサリオ・ベタンクール・クァルタス 大統領 だいとうりょう はFARCなど左翼 さよく ゲリラ勢力 せいりょく と和平 わへい を実現 じつげん し、1985年 ねん にはFARCが合法 ごうほう 政党 せいとう である愛国 あいこく 同盟 どうめい (UP)を創設 そうせつ 、国政 こくせい に参加 さんか したが、議員 ぎいん や関係 かんけい 者 しゃ は次々 つぎつぎ に暗殺 あんさつ され、1994年 ねん には政党 せいとう 資格 しかく を消失 しょうしつ した。また85年 ねん には左翼 さよく ゲリラM-19によるコロンビア最高裁 さいこうさい 占拠 せんきょ 事件 じけん 、ネバド・デル・ルイス火山 かざん の噴火 ふんか (死者 ししゃ ・行方 ゆくえ 不明 ふめい 者 しゃ 25000人 にん 以上 いじょう )など災難 さいなん が相次 あいつ ぎ、ベタンクール大統領 だいとうりょう は「社会 しゃかい ・経済 けいざい 非常 ひじょう 事態 じたい 宣言 せんげん 」を発令 はつれい した。1986年 ねん に就任 しゅうにん した自由党 じゆうとう のビルヒリオ・バルコ 大統領 だいとうりょう により、麻薬 まやく 取締 とりし まり作戦 さくせん が実行 じっこう 。1989年 ねん メデジン・カルテル との大 だい 規模 きぼ ゲリラ戦闘 せんとう 「麻薬 まやく カルテル戦争 せんそう 」が勃発 ぼっぱつ し、麻薬 まやく カルテルの本拠地 ほんきょち がメデジンからカリに移 うつ った。
1990年 ねん 、大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん した自由党 じゆうとう のセサル・ガビリア・トルヒージョ は野党 やとう を含 ふく む挙国一致 きょこくいっち 内 ない 閣 かく を組閣 そかく し、1991年 ねん に1886年 ねん 憲法 けんぽう が全面 ぜんめん 改正 かいせい され、新 しん 憲法 けんぽう が公布 こうふ された。1993年 ねん にはメデジン・カルテルの最高 さいこう 幹部 かんぶ パブロ・エスコバル が治安 ちあん 部隊 ぶたい に射殺 しゃさつ され、1995年 ねん には第 だい 二 に の麻薬 まやく カルテルカリ・カルテル の幹部 かんぶ オレフエラ兄弟 きょうだい が逮捕 たいほ されるなど、麻薬 まやく 密売 みつばい 組織 そしき はほとんど壊滅 かいめつ 状態 じょうたい に追 お い込 こ まれたが、1994年 ねん に就任 しゅうにん した自由党 じゆうとう のエルネスト・サンペール・ピサノ 大統領 だいとうりょう が選挙 せんきょ 期間 きかん 中 ちゅう にカリ・カルテルから選挙 せんきょ 資金 しきん を受 う け取 と っていたことが "narco-cassettes" から発覚 はっかく し、「ナルコ・ゲート事件 じけん (スペイン語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 」として大 だい 問題 もんだい に発展 はってん した。議会 ぎかい はサンペール大統領 だいとうりょう を弾劾 だんがい する構 かま えを見 み せ、アメリカ政府 せいふ もサンペールの入国 にゅうこく ビザ の発給 はっきゅう を拒否 きょひ するなど外交 がいこう 問題 もんだい に発展 はってん した。1998年 ねん 、Quebrada El Billarの戦 たたか い (スペイン語 ご 版 ばん 、フランス語 ふらんすご 版 ばん ) (3月1日 にち - 3月5日 にち )。8月 がつ 7日 にち に就任 しゅうにん した保守党 ほしゅとう のアンドレス・パストラーナ・アランゴ 大統領 だいとうりょう は、対 たい 米 べい 関係 かんけい 重視 じゅうし の政策 せいさく をとり、翌 よく 1999年 ねん 1月 がつ にはFARCとの和平 わへい 対話 たいわ を開始 かいし するも、2002年 ねん 初頭 しょとう のFARCによるテロを受 う け、和平 わへい プロセスを中止 ちゅうし 。2月 がつ 21日 にち 、es:Retoma de la zona de distensión でEl Caguán DMZ を奪還 だっかん 。es:Operación Alcatraz 。同 どう 夏 なつ 自由党 じゆうとう 系 けい の新 しん 政党 せいとう 「コロンビア・ファースト 」から就任 しゅうにん したアルバロ・ウリベ 大統領 だいとうりょう は治安 ちあん 回復 かいふく を重点 じゅうてん 課題 かだい とし、左翼 さよく ゲリラや右翼 うよく の「コロンビア自警 じけい 軍 ぐん 連合 れんごう 」(AU えーゆー C)などの民兵 みんぺい 組織 そしき 対策 たいさく に力 ちから を注 そそ ぐ。2006年 ねん 5月、ウリベは大統領 だいとうりょう に再選 さいせん した。2007年 ねん 、es:Operación Emmanuel 。2008年 ねん 、es:Operación Jaque 、es:Operación Fénix 。es:Operación Dinastía (2009年 ねん - 2010年 ねん )。2010年 ねん 、es:Operación Camaleón 、es:Operación Sodoma 。2011年 ねん 、es:Operación Odiseo 。