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コロンビアの歴史れきし

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コロンビアの歴史れきしでは、コロンビア共和きょうわこく歴史れきしについてべる。

先史せんし時代じだいからさきコロンブスまで

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エル・ドラード伝説でんせつしたムイスカじん黄金おうごんいかだ

紀元前きげんぜん10450ねんごろに、ボゴタ近郊きんこうのエル・アブラ("El Abra") の遺跡いせき先史せんし文化ぶんか萌芽ほうがられる。中央ちゅうおうアメリカからわたってきたしょぞく影響えいきょうおおきくトウモロコシもかれらによってまれたが、巨大きょだい石造せきぞう建築けんちくまれず、独自どくじまれることもなかった。サン・アグスティン遺跡いせきおそらくかれらによるものだとおもわれている。紀元前きげんぜん1000ねんアメリカ・インディアンのグループはみなみアメリカインカ帝国ていこくいでもっとすぐれていたといわれる行政ぎょうせいシステムであったカシケばれる首長しゅちょうによる一種いっしゅ首長しゅちょうせい国家こっかぐん("cacicazgos")を発展はってんさせた。その好例こうれいをチブチャけいムイスカじんタイロナカリマスペインばん英語えいごばんキンバヤスペインばん英語えいごばんシヌーなどの部族ぶぞくとその文化ぶんかることができる。紀元前きげんぜん300ねんごろ、現在げんざいニカラグア相当そうとうする地域ちいきからチブチャけい人々ひとびとわたっててからは、以降いこうかれらを中心ちゅうしん独自どくじ文化ぶんかはぐくまれた。

とくにボゴタ盆地ぼんち居住きょじゅうしていたムイスカじん発展はってん度合どあいたかく、定住ていじゅう農耕のうこうによりトウモロコシジャガイモ栽培さいばいし、カピバラ一種いっしゅ家畜かちくして、生産せいさんぶつ低地ていちみんコカ木綿こわた交換こうかんすることにより生計せいけいてていた。

植民しょくみんから解放かいほう戦争せんそうまで

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クリストバル・コロンアメリカ大陸あめりかたいりく上陸じょうりく

西暦せいれき1500ねんに、ロドリゴとバスティダスにひきいられたスペインじん探検たんけんカリブ海かりぶかい沿岸えんがんおとずれるとそれにつづいて1502ねんクリストバル・コロン( クリストファー・コロンブス)はカリブ海かりぶかいとチョコ(Choco)の西岸せいがん航行こうこうする。

1508ねん、それまでにパナマ地峡ちきょう征服せいふくしていたバスコ・バルボアはウラバを征服せいふくはじめる。1513ねん、ヨーロッパじん太平洋たいへいようはじめて発見はっけんし、Mar del Surすなわち「みなみうみ」と名付なづけると、つづいてペルーチリ到達とうたつする。

1510ねん11月にサンタ・マリア・ラ・アンティグア・デル・ダリエン(Santa María la Antigua del Darién) がいまのチョコけん建設けんせつされ、みなみアメリカはつのヨーロッパじんによる恒久こうきゅうてき入植にゅうしょくとなった。その地域ちいき先住民せんじゅうみんぞくは、チブチャけい(Chibchan) とカリブけい(Karib,いまカリブぞく)が多数たすうめていたが、最大さいだい王国おうこくだったムイスカぞくのバカタ王国おうこく征服せいふくしゃゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダにより征服せいふくされた結果けっか病気びょうき搾取さくしゅなどによりいちじるしい人口じんこう減少げんしょうこった。ムイスカじん首都しゅとバカタはサンタフェ・デ・ボゴタ改名かいめいされ、以降いこうスペインじん統治とうち拠点きょてんとなる。

スペインじんはアメリカ征服せいふく、どの地域ちいきでもそうしたように16世紀せいきになると アフリカから奴隷どれいおくはじめる。そのカルタヘナ・デ・インディアスはペルーからの黄金おうごん積出つみだみなととなり、とみねらってのジャマイカを拠点きょてんにしたイギリスからの攻撃こうげきはげしくなった。スペインはイギリスからの防衛ぼうえいのために1717ねんにアンデス北部ほくぶヌエバ・グラナダふくおうりょうとして、ペルーふくおうりょうから独立どくりつして組織そしきした。このふくおうりょう資金しきん不足ふそくにより一旦いったん廃止はいしされるが、1739ねんふたた北部ほくぶ南米なんべいベネスエラなどとともヌエバ・グラナダふくおうりょう再編さいへんされ、サンタフェ・デ・ボゴタ首都しゅといた。しかし、そのカルタヘナなどの都市としたいしてイギリス海軍かいぐん海賊かいぞく攻撃こうげきつづき、現在げんざい城壁じょうへきのこっている。

1781ねんソコーロで増税ぞうぜい反対はんたいしたクリオージョいたるコムネーロスの反乱はんらんこした。これはメスティーソやインディヘナをもふくめた人民じんみん蜂起ほうきであり、革命かくめい委員いいんかい(コムン)が結成けっせいされたためにコムネーロスとばれたが、結局けっきょく増税ぞうぜい実施じっし見送みおくられてこの反乱はんらん終結しゅうけつした。

独立どくりつ志士ししたちとシモン・ボリーバルの独立どくりつ戦争せんそう

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アントニオ・ナリーニョ
ククタの会議かいぎでのフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルシモン・ボリーバルはじめとするコロンビア独立どくりつ志士ししたち

19世紀せいきはじめにはじまったベネスエラや、ラ・プラタ地域ちいきでの独立どくりつ運動うんどう呼応こおうしてこのでも独立どくりつ戦争せんそうはじまり、スペインぐん独立どくりつ死闘しとうひろげられた。独立どくりつ運動うんどうは10ねん以上いじょうおよんだ。

1806ねんからフランシスコ・デ・ミランダひきいられた解放かいほうぐんにより、となりベネスエラ総督そうとくりょうから解放かいほう戦争せんそうはじまったことをけて、ヌエバ・グラナダでも独立どくりつ戦争せんそうはじまった。1810ねん7がつアントニオ・ナリーニョふくおう追放ついほうしてサンタフェ・デ・ボゴタを中心ちゅうしんクンディナマルカ共和きょうわこくのスペインからの独立どくりつ宣言せんげんした。同時どうじにカルタヘナがカルタヘナ共和きょうわこく独立どくりつ宣言せんげんして、すぐにカルタヘナを中心ちゅうしんとしたカリブ海かりぶかいがわしゅうがヌエバ・グラナダ連合れんごうしゅうとして合流ごうりゅうした。

よく1811ねんのボゴタの議会ぎかいでボゴタ以外いがい地方ちほうしょしゅうとボゴタはヌエバ・グラナダ連合れんごうしゅうとしてナリーニョのした合流ごうりゅうし、軍隊ぐんたい指揮しきけん全体ぜんたい指導しどうけんをボゴタがつことをみとめられた。ナリーニョとフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルは1812ねん崩壊ほうかいしたベネスエラ共和きょうわこく代表だいひょうとして抵抗ていこうつづけていた、シモン・ボリーバルすべりょうとするベネスエラじん独立どくりつ勢力せいりょくらと協力きょうりょくしてスペインぐんたたかい、ボリーバルも1813ねんにはベネスエラをふたた解放かいほうするが、本国ほんごくでのフェルナンド7せい反動はんどうてき復位ふくいによってスペインぐんふたた勢力せいりょくした。連邦れんぽう(カルタヘナ)と集権しゅうけん(ボゴタ)の不一致ふいっちかれるかたちで1814ねん2がつにはボゴタが陥落かんらくし、ナリーニョはスペインに連行れんこうされ、投獄とうごくされてしまった。ボリーバルはそのカリブ海かりぶかいがわのカルタヘナを拠点きょてんにスペインぐんたたかいボゴタを奪還だっかんしたものの、1815ねん6がつにカルタヘナできたおう党派とうは蜂起ほうきやぶれ、かろうじてイギリスりょうジャマイカのがれた。1816ねん5がつ、スペインぐん攻撃こうげきによりボゴタは陥落かんらくした。

しかし、ボリーバルはジャマイカで有名ゆうめいなジャマイカ書簡しょかんいたのち、イギリスなどと友好ゆうこう関係かんけいむすんで援助えんじょけることに成功せいこうし、さらにハイチわたってハイチ南部なんぶ支配しはいしていたアレクサンドル・ペション大統領だいとうりょうに、ラテンアメリカの解放かいほう黒人こくじん奴隷どれい解放かいほうすることを条件じょうけん物心ぶっしん両面りょうめん援助えんじょけた。1816ねんにはまたもやベネスエラに上陸じょうりくしたが、ジャネーロの協力きょうりょくけただけでやぶれてしまい、ハイチにかえすことになった。そうこうしているうちにボゴタが陥落かんらくしてしまったが1817ねん今度こんど準備じゅんびととのえてベネスエラにさい侵攻しんこうし、スペインぐんうらをかいてまずヌエバ・グラナダを解放かいほうしようとした。ベネスエラのアンゴストゥーラ解放かいほうされたのち、1818ねんにはジャネーロオリノコがわ流域りゅういき平原へいげんリャノむ、牧童ぼくどうたちのこと。ベネスエラのガウチョ)の頭目とうもくだったホセ・アントニオ・パエスのちからりることに成功せいこうし、1819ねんにはアンゴストゥーラを臨時りんじ首都しゅととしてのベネスエラだいさん共和きょうわこく再建さいけんされ、コロンビア共和きょうわこく創設そうせつされた。

1819ねん8がつボヤカのたたか勝利しょうりするとボゴタが解放かいほうされ、ヌエバ・グラナダも最終さいしゅうてき解放かいほうされて、ボリーバルはコロンビア共和きょうわこく建国けんこく正式せいしき宣言せんげんし、コロンビアの首都しゅと改名かいめいされたボゴタにさだめられた。こうしてボリーバルはヌエバ・グラナダを拠点きょてん故国ここくベネスエラの解放かいほうすすめ、1821ねんカラボボのたたかい (1821ねん)英語えいごばんでの勝利しょうりによりカラカスが解放かいほうされると、ベネスエラも最終さいしゅうてき解放かいほうされ、両国りょうこくあらためて正式せいしきにコロンビア共和きょうわこく形成けいせいした。1820ねんには解放かいほうされたグアヤキルが、1822ねんにはキト併合へいごうされ、このコロンビア共和きょうわこく現在げんざいのコロンビア、ベネスエラ、エクアドル、パナマのすべおよペルーガイアナブラジル一部いちぶふく北部ほくぶ南米なんべい一帯いったいめるだい国家こっかとなった。

ボリーバルがペルーボリビア方面ほうめん解放かいほうかうなか、1821ねん9がつ、ヌエバ・グラナダじんで、ヌエバ・グラナダを代表だいひょうしてボリーバルの副官ふっかんつとめていたサンタンデルはコロンビア共和きょうわこくふく大統領だいとうりょうとなり、不在ふざい大統領だいとうりょうわってヌエバ・グラナダをおさめていたが、1827ねんのボリーバルの帰還きかん、コロンビア共和きょうわこく集権しゅうけんてきにまとめようとするボリーバルと、連邦れんぽうてき要求ようきゅうをするサンタンデルや、ベネスエラを支配しはいする アントニオ・パエス不満ふまんおおきくなっていった。サンタンデルは1828ねんにはボリーバルの暗殺あんさつはかったため亡命ぼうめいした。さらにキトをめぐってのコロンビアとペルーの戦争せんそうき、もはやボリーバルの威信いしん低下ていかあきらかであった。そのもボリーバルはコロンビアの分裂ぶんれつ回避かいひすべく統治とうちしたが、上手うまかず、ベネスエラが独立どくりつ要求ようきゅうした。コロンビア共和きょうわこく維持いじ解放かいほうしゃ力量りきりょうをもってしても不可能ふかのうかとおもわれた。

1830ねんエクアドルきゅう南部なんぶ地区ちく」。キトグアヤキルクエンカ連合れんごうして赤道あかみち共和きょうわこく名乗なのった)と、故郷こきょうベネスエラはパエスの指導しどう完全かんぜん独立どくりつたし、南米なんべい大陸たいりく統合とうごうゆめやぶれ、自分じぶん政治せいじてき努力どりょくすべ無為むいわったことをさとった解放かいほうしゃ終身しゅうしん大統領だいとうりょう辞職じしょくし、ヨーロッパにかってマグダレーナがわくだなかサンタ・マルタ付近ふきん失意しついない病死びょうしした。よく1831ねんラファエル・ウルダネータ政権せいけん崩壊ほうかいすると同時どうじにコロンビア共和きょうわこく崩壊ほうかいし、残存ざんそんヌエバ・グラナダ共和きょうわこくとしてさい編成へんせいはかった。

ヌエバ・グラナダ共和きょうわこく時代じだいからコロンビア合衆国がっしゅうこくまで

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首都しゅとボゴタのカテドラル

分離ぶんり独立どくりつ政情せいじょう不安定ふあんてい時期じき長期ちょうきおよんだが、文民ぶんみん統治とうち原則げんそく維持いじされつづけた。また、政党せいとうあいだ対立たいりつ小康しょうこう状態じょうたいになるも、りょうとうともに支持しじ基盤きばん富裕ふゆうそう保守党ほしゅとうはローマ・カトリック教会きょうかいおよびだい地主じぬし自由党じゆうとう新興しんこう企業きぎょう)のため、農民のうみんなどにたいする圧政あっせいつづき、政党せいとうあいだあらそいと複雑ふくざつからい、経済けいざいてきには安定あんていした発展はってんげたが、政治せいじてきには依然いぜん不安定ふあんてい社会しゃかい情勢じょうせいつづいた。

1832ねん亡命ぼうめいさきからサンタンデルが帰国きこくしヌエバ・グラナダ共和きょうわこく大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。この時代じだいには保護ほご貿易ぼうえきにより産業さんぎょう発展はってんし、奴隷どれい貿易ぼうえき廃止はいしされ、おおやけ教育きょういく拡充かくじゅうするなど連邦れんぽうてき政治せいじすすんだ。また、1840年代ねんだいにはのちしゅ産業さんぎょうとなるコーヒー栽培さいばいされはじめた。政治せいじめんではこの時期じきだいコロンビア時代じだいからつづ中央ちゅうおう集権しゅうけん連邦れんぽうが、保守党ほしゅとう自由党じゆうとう組織そしきなおされた。1849ねんには商人しょうにん職人しょくにん新興しんこうブルジョワジー小農しょうのうなどの連邦れんぽう自由党じゆうとう結成けっせいし、同年どうねんこれに対抗たいこうして貴族きぞくだい地主じぬし教会きょうかいなどを支持しじ基盤きばん保守党ほしゅとう結成けっせいされた。これにより現在げんざいまでつづだい政党せいとうせい確立かくりつしたが、りょうとうは寡頭支配しはい体制たいせい維持いじというてん共通きょうつうしていた。

1849ねんから1853ねんまで大統領だいとうりょうつとめた自由じゆう主義しゅぎしゃホセ・イラリオ・ロペスイエズスかい追放ついほう教会きょうかい財産ざいさん没収ぼっしゅう黒人こくじん奴隷どれいせい廃止はいしなどのはん教会きょうかい自由じゆう主義しゅぎ政策せいさくった。これ以降いこう1880ねんまでコロンビアでは自由じゆう主義しゅぎ政権せいけんつづくことになる。自由じゆう主義しゅぎ政権せいけん自由じゆう貿易ぼうえきをものぞみ、1855ねんに「手工業しゅこうぎょう共和きょうわこく」とばれたホセ・マリア・メロ将軍しょうぐん政権せいけん打倒だとうされると、保護ほご貿易ぼうえきはいされて自由じゆう貿易ぼうえき導入どうにゅうされ、そだっていた工業こうぎょう基盤きばん壊滅かいめつした。これ以降いこうのラテンアメリカ諸国しょこく同様どうようにコロンビアでもイギリス資本しほんによる経済けいざい支配しはいすすむことになる。

1857ねんには自由じゆう主義しゅぎしゃマリアーノ・オスピナ・ロドリゲス大統領だいとうりょうになり、1858ねんにはロドリゲスのによりグラナダ連合れんごう発足ほっそくした。しかしロドリゲスはイエズスかい帰国きこくみとめて教会きょうかい特権とっけん復活ふっかつさせ、中央ちゅうおう集権しゅうけんはかるなど自由じゆう主義しゅぎかかげながらも保守ほしゅしたため、1861ねん自由じゆう主義しゅぎしゃだったカウカしゅう知事ちじトマス・シプリアーノ・ド・モスケラ蜂起ほうきし、7がつにはボゴタにはいってロドリゲスを追放ついほうした。こうしてモスケラが政権せいけんにぎると、1863ねん成立せいりつしたリオ・ネグロ憲法けんぽうでは自由じゆう主義しゅぎてき内容ないよう採択さいたくされ、グラナダ連合れんごう各州かくしゅう外交がいこうけんはちしゅうからなる連邦れんぽうせい国家こっかコロンビア合衆国がっしゅうこくとなった。この自由じゆう主義しゅぎ時代じだい首都しゅとボゴタでは科学かがく文芸ぶんげい発展はってんせ、ボゴタは「南米なんべいアテネ」とばれるようになった

1880ねん保守ほしゅラファエル・ヌニェススペインばん英語えいごばん自由党じゆうとう右派うは保守党ほしゅとうされて大統領だいとうりょうになると、ヌニェスはスペインに独立どくりつ承認しょうにんさせ、国立こくりつ銀行ぎんこう建設けんせつして経済けいざい安定あんていはかった。こうしてヌニェスの時代じだいククタ周辺しゅうへんでのコーヒー栽培さいばい拡大かくだいによりコロンビアのしゅ産業さんぎょうがコーヒー輸出ゆしゅつとなり、イギリス資本しほんによって鉄道てつどうもう拡大かくだいしていき、欧米おうべい依存いぞんてき経済けいざい構造こうぞう確立かくりつした。1884ねん再選さいせんされたヌニェスは連邦れんぽうせい廃止はいししようとし、政治せいじ教育きょういくにカトリック教会きょうかい参加さんかすることをみとめたため、1885ねんには自由じゆう主義しゅぎしゃ反乱はんらんこし、内戦ないせん勃発ぼっぱつした。ヌニェスがこの内戦ないせん勝利しょうりすると、1886ねんにリオ・ネグロ憲法けんぽう放棄ほうきされて、カトリック教会きょうかい国家こっか同盟どうめい中央ちゅうおう政府せいふ権限けんげん拡大かくだい大統領だいとうりょう任期にんきろくねん延長えんちょう中央ちゅうおう集権しゅうけん主義しゅぎなどをりこんで教権きょうけんつよ中央ちゅうおう集権しゅうけんてき憲法けんぽう改正かいせいがなされ、ここで現在げんざいまでつづコロンビア共和きょうわこく成立せいりつした。

コロンビア共和きょうわこく成立せいりつからボゴタ暴動ぼうどうまで

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レティシアをめぐってのペルーとの戦争せんそうそなえるコロンビアぐん(1932ねん

こうして建国けんこく当初とうしょから自由じゆう保守ほしゅりょうとう対立たいりつつづいたが、1894ねんにヌニェスがぬとふたたりょうとう緊張きんちょうたかまった。1899ねんにはラファエル・ウリベ・ウリベスペインばん英語えいごばん将軍しょうぐん指導しどうする自由党じゆうとう急進きゅうしんによる蜂起ほうきこり、1902ねんまでつづく「せんにち戦争せんそう勃発ぼっぱつした。この内戦ないせんでコロンビアはおよそ10まんにん犠牲ぎせいしゃしたといわれている。また、この戦争せんそうおさまったのち、かねてからパナマをほっしていたアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくのパナマ運河うんが地帯ちたい永久えいきゅう租借そしゃくあんを、コロンビア上院じょういん拒否きょひしたことをけて、アメリカはパナマ地峡ちきょう独立どくりつ援助えんじょし、1903ねん地峡ちきょう地帯ちたいパナマ共和きょうわこくとして独立どくりつした。

せんにち戦争せんそう保守党ほしゅとうラファエル・レイェス英語えいごばん大統領だいとうりょう就任しゅうにんすると、独裁どくさい強化きょうかされ、保護ほご貿易ぼうえきもとづいて国内こくない工業こうぎょう育成いくせいはかられた。この路線ろせんは1930ねんまでつづいた保守党ほしゅとう政権せいけんによって継承けいしょうされた。保守党ほしゅとう政権せいけん1921ねんにパナマの独立どくりつ承認しょうにんしてアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとの問題もんだい解決かいけつした。これにより合衆国がっしゅうこくからの膨大ぼうだい投資とうしながみ、それまでのイギリス資本しほんからあらたに合衆国がっしゅうこく資本しほんへの従属じゅうぞくはじまった。ユナイテッド・フルーツしゃによるバナナプランテーション建設けんせつすすむのもこのころである。しかし、1929ねん世界せかい恐慌きょうこうこると、恐慌きょうこうによる経済けいざい不安定ふあんていけて1880ねんから50ねんちかつづいた保守党ほしゅとう時代じだい終焉しゅうえんした。また、1910年代ねんだいからアンティオキア地方ちほう開発かいはつ発展はってんすすみ、コーヒーの最大さいだい産地さんちとなったアンティオキアの中心ちゅうしんメデジンは、ボゴタをいてコロンビアの成長せいちょう原動力げんどうりょくとなった

世界せかい恐慌きょうこうによる経済けいざい不安定ふあんていけて1930ねんエンリケ・エラヤ・エレーラ労働ろうどうしゃ支持しじ選挙せんきょ勝利しょうりし、自由党じゆうとう政権せいけん復活ふっかつした。エレーラは1932ねん9がつコロンビア・ペルー戦争せんそう勝利しょうりし、南部なんぶアマゾン国境こっきょうレティシア領有りょうゆうけん確保かくほした。

1934ねんには自由党じゆうとうアルフォンソ・ロペス・プマレホ大統領だいとうりょう就任しゅうにんし、部分ぶぶんてき土地とち改革かいかくなどがおこなわれた。プマレホはこの実績じっせきにより1942ねん再選さいせんされるが、政策せいさく失敗しっぱいして1945ねん辞任じにんした。プマレホの政治せいじ農民のうみん労働ろうどうしゃ利益りえきかなったものだったが、それは寡頭支配しはい体制たいせいくずれるほどのものではなかった。そしてそのような情勢じょうせいなかあらわれたのがホルヘ・エリエセル・ガイタンだった。自由党じゆうとういんだったガイタンは1928ねんユナイテッド・フルーツしゃによるバナナ労働ろうどうしゃ虐殺ぎゃくさつ事件じけん批判ひはんしたことによりカリスマてき魅力みりょく発揮はっきした政治せいじであり、ポプリスモてきなガイタン主義しゅぎかかげてそれまで寡頭支配しはい体制たいせい枠外わくがいかれていた農民のうみん労働ろうどうしゃ学生がくせいから圧倒的あっとうてき支持しじけていた。

ボゴタ暴動ぼうどう、コロンビア内戦ないせん

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ボゴタ暴動ぼうどうによってボリバル広場ひろば炎上えんじょうする路面ろめん電車でんしゃ

1946ねん以降いこうじゅうすう年間ねんかんラ・ビオレンシア暴力ぼうりょく)の時代じだいわれ、あらそいが頂点ちょうてんたっした。

1946ねん保守党ほしゅとう政権せいけん誕生たんじょうすると、徐々じょじょ保守ほしゅ党派とうは自由党じゆうとうたいするテロをひろげるようになった。1948ねん選挙せんきょはこのような状況じょうきょうなかおこなわれることになったが、同年どうねん開催かいさいされたボゴタでのOEA会議かいぎ最中さいちゅうに、当選とうせん確実かくじつといわれた自由党じゆうとう党首とうしゅガイタンが暗殺あんさつされると、自由党じゆうとう市民しみん保守党ほしゅとう市民しみん衝突しょうとつし、ボゴタ暴動ぼうどう(ボゴタソ)が勃発ぼっぱつした。ポプリスモてきなカリスマだったガイタンが暗殺あんさつされたことによりこの暴動ぼうどうおさめる能力のうりょくった政治せいじはおらず、この一連いちれん暴動ぼうどうによりコロンビアは19世紀せいきのような「暴力ぼうりょく」の時代じだいむかえた。1946ねんから1950年代ねんだいまつまでの「暴力ぼうりょく」の時代じだい死者ししゃは、すべあわせると20まんにんにもおよぶと推測すいそくされる。1950ねん保守党ほしゅとうから就任しゅうにんしたちょう保守ほしゅラウレアーノ・ゴメス大統領だいとうりょうは、事態じたい収拾しゅうしゅうするためとしょうして教会きょうかい政治せいじてき権利けんり復活ふっかつなどを骨子こっしとした独裁どくさいはげしくしていき、それにともな暴力ぼうりょく拡大かくだいしてった。しかし、この内戦ないせんなかでも工業こうぎょう生産せいさん増加ぞうかした。また、この不安定ふあんてい情勢じょうせいなかでもゴメスは反共はんきょうしめして共産党きょうさんとうけい自由党じゆうとうけいのゲリラを弾圧だんあつするかたわら、朝鮮ちょうせん戦争せんそうにもラテンアメリカで唯一ゆいいつ軍隊ぐんたい派遣はけんした。

軍事ぐんじ政権せいけんひきいたグスタボ・ロハス・ピニージャ

地方ちほうでの暴力ぼうりょく拡大かくだいし、ゴメスの独裁どくさい自由党じゆうとうだけではなく、保守党ほしゅとう支配しはいそうからもれがたいものになっていくと、事態じたい収拾しゅうしゅうするためにりょうとう軍部ぐんぶ介入かいにゅう要請ようせいした。このため、1953ねん6月14にち軍事ぐんじクーデターにより朝鮮ちょうせん戦争せんそう英雄えいゆう グスタボ・ロハス・ピニージャ将軍しょうぐん政権せいけんにぎり、コロンビア史上しじょうさん度目どめ軍事ぐんじ政権せいけん発足ほっそくした。

ロハスはカリスマを発揮はっきして民兵みんぺい武装ぶそう解除かいじょおこない、部分ぶぶんてきに「暴力ぼうりょく」をおさめることに成功せいこうしたが、 1955ねんロハスが人民じんみん弾圧だんあつおこなった地主じぬしたち恩赦おんしゃをかけたために農民のうみん蜂起ほうきし(ビジャリカ戦争せんそう)、1956ねんロハスに敬意けいいしめさなかったという理由りゆう多数たすう市民しみん虐殺ぎゃくさつされる「うし首輪くびわ虐殺ぎゃくさつ事件じけん発生はっせいなどにより、次第しだい民衆みんしゅうあいだでもはんロハス感情かんじょうつよまってった。また、ロハスは労働ろうどうしゃ保護ほごつとめるなかで、次第しだい自由党じゆうとう保守党ほしゅとうからはなれてアルゼンチンフアン・ペロンのような独自どくじのポプリスモてき支持しじ基盤きばん労働ろうどうしゃとうとしたため、りょうとうの寡頭支配しはいそうはんロハス感情かんじょういていった。こうしてはんロハス勢力せいりょく結集けっしゅうしたため、1957ねんにロハスは大統領だいとうりょう辞職じしょくスペイン亡命ぼうめいした。

1958ねんには、寡頭支配しはいそうによって自由じゆう保守ほしゅりょうとうによる「国民こくみん戦線せんせん体制たいせい成立せいりつした。これはりょうとうあいだで4ねんごと政権せいけん交替こうたいするという「たらいまわし」連立れんりつ政策せいさくであった。背景はいけいにはロハスのような自由党じゆうとう保守党ほしゅとう特権とっけんおかしかねない政権せいけん成立せいりつを寡頭支配しはいそうおそれたことがあるが、しかし、これに反対はんたいする自由党じゆうとうけい農民のうみん蜂起ほうき相次あいついだ。

1959ねんキューバ革命かくめい影響えいきょうけて、1961ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくのケネディ大統領だいとうりょう主導しゅどうによって「進歩しんぽのための同盟どうめい」が発足ほっそくすると、コロンビアは同盟どうめいのモデル国家こっかとなったが、社会しゃかい問題もんだい根本こんぽんてき解決かいけつにはいたらずゲリラ活動かつどう活発かっぱつし、1966ねんにはコロンビア革命かくめいぐん(FARC)が発足ほっそくした。1968ねんにメデジンこう会議かいぎ解放かいほう神学しんがく誕生たんじょうした。1970ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょでは亡命ぼうめいさきからかえったロハスが独自どくじ国家こっか人民じんみん同盟どうめい(ANAPOとう)から出馬しゅつば政界せいかい復帰ふっき目指めざすものの、不正ふせい選挙せんきょ敗北はいぼくすると学生がくせい中心ちゅうしんとした左翼さよくゲリラ4がつ19にち運動うんどう(M-19)がまれた。

1974ねん国民こくみん戦線せんせん体制たいせい終了しゅうりょう通常つうじょう選挙せんきょおこなわれる。1978ねん就任しゅうにんした自由党じゆうとうフリオ・セサル・トゥルバイ・アヤラ大統領だいとうりょうは、たかまるはん政府せいふ活動かつどう戒厳かいげんれい布告ふこくして弾圧だんあつし、おおくの活動かつどう秘密ひみつ警察けいさつによる拉致らち拷問ごうもんけ、そのおおくが失踪しっそうした。1982ねん就任しゅうにんした保守党ほしゅとうベリサリオ・ベタンクール・クァルタス大統領だいとうりょうはFARCなど左翼さよくゲリラ勢力せいりょく和平わへい実現じつげんし、1985ねんにはFARCが合法ごうほう政党せいとうである愛国あいこく同盟どうめい(UP)を創設そうせつ国政こくせい参加さんかしたが、議員ぎいん関係かんけいしゃ次々つぎつぎ暗殺あんさつされ、1994ねんには政党せいとう資格しかく消失しょうしつした。また85ねんには左翼さよくゲリラM-19によるコロンビア最高裁さいこうさい占拠せんきょ事件じけんネバド・デル・ルイス火山かざん噴火ふんか死者ししゃ行方ゆくえ不明ふめいしゃ25000にん以上いじょう)など災難さいなん相次あいつぎ、ベタンクール大統領だいとうりょうは「社会しゃかい経済けいざい非常ひじょう事態じたい宣言せんげん」を発令はつれいした。1986ねん就任しゅうにんした自由党じゆうとうビルヒリオ・バルコ大統領だいとうりょうにより、麻薬まやく取締とりしまり作戦さくせん実行じっこう1989ねんメデジン・カルテルとのだい規模きぼゲリラ戦闘せんとう麻薬まやくカルテル戦争せんそう」が勃発ぼっぱつし、麻薬まやくカルテルの本拠地ほんきょちがメデジンからカリにうつった。

1990ねん大統領だいとうりょう就任しゅうにんした自由党じゆうとうセサル・ガビリア・トルヒージョ野党やとうふく挙国一致きょこくいっちないかく組閣そかくし、1991ねんに1886ねん憲法けんぽう全面ぜんめん改正かいせいされ、しん憲法けんぽう公布こうふされた。1993ねんにはメデジン・カルテルの最高さいこう幹部かんぶパブロ・エスコバル治安ちあん部隊ぶたい射殺しゃさつされ、1995ねんにはだい麻薬まやくカルテルカリ・カルテル幹部かんぶオレフエラ兄弟きょうだい逮捕たいほされるなど、麻薬まやく密売みつばい組織そしきはほとんど壊滅かいめつ状態じょうたいまれたが、1994ねん就任しゅうにんした自由党じゆうとうエルネスト・サンペール・ピサノ大統領だいとうりょう選挙せんきょ期間きかんちゅうにカリ・カルテルから選挙せんきょ資金しきんっていたことが "narco-cassettes" から発覚はっかくし、「ナルコ・ゲート事件じけんスペインばん英語えいごばん」としてだい問題もんだい発展はってんした。議会ぎかいはサンペール大統領だいとうりょう弾劾だんがいするかまえをせ、アメリカ政府せいふもサンペールの入国にゅうこくビザ発給はっきゅう拒否きょひするなど外交がいこう問題もんだい発展はってんした。1998ねんQuebrada El Billarのたたかスペインばんフランス語ふらんすごばん3月1にち - 3月5にち)。8がつ7にち就任しゅうにんした保守党ほしゅとうアンドレス・パストラーナ・アランゴ大統領だいとうりょうは、たいべい関係かんけい重視じゅうし政策せいさくをとり、よく1999ねん1がつにはFARCとの和平わへい対話たいわ開始かいしするも、2002ねん初頭しょとうのFARCによるテロをけ、和平わへいプロセスを中止ちゅうし2がつ21にちes:Retoma de la zona de distensiónEl Caguán DMZ奪還だっかんes:Operación Alcatrazどうなつ自由党じゆうとうけいしん政党せいとうコロンビア・ファースト」から就任しゅうにんしたアルバロ・ウリベ大統領だいとうりょう治安ちあん回復かいふく重点じゅうてん課題かだいとし、左翼さよくゲリラや右翼うよくの「コロンビア自警じけいぐん連合れんごう」(AUえーゆーC)などの民兵みんぺい組織そしき対策たいさくちからそそぐ。2006ねん5月、ウリベは大統領だいとうりょう再選さいせんした。2007ねんes:Operación Emmanuel2008ねんes:Operación Jaquees:Operación Fénixes:Operación Dinastía2009ねん - 2010ねん)。2010ねんes:Operación Camaleónes:Operación Sodoma2011ねんes:Operación Odiseo

脚註きゃくちゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 中川なかがわ文雄ふみお松下まつしたひろしおそ野井のい茂雄しげお世界せかい現代げんだい34 ラテンアメリカ現代げんだいII』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1985ねん
  • 増田ますだ義郎よしおへん)『新版しんぱん世界せかい各国かっこく26 ラテン・アメリカII』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2000ねんISBN 4-634-41560-7
  • 野沢のざわたかしへん)『朝日あさひ百科ひゃっか 世界せかい地理ちり12 ラテンアメリカ』朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1986ねんISBN 4-02-380006-6 C6325)
  • だか浩昭ひろあき『コロンビア内戦ないせん ゲリラと麻薬まやく殺戮さつりくと』ろんそうしゃ、2003ねんISBN 4-8460-0376-0
  • エドゥアルド・ガレアーノちょ)、大久保おおくぼ 光夫みつおわけ)『収奪しゅうだつされた大地だいち ラテンアメリカひゃくねんしん評論ひょうろん、1986ねん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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