この項目 こうもく では、メキシコ合衆国 がっしゅうこく の歴史 れきし について記述 きじゅつ する。現在 げんざい のメキシコに相当 そうとう する地域 ちいき には2万 まん 年 ねん 以上 いじょう 前 まえ に人類 じんるい が進出 しんしゅつ し、高度 こうど な文明 ぶんめい を築 きず いた。しかし16世紀 せいき にスペイン が進出 しんしゅつ してくると植民 しょくみん 地 ち 化 か され、厳 きび しい収奪 しゅうだつ が行 おこな われた。18世紀 せいき 末 すえ にヨーロッパ で革命 かくめい が相次 あいつ ぐと、メキシコでもメキシコ独立 どくりつ 革命 かくめい が起 お こり独立 どくりつ を果 は たした。その後 ご 帝政 ていせい 、連邦 れんぽう 共和 きょうわ 政 せい 、対外 たいがい 戦争 せんそう 、ディアス の独裁 どくさい など動乱 どうらん を経 へ て、1910年 ねん から1918年 ねん まで続 つづ いたメキシコ革命 かくめい の動乱 どうらん により近代 きんだい 的 てき 国家 こっか を実現 じつげん した。革命 かくめい 後 ご は制度 せいど 的 てき 革命 かくめい 党 とう (PRI)の長期 ちょうき 政権 せいけん の下 した で近代 きんだい 化 か と経済 けいざい 開発 かいはつ が進 すす められたが、20世紀 せいき 後半 こうはん までにPRIは様々 さまざま な社会 しゃかい 矛盾 むじゅん を蓄積 ちくせき し、2000年 ねん の選挙 せんきょ でPRIは下野 げや した。
現在 げんざい のメキシコに当 あ たる地域 ちいき では2万 まん 年 ねん 前 まえ の遺跡 いせき が発見 はっけん されており、それ以前 いぜん から人間 にんげん が住 す んでいたと考 かんが えられている。マンモス などの狩猟 しゅりょう および採集 さいしゅう の生活 せいかつ をしていたが(この時代 じだい を、パレオ=インディアン期 き ;Paleoindian period / stage 、若 も しくは石 いし 期 き Lithic Period / stage という)、紀元前 きげんぜん 8000年 ねん 頃 ころ にトウモロコシ の農耕 のうこう が始 はじ まった。農耕 のうこう が開始 かいし された時代 じだい を古 いにしえ 期 き (archic period / stage) という。
オルメカ 、サン・ロレンソ の巨石 きょせき 人頭 じんとう 像 ぞう
紀元前 きげんぜん 2300年 ねん には最初 さいしょ の土器 どき が作 つく られた。これ以後 いご を形成 けいせい 期 き (Formative period / stage) 若 も しくは先 さき 古典 こてん 期 き (Preclassic period / stage) という。メソアメリカ 研究 けんきゅう の最近 さいきん の傾向 けいこう としては、先 さき 古典 こてん 期 き の区分 くぶん 名 めい を用 もち いる研究 けんきゅう 者 しゃ が優勢 ゆうせい になっている。
先 さき 古典 こてん 期 き 中期 ちゅうき の紀元前 きげんぜん 1300年 ねん 頃 ころ 、メキシコ湾岸 わんがん を中心 ちゅうしん にオルメカ文明 ぶんめい が興 おこ った。オルメカの人々 ひとびと は、自然 しぜん の丘陵 きゅうりょう を利用 りよう してサン・ロレンソ (ベラクルス州 しゅう )、後 のち にラ・ベンタ (タバスコ州 しゅう )という祭祀 さいし センター(神殿 しんでん )を築 きず いた。オルメカ文明 ぶんめい は、彼 かれ らの支配 しはい 者 しゃ の容貌 ようぼう を刻 きざ んだとされているネグロイド 的 てき 風貌 ふうぼう の巨石 きょせき 人頭 じんとう 像 ぞう で知 し られる。一方 いっぽう 、先 さき 古典 こてん 期 き 後期 こうき になると、ユカタン半島 はんとう 北部 ほくぶ にコムチェン、ジビルチャルトゥン 、カンペチェ州 しゅう にもカラクムル など幾 いく つかのマヤ文明 ぶんめい の祭祀 さいし センターが築 きず かれた。
モンテ=アルバン「中央 ちゅうおう 広場 ひろば 」
オアハカ州 しゅう では、盆地 ぼんち 北部 ほくぶ の有力 ゆうりょく センター、サン・ホセ・モゴテ の支配 しはい 者 しゃ たちが、盆地 ぼんち 中央 ちゅうおう の小高 こだか い丘 おか にモンテ・アルバン の神殿 しんでん 都市 とし を築 きず いた。モンテ・アルバンの盛 さか んな征服 せいふく 戦争 せんそう の勝利 しょうり は、「ダンサンテ」と呼 よ ばれるレリーフの捕虜 ほりょ たちの姿 すがた に表 あらわ されている。また、モンテ・アルバンには、先 さき 古典 こてん 期 き 中期 ちゅうき に既 すで に260日 にち 暦 こよみ を使用 しよう していたことが石碑 せきひ に刻 きざ まれている。
テオティワカンの中心 ちゅうしん 部 ぶ
先 さき 古典 こてん 期 き の終 お わり頃 ころ になるとメキシコ中央 ちゅうおう 高原 こうげん のテスココ湖 こ の南方 なんぽう に、円形 えんけい の大 だい ピラミッドで知 し られるクィクィルコ 、東方 とうほう にテオティワカン の巨 きょ 大都市 だいとし が築 きず かれた。クィクィルコが紀元前 きげんぜん 後 ご にシトレ火山 かざん の噴火 ふんか によって壊滅 かいめつ 的 てき 打撃 だげき を受 う けると、テオティワカンの優位 ゆうい は決定的 けっていてき となり、たちまちのうちにその経済 けいざい 力 りょく と軍事 ぐんじ 力 りょく でメソアメリカ全域 ぜんいき を間接 かんせつ 的 てき に支配 しはい した。その力 ちから は、遠 とお くグアテマラ のペテン 低地 ていち のワシャクトゥン やティカル を支配 しはい する新 しん 王朝 おうちょう を築 きず いたことによく現 あらわ れている。また、モンテ・アルバンの南 みなみ 基壇 きだん にある石碑 せきひ レリーフにもテオティワカンからの使者 ししゃ が来訪 らいほう したことが刻 きざ まれている。両者 りょうしゃ は友好 ゆうこう 関係 かんけい にあったと考 かんが えられている。なお、メキシコ湾岸 わんがん では、トトナカ族 ぞく のエル・タヒン やマヤ文明 ぶんめい と同様 どうよう 長期 ちょうき 暦 れき を用 もち いたセロ・デ・ラス・メーサス が独自 どくじ の発展 はってん を示 しめ した。
パレンケ
紀元 きげん 後 ご 250年 ねん ないし300年 ねん 頃 ころ から古典 こてん 期 き (Classic period / stage) が始 はじ まる。この時期 じき 、グアテマラのペテン低地 ていち 及 およ びその周辺 しゅうへん にあるマヤ文明 ぶんめい の著名 ちょめい なセンターが全盛 ぜんせい を極 きわ めるが、それらのセンターのうち、ティカルと激 はげ しく争 あらそ ったのがカンペチェ州 しゅう にある「カーン王朝 おうちょう 」の首都 しゅと カラクムルであった。一方 いっぽう 、チャパス州 しゅう にある「ラカムハ」という名 な で知 し られる都市 とし パレンケ は、ティカルの同盟 どうめい 者 しゃ であったと考 かんが えられている。
トゥーラ、ピラミッドBの基壇 きだん 上 じょう にある戦士 せんし 像 ぞう
メキシコ中央 ちゅうおう 高原 こうげん では、7世紀 せいき 頃 ころ 、テオティワカンが破壊 はかい され、トゥーラと呼 よ ばれる群小 ぐんしょう 都市 とし 国家 こっか 群 ぐん が割拠 かっきょ した。そのうち有力 ゆうりょく なのは、中央 ちゅうおう 高原 こうげん の南側 みなみがわ に位置 いち するショチカルコ と北側 きたがわ に位置 いち するイダルゴ州 しゅう のトゥーラ・シココティトラン であった。トゥーラ・シココテイトランは、古 こ 文献 ぶんけん のトゥーラにほぼ同定 どうてい されることからトルテカ帝国 ていこく 説 せつ を生 う み出 だ したほどの力 ちから をもっていた有力 ゆうりょく なトゥーラであった。一方 いっぽう 、テオティワカン崩壊 ほうかい 後 ご 、マヤのセンターは一時 いちじ 的 てき に繁栄 はんえい するが、やがて戦争 せんそう 、乱伐 らんばつ による食糧 しょくりょう 不足 ふそく 、気候 きこう の変化 へんか 、疫病 えきびょう 、交易 こうえき 路 ろ の変化 へんか など複 ふく 合 あい 的 てき な要素 ようそ によって疲弊 ひへい し、9世紀 せいき 頃 ころ に崩壊 ほうかい していく。これ以後 いご からスペイン人 じん による征服 せいふく までの時期 じき を後 こう 古典 こてん 期 き (Postclassic period / stage) と呼 よ ぶ。
ウシュマルの尼僧 にそう 院 いん 。典型 てんけい 的 てき なプウク様式 ようしき の建物 たてもの 。
ユカタン半島 はんとう では、チョンタル人 じん ではないかと考 かんが えられる「プトゥン 」商人 しょうにん によるユカタン半島 はんとう 沿岸 えんがん での交易 こうえき 活動 かつどう が盛 さか んとなり、ユカタン半島 はんとう 北部 ほくぶ のチチェン・イッツァ 、マヤパン 、ウシュマル などの都市 とし 国家 こっか がその恩恵 おんけい を受 う けて繁栄 はんえい した。ユカタン半島 はんとう 北部 ほくぶ には、古典 こてん 期 き の終末 しゅうまつ からこの時期 じき にかけて、前述 ぜんじゅつ のウシュマルのほかに、ラブナー、カバー、サイールなどの都市 とし 国家 こっか ないしは祭祀 さいし センターが築 きず かれ、プウク様式 ようしき の名 な で知 し られる優美 ゆうび な建築 けんちく 物 ぶつ が建 た てられた。「プトゥン」商人 しょうにん たちは、コスメル島 とう にイシュ・チェル 女神 めがみ の「神託 しんたく 所 しょ 」を築 きず いたため、コスメル島 とう は繁栄 はんえい していた。
メンドーサ・コデックス の最初 さいしょ のページ
メキシコ中央 ちゅうおう 高原 こうげん には、気候 きこう の寒冷 かんれい 化 か によって、北方 ほっぽう からチチメカ人 じん の侵略 しんりゃく が開始 かいし される。そのために多 おお くのトゥーラ群 ぐん は破壊 はかい されたり征服 せいふく されたりした。14世紀 せいき 後半 こうはん 、テスココ湖 こ の西岸 せいがん にあるアスカポツァルコ を首都 しゅと とするテパネカ 王国 おうこく にテソソモク という英傑 えいけつ があらわれ、その傭兵 ようへい 部隊 ぶたい だったアステカ族 ぞく は、テソソモク没 ぼつ 後 ご 、15世紀 せいき 前半 ぜんはん 、テスココ 、トラコパン とともに三 さん 都市 とし 同盟 どうめい を築 きず き、テスココの名君 めいくん ネサワルコヨトル の死後 しご は、完全 かんぜん にリーダーシップを握 にぎ ってアステカ 帝国 ていこく を形成 けいせい する。アステカは、ベラクルス州 しゅう からゲレーロ州 しゅう までの一帯 いったい 、オアハカ州 しゅう の一部 いちぶ と、ソコヌスコ と呼 よ ばれるチャパス州 しゅう の太平洋 たいへいよう 岸 がん までの地域 ちいき を征服 せいふく する空前 くうぜん の版図 はんと を誇 ほこ る帝国 ていこく を形成 けいせい していた。一方 いっぽう 、ミチョアカン州 しゅう には、ツィンツンツァン を都 と とするタラスカ王国 おうこく があり、アステカ帝国 ていこく と一 いち 歩 ほ も譲 ゆず らぬ力 ちから を誇 ほこ っていた。これら、メキシコに繁栄 はんえい した古代 こだい 文明 ぶんめい は、ピラミッド型 がた 神殿 しんでん や都市 とし を築 きず き、独自 どくじ の宗教 しゅうきょう 観 かん に裏付 うらづ けられた天文学 てんもんがく によって正確 せいかく な暦 こよみ を発明 はつめい していたこと、特 とく に数学 すうがく の分野 ぶんや では、人類 じんるい 史上 しじょう 初 はじ めてゼロ の概念 がいねん を発明 はつめい したといわれる。
最後 さいご のアステカ皇帝 こうてい クアウテモック の胸像 きょうぞう
1519年 ねん にエルナン・コルテス を長 ちょう とする約 やく 500人 にん のスペイン人 じん がメキシコ湾 わん に到達 とうたつ し、トラスカラ王国 おうこく を味方 みかた につけて首都 しゅと テノチティトランまでやってきた。当初 とうしょ 、皇帝 こうてい モクテスマ2世 せい はコルテスを歓迎 かんげい してテノチティトランに住 す まわせた。1520年 ねん に先住民 せんじゅうみん の反乱 はんらん が起 お きると一時 いちじ 撤退 てったい するが、アステカ 帝国 ていこく に圧迫 あっぱく されていたトラスカラ王国 おうこく の助 たす けを得 え て反撃 はんげき した。アステカ側 がわ ではクイトラワク が皇帝 こうてい に立 た てられてモクテスマ2世 せい は殺 ころ されたが、クイトラワクもスペイン人 じん のもたらした天然痘 てんねんとう によって若 わか くして没 ぼっ した。モクテスマ2世 せい のいとこの皇帝 こうてい クアウテモック はコルテスらと戦 たたか ったが、首都 しゅと から船 ふね で脱出 だっしゅつ しようとしたところをコルテス軍 ぐん に捕 つか まり、1521年 ねん 8月 がつ 31日 にち 、アステカ帝国 ていこく は滅亡 めつぼう した。
征服 せいふく 者 しゃ の一人 ひとり 、エルナン・コルテス
アステカ帝国 ていこく が滅亡 めつぼう すると、首都 しゅと テノチティトラン は破壊 はかい され、スペイン式 しき の都市 とし が建設 けんせつ されそれが今 いま のメキシコシティ となった。メヒコはスペインの「ヌエバ・エスパーニャ (新 しん スペイン )副 ふく 王 おう 領 りょう 」の中心 ちゅうしん 地 ち となり、アステカ、マヤ、カリブ海 かりぶかい 島嶼 とうしょ のスペイン植民 しょくみん 地 ち が再編 さいへん された。
スペイン支配 しはい が始 はじ まると、スペイン人 じん が持 も ち込 こ んだ麻疹 ましん や天然痘 てんねんとう などの疫病 えきびょう によって、多 おお くの先住民 せんじゅうみん が命 いのち を落 お とした。さらに、植民 しょくみん 地 ち 当局 とうきょく の苛烈 かれつ な統治 とうち によってメキシコのインディオ人口 じんこう は激減 げきげん し、約 やく 2500万 まん 人 にん いた人口 じんこう が約 やく 100万 まん 人 にん ほどに落 お ち込 こ んだと推測 すいそく されている。この数 かず はアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく を大 おお きく上回 うわまわ る数 かず である。 [要 よう 検証 けんしょう – ノート ] また、インディオ とスペイン人 じん の通 つう 婚 こん も進 すす み、メスティーソ が生 う まれることになった。更 さら にアフリカ から黒人 こくじん 奴隷 どれい が連行 れんこう された。
またスペインの植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい システムはエンコミエンダ制 せい と呼 よ ばれ、植民 しょくみん 者 しゃ に征服 せいふく 地 ち の統治 とうち を委任 いにん する内容 ないよう だったため、恣意 しい 的 てき かつ搾取 さくしゅ 収奪 しゅうだつ 的 てき 統治 とうち が行 おこな われた。また、スペイン人 じん による先住民 せんじゅうみん への苦役 くえき など苛酷 かこく な支配 しはい 、従来 じゅうらい の食糧 しょくりょう 生産 せいさん システムの破壊 はかい による飢餓 きが などが、先住民 せんじゅうみん の死亡 しぼう 率 りつ を高 たか めた。カトリック 司祭 しさい であったバルトロメ・デ・ラス・カサス はこのような事態 じたい を憂慮 ゆうりょ して、スペイン王室 おうしつ へ直訴 じきそ したため、1550年 ねん には「バリャドリード論争 ろんそう 」と呼 よ ばれる植民 しょくみん 地 ち 問題 もんだい に関 かん する一連 いちれん の議論 ぎろん が交 か わされた。
1546年 ねん にサカテカスで銀山 ぎんざん が発見 はっけん されたことを皮切 かわき りに、メキシコでは第 だい 一 いち 次 じ 銀 ぎん ブームが起 お きた。こうして採掘 さいくつ された銀 ぎん はアルト・ペルー (「上 うえ ペルー」の意 い 、現在 げんざい のボリビア に相当 そうとう )のポトシ 鉱山 こうざん と共 とも にスペイン帝国 ていこく の歳入 さいにゅう を支 ささ えたが、ユトレヒト同盟 どうめい (オランダ )と戦争 せんそう を行 おこな うスペイン軍 ぐん の戦費 せんぴ や、スペイン王室 おうしつ と貴族 きぞく の奢侈 しゃし 、そして南米 なんべい のポトシ銀山 ぎんざん から流出 りゅうしゅつ した銀 ぎん とともに太平洋 たいへいよう を渡 わた ってフィリピン 経由 けいゆ で行 おこな われた清 きよし との交易 こうえき (ガレオン貿易 ぼうえき )に決済 けっさい された。このため、銀貨 ぎんか はスペイン本国 ほんごく やフィリピンやアメリカ大陸 あめりかたいりく といったスペイン領内 りょうない で有効 ゆうこう に使 つか われることは少 すく なく、主 おも にイギリス 、オランダ、フランス 、アジア に流出 りゅうしゅつ した。
17世紀 せいき になると人口 じんこう 減少 げんしょう によってインディオ共同 きょうどう 体 たい の多 おお くが崩壊 ほうかい したことと、それによるインディオの疲弊 ひへい により、1631年 ねん にレパルティミエント 制 せい が廃止 はいし された。これにより、クリオージョの地主 じぬし とメスティーソ 、インディオ の小作 こさく 人 じん からなるアシエンダ がメキシコ各地 かくち に誕生 たんじょう した。
18世紀 せいき 半 なか ばにボルボン朝 あさ のカルロス3世 せい によってボルボン改革 かいかく が進 すす められると、農業 のうぎょう 開発 かいはつ やマニュファクチュア が振興 しんこう され、経済 けいざい 開発 かいはつ が進 すす んだ。1767年 ねん にはイエズス会 かい が追放 ついほう された。ボルボン改革 かいかく によってインテンデンテ制 せい が導入 どうにゅう されると官職 かんしょく はガチュピン (ペニンスラール、半島 はんとう すなわちスペイン本国 ほんごく 出身 しゅっしん 者 しゃ を指 さ す)によって独占 どくせん され、クリオージョ による政治 せいじ 参加 さんか は絶望 ぜつぼう 的 てき な状況 じょうきょう になった。
19世紀 せいき 初頭 しょとう にはメキシコは全 ぜん 世界 せかい の銀 ぎん 供給 きょうきゅう 量 りょう の半分 はんぶん 以上 いじょう を供給 きょうきゅう していたが、メスティーソ、インディオ、黒人 こくじん といった大 だい 多数 たすう の人々 ひとびと はほとんどその恩恵 おんけい に浴 よく することができず、深刻 しんこく な貧困 ひんこん に喘 あえ いでいた。
メキシコ独立 どくりつ 戦争 せんそう (1810年 ねん -1821年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
ミゲル・イダルゴ
ホセ・マリア・モレーロス
スペインによる支配 しはい は300年 ねん 続 つづ いたが、18世紀 せいき 後半 こうはん のボルボン改革 かいかく の後 のち にメキシコも啓蒙 けいもう の時代 じだい を迎 むか えると、アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう やフランス革命 かくめい に影響 えいきょう された土着 どちゃく のクリオーリョ たちの間 あいだ に独立 どくりつ の気運 きうん が高 たか まった。1794年 ねん にはフアン・ゲレーロ の陰謀 いんぼう が、1799年 ねん にはマチェーテの陰謀 いんぼう が発覚 はっかく し、こうしたクリオージョによる独立 どくりつ 運動 うんどう は厳 きび しく弾圧 だんあつ された。
1808年 ねん にフランス帝国 ていこく がスペインに侵攻 しんこう し、ナポレオン・ボナパルト は兄 あに のジョゼフ をホセ1世 せい としてスペイン王 おう 位 くらい に就 つ けると、それに反発 はんぱつ する民衆 みんしゅう 蜂起 ほうき を契機 けいき として、スペイン独立 どくりつ 戦争 せんそう が始 はじ まった。イスパノアメリカ植民 しょくみん 地 ち は同 どう 王 おう への忠誠 ちゅうせい を拒否 きょひ し、1809年 ねん にはキト とラパス で、1810年 ねん にはカラカス やブエノスアイレス 、サンティアゴ・デ・チレ 、サンタフェ・デ・ボゴタ で自治 じち を求 もと めるクリオージョがフェルナンド7世 せい への忠誠 ちゅうせい を唱 とな えて植民 しょくみん 地 ち 政府 せいふ から行政 ぎょうせい 権 けん を奪取 だっしゅ しようと反乱 はんらん を起 お こした。メヒコ市 し でも1808年 ねん 8月 がつ にクリオージョ達 たち が副 ふく 王 おう イトゥリガライ を恫喝 どうかつ し、自治 じち を求 もと めて議会 ぎかい を開 ひら いたが、これはガチュピンのクーデターによって破綻 はたん した。
このため、1810年 ねん 9月16日 にち にミゲル・イダルゴ 司祭 しさい によってスペイン打倒 だとう の「ドローレスの叫 さけ び 」が発表 はっぴょう され、メキシコ独立 どくりつ 革命 かくめい が始 はじ まり、長 なが い戦 たたか いの火蓋 ひぶた が切 き られた。当初 とうしょ イダルゴの反乱 はんらん は反 はん スペイン人 じん 反乱 はんらん だったが、インディオ、メスティーソを巻 ま き込 こ んだ大衆 たいしゅう 反乱 はんらん となるうちにクリオージョを含 ふく んだ富裕 ふゆう な白人 はくじん とそれ以外 いがい の階級 かいきゅう 闘争 とうそう となり、クリオージョがイダルゴから離反 りはん した。このため8万 まん 人 にん をも動員 どういん しながらメヒコ市 し の攻略 こうりゃく に失敗 しっぱい し、1811年 ねん 1月 がつ にイダルゴは捕 と らえられ、7月 がつ に反乱 はんらん を指導 しどう したことを悔 く いて処刑 しょけい された。
しかし、イダルゴの部下 ぶか だったメスティーソの神父 しんぷ 、ホセ・マリア・モレーロス は民衆 みんしゅう を率 ひき いて戦 たたか いを継続 けいぞく した。モレーロスはアカプルコ やオアハカ などの主要 しゅよう 都市 とし を攻略 こうりゃく して基盤 きばん を築 きず き、1813年 ねん 11月にチルパンシンゴの議会 ぎかい でメキシコ共和 きょうわ 国 こく の独立 どくりつ を宣言 せんげん し、1814年 ねん 10月 がつ にはアパチンガン憲法 けんぽう を制定 せいてい したが、クリオージョ富裕 ふゆう 層 そう の協力 きょうりょく を得 え ることが出来 でき なかったためにこれは挫折 ざせつ した。ナポレオン戦争 せんそう が終結 しゅうけつ するとスペインはイスパノアメリカの反乱 はんらん の鎮圧 ちんあつ に本腰 ほんごし を入 い れだしたために、スペイン軍 ぐん のアグスティン・デ・イトゥルビデ によってモレーロスは敗 やぶ れ、1815年 ねん 11月に処刑 しょけい された。以後 いご は当初 とうしょ の指導 しどう 者 しゃ たちはほとんど処刑 しょけい され、以後 いご 独立 どくりつ 運動 うんどう はグアダルーペ・ビクトリア やビセンテ・ゲレーロ などが率 ひき いる山間 さんかん 部 ぶ での散発 さんぱつ 的 てき なゲリラ部隊 ぶたい のみとなった。
遥 はる か南 みなみ で解放 かいほう 者 しゃ シモン・ボリーバル やホセ・デ・サン・マルティン が諸国 しょこく を解放 かいほう する中 なか 、黒人 こくじん 、インディオ、メスティーソらの下層 かそう 民衆 みんしゅう による反乱 はんらん を恐 おそ れるペルー 、アルト・ペルー 、キューバ 、プエルトリコ 、中央 ちゅうおう アメリカ 、メキシコ のクリオージョはスペインの絶対 ぜったい 王政 おうせい を維持 いじ しようとしていたが、1820年 ねん にスペイン本国 ほんごく で自由 じゆう 主義 しゅぎ 的 てき なリエゴ革命 かくめい が勃発 ぼっぱつ すると、王 おう 党派 とうは ・保守 ほしゅ 派 は クリオージョは本国 ほんごく で採択 さいたく された自由 じゆう 主義 しゅぎ 憲法 けんぽう に反発 はんぱつ してスペインへの抵抗 ていこう を叫 さけ ぶようになった。この時流 じりゅう を上手 うま くつかんだクリオーリョの軍人 ぐんじん アグスティン・デ・イトゥルビデ がメスティーソやインディオを含 ふく む独立 どくりつ 派 は ゲリラ軍 ぐん と、保守 ほしゅ 的 てき クリオーリョらを、「スペインへの反発 はんぱつ と独立 どくりつ 志向 しこう 」という共通 きょうつう 点 てん でまとめることに成功 せいこう し、副 ふく 王 おう 以下 いか の植民 しょくみん 地 ち 軍 ぐん は屈服 くっぷく した。1821年 ねん にはヌエバ・エスパーニャ副 ふく 王 おう 領 りょう は廃止 はいし され、メキシコは独立 どくりつ を達成 たっせい した。
独立 どくりつ とカウディージョ時代 じだい (1821年 ねん -1861年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
1821年 ねん 9月 がつ 27日 にち イトゥルビデとゲレーロの入城 にゅうじょう
メキシコ史上 しじょう 最大 さいだい のカウディージョ アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ
1821年 ねん 9月27日 にち にアグスティン・デ・イトゥルビデ 将軍 しょうぐん がメヒコ市 し に入城 にゅうじょう し独立 どくりつ を宣言 せんげん した。イトゥルビデはカトリック信徒 しんと の保護 ほご と財産 ざいさん の保護 ほご 、人種 じんしゅ 的 てき 平等 びょうどう を謳 うた った。当初 とうしょ はスペインのフェルナンド7世 せい が国王 こくおう に迎 むか え入 い れられる予定 よてい だったが、フェルナンド7世 せい が拒否 きょひ したために翌年 よくねん 5月 がつ には自 みずか らメキシコ帝国 ていこく 皇帝 こうてい アグスティン1世 せい として即位 そくい した。しかし国家 こっか 運営 うんえい に失敗 しっぱい したため、1823年 ねん にアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ 将軍 しょうぐん が共和 きょうわ 制 せい を支持 しじ して反乱 はんらん を起 お こすと、アグスティン1世 せい は失脚 しっきゃく して退位 たいい し、1824年 ねん 10月にはメキシコ合衆国 がっしゅうこく 憲法 けんぽう が制定 せいてい されてメキシコは連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく となった。また、アグスティン1世 せい は1821年 ねん に中央 ちゅうおう アメリカを併合 へいごう したが、1823年 ねん 3月 がつ に共和 きょうわ 派 は による革命 かくめい で打倒 だとう され、同年 どうねん 中米 ちゅうべい 地域 ちいき が中央 ちゅうおう アメリカ連合 れんごう 州 しゅう として独立 どくりつ した。
1824年 ねん には初代 しょだい 大統領 だいとうりょう にかつての独立 どくりつ 戦争 せんそう の英雄 えいゆう グアダルーペ・ビクトリア が就任 しゅうにん したが、独立 どくりつ 戦争 せんそう による産業 さんぎょう の疲弊 ひへい は激 はげ しく経済 けいざい は壊滅 かいめつ 状態 じょうたい だった上 うえ に、カウディージョ と呼 よ ばれる土着 どちゃく の軍閥 ぐんばつ 政治 せいじ 家 か たちが権力 けんりょく 闘争 とうそう を展開 てんかい し、国政 こくせい は乱 みだ れた。
1827年 ねん にスペインによる再 さい 侵略 しんりゃく の可能 かのう 性 せい に備 そな えてスペイン人 じん を追放 ついほう したため(第 だい 一 いち 次 じ スペイン人 じん 追放 ついほう )、流通 りゅうつう 業 ぎょう を担 にな っていたスペイン人 じん がいなくなるとメキシコの経済 けいざい は大 だい 混乱 こんらん し、1827年 ねん には最初 さいしょ の債務 さいむ 不履行 ふりこう に追 お い込 こ まれた。さらにイトゥルビデ追放 ついほう 後 ご も保守 ほしゅ 派 は と自由 じゆう 主義 しゅぎ 派 は による政権 せいけん 争 あらそ いが激化 げきか し、1829年 ねん に自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ のビセンテ・ゲレーロ がクーデターによって大統領 だいとうりょう になった。ゲレーロはスペイン人 じん の完全 かんぜん 追放 ついほう (第 だい 二 に 次 じ スペイン人 じん 追放 ついほう )、黒人 こくじん 奴隷 どれい 制 せい 廃止 はいし 、教会 きょうかい 財産 ざいさん の接収 せっしゅう 、キューバの独立 どくりつ の支援 しえん などを行 おこな ったため、メキシコの再 さい 植民 しょくみん 地 ち 化 か を目指 めざ したスペイン軍 ぐん による再 さい 征服 せいふく が行 おこな われた。サンタ・アナ将軍 しょうぐん の活躍 かつやく によりスペイン軍 ぐん は撃退 げきたい されたが、1830年 ねん に1月 がつ に保守 ほしゅ 派 は のアナスタシオ・ブスタマンテ 副 ふく 大統領 だいとうりょう が反旗 はんき を翻 ひるがえ し、ゲレーロは追放 ついほう された。
ブスタマンテは大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん 後 ご 、ルカス・アラマン蔵相 ぞうしょう の保護 ほご 貿易 ぼうえき 政策 せいさく によって繊維 せんい 産業 さんぎょう を中心 ちゅうしん とした国内 こくない 工業 こうぎょう の育成 いくせい が進 すす んだが、中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 政策 せいさく は地方 ちほう 諸 もろ 州 しゅう の反発 はんぱつ を呼 よ び、ブスタマンテ政権 せいけん は崩壊 ほうかい した。保守 ほしゅ 政権 せいけん が崩壊 ほうかい すると、1833年 ねん にサンタ・アナが選挙 せんきょ によって大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん した。
一方 いっぽう 、北部 ほくぶ のコアウイラ・イ・テハス州 しゅう には1821年 ねん 以来 いらい アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく からアングロ・サクソン 系 けい の移民 いみん が黒人 こくじん 奴隷 どれい を引 ひ き連 つ れて入植 にゅうしょく していたが、1829年 ねん にゲレーロが奴隷 どれい 制 せい を廃止 はいし すると中央 ちゅうおう 政府 せいふ への不満 ふまん が高 たか まり、その後 ご の中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 政策 せいさく への反対 はんたい もあってアングロ・サクソン移民 いみん が1835年 ねん に反乱 はんらん を起 お こすと、1836年 ねん 3月 がつ にテキサス共和 きょうわ 国 こく として独立 どくりつ を宣言 せんげん し、テキサスにおいて奴隷 どれい 制 せい が復活 ふっかつ した。サンタ・アナ将軍 しょうぐん はアラモの戦 たたか い でアングロ・サクソン の反乱 はんらん 者 しゃ を打 う ち破 やぶ るが、サミュエル・ヒューストン の率 ひき いるテキサス軍 ぐん にサン・ハシントの戦 たたか い で敗 やぶ れ、捕 と らえられたためにメキシコはテハス州 しゅう がテキサスとして独立 どくりつ することを承認 しょうにん した。
テキサスの独立 どくりつ 後 ご 、メキシコは大 だい 混乱 こんらん に陥 おちい った。財政 ざいせい 状況 じょうきょう の悪化 あっか により給与 きゅうよ の遅滞 ちたい が続 つづ いたために軍 ぐん の反乱 はんらん が頻発 ひんぱつ し、さらに地方 ちほう 諸 しょ 州 しゅう がテキサスに倣 なら ってユカタン共和 きょうわ 国 こく やリオグランデ共和 きょうわ 国 こく として独立 どくりつ を宣言 せんげん した。また、列強 れっきょう も混乱 こんらん するメキシコへの介入 かいにゅう を目論 もくろ み、1838年 ねん から1839年 ねん にはフランス軍 ぐん がメキシコに侵攻 しんこう した(菓子 かし 戦争 せんそう )。この戦争 せんそう でサンタ・アナは左足 ひだりあし を失 うしな ったが、救国 きゅうこく の英雄 えいゆう としてのカリスマ性 せい を増幅 ぞうふく し、以降 いこう サンタ・アナのメキシコ国政 こくせい における立場 たちば は不動 ふどう のものとなる。
1847年 ねん のメキシコの版図 はんと
米 べい 墨 ぼく 戦争 せんそう
一方 いっぽう 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく はテキサスに対 たい する野心 やしん を隠 かく さず、1845年 ねん にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく がテキサス共和 きょうわ 国 こく を併合 へいごう すると、1846年 ねん 5月 がつ にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく はメキシコに宣戦 せんせん を布告 ふこく し、米 べい 墨 ぼく 戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ した。サンタ・アナ率 ひき いるメキシコ軍 ぐん は1847年 ねん 9月 がつ にメヒコ市 し を攻略 こうりゃく されて敗北 はいぼく し、1848年 ねん 2月 がつ にグアダルーペ・イダルゴ条約 じょうやく が締結 ていけつ されて戦争 せんそう はメキシコの完敗 かんぱい に終 お わった。メキシコはテキサスのみならずカリフォルニア などリオ・ブラーボ 以北 いほく の領土 りょうど (いわゆるメキシコ割譲 かつじょう 地 ち )をアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく に割譲 かつじょう し、実 じつ に国土 こくど の半分 はんぶん を喪失 そうしつ した。
戦後 せんご 、メキシコは再 ふたた び大 だい 混乱 こんらん に陥 おちい り、1847年 ねん にはユカタン半島 はんとう のマヤ族 ぞく が白人 はくじん 支配 しはい に反旗 はんき を翻 ひるがえ してカスタ戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ した。1853年 ねん にはアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 南部 なんぶ 人 ひと の海賊 かいぞく ウィリアム・ウォーカー が傭兵 ようへい を率 ひき いて侵略 しんりゃく を行 おこな い、バハ・カリフォルニア共和 きょうわ 国 こく を樹立 じゅりつ した。ウォーカーはメキシコでは撃退 げきたい されるが、後 のち にニカラグア を占領 せんりょう し、大統領 だいとうりょう となった。保守 ほしゅ 派 は の大物 おおもの 政治 せいじ 家 か ルカス・アラマンは失脚 しっきゃく していたサンタ・アナをこの混乱 こんらん を収拾 しゅうしゅう できる唯一 ゆいいつ の人物 じんぶつ だと見込 みこ んで、再 ふたた びメキシコに呼 よ び戻 もど した。1853年 ねん 6月 がつ にアラマンが死去 しきょ するとサンタ・アナは再 ふたた び独裁 どくさい 者 しゃ となり、1850年代 ねんだい には失地 しっち の回復 かいふく を目指 めざ すメキシコはイギリス やフランス などの支援 しえん を受 う けて再戦 さいせん 準備 じゅんび を整 ととの えるが、クリミア戦争 せんそう により主要 しゅよう 支援 しえん 国 こく の財政 ざいせい 状態 じょうたい が悪化 あっか したため計画 けいかく 自体 じたい が頓挫 とんざ した。1854年 ねん にはガズデン協定 きょうてい を結 むす んでメシーリャ地方 ちほう をアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく に売却 ばいきゃく した。しかし、サンタ・アナの保守 ほしゅ 支配 しはい は国内 こくない の自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ の反発 はんぱつ を呼 よ び、1855年 ねん 8月 がつ にフアン・アルバレス らによって率 ひき いられた自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ によって追放 ついほう された。
1855年 ねん にサンタ・アナが追放 ついほう され、アルバレスらが臨時 りんじ 政府 せいふ を樹立 じゅりつ すると、臨時 りんじ 政府 せいふ は自由 じゆう 主義 しゅぎ に基 もと づいた「レフォルマ」と呼 よ ばれる改革 かいかく が行 おこな われ、保守 ほしゅ 勢力 せいりょく の後 うし ろ盾 たて となっていたカトリック教会 きょうかい と国家 こっか の政教 せいきょう 分離 ぶんり 、フアレス法 ほう (1855年 ねん )により司法 しほう 制度 せいど の近代 きんだい 化 か が図 はか られ、全 すべ てのメキシコ人 じん の法 ほう の下 した での平等 びょうどう を実現 じつげん し、レルド法 ほう (1856年 ねん )により教会 きょうかい 財産 ざいさん の没収 ぼっしゅう 、さらに自由 じゆう 主義 しゅぎ 的 てき な1857年 ねん 憲法 けんぽう の制定 せいてい などが行 おこな われた。このレフォルマはメキシコ社会 しゃかい に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた え、近代 きんだい 的 てき な価値 かち 観 かん がメキシコにもたらされたことは事実 じじつ だが、反面 はんめん レフォルマは先住民 せんじゅうみん 共同 きょうどう 体 たい の解体 かいたい やカトリック的 てき 価値 かち 観 かん の喪失 そうしつ をも伴 ともな ったため、既存 きそん の保守 ほしゅ 派 は の猛 もう 反発 はんぱつ と共 とも にインディオ農民 のうみん の保守 ほしゅ 派 は への合流 ごうりゅう をも引 ひ き起 お こし、1856年 ねん には全国 ぜんこく 各地 かくち で農民 のうみん と保守 ほしゅ 派 は による大 だい 反乱 はんらん が起 お きていた。
このような情勢 じょうせい の中 なか で1857年 ねん 12月1日 にち に新 しん 憲法 けんぽう 下 か 初 はつ の大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ によって自由 じゆう 主義 しゅぎ 穏健 おんけん 派 は のコモンフォルトが就任 しゅうにん したが、12月17日 にち にスロアガ将軍 しょうぐん がクーデターを起 お こすとコモンフォルトは失脚 しっきゃく した。しかし、ベニート・フアレス 最高裁 さいこうさい 長官 ちょうかん は保守 ほしゅ 派 は への徹底 てってい 抗戦 こうせん を誓 ちか ってアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく に亡命 ぼうめい した後 のち 、ベラクルス に上陸 じょうりく して臨時 りんじ 政府 せいふ を樹立 じゅりつ し、レフォルマ戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ した。
フアレス政府 せいふ は1860年 ねん 12月25日 にち にメヒコ市 し を攻略 こうりゃく したが、戦争 せんそう 中 ちゅう に旧 きゅう 支配 しはい 層 そう は没落 ぼつらく し、新興 しんこう 大 だい 土地 とち 所有 しょゆう 者 しゃ 層 そう が台頭 たいとう した。また、3年 ねん に及 およ んだ内戦 ないせん の際 さい に膨 ふく らんだ有償 ゆうしょう 支援 しえん の返済 へんさい が追 お いつかなくなり、後 ご の債務 さいむ 不履行 ふりこう に繋 つな がることになった。
フランス干渉 かんしょう 戦争 せんそう (1861年 ねん -1867年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
初 はつ の先住民 せんじゅうみん 出身 しゅっしん 大統領 だいとうりょう 、ベニート・フアレス
1861年 ねん 5月 がつ にフアレスは選挙 せんきょ によって正式 せいしき にメキシコの大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん したが、地方 ちほう では保守 ほしゅ 派 は 軍 ぐん がゲリラ化 か して抵抗 ていこう を続 つづ け、さらに財政 ざいせい 状況 じょうきょう も長年 ながねん の混乱 こんらん のため絶望 ぜつぼう 的 てき になっていた。その最中 さいちゅう に英 えい 仏 ふつ は莫大 ばくだい な債務 さいむ 支払 しはら いを要求 ようきゅう したが、メキシコにはもはや支払 しはら い能力 のうりょく がなかったためにフアレスがこれを拒否 きょひ し、7月 がつ 17日 にち に債務 さいむ 不履行 ふりこう を宣言 せんげん すると、イギリス 、フランス 、スペイン は10月31日 にち にメキシコへの武力 ぶりょく 介入 かいにゅう を決定 けってい し、ベラクルスが三 さん 国 こく の軍隊 ぐんたい によって占領 せんりょう された。
1862年 ねん 4月 がつ にイギリスとスペインは撤退 てったい したが、フランス第 だい 二 に 帝国 ていこく のナポレオン3世 せい はメキシコ全土 ぜんど の占領 せんりょう を計画 けいかく していたために英 えい 西 にし 軍 ぐん との撤退 てったい には応 おう じず、フランス外人 がいじん 部隊 ぶたい を含 ふく むフランス軍 ぐん の精鋭 せいえい をベラクルスから中央 ちゅうおう 高原 こうげん に送 おく った。1862年 ねん 5月 がつ 5日 にち にプエブラの会戦 かいせん でメキシコ軍 ぐん はこのフランス軍 ぐん を撃退 げきたい するが、ナポレオン3世 せい はメキシコにおける「カトリック帝国 ていこく 」樹立 じゅりつ という野心 やしん を持 も っており更 さら に増援 ぞうえん 部隊 ぶたい を派遣 はけん し、1863年 ねん 5月 がつ 17日 にち にプエブラが、6月 がつ 10日 とおか にはメヒコ市 し がフランス軍 ぐん によって攻略 こうりゃく された。フアレスは北部 ほくぶ に脱出 だっしゅつ して抵抗 ていこう を続 つづ けたが、フアレス派 は の拠点 きょてん は南部 なんぶ のポルフィリオ・ディアス将軍 しょうぐん が抵抗 ていこう するオアハカ州 しゅう や、北部 ほくぶ のフアレスが指導 しどう する数 すう 州 しゅう のみとなり、若干 じゃっかん の抵抗 ていこう はあったものの戦争 せんそう はフランス軍 ぐん 優勢 ゆうせい で進 すす んだ。
マネ 作 さく の「皇帝 こうてい マクシミリアンの処刑 しょけい 」。マクシミリアン は「顔 かお だけは撃 う たないでくれ」とメキシコ兵 へい に金貨 きんか を配 くば ったが、逆 ぎゃく に狙 ねら い撃 う ちされた。
首都 しゅと が陥落 かんらく するとナポレオン3世 せい はオーストリア=ハンガリー帝国 ていこく 皇帝 こうてい フランツ・ヨーゼフ1世 せい の弟 おとうと マクシミリアン をメキシコ皇帝 こうてい として送 おく り込 こ み、第 だい 二 に 次 じ メキシコ帝国 ていこく が樹立 じゅりつ された。この措置 そち は保守 ほしゅ 派 は のメキシコ人 じん によって支持 しじ されたが、マクシミリアンは信教 しんきょう の自由 じゆう の容認 ようにん 、教会 きょうかい 財産 ざいさん 国有 こくゆう 化 か などの措置 そち により保守 ほしゅ 派 は メキシコ人 じん が離反 りはん した。更 さら に、1865年 ねん に南北戦争 なんぼくせんそう を終結 しゅうけつ させたアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく がフアレス軍 ぐん に物資 ぶっし の供与 きょうよ を始 はじ めると事態 じたい は流動的 りゅうどうてき になり、1866年 ねん フランス軍 ぐん の撤退 てったい が決定 けってい されると後 うし ろ盾 たて を失 うしな った皇帝 こうてい マクシミリアンは自由 じゆう 派 は 軍 ぐん に敗 やぶ れて6月 がつ 19日 にち に銃殺 じゅうさつ され、メキシコ帝国 ていこく は崩壊 ほうかい した。7月13日 にち にディアス将軍 しょうぐん の率 ひき いる自由 じゆう 派 は がメヒコ市 し に入城 にゅうじょう し、7月 がつ 15日 にち にフアレスが帰還 きかん してメキシコに共和 きょうわ 制 せい が復活 ふっかつ した。
復興 ふっこう 共和 きょうわ 制 せい とディアス時代 ときよ (1867年 ねん -1910年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
独裁 どくさい 者 しゃ ポルフィリオ・ディアス
1857年 ねん 憲法 けんぽう を軸 じく に新 あら たに打 う ち建 た てられた復興 ふっこう 共和 きょうわ 国 こく では自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ が主導 しゅどう 権 けん を握 にぎ ることになったが、自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ の中 なか にも文民 ぶんみん と軍人 ぐんじん の二 ふた つのグループが存在 そんざい した。フアレスに代表 だいひょう される文民 ぶんみん は、フアレスを除 のぞ いて概 おおむ ね高等 こうとう 教育 きょういく を受 う けた白人 はくじん であり、理想 りそう 主義 しゅぎ 的 てき な傾向 けいこう を有 ゆう していたが、ディアスに代表 だいひょう される軍人 ぐんじん は概 おおむ ね高 たか い教育 きょういく を受 う けていないメスティーソであり、現実 げんじつ 主義 しゅぎ 的 てき な傾向 けいこう が強 つよ かった。どちらも自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ 達 たち であり、メキシコの近代 きんだい 化 か =西欧 せいおう 化 か を図 はか る点 てん では同 おな じであったが、この差異 さい は近代 きんだい 化 か 政策 せいさく を実行 じっこう する際 さい の手段 しゅだん の差 さ になって顕在 けんざい することになった。
また、この時代 じだい にオーギュスト・コント の実証 じっしょう 主義 しゅぎ がガビノ・バレダ によって導入 どうにゅう され、当時 とうじ のブラジル帝国 ていこく と同様 どうよう に以降 いこう 半 はん 世紀 せいき に渡 わた って実証 じっしょう 主義 しゅぎ は教育 きょういく に影響 えいきょう を持 も ち、実証 じっしょう 主義 しゅぎ 者 しゃ の合言葉 あいことば だった「自由 じゆう と秩序 ちつじょ と進歩 しんぽ 」はメキシコの標語 ひょうご となった。実証 じっしょう 主義 しゅぎ 的 てき な理念 りねん により教育 きょういく はカトリック教会 きょうかい から世俗 せぞく 化 か され、義務 ぎむ 教育 きょういく が導入 どうにゅう され、「野蛮 やばん 」とみなされたメキシコの土着 どちゃく 文化 ぶんか やカトリック的 てき な伝統 でんとう は弾圧 だんあつ され、全 ぜん 国民 こくみん にスペイン語 ご 教育 きょういく と自然 しぜん 科学 かがく 、数学 すうがく 教育 きょういく を通 とお した合理 ごうり 的 てき な人間 にんげん を生 う み出 だ すような教育 きょういく が行 おこな われたが、他方 たほう でこのような姿勢 しせい は非 ひ スペイン語 ご 住民 じゅうみん であるインディオの言語 げんご や文化 ぶんか の弾圧 だんあつ にも繋 つな がった。
マクシミリアン処刑 しょけい 後 ご 、フアレス政権 せいけん は戦争 せんそう によって膨張 ぼうちょう した軍備 ぐんび の削減 さくげん に努 つと め、大 だい 軍縮 ぐんしゅく を実践 じっせん した。経済 けいざい 面 めん ではメキシコにおける資本 しほん 主義 しゅぎ の発展 はってん が目指 めざ され、外国 がいこく 資本 しほん の導入 どうにゅう による国内 こくない 開発 かいはつ が進 すす み、1873年 ねん にはベラクルス=メヒコ市 し 間 あいだ を結 むす ぶ鉄道 てつどう が完成 かんせい し、メキシコの経済 けいざい 空間 くうかん に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えることになった。
1871年 ねん の大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ では現職 げんしょく のフアレスと共 とも に、フアレスの後輩 こうはい であったセバスティアン・レルド・デ・テハーダ とポルフィリオ・ディアス将軍 しょうぐん が立候補 りっこうほ し、フアレスが勝利 しょうり したものの、1872年 ねん 7月 がつ にフアレスが急死 きゅうし したためにレルドが大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん した。しかし、1876年 ねん にはフランス干渉 かんしょう 戦争 せんそう の英雄 えいゆう ポルフィリオ・ディアス 将軍 しょうぐん がレルドの再選 さいせん に反対 はんたい して反乱 はんらん を起 お こし、11月に反乱 はんらん 軍 ぐん は首都 しゅと を攻略 こうりゃく した。ディアス将軍 しょうぐん は1877年 ねん に選挙 せんきょ を行 おこな い、大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん した。
ディアスは議会 ぎかい のレルド派 は や地方 ちほう のカウディージョに特権 とっけん を与 あた えて体制 たいせい に組 く み込 こ むことによって軍事 ぐんじ 独裁 どくさい 体制 たいせい を樹立 じゅりつ し、自身 じしん による統治 とうち のみならず、傀儡 かいらい 大統領 だいとうりょう を据 す えて中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 体制 たいせい を確立 かくりつ することによって、軍事 ぐんじ 力 りょく を背景 はいけい にした「ディアスの平和 へいわ 」とも呼 よ ばれることになるメキシコ史上 しじょう 初 はつ の長期 ちょうき 安定 あんてい を実現 じつげん した。
一方 いっぽう で、ディアスは実証 じっしょう 主義 しゅぎ を信奉 しんぽう するシエンティフィコ (科学 かがく 主義 しゅぎ 者 しゃ )と呼 よ ばれるエリートを登用 とうよう し、権威 けんい 主義 しゅぎ 体制 たいせい の下 した でフアレス政権 せいけん から続 つづ いていた国家 こっか の近代 きんだい 化 か =西欧 せいおう 化 か が推進 すいしん された。
この時期 じき には積極 せっきょく 的 てき な外国 がいこく 資本 しほん の導入 どうにゅう が行 おこな われ、工業 こうぎょう 化 か が進 すす み、銀 ぎん 、銅 どう 、石油 せきゆ の開発 かいはつ を軸 じく に進 すす んだ鉱山 こうざん の開発 かいはつ 、鉄道 てつどう の敷設 ふせつ 、輸出 ゆしゅつ 作物 さくもつ 用 よう のプランテーション の建設 けんせつ などが外国 がいこく 資本 しほん によって行 おこな われ、経済 けいざい は発展 はってん した。特 とく に合衆国 がっしゅうこく 資本 しほん による鉄道 てつどう 建設 けんせつ は目覚 めざま しく、1876年 ねん に600kmであった鉄道 てつどう の総 そう 延長 えんちょう は、1910年 ねん には約 やく 20,000kmに達 たっ した。
こうしてディアスは経済 けいざい の発展 はってん や治安 ちあん の回復 かいふく を実現 じつげん したが、他方 たほう で農村 のうそん 部 ぶ は大 おお きく疲弊 ひへい し、労働 ろうどう 者 しゃ は困窮 こんきゅう した。特 とく に実証 じっしょう 主義 しゅぎ 者 しゃ が信奉 しんぽう した社会 しゃかい ダーウィニズム的 てき な観点 かんてん からインディオやメスティーソの文化 ぶんか への弾圧 だんあつ が進 すす み、更 さら に外国 がいこく 資本 しほん の進出 しんしゅつ による工業 こうぎょう 化 か やプランテーション大 だい 農園 のうえん の成立 せいりつ によって、その多 おお くは奴隷 どれい 的 てき 零細 れいさい 賃金 ちんぎん 労働 ろうどう 者 しゃ としての厳 きび しい生活 せいかつ を強 し いられることになった。このため、インディオの反乱 はんらん や労働 ろうどう 争議 そうぎ が相次 あいつ いだが、それらの殆 ほとん どは軍隊 ぐんたい によって弾圧 だんあつ された。また、1892年 ねん の鉱山 こうざん 法 ほう によって地下 ちか 資源 しげん の国家 こっか 所有 しょゆう の原則 げんそく が見直 みなお されると外国 がいこく 資本 しほん が鉱山 こうざん 開発 かいはつ に殺到 さっとう し、1910年 ねん には国内 こくない の鉱山 こうざん の3/4が外国 がいこく 人 じん の所有 しょゆう となったように、経済 けいざい の体質 たいしつ が非常 ひじょう に従属 じゅうぞく 的 てき かつ脆弱 ぜいじゃく なものになった。
こうして独裁 どくさい 制 せい の下 した での発展 はってん による都市 とし 部 ぶ の人口 じんこう 増加 ぞうか や、社会 しゃかい 矛盾 むじゅん は大 おお きくなり、各地 かくち でゼネストが発生 はっせい するなど、社会 しゃかい 不安 ふあん が増大 ぞうだい した。そして、貧富 ひんぷ の差 さ の拡大 かくだい により窮乏 きゅうぼう する民衆 みんしゅう や社会 しゃかい 不安 ふあん などを背景 はいけい にして、独裁 どくさい 制 せい そのものに経済 けいざい 発展 はってん によって成立 せいりつ した中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう から変革 へんかく の声 こえ が上 あ がり、やがて不満 ふまん は革命 かくめい となって爆発 ばくはつ することになる。
メキシコ革命 かくめい と制度 せいど 的 てき 革命 かくめい 党 とう 体制 たいせい の確立 かくりつ (1910年 ねん -1940年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
フランシスコ・マデーロ
ディアス体制 たいせい は経済 けいざい 拡大 かくだい によってメキシコ史上 しじょう 初 はじ めての長期 ちょうき 安定 あんてい 体制 たいせい を築 きず いたが、他方 たほう では大 だい 多数 たすう の民衆 みんしゅう や労働 ろうどう 者 しゃ は植民 しょくみん 地 ち 時代 じだい 以来 いらい の貧困 ひんこん 状態 じょうたい に置 お かれており、独裁 どくさい 制 せい への不満 ふまん を背景 はいけい に、1906年 ねん に中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう と労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう によってディアス独裁 どくさい の打倒 だとう を目指 めざ すメキシコ自由党 じゆうとう が設立 せつりつ され、失敗 しっぱい に終 お わったものの幾 いく 度 ど かの蜂起 ほうき が起 お きた。
このような不安定 ふあんてい な情勢 じょうせい の中 なか で、1908年 ねん にディアスが1910年 ねん の大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ に出馬 しゅつば しないことを表明 ひょうめい すると、メキシコ有数 ゆうすう の資産 しさん 家 か だったフランシスコ・マデーロ が「公正 こうせい な選挙 せんきょ とディアスの再選 さいせん 阻止 そし 」を掲 かか げて選挙 せんきょ 活動 かつどう を行 おこな い、遂 つい に1910年 ねん 4月 がつ に大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ に立候補 りっこうほ したが、投票 とうひょう 直前 ちょくぜん にマデーロは逮捕 たいほ された。
パンチョ・ビリャ
しかし、マデーロの追放 ついほう と、マデーロ自身 じしん による扇動 せんどう をきっかけにしてメキシコ民衆 みんしゅう によって同年 どうねん 11月 がつ にメキシコ各地 かくち で反乱 はんらん が勃発 ぼっぱつ し、チワワ州 しゅう のパンチョ・ビリャ の反乱 はんらん 軍 ぐん が北部 ほくぶ を掌握 しょうあく すると、1911年 ねん 2月 がつ にマデーロは亡命 ぼうめい 先 さき のアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく から帰国 きこく し、3月には南部 なんぶ のモレーロス州 しゅう からエミリアーノ・サパタ の率 ひき いる反乱 はんらん 軍 ぐん が決起 けっき するなど革命 かくめい はもはや抑 おさ えがたい動 うご きとなってメキシコ全土 ぜんど に波及 はきゅう した。
しかし、マデーロは5月11日 にち にディアス政権 せいけん と和平 わへい 協約 きょうやく を結 むす び、革命 かくめい 運動 うんどう の中止 ちゅうし を布告 ふこく した。1911年 ねん 11月の選挙 せんきょ でマデーロは圧倒的 あっとうてき な支持 しじ を得 え て大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん したが、革命 かくめい 派 は 内部 ないぶ の路線 ろせん の違 ちが いが明 あき らかになった。特 とく に土地 とち 改革 かいかく を求 もと めるサパタ派 は (サパティスタ )は11月25日 にち にアヤラ計画 けいかく を発表 はっぴょう し、メキシコ史上 しじょう 初 はつ の農地 のうち 改革 かいかく を支配 しはい 地 ち で実践 じっせん し、政府 せいふ 軍 ぐん と敵対 てきたい することになった。また、ビクトリアーノ・ウエルタ 将軍 しょうぐん によってパンチョ・ビリャは逮捕 たいほ され、初期 しょき の革命 かくめい 派 は の主要 しゅよう 人物 じんぶつ の殆 ほとん どがマデーロ陣営 じんえい から消 き えると、事態 じたい を収拾 しゅうしゅう できなくなったマデーロ政権 せいけん は1913年 ねん 2月 がつ 9日 にち にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の大使 たいし と結 むす びついたウエルタ将軍 しょうぐん のクーデターによって崩壊 ほうかい し、マデーロ一 いち 派 は は虐殺 ぎゃくさつ された。
ベヌスティアーノ・カランサ
しかし、ウエルタ政権 せいけん はアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のウッドロウ・ウィルソン 政権 せいけん によって不 ふ 承認 しょうにん されたため、コアウイラ州 しゅう のベヌスティアーノ・カランサ やソノーラ州 しゅう のアルバロ・オブレゴン が蜂起 ほうき し、革命 かくめい は第 だい 二 に 段階 だんかい に入 はい った。一方 いっぽう 、北部 ほくぶ のチワワ州 しゅう ではパンチョ・ビリャが亡命 ぼうめい 先 さき のアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく から帰国 きこく し、1914年 ねん にビリャの率 ひき いる北部 ほくぶ 軍 ぐん は北部 ほくぶ を完全 かんぜん に掌握 しょうあく した。また、モレーロス州 しゅう のエミリアーノ・サパタ率 ひき いる南部 なんぶ 軍 ぐん は支配 しはい 地 ち で農地 のうち 改革 かいかく を実践 じっせん し、強力 きょうりょく な基盤 きばん を築 きず いた。ウィルソン政権 せいけん は革命 かくめい 派 は を支援 しえん する目的 もくてき で1914年 ねん 4月 がつ にアメリカ海兵 かいへい 隊 たい をベラクルスに派遣 はけん し、ウエルタ政権 せいけん による海外 かいがい 貿易 ぼうえき を封鎖 ふうさ すると、勝機 しょうき を失 うしな ったウエルタは7月 がつ に亡命 ぼうめい した。
ウエルタ政権 せいけん の崩壊 ほうかい 後 ご 、革命 かくめい 四 よん 派 は 路線 ろせん の違 ちが いから二 に 陣営 じんえい に分 わ かれて対立 たいりつ することになった。1914年 ねん 12月に北部 ほくぶ のビリャと南部 なんぶ のサパタがメヒコ市 し に入城 にゅうじょう し、主導 しゅどう 権 けん を握 にぎ ったが、カランサとオブレゴンはこれに対 たい して共同 きょうどう して戦 たたか いを挑 いど み、1916年 ねん にはカランサによる主導 しゅどう 権 けん が確立 かくりつ した。しかし、大 だい 地主 じぬし 出身 しゅっしん で保守 ほしゅ 的 てき なカランサは対外 たいがい 的 てき には強硬 きょうこう 策 さく を採 と ったものの、内政 ないせい 面 めん では革命 かくめい による社会 しゃかい 改革 かいかく を拒否 きょひ し、これを見 み かねたオブレゴン派 は の急進 きゅうしん 自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ によって1917年 ねん 憲法 けんぽう が制定 せいてい された。
エミリアーノ・サパタ
その後 ご も内戦 ないせん は続 つづ き、カランサは1919年 ねん に騙 だま し討 う ちでサパタを暗殺 あんさつ し、内戦 ないせん を終結 しゅうけつ させて全 ぜん メキシコの支配 しはい 権 けん を確立 かくりつ したが、既 すで に労働 ろうどう 者 しゃ や農民 のうみん の支持 しじ を失 うしな っており、更 さら には同盟 どうめい 者 しゃ だったオブレゴンをも敵 てき に回 まわ したため、1920年 ねん に旧 きゅう サパタ派 は と結 むす んだオブレゴンの反乱 はんらん によってカランサ政権 せいけん は崩壊 ほうかい し、同年 どうねん 5月 がつ 9日 にち にオブレゴンはメヒコ市 し に入城 にゅうじょう した。
オブレゴンはゲリラ戦 せん を続 つづ けていたビリャ派 は を武装 ぶそう 解除 かいじょ し、サパタ派 は が求 もと めていながらカランサ時代 じだい に停滞 ていたい していた農地 のうち 改革 かいかく も再 ふたた び実施 じっし された。1920年 ねん 9月 がつ にオブレゴンは正式 せいしき に選挙 せんきょ を経 へ て同年 どうねん 12月 がつ 1日 にち に大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん した。現在 げんざい 12月 がつ 1日 にち はメキシコの大統領 だいとうりょう の日 ひ となっている。
オブレゴンは農地 のうち 改革 かいかく と軍制 ぐんせい 改革 かいかく を実行 じっこう し、地方 ちほう 軍閥 ぐんばつ をメキシコ連邦 れんぽう 軍 ぐん に統合 とうごう したが、この措置 そち はメキシコ軍 ぐん 内 ない の反対 はんたい に遭 あ い、1923年 ねん にデ・ラ・ウエルタ将軍 しょうぐん が軍 ぐん の約 やく 4割 わり を動員 どういん して反乱 はんらん を起 お こした。オブレゴンは反乱 はんらん 軍 ぐん を破 やぶ ったが、両 りょう 勢力 せいりょく の弾圧 だんあつ によって多 おお くの犠牲 ぎせい 者 しゃ が出 で た。
1924年 ねん に就任 しゅうにん したプルタルコ・エリアス・カリェス はオブレゴンと同様 どうよう にソノーラ州 しゅう の出身 しゅっしん だったが、国家 こっか の非 ひ 宗教 しゅうきょう 化 か 政策 せいさく を進 すす めたためにカトリック教会 きょうかい との対立 たいりつ が強 つよ まり、1927年 ねん 1月 がつ 1日 にち にカトリック信者 しんじゃ の一群 いちぐん が蜂起 ほうき し、クリステロ戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ した。その後 ご 、1928年 ねん にオブレゴンが暗殺 あんさつ されると、1929年 ねん の国民 こくみん 革命 かくめい 党 とう の結成 けっせい を境 さかい にカリェスは黒幕 くろまく として再 ふたた び政界 せいかい に進出 しんしゅつ し、メキシコの政治 せいじ を事実 じじつ 上 じょう 支配 しはい した。
1920年代 ねんだい はオブレゴンを初 はじ めとしてソノーラ州 しゅう 出身 しゅっしん 者 しゃ によって大統領 だいとうりょう 職 しょく が独占 どくせん され、再建 さいけん 期 き と呼 よ ばれることになった。この時期 じき にメキシコの民族 みんぞく 意識 いしき の高揚 こうよう や、地方 ちほう 軍閥 ぐんばつ の統合 とうごう 、経済 けいざい の再建 さいけん 、農地 のうち 改革 かいかく が進 すす み、ニカラグア でのサンディーノ戦争 せんそう ではアメリカ海兵 かいへい 隊 たい と戦 たたか うサンディーノ を支援 しえん するなど独自 どくじ 外交 がいこう も続 つづ いたが、1929年 ねん の世界 せかい 恐慌 きょうこう 勃発 ぼっぱつ 後 ご には、革命 かくめい 政権 せいけん は右傾 うけい 化 か し、腐敗 ふはい の様相 ようそう を帯 お び始 はじ めていた。
ラサロ・カルデナス
1934年 ねん にカルデナス 政権 せいけん が成立 せいりつ した。当初 とうしょ カルデナスはカリェスの傀儡 かいらい 政権 せいけん としての色彩 しきさい が強 つよ かったが、1935年 ねん 6月 がつ に民衆 みんしゅう の支持 しじ を背景 はいけい にカリェスをアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく に追放 ついほう し、カリェス派 は は政治 せいじ から排除 はいじょ された。カリェス派 は の追放 ついほう 後 ご 、カルデナスは革命 かくめい 後 ご 停滞 ていたい していた農地 のうち 改革 かいかく や、労働 ろうどう 者 しゃ 保護 ほご 、軍制 ぐんせい 改革 かいかく を行 おこな い、さらにボリビア に次 つ いでラテンアメリカ二 に 番目 ばんめ となるアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 資本 しほん の鉄道 てつどう や石油 せきゆ 会社 かいしゃ の国有 こくゆう 化 か を断行 だんこう し、1940年 ねん にはメキシコ石油 せきゆ 公社 こうしゃ が設立 せつりつ され、国民 こくみん 経済 けいざい の確立 かくりつ に努 つと めた。また、文化 ぶんか 面 めん ではインディヘニスモ の称揚 しょうよう や、国立 こくりつ 工業 こうぎょう 大学 だいがく の設立 せつりつ が行 おこな われた。スペイン内戦 ないせん に対 たい しては共和 きょうわ 派 は を支援 しえん して政治 せいじ 亡命 ぼうめい 者 しゃ を多数 たすう 受 う け入 い れ、ソビエト連邦 れんぽう から追放 ついほう されたレフ・トロツキー の亡命 ぼうめい をも受 う け入 い れるなど自主 じしゅ 外交 がいこう が進 すす み、カルデナス政権 せいけん 期 き にメキシコ革命 かくめい は一 ひと つの完成 かんせい を遂 と げた。
文化 ぶんか 面 めん では、革命 かくめい 後 ご の民族 みんぞく 意識 いしき の高揚 こうよう と共 とも に初代 しょだい 教育 きょういく 相 しょう ホセ・バスコンセロス によってメキシコ壁画 へきが 運動 うんどう が推進 すいしん され、バスコンセロスの発表 はっぴょう した『宇宙 うちゅう 的 てき 人種 じんしゅ 』(1925年 ねん )によってメキシコの国民 こくみん 意識 いしき の起源 きげん をインディヘナに求 もと めるインディヘニスモ 運動 うんどう が確立 かくりつ した。
1940年 ねん に成立 せいりつ したマヌエル・アビラ・カマチョ 政権 せいけん は、カルデナス政権 せいけん 期 き に悪化 あっか した資本 しほん 家 か 、地主 じぬし 、カトリック教会 きょうかい 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく との関係 かんけい 改善 かいぜん に努 つと めた。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 期 き の1942年 ねん 5月 がつ 、メキシコの領土 りょうど への攻撃 こうげき ではなく、メキシコのタンカー「ポトレロ・デ・リャノ(en:SS Potrero del Llano )」が13日 にち に、「ファハ・デ・オロ(en:SS Faja de Oro )」が20日 はつか に、ナチス・ドイツ のUボート (それぞれU-564とU-106)によって沈 しず められたことから、22日 にち メキシコはナチス・ドイツ、大日本帝国 だいにっぽんていこく およびイタリア王国 おうこく に宣戦 せんせん 布告 ふこく し、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に参戦 さんせん した。太平洋戦争 たいへいようせんそう には空軍 くうぐん の一部 いちぶ を派遣 はけん してフィリピンの戦 たたか い で日本 にっぽん 軍 ぐん と交戦 こうせん している。ラテンアメリカ 諸国 しょこく ではメキシコとブラジル だけがドイツ及 およ び日本 にっぽん と海外 かいがい で戦 たたか うために軍隊 ぐんたい を派遣 はけん した。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご のメキシコは順調 じゅんちょう な経済 けいざい 成長 せいちょう を見 み せ、政権 せいけん も制度 せいど 的 てき 革命 かくめい 党 とう (PRI)政権 せいけん によって文民 ぶんみん 統治 とうち が維持 いじ された。1946年 ねん にはメキシコ革命 かくめい 党 とう が制度 せいど 的 てき 革命 かくめい 党 とう (PRI)に再編 さいへん され、メキシコにおけるコーポラティズム (組合 くみあい 主義 しゅぎ )国家 こっか 体制 たいせい が完成 かんせい した。
こうして成立 せいりつ したコーポラティズム体制 たいせい は、それまでの革命 かくめい 路線 ろせん を修正 しゅうせい して労働 ろうどう 者 しゃ や農民 のうみん よりも資本 しほん 家 か や大 だい 地主 じぬし に重点 じゅうてん を移 うつ しながら経済 けいざい 開発 かいはつ を進 すす めていった。1950年代 ねんだい から1970年代 ねんだい までの間 あいだ 、他 た のラテンアメリカ諸国 しょこく ではクーデター が頻発 ひんぱつ し、軍事 ぐんじ 独裁 どくさい 政権 せいけん が数多 かずおお く誕生 たんじょう していったが、メキシコは文民 ぶんみん 統治 とうち 体制 たいせい を維持 いじ しながら「メキシコの奇跡 きせき 」と呼 よ ばれる高度 こうど 経済 けいざい 成長 せいちょう を達成 たっせい 、1968年 ねん にはラテンアメリカ地域 ちいき 初 はつ の近代 きんだい オリンピック であるメキシコシティオリンピック を開催 かいさい している。他方 たほう この時期 じき は外交 がいこう において親 おや 西側 にしがわ 諸国 しょこく の立場 たちば から親米 しんべい 政策 せいさく を維持 いじ しながらも、キューバ革命 かくめい 後 ご のキューバ に対 たい する米州 べいしゅう 機構 きこう による制裁 せいさい の反対 はんたい や、日本 にっぽん 、ユーゴスラヴィア 、インド 、インドネシア 、カナダ といった新興 しんこう 国 こく との関係 かんけい 拡大 かくだい などに努 つと めた。
しかし、経済 けいざい 発展 はってん による格差 かくさ の拡大 かくだい や、隣国 りんごく アメリカに比 くら べ自由 じゆう の制約 せいやく されたメキシコに不満 ふまん を持 も つ者 もの がこの時期 じき に学生 がくせい や知識 ちしき 層 そう から出現 しゅつげん する。1968年 ねん のメキシコシティオリンピック直前 ちょくぜん には、反 はん 政府 せいふ デモ隊 たい を軍隊 ぐんたい によって弾圧 だんあつ し300人 にん もの死者 ししゃ を出 だ したトラテロルコ事件 じけん や、1971年 ねん 6月 がつ 10日 とおか の「血 ち の木曜日 もくようび 事件 じけん 」など、体制 たいせい による強権 きょうけん 的 てき な反対 はんたい 運動 うんどう の弾圧 だんあつ が進 すす むにつれ、徐々 じょじょ にPRI体制 たいせい 下 か での近代 きんだい 化 か の歪 ゆが みが露 あら わになっていった。
1970年 ねん に成立 せいりつ したルイス・エチェベリア 政権 せいけん は政治 せいじ への不満 ふまん を和 やわ らげるため、政治 せいじ 犯 はん の釈放 しゃくほう を行 おこな った。対外 たいがい 的 てき には資源 しげん ナショナリズム前面 ぜんめん に出 だ した積極 せっきょく 的 てき な第 だい 三 さん 世界 せかい 外交 がいこう を行 おこな い、従来 じゅうらい よりも更 さら にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく や西側 にしがわ 世界 せかい とは一線 いっせん を画 かく した外交 がいこう 路線 ろせん を採 と ったが、政権 せいけん 末期 まっき には対外 たいがい 債務 さいむ が276億 おく ドルにまで膨張 ぼうちょう した。
クアウテモク・カルデナス
1976年 ねん に成立 せいりつ したホセ・ロペス・ポルティーヨ 政権 せいけん は、前 ぜん 政権 せいけん 以来 いらい の経済 けいざい 危機 きき を克服 こくふく するために国際 こくさい 通貨 つうか 基金 ききん (IMF)の勧告 かんこく を受 う け入 い れ、労働 ろうどう 者 しゃ の賃金 ちんぎん 抑制 よくせい や緊縮 きんしゅく 政策 せいさく を採 と り、さらには石油 せきゆ ブームの助 たす けもあって一時 いちじ 的 てき に経済 けいざい 危機 きき を回避 かいひ した。内政 ないせい 面 めん では政治 せいじ 改革 かいかく を行 おこな い、国会 こっかい の議席 ぎせき 定数 ていすう を増 ふ やしたほか、比例 ひれい 代表 だいひょう 制 せい の導入 どうにゅう 、極左 きょくさ ・極右 きょくう 政党 せいとう の認可 にんか を行 おこな い、反 はん 政府 せいふ 派 は の不満 ふまん の解消 かいしょう を図 はか った。外交 がいこう 面 めん ではエチェベリーア以来 いらい の第 だい 三 さん 世界 せかい 外交 がいこう を継続 けいぞく し、南北 なんぼく 問題 もんだい を議論 ぎろん する初 はつ の南北 なんぼく サミット(英語 えいご 版 ばん ) を主催 しゅさい した他 ほか 、第 だい 一 いち 次 じ ニカラグア内戦 ないせん に際 さい してはソモサ王朝 おうちょう と戦 たたか うサンディニスタ民族 みんぞく 解放 かいほう 戦線 せんせん (FSLN)への全面 ぜんめん 的 てき な支持 しじ を表明 ひょうめい した。しかし、石油 せきゆ に依存 いぞん した経済 けいざい の脆弱 ぜいじゃく さは隠 かく し難 がた く、1982年 ねん には876億 おく ドルを超 こ える累積 るいせき 債務 さいむ 問題 もんだい が表面 ひょうめん 化 か し、メキシコの国民 こくみん 経済 けいざい は危機 きき に直面 ちょくめん した。
通貨 つうか 危機 きき の中 なか で行 おこな われた選挙 せんきょ により、1982年 ねん にPRIからデ・ラ・マドリ が大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん した。デ・ラ・マドリは国際 こくさい 通貨 つうか 基金 ききん (IMF)の勧告 かんこく に従 したが って緊縮 きんしゅく 財政 ざいせい の続行 ぞっこう やペソの切 き り下 さ げを行 おこな い、新 しん 自由 じゆう 主義 しゅぎ 化 か によって財政 ざいせい の健全 けんぜん 化 か を目指 めざ したが、その代償 だいしょう に国民 こくみん 生活 せいかつ は窮乏 きゅうぼう した。1986年 ねん にメキシコの債務 さいむ は1,000億 おく ドルを越 こ えた。外交 がいこう 面 めん ではコンタドーラ・グループ を結成 けっせい し、エルサルバドル内戦 ないせん 、第 だい 二 に 次 じ ニカラグア内戦 ないせん の停戦 ていせん に力 ちから を注 そそ ぎ、同時 どうじ にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく との関係 かんけい 改善 かいぜん も行 おこな った。
1988年 ねん の大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ は、PRIから分離 ぶんり して国民 こくみん 民主 みんしゅ 戦線 せんせん (FDN)を結成 けっせい したクアウテモク・カルデナス とPRIのカルロス・サリーナス・デ・ゴルタリ の一 いち 騎 き 討 う ち となり、50.36%の得票 とくひょう で辛 かろ うじてサリーナスが勝利 しょうり したが、史上 しじょう かつてないほどのPRIの低 てい 得票 とくひょう 率 りつ に加 くわ え、クアウテモク・カルデナスのように党内 とうない からも離反 りはん 者 しゃ が相次 あいつ ぐなど、PRI一 いち 党 とう 制 せい の限界 げんかい は誰 だれ の目 め にも明 あき らかになっていた。サリーナス政権 せいけん 下 か では、原油 げんゆ 価格 かかく の上昇 じょうしょう が産油 さんゆ 国 こく メキシコの追 お い風 かぜ となり、経済 けいざい は堅調 けんちょう を維持 いじ した。サリーナス政権 せいけん は「サリーナス革命 かくめい 」を掲 かか げながらも社会 しゃかい 改革 かいかく よりも経済 けいざい 開発 かいはつ を優先 ゆうせん して前 ぜん 政権 せいけん 以来 いらい の新 しん 自由 じゆう 主義 しゅぎ を推進 すいしん し、1992年 ねん に憲法 けんぽう を改正 かいせい して共有 きょうゆう 農場 のうじょう たるエヒード の廃止 はいし と、農地 のうち 利用 りよう の市場 いちば 経済 けいざい 化 か を推進 すいしん し、ここにメキシコ革命 かくめい の理念 りねん の一 ひと つだった農地 のうち 改革 かいかく の精神 せいしん は失 うしな われた。
サパティスタ国民 こくみん 解放 かいほう 軍 ぐん のマルコス副 ふく 司令 しれい 官 かん
さらにサリーナスは市場 いちば 原理 げんり に基 もと づいてメキシコとアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の経済 けいざい 統合 とうごう を進 すす め、1992年 ねん にはアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 、及 およ びカナダ と北米 ほくべい 自由 じゆう 貿易 ぼうえき 協定 きょうてい (NAFTA)を締結 ていけつ したが、NAFTAは先住民 せんじゅうみん や農民 のうみん の生活 せいかつ 基盤 きばん を破壊 はかい する性質 せいしつ を持 も っていたため、NAFTA発効 はっこう の1994年 ねん 1月 がつ 1日 にち に最 さい 南部 なんぶ のチアパス州 しゅう からマヤ 系 けい インディオを主体 しゅたい としたサパティスタ国民 こくみん 解放 かいほう 軍 ぐん (EZLN)がインディオの生活 せいかつ 基盤 きばん やメキシコの農業 のうぎょう を破壊 はかい するNAFTA発効 はっこう に抗議 こうぎ して武装 ぶそう 蜂起 ほうき し、近代 きんだい 以降 いこう のメキシコのあり方 かた の根本 こんぽん に異議 いぎ を唱 とな えた。サリーナス政権 せいけん 末期 まっき の同年 どうねん 3月 がつ には大統領 だいとうりょう 候補 こうほ のルイス・ドナルド・コロシオ が暗殺 あんさつ され、国民 こくみん の政治 せいじ 不信 ふしん は一層 いっそう 深 ふか まることになった。
大統領 だいとうりょう 候補 こうほ の暗殺 あんさつ 直後 ちょくご に行 おこな われた1994年 ねん の大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ では、コロシオに代 か わって選出 せんしゅつ されたPRI候補 こうほ のエルネスト・セディージョ が大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん したが、セディージョは就任 しゅうにん 直後 ちょくご からサリーナス前 ぜん 政権 せいけん の汚職 おしょく や、EZLNの蜂起 ほうき への対応 たいおう に追 お われることとなった。経済 けいざい の停滞 ていたい は如何 いか ともし難 がた く、1994年 ねん 12月 がつ 20日 はつか にはヘッジファンド によって通貨 つうか 危機 きき (テキーラ・ショック )が勃発 ぼっぱつ した。1996年 ねん には中 ちゅう 米 べい 自由 じゆう 貿易 ぼうえき 圏 けん の設立 せつりつ の運 はこ びとなった。一方 いっぽう EZLNとの関係 かんけい では、1996年 ねん 2月 がつ にサン・アンドレス合意 ごうい が締結 ていけつ されたが、以降 いこう 交渉 こうしょう の進展 しんてん はなく、1997年 ねん にはメキシコ軍 ぐん の支援 しえん する準 じゅん 軍事 ぐんじ 組織 そしき によってチアパス州 しゅう のインディオ虐殺 ぎゃくさつ 事件 じけん が発生 はっせい した。
2000年 ねん の大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ で国民 こくみん 行動 こうどう 党 とう (PAN)から出馬 しゅつば したビセンテ・フォックス・ケサーダ が勝利 しょうり すると、前身 ぜんしん となった国民 こくみん 革命 かくめい 党 とう 設立 せつりつ 以来 いらい 71年間 ねんかん 続 つづ いたメキシコの一 いち 党 とう 独裁 どくさい 体制 たいせい は終焉 しゅうえん を迎 むか えた。
制度 せいど 的 てき 革命 かくめい 党 とう 一 いち 党 とう 体制 たいせい 崩壊 ほうかい 以降 いこう のメキシコ(2000年 ねん - )[ 編集 へんしゅう ]
革命 かくめい 後 ご 初 はつ の非 ひ PRI系 けい 大統領 だいとうりょう ビセンテ・フォックス・ケサーダ
フォックス政権 せいけん 誕生 たんじょう によりPRI一 いち 党 とう 体制 たいせい は崩壊 ほうかい したが、フォックス政権 せいけん 下 か でも国民 こくみん の所得 しょとく 向上 こうじょう やEZLNとの交渉 こうしょう は進展 しんてん しなかった。
2006年 ねん の大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ では国民 こくみん 行動 こうどう 党 とう (PAN)、制度 せいど 的 てき 革命 かくめい 党 とう 、民主革命党 みんしゅかくめいとう (PRD)の三 さん 党 とう の候補 こうほ が入 い り乱 みだ れた選挙 せんきょ 戦 せん が展開 てんかい され、PANのフェリペ・カルデロン がPRDのアンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドール を僅差 きんさ で破 やぶ って大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん した。