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メキシコの歴史れきし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

この項目こうもくでは、メキシコ合衆国がっしゅうこく歴史れきしについて記述きじゅつする。現在げんざいのメキシコに相当そうとうする地域ちいきには2まんねん以上いじょうまえ人類じんるい進出しんしゅつし、高度こうど文明ぶんめいきずいた。しかし16世紀せいきスペイン進出しんしゅつしてくると植民しょくみんされ、きびしい収奪しゅうだつおこなわれた。18世紀せいきすえヨーロッパ革命かくめい相次あいつぐと、メキシコでもメキシコ独立どくりつ革命かくめいこり独立どくりつたした。その帝政ていせい連邦れんぽう共和きょうわせい対外たいがい戦争せんそうディアス独裁どくさいなど動乱どうらんて、1910ねんから1918ねんまでつづいたメキシコ革命かくめい動乱どうらんにより近代きんだいてき国家こっか実現じつげんした。革命かくめい制度せいどてき革命かくめいとう(PRI)の長期ちょうき政権せいけんした近代きんだい経済けいざい開発かいはつすすめられたが、20世紀せいき後半こうはんまでにPRIは様々さまざま社会しゃかい矛盾むじゅん蓄積ちくせきし、2000ねん選挙せんきょでPRIは下野げやした。

先史せんし時代じだい

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現在げんざいのメキシコにたる地域ちいきでは2まんねんまえ遺跡いせき発見はっけんされており、それ以前いぜんから人間にんげんんでいたとかんがえられている。マンモスなどの狩猟しゅりょうおよび採集さいしゅう生活せいかつをしていたが(この時代じだいを、パレオ=インディアン;Paleoindian period / stage 、しくはいし Lithic Period / stage という)、紀元前きげんぜん8000ねんころトウモロコシ農耕のうこうはじまった。農耕のうこう開始かいしされた時代じだいいにしえ (archic period / stage) という。

さきコロンブス

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オルメカサン・ロレンソ巨石きょせき人頭じんとうぞう

紀元前きげんぜん2300ねんには最初さいしょ土器どきつくられた。これ以後いご形成けいせい (Formative period / stage) しくはさき古典こてん (Preclassic period / stage) という。メソアメリカ研究けんきゅう最近さいきん傾向けいこうとしては、さき古典こてん区分くぶんめいもちいる研究けんきゅうしゃ優勢ゆうせいになっている。

さき古典こてん中期ちゅうき紀元前きげんぜん1300ねんころ、メキシコ湾岸わんがん中心ちゅうしんオルメカ文明ぶんめいおこった。オルメカの人々ひとびとは、自然しぜん丘陵きゅうりょう利用りようしてサン・ロレンソベラクルスしゅう)、のちラ・ベンタタバスコしゅう)という祭祀さいしセンター(神殿しんでん)をきずいた。オルメカ文明ぶんめいは、かれらの支配しはいしゃ容貌ようぼうきざんだとされているネグロイドてき風貌ふうぼう巨石きょせき人頭じんとうぞうられる。一方いっぽうさき古典こてん後期こうきになると、ユカタン半島はんとう北部ほくぶにコムチェン、ジビルチャルトゥンカンペチェしゅうにもカラクムルなどいくつかのマヤ文明ぶんめい祭祀さいしセンターがきずかれた。

モンテ=アルバン「中央ちゅうおう広場ひろば

オアハカしゅうでは、盆地ぼんち北部ほくぶ有力ゆうりょくセンター、サン・ホセ・モゴテ支配しはいしゃたちが、盆地ぼんち中央ちゅうおう小高こだかおかモンテ・アルバン神殿しんでん都市としきずいた。モンテ・アルバンのさかんな征服せいふく戦争せんそう勝利しょうりは、「ダンサンテ」とばれるレリーフの捕虜ほりょたちの姿すがたあらわされている。また、モンテ・アルバンには、さき古典こてん中期ちゅうきすで260にちこよみ使用しようしていたことが石碑せきひきざまれている。

テオティワカンの中心ちゅうしん

さき古典こてんわりころになるとメキシコ中央ちゅうおう高原こうげんテスココ南方なんぽうに、円形えんけいだいピラミッドでられるクィクィルコ東方とうほうテオティワカンきょ大都市だいとしきずかれた。クィクィルコが紀元前きげんぜんにシトレ火山かざん噴火ふんかによって壊滅かいめつてき打撃だげきけると、テオティワカンの優位ゆうい決定的けっていてきとなり、たちまちのうちにその経済けいざいりょく軍事ぐんじりょくでメソアメリカ全域ぜんいき間接かんせつてき支配しはいした。そのちからは、とおグアテマラペテン低地ていちワシャクトゥンティカル支配しはいするしん王朝おうちょうきずいたことによくあらわれている。また、モンテ・アルバンのみなみ基壇きだんにある石碑せきひレリーフにもテオティワカンからの使者ししゃ来訪らいほうしたことがきざまれている。両者りょうしゃ友好ゆうこう関係かんけいにあったとかんがえられている。なお、メキシコ湾岸わんがんでは、トトナカぞくエル・タヒンやマヤ文明ぶんめい同様どうよう長期ちょうきれきもちいたセロ・デ・ラス・メーサス独自どくじ発展はってんしめした。

パレンケ

紀元きげん250ねんないし300ねんころから古典こてん (Classic period / stage) がはじまる。この時期じき、グアテマラのペテン低地ていちおよびその周辺しゅうへんにあるマヤ文明ぶんめい著名ちょめいなセンターが全盛ぜんせいきわめるが、それらのセンターのうち、ティカルとはげしくあらそったのがカンペチェしゅうにある「カーン王朝おうちょう」の首都しゅとカラクムルであった。一方いっぽうチャパスしゅうにある「ラカムハ」というられる都市としパレンケは、ティカルの同盟どうめいしゃであったとかんがえられている。

トゥーラ、ピラミッドBの基壇きだんじょうにある戦士せんしぞう

メキシコ中央ちゅうおう高原こうげんでは、7世紀せいきころ、テオティワカンが破壊はかいされ、トゥーラとばれる群小ぐんしょう都市とし国家こっかぐん割拠かっきょした。そのうち有力ゆうりょくなのは、中央ちゅうおう高原こうげん南側みなみがわ位置いちするショチカルコ北側きたがわ位置いちするイダルゴしゅうトゥーラ・シココティトランであった。トゥーラ・シココテイトランは、文献ぶんけんのトゥーラにほぼ同定どうていされることからトルテカ帝国ていこくせつしたほどのちからをもっていた有力ゆうりょくなトゥーラであった。一方いっぽう、テオティワカン崩壊ほうかい、マヤのセンターは一時いちじてき繁栄はんえいするが、やがて戦争せんそう乱伐らんばつによる食糧しょくりょう不足ふそく気候きこう変化へんか疫病えきびょう交易こうえき変化へんかなどふくあいてき要素ようそによって疲弊ひへいし、9世紀せいきころ崩壊ほうかいしていく。これ以後いごからスペインじんによる征服せいふくまでの時期じきこう古典こてん (Postclassic period / stage) とぶ。

ウシュマルの尼僧にそういん典型てんけいてきなプウク様式ようしき建物たてもの

ユカタン半島はんとうでは、チョンタルじんではないかとかんがえられる「プトゥン商人しょうにんによるユカタン半島はんとう沿岸えんがんでの交易こうえき活動かつどうさかんとなり、ユカタン半島はんとう北部ほくぶチチェン・イッツァマヤパンウシュマルなどの都市とし国家こっかがその恩恵おんけいけて繁栄はんえいした。ユカタン半島はんとう北部ほくぶには、古典こてん終末しゅうまつからこの時期じきにかけて、前述ぜんじゅつのウシュマルのほかに、ラブナー、カバー、サイールなどの都市とし国家こっかないしは祭祀さいしセンターがきずかれ、プウク様式ようしきられる優美ゆうび建築けんちくぶつてられた。「プトゥン」商人しょうにんたちは、コスメルとうイシュ・チェル女神めがみの「神託しんたくしょ」をきずいたため、コスメルとう繁栄はんえいしていた。

メンドーサ・コデックス最初さいしょのページ

メキシコ中央ちゅうおう高原こうげんには、気候きこう寒冷かんれいによって、北方ほっぽうからチチメカじん侵略しんりゃく開始かいしされる。そのためにおおくのトゥーラぐん破壊はかいされたり征服せいふくされたりした。14世紀せいき後半こうはんテスココ西岸せいがんにあるアスカポツァルコ首都しゅととするテパネカ王国おうこくテソソモクという英傑えいけつがあらわれ、その傭兵ようへい部隊ぶたいだったアステカぞくは、テソソモクぼつ、15世紀せいき前半ぜんはんテスココトラコパンとともにさん都市とし同盟どうめいきずき、テスココの名君めいくんネサワルコヨトル死後しごは、完全かんぜんにリーダーシップをにぎってアステカ帝国ていこく形成けいせいする。アステカは、ベラクルスしゅうからゲレーロしゅうまでの一帯いったいオアハカしゅう一部いちぶと、ソコヌスコばれるチャパスしゅう太平洋たいへいようがんまでの地域ちいき征服せいふくする空前くうぜん版図はんとほこ帝国ていこく形成けいせいしていた。一方いっぽうミチョアカンしゅうには、ツィンツンツァンとするタラスカ王国おうこくがあり、アステカ帝国ていこくいちゆずらぬちからほこっていた。これら、メキシコに繁栄はんえいした古代こだい文明ぶんめいは、ピラミッドがた神殿しんでん都市としきずき、独自どくじ宗教しゅうきょうかん裏付うらづけられた天文学てんもんがくによって正確せいかくこよみ発明はつめいしていたこと、とく数学すうがく分野ぶんやでは、人類じんるい史上しじょうはじめてゼロ概念がいねん発明はつめいしたといわれる。

スペインじんによる征服せいふく

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最後さいごのアステカ皇帝こうていクアウテモック胸像きょうぞう

1519ねんエルナン・コルテスちょうとするやく500にんのスペインじんメキシコわん到達とうたつし、トラスカラ王国おうこく味方みかたにつけて首都しゅとテノチティトランまでやってきた。当初とうしょ皇帝こうていモクテスマ2せいはコルテスを歓迎かんげいしてテノチティトランにまわせた。1520ねん先住民せんじゅうみん反乱はんらんきると一時いちじ撤退てったいするが、アステカ帝国ていこく圧迫あっぱくされていたトラスカラ王国おうこくたすけを反撃はんげきした。アステカがわではクイトラワク皇帝こうていてられてモクテスマ2せいころされたが、クイトラワクもスペインじんのもたらした天然痘てんねんとうによってわかくしてぼっした。モクテスマ2せいのいとこの皇帝こうていクアウテモックはコルテスらとたたかったが、首都しゅとからふね脱出だっしゅつしようとしたところをコルテスぐんつかまり、1521ねん8がつ31にち、アステカ帝国ていこく滅亡めつぼうした。

スペイン植民しょくみん時代じだい

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征服せいふくしゃ一人ひとりエルナン・コルテス

アステカ帝国ていこく滅亡めつぼうすると、首都しゅとテノチティトラン破壊はかいされ、スペインしき都市とし建設けんせつされそれがいまメキシコシティとなった。メヒコはスペインの「ヌエバ・エスパーニャしんスペインふくおうりょう」の中心ちゅうしんとなり、アステカ、マヤ、カリブ海かりぶかい島嶼とうしょのスペイン植民しょくみん再編さいへんされた。

スペイン支配しはいはじまると、スペインじんんだ麻疹ましん天然痘てんねんとうなどの疫病えきびょうによって、おおくの先住民せんじゅうみんいのちとした。さらに、植民しょくみん当局とうきょく苛烈かれつ統治とうちによってメキシコのインディオ人口じんこう激減げきげんし、やく2500まんにんいた人口じんこうやく100まんにんほどにんだと推測すいそくされている。このかずアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくおおきく上回うわまわかずである。[よう検証けんしょう]また、インディオとスペインじんつうこんすすみ、メスティーソまれることになった。さらアフリカから黒人こくじん奴隷どれい連行れんこうされた。

またスペインの植民しょくみん支配しはいシステムはエンコミエンダせいばれ、植民しょくみんしゃ征服せいふく統治とうち委任いにんする内容ないようだったため、恣意しいてきかつ搾取さくしゅ収奪しゅうだつてき統治とうちおこなわれた。また、スペインじんによる先住民せんじゅうみんへの苦役くえきなど苛酷かこく支配しはい従来じゅうらい食糧しょくりょう生産せいさんシステムの破壊はかいによる飢餓きがなどが、先住民せんじゅうみん死亡しぼうりつたかめた。カトリック司祭しさいであったバルトロメ・デ・ラス・カサスはこのような事態じたい憂慮ゆうりょして、スペイン王室おうしつ直訴じきそしたため、1550ねんには「バリャドリード論争ろんそう」とばれる植民しょくみん問題もんだいかんする一連いちれん議論ぎろんわされた。

1546ねんにサカテカスで銀山ぎんざん発見はっけんされたことを皮切かわきりに、メキシコではだいいちぎんブームがきた。こうして採掘さいくつされたぎんアルト・ペルー(「うえペルー」の現在げんざいボリビア相当そうとう)のポトシ鉱山こうざんともスペイン帝国ていこく歳入さいにゅうささえたが、ユトレヒト同盟どうめいオランダ)と戦争せんそうおこなうスペインぐん戦費せんぴや、スペイン王室おうしつ貴族きぞく奢侈しゃし、そして南米なんべいのポトシ銀山ぎんざんから流出りゅうしゅつしたぎんとともに太平洋たいへいようわたってフィリピン経由けいゆおこなわれたきよしとの交易こうえきガレオン貿易ぼうえき)に決済けっさいされた。このため、銀貨ぎんかはスペイン本国ほんごくやフィリピンやアメリカ大陸あめりかたいりくといったスペイン領内りょうない有効ゆうこう使つかわれることはすくなく、おもイギリス、オランダ、フランスアジア流出りゅうしゅつした。

17世紀せいきになると人口じんこう減少げんしょうによってインディオ共同きょうどうたいおおくが崩壊ほうかいしたことと、それによるインディオの疲弊ひへいにより、1631ねんレパルティミエントせい廃止はいしされた。これにより、クリオージョの地主じぬしメスティーソインディオ小作こさくじんからなるアシエンダがメキシコ各地かくち誕生たんじょうした。

18世紀せいきなかばにボルボンあさカルロス3せいによってボルボン改革かいかくすすめられると、農業のうぎょう開発かいはつマニュファクチュア振興しんこうされ、経済けいざい開発かいはつすすんだ。1767ねんにはイエズスかい追放ついほうされた。ボルボン改革かいかくによってインテンデンテせい導入どうにゅうされると官職かんしょくガチュピン(ペニンスラール、半島はんとうすなわちスペイン本国ほんごく出身しゅっしんしゃす)によって独占どくせんされ、クリオージョによる政治せいじ参加さんか絶望ぜつぼうてき状況じょうきょうになった。

19世紀せいき初頭しょとうにはメキシコはぜん世界せかいぎん供給きょうきゅうりょう半分はんぶん以上いじょう供給きょうきゅうしていたが、メスティーソ、インディオ、黒人こくじんといっただい多数たすう人々ひとびとはほとんどその恩恵おんけいよくすることができず、深刻しんこく貧困ひんこんあえいでいた。

メキシコ独立どくりつ戦争せんそう(1810ねん-1821ねん

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ミゲル・イダルゴ
ホセ・マリア・モレーロス

スペインによる支配しはいは300ねんつづいたが、18世紀せいき後半こうはんのボルボン改革かいかくのちにメキシコも啓蒙けいもう時代じだいむかえると、アメリカ独立どくりつ戦争せんそうフランス革命かくめい影響えいきょうされた土着どちゃくクリオーリョたちのあいだ独立どくりつ気運きうんたかまった。1794ねんにはフアン・ゲレーロ陰謀いんぼうが、1799ねんにはマチェーテの陰謀いんぼう発覚はっかくし、こうしたクリオージョによる独立どくりつ運動うんどうきびしく弾圧だんあつされた。

1808ねんフランス帝国ていこくがスペインに侵攻しんこうし、ナポレオン・ボナパルトあにジョゼフをホセ1せいとしてスペインおうくらいけると、それに反発はんぱつする民衆みんしゅう蜂起ほうき契機けいきとして、スペイン独立どくりつ戦争せんそうはじまった。イスパノアメリカ植民しょくみんどうおうへの忠誠ちゅうせい拒否きょひし、1809ねんにはキトラパスで、1810ねんにはカラカスブエノスアイレスサンティアゴ・デ・チレサンタフェ・デ・ボゴタ自治じちもとめるクリオージョがフェルナンド7せいへの忠誠ちゅうせいとなえて植民しょくみん政府せいふから行政ぎょうせいけん奪取だっしゅしようと反乱はんらんこした。メヒコでも1808ねん8がつにクリオージョたちふくおうイトゥリガライ恫喝どうかつし、自治じちもとめて議会ぎかいひらいたが、これはガチュピンのクーデターによって破綻はたんした。

このため、1810ねん9月16にちミゲル・イダルゴ司祭しさいによってスペイン打倒だとうの「ドローレスのさけ」が発表はっぴょうされ、メキシコ独立どくりつ革命かくめいはじまり、ながたたかいの火蓋ひぶたられた。当初とうしょイダルゴの反乱はんらんはんスペインじん反乱はんらんだったが、インディオ、メスティーソをんだ大衆たいしゅう反乱はんらんとなるうちにクリオージョをふくんだ富裕ふゆう白人はくじんとそれ以外いがい階級かいきゅう闘争とうそうとなり、クリオージョがイダルゴから離反りはんした。このため8まんにんをも動員どういんしながらメヒコ攻略こうりゃく失敗しっぱいし、1811ねん1がつにイダルゴはらえられ、7がつ反乱はんらん指導しどうしたことをいて処刑しょけいされた。

しかし、イダルゴの部下ぶかだったメスティーソの神父しんぷホセ・マリア・モレーロス民衆みんしゅうひきいてたたかいを継続けいぞくした。モレーロスはアカプルコオアハカなどの主要しゅよう都市とし攻略こうりゃくして基盤きばんきずき、1813ねん11月にチルパンシンゴの議会ぎかいでメキシコ共和きょうわこく独立どくりつ宣言せんげんし、1814ねん10がつにはアパチンガン憲法けんぽう制定せいていしたが、クリオージョ富裕ふゆうそう協力きょうりょくることが出来できなかったためにこれは挫折ざせつした。ナポレオン戦争せんそう終結しゅうけつするとスペインはイスパノアメリカの反乱はんらん鎮圧ちんあつ本腰ほんごしれだしたために、スペインぐんアグスティン・デ・イトゥルビデによってモレーロスはやぶれ、1815ねん11月に処刑しょけいされた。以後いご当初とうしょ指導しどうしゃたちはほとんど処刑しょけいされ、以後いご独立どくりつ運動うんどうグアダルーペ・ビクトリアビセンテ・ゲレーロなどがひきいる山間さんかんでの散発さんぱつてきなゲリラ部隊ぶたいのみとなった。

はるみなみ解放かいほうしゃシモン・ボリーバルホセ・デ・サン・マルティン諸国しょこく解放かいほうするなか黒人こくじん、インディオ、メスティーソらの下層かそう民衆みんしゅうによる反乱はんらんおそれるペルーアルト・ペルーキューバプエルトリコ中央ちゅうおうアメリカメキシコのクリオージョはスペインの絶対ぜったい王政おうせい維持いじしようとしていたが、1820ねんにスペイン本国ほんごく自由じゆう主義しゅぎてきリエゴ革命かくめい勃発ぼっぱつすると、おう党派とうは保守ほしゅクリオージョは本国ほんごく採択さいたくされた自由じゆう主義しゅぎ憲法けんぽう反発はんぱつしてスペインへの抵抗ていこうさけぶようになった。この時流じりゅう上手うまくつかんだクリオーリョの軍人ぐんじんアグスティン・デ・イトゥルビデがメスティーソやインディオをふく独立どくりつゲリラぐんと、保守ほしゅてきクリオーリョらを、「スペインへの反発はんぱつ独立どくりつ志向しこう」という共通きょうつうてんでまとめることに成功せいこうし、ふくおう以下いか植民しょくみんぐん屈服くっぷくした。1821ねんにはヌエバ・エスパーニャふくおうりょう廃止はいしされ、メキシコは独立どくりつ達成たっせいした。

独立どくりつとカウディージョ時代じだい(1821ねん-1861ねん

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1821ねん9がつ27にちイトゥルビデとゲレーロの入城にゅうじょう
メキシコ史上しじょう最大さいだいカウディージョ アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ

1821ねん9月27にちアグスティン・デ・イトゥルビデ将軍しょうぐんがメヒコ入城にゅうじょう独立どくりつ宣言せんげんした。イトゥルビデはカトリック信徒しんと保護ほご財産ざいさん保護ほご人種じんしゅてき平等びょうどううたった。当初とうしょはスペインのフェルナンド7せい国王こくおうむかれられる予定よていだったが、フェルナンド7せい拒否きょひしたために翌年よくねん5がつにはみずかメキシコ帝国ていこく皇帝こうていアグスティン1せいとして即位そくいした。しかし国家こっか運営うんえい失敗しっぱいしたため、1823ねんアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ将軍しょうぐん共和きょうわせい支持しじして反乱はんらんこすと、アグスティン1せい失脚しっきゃくして退位たいいし、1824ねん10月にはメキシコ合衆国がっしゅうこく憲法けんぽう制定せいていされてメキシコは連邦れんぽう共和きょうわこくとなった。また、アグスティン1せいは1821ねん中央ちゅうおうアメリカを併合へいごうしたが、1823ねん3がつ共和きょうわによる革命かくめい打倒だとうされ、同年どうねん中米ちゅうべい地域ちいき中央ちゅうおうアメリカ連合れんごうしゅうとして独立どくりつした。

1824ねんには初代しょだい大統領だいとうりょうにかつての独立どくりつ戦争せんそう英雄えいゆうグアダルーペ・ビクトリア就任しゅうにんしたが、独立どくりつ戦争せんそうによる産業さんぎょう疲弊ひへいはげしく経済けいざい壊滅かいめつ状態じょうたいだったうえに、カウディージョばれる土着どちゃく軍閥ぐんばつ政治せいじたちが権力けんりょく闘争とうそう展開てんかいし、国政こくせいみだれた。

1827ねんにスペインによるさい侵略しんりゃく可能かのうせいそなえてスペインじん追放ついほうしたため(だいいちスペインじん追放ついほう)、流通りゅうつうぎょうになっていたスペインじんがいなくなるとメキシコの経済けいざいだい混乱こんらんし、1827ねんには最初さいしょ債務さいむ不履行ふりこうまれた。さらにイトゥルビデ追放ついほう保守ほしゅ自由じゆう主義しゅぎによる政権せいけんあらそいが激化げきかし、1829ねん自由じゆう主義しゅぎしゃビセンテ・ゲレーロがクーデターによって大統領だいとうりょうになった。ゲレーロはスペインじん完全かんぜん追放ついほうだいスペインじん追放ついほう)、黒人こくじん奴隷どれいせい廃止はいし教会きょうかい財産ざいさん接収せっしゅう、キューバの独立どくりつ支援しえんなどをおこなったため、メキシコのさい植民しょくみん目指めざしたスペインぐんによるさい征服せいふくおこなわれた。サンタ・アナ将軍しょうぐん活躍かつやくによりスペインぐん撃退げきたいされたが、1830ねんに1がつ保守ほしゅアナスタシオ・ブスタマンテふく大統領だいとうりょう反旗はんきひるがえし、ゲレーロは追放ついほうされた。

ブスタマンテは大統領だいとうりょう就任しゅうにん、ルカス・アラマン蔵相ぞうしょう保護ほご貿易ぼうえき政策せいさくによって繊維せんい産業さんぎょう中心ちゅうしんとした国内こくない工業こうぎょう育成いくせいすすんだが、中央ちゅうおう集権しゅうけん政策せいさく地方ちほうもろしゅう反発はんぱつび、ブスタマンテ政権せいけん崩壊ほうかいした。保守ほしゅ政権せいけん崩壊ほうかいすると、1833ねんにサンタ・アナが選挙せんきょによって大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。

一方いっぽう北部ほくぶコアウイラ・イ・テハスしゅうには1821ねん以来いらいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくからアングロ・サクソンけい移民いみん黒人こくじん奴隷どれいれて入植にゅうしょくしていたが、1829ねんにゲレーロが奴隷どれいせい廃止はいしすると中央ちゅうおう政府せいふへの不満ふまんたかまり、その中央ちゅうおう集権しゅうけん政策せいさくへの反対はんたいもあってアングロ・サクソン移民いみんが1835ねん反乱はんらんこすと、1836ねん3がつテキサス共和きょうわこくとして独立どくりつ宣言せんげんし、テキサスにおいて奴隷どれいせい復活ふっかつした。サンタ・アナ将軍しょうぐんアラモのたたかアングロ・サクソン反乱はんらんしゃやぶるが、サミュエル・ヒューストンひきいるテキサスぐんサン・ハシントのたたかやぶれ、らえられたためにメキシコはテハスしゅうがテキサスとして独立どくりつすることを承認しょうにんした。

テキサスの独立どくりつ、メキシコはだい混乱こんらんおちいった。財政ざいせい状況じょうきょう悪化あっかにより給与きゅうよ遅滞ちたいつづいたためにぐん反乱はんらん頻発ひんぱつし、さらに地方ちほうしょしゅうがテキサスにならってユカタン共和きょうわこくリオグランデ共和きょうわこくとして独立どくりつ宣言せんげんした。また、列強れっきょう混乱こんらんするメキシコへの介入かいにゅう目論もくろみ、1838ねんから1839ねんにはフランスぐんがメキシコに侵攻しんこうした(菓子かし戦争せんそう)。この戦争せんそうでサンタ・アナは左足ひだりあしうしなったが、救国きゅうこく英雄えいゆうとしてのカリスマせい増幅ぞうふくし、以降いこうサンタ・アナのメキシコ国政こくせいにおける立場たちば不動ふどうのものとなる。

1847ねんのメキシコの版図はんと
べいぼく戦争せんそう

一方いっぽうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくはテキサスにたいする野心やしんかくさず、1845ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくテキサス共和きょうわこく併合へいごうすると、1846ねん5がつアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくはメキシコに宣戦せんせん布告ふこくし、べいぼく戦争せんそう勃発ぼっぱつした。サンタ・アナひきいるメキシコぐんは1847ねん9がつにメヒコ攻略こうりゃくされて敗北はいぼくし、1848ねん2がつグアダルーペ・イダルゴ条約じょうやく締結ていけつされて戦争せんそうはメキシコの完敗かんぱいわった。メキシコはテキサスのみならずカリフォルニアなどリオ・ブラーボ以北いほく領土りょうど(いわゆるメキシコ割譲かつじょう)をアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく割譲かつじょうし、じつ国土こくど半分はんぶん喪失そうしつした。

戦後せんご、メキシコはふたただい混乱こんらんおちいり、1847ねんにはユカタン半島はんとうマヤぞく白人はくじん支配しはい反旗はんきひるがえしてカスタ戦争せんそう勃発ぼっぱつした。1853ねんにはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく南部なんぶひと海賊かいぞく ウィリアム・ウォーカー傭兵ようへいひきいて侵略しんりゃくおこない、バハ・カリフォルニア共和きょうわこく樹立じゅりつした。ウォーカーはメキシコでは撃退げきたいされるが、のちニカラグア占領せんりょうし、大統領だいとうりょうとなった。保守ほしゅ大物おおもの政治せいじルカス・アラマンは失脚しっきゃくしていたサンタ・アナをこの混乱こんらん収拾しゅうしゅうできる唯一ゆいいつ人物じんぶつだと見込みこんで、ふたたびメキシコにもどした。1853ねん6がつにアラマンが死去しきょするとサンタ・アナはふたた独裁どくさいしゃとなり、1850年代ねんだいには失地しっち回復かいふく目指めざすメキシコはイギリスフランスなどの支援しえんけて再戦さいせん準備じゅんびととのえるが、クリミア戦争せんそうにより主要しゅよう支援しえんこく財政ざいせい状態じょうたい悪化あっかしたため計画けいかく自体じたい頓挫とんざした。1854ねんにはガズデン協定きょうていむすんでメシーリャ地方ちほうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく売却ばいきゃくした。しかし、サンタ・アナの保守ほしゅ支配しはい国内こくない自由じゆう主義しゅぎしゃ反発はんぱつび、1855ねん8がつフアン・アルバレスらによってひきいられた自由じゆう主義しゅぎしゃによって追放ついほうされた。

1855ねんにサンタ・アナが追放ついほうされ、アルバレスらが臨時りんじ政府せいふ樹立じゅりつすると、臨時りんじ政府せいふ自由じゆう主義しゅぎもとづいた「レフォルマ」とばれる改革かいかくおこなわれ、保守ほしゅ勢力せいりょくうしたてとなっていたカトリック教会きょうかい国家こっか政教せいきょう分離ぶんり、フアレスほう(1855ねん)により司法しほう制度せいど近代きんだいはかられ、すべてのメキシコじんほうしたでの平等びょうどう実現じつげんし、レルドほう(1856ねん)により教会きょうかい財産ざいさん没収ぼっしゅう、さらに自由じゆう主義しゅぎてき1857ねん憲法けんぽう制定せいていなどがおこなわれた。このレフォルマはメキシコ社会しゃかいおおきな影響えいきょうあたえ、近代きんだいてき価値かちかんがメキシコにもたらされたことは事実じじつだが、反面はんめんレフォルマは先住民せんじゅうみん共同きょうどうたい解体かいたいやカトリックてき価値かちかん喪失そうしつをもともなったため、既存きそん保守ほしゅもう反発はんぱつともにインディオ農民のうみん保守ほしゅへの合流ごうりゅうをもこし、1856ねんには全国ぜんこく各地かくち農民のうみん保守ほしゅによるだい反乱はんらんきていた。

このような情勢じょうせいなかで1857ねん12月1にちしん憲法けんぽうはつ大統領だいとうりょう選挙せんきょによって自由じゆう主義しゅぎ穏健おんけんのコモンフォルトが就任しゅうにんしたが、12月17にちにスロアガ将軍しょうぐんがクーデターをこすとコモンフォルトは失脚しっきゃくした。しかし、ベニート・フアレス最高裁さいこうさい長官ちょうかん保守ほしゅへの徹底てってい抗戦こうせんちかってアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく亡命ぼうめいしたのちベラクルス上陸じょうりくして臨時りんじ政府せいふ樹立じゅりつし、レフォルマ戦争せんそう勃発ぼっぱつした。

フアレス政府せいふは1860ねん12月25にちにメヒコ攻略こうりゃくしたが、戦争せんそうちゅうきゅう支配しはいそう没落ぼつらくし、新興しんこうだい土地とち所有しょゆうしゃそう台頭たいとうした。また、3ねんおよんだ内戦ないせんさいふくらんだ有償ゆうしょう支援しえん返済へんさいいつかなくなり、債務さいむ不履行ふりこうつながることになった。

フランス干渉かんしょう戦争せんそう(1861ねん-1867ねん

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はつ先住民せんじゅうみん出身しゅっしん大統領だいとうりょうベニート・フアレス

1861ねん5がつにフアレスは選挙せんきょによって正式せいしきにメキシコの大統領だいとうりょう就任しゅうにんしたが、地方ちほうでは保守ほしゅぐんがゲリラして抵抗ていこうつづけ、さらに財政ざいせい状況じょうきょう長年ながねん混乱こんらんのため絶望ぜつぼうてきになっていた。その最中さいちゅうえいふつ莫大ばくだい債務さいむ支払しはらいを要求ようきゅうしたが、メキシコにはもはや支払しはら能力のうりょくがなかったためにフアレスがこれを拒否きょひし、7がつ17にち債務さいむ不履行ふりこう宣言せんげんすると、イギリスフランススペインは10月31にちにメキシコへの武力ぶりょく介入かいにゅう決定けっていし、ベラクルスがさんこく軍隊ぐんたいによって占領せんりょうされた。

1862ねん4がつにイギリスとスペインは撤退てったいしたが、フランスだい帝国ていこくナポレオン3せいはメキシコ全土ぜんど占領せんりょう計画けいかくしていたためにえい西にしぐんとの撤退てったいにはおうじず、フランス外人がいじん部隊ぶたいふくむフランスぐん精鋭せいえいをベラクルスから中央ちゅうおう高原こうげんおくった。1862ねん5がつ5にちプエブラの会戦かいせんでメキシコぐんはこのフランスぐん撃退げきたいするが、ナポレオン3せいはメキシコにおける「カトリック帝国ていこく樹立じゅりつという野心やしんっておりさら増援ぞうえん部隊ぶたい派遣はけんし、1863ねん5がつ17にちにプエブラが、6がつ10日とおかにはメヒコがフランスぐんによって攻略こうりゃくされた。フアレスは北部ほくぶ脱出だっしゅつして抵抗ていこうつづけたが、フアレス拠点きょてん南部なんぶのポルフィリオ・ディアス将軍しょうぐん抵抗ていこうするオアハカしゅうや、北部ほくぶのフアレスが指導しどうするすうしゅうのみとなり、若干じゃっかん抵抗ていこうはあったものの戦争せんそうはフランスぐん優勢ゆうせいすすんだ。

マネさくの「皇帝こうていマクシミリアンの処刑しょけい」。マクシミリアンは「かおだけはたないでくれ」とメキシコへい金貨きんかくばったが、ぎゃくねらちされた。

首都しゅと陥落かんらくするとナポレオン3せいオーストリア=ハンガリー帝国ていこく皇帝こうていフランツ・ヨーゼフ1せいおとうとマクシミリアンをメキシコ皇帝こうていとしておくみ、だいメキシコ帝国ていこく樹立じゅりつされた。この措置そち保守ほしゅのメキシコじんによって支持しじされたが、マクシミリアンは信教しんきょう自由じゆう容認ようにん教会きょうかい財産ざいさん国有こくゆうなどの措置そちにより保守ほしゅメキシコじん離反りはんした。さらに、1865ねん南北戦争なんぼくせんそう終結しゅうけつさせたアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくがフアレスぐん物資ぶっし供与きょうよはじめると事態じたい流動的りゅうどうてきになり、1866ねんフランスぐん撤退てったい決定けっていされるとうしたてうしなった皇帝こうていマクシミリアンは自由じゆうぐんやぶれて6がつ19にち銃殺じゅうさつされ、メキシコ帝国ていこく崩壊ほうかいした。7月13にちにディアス将軍しょうぐんひきいる自由じゆうがメヒコ入城にゅうじょうし、7がつ15にちにフアレスが帰還きかんしてメキシコに共和きょうわせい復活ふっかつした。

復興ふっこう共和きょうわせいとディアス時代ときよ(1867ねん-1910ねん

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独裁どくさいしゃ ポルフィリオ・ディアス

1857ねん憲法けんぽうじくあらたにてられた復興ふっこう共和きょうわこくでは自由じゆう主義しゅぎしゃ主導しゅどうけんにぎることになったが、自由じゆう主義しゅぎしゃなかにも文民ぶんみん軍人ぐんじんふたつのグループが存在そんざいした。フアレスに代表だいひょうされる文民ぶんみんは、フアレスをのぞいておおむ高等こうとう教育きょういくけた白人はくじんであり、理想りそう主義しゅぎてき傾向けいこうゆうしていたが、ディアスに代表だいひょうされる軍人ぐんじんおおむたか教育きょういくけていないメスティーソであり、現実げんじつ主義しゅぎてき傾向けいこうつよかった。どちらも自由じゆう主義しゅぎしゃたちであり、メキシコの近代きんだい西欧せいおうはかてんではおなじであったが、この差異さい近代きんだい政策せいさく実行じっこうするさい手段しゅだんになって顕在けんざいすることになった。

また、この時代じだいオーギュスト・コント実証じっしょう主義しゅぎガビノ・バレダによって導入どうにゅうされ、当時とうじブラジル帝国ていこく同様どうよう以降いこうはん世紀せいきわたって実証じっしょう主義しゅぎ教育きょういく影響えいきょうち、実証じっしょう主義しゅぎしゃ合言葉あいことばだった「自由じゆう秩序ちつじょ進歩しんぽ」はメキシコの標語ひょうごとなった。実証じっしょう主義しゅぎてき理念りねんにより教育きょういくはカトリック教会きょうかいから世俗せぞくされ、義務ぎむ教育きょういく導入どうにゅうされ、「野蛮やばん」とみなされたメキシコの土着どちゃく文化ぶんかやカトリックてき伝統でんとう弾圧だんあつされ、ぜん国民こくみんにスペイン教育きょういく自然しぜん科学かがく数学すうがく教育きょういくとおした合理ごうりてき人間にんげんすような教育きょういくおこなわれたが、他方たほうでこのような姿勢しせいスペイン住民じゅうみんであるインディオの言語げんご文化ぶんか弾圧だんあつにもつながった。

マクシミリアン処刑しょけい、フアレス政権せいけん戦争せんそうによって膨張ぼうちょうした軍備ぐんび削減さくげんつとめ、だい軍縮ぐんしゅく実践じっせんした。経済けいざいめんではメキシコにおける資本しほん主義しゅぎ発展はってん目指めざされ、外国がいこく資本しほん導入どうにゅうによる国内こくない開発かいはつすすみ、1873ねんにはベラクルス=メヒコあいだむす鉄道てつどう完成かんせいし、メキシコの経済けいざい空間くうかんおおきな影響えいきょうあたえることになった。

1871ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょでは現職げんしょくのフアレスとともに、フアレスの後輩こうはいであったセバスティアン・レルド・デ・テハーダとポルフィリオ・ディアス将軍しょうぐん立候補りっこうほし、フアレスが勝利しょうりしたものの、1872ねん7がつにフアレスが急死きゅうししたためにレルドが大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。しかし、1876ねんにはフランス干渉かんしょう戦争せんそう英雄えいゆうポルフィリオ・ディアス将軍しょうぐんがレルドの再選さいせん反対はんたいして反乱はんらんこし、11月に反乱はんらんぐん首都しゅと攻略こうりゃくした。ディアス将軍しょうぐんは1877ねん選挙せんきょおこない、大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。

ディアスは議会ぎかいのレルド地方ちほうのカウディージョに特権とっけんあたえて体制たいせいむことによって軍事ぐんじ独裁どくさい体制たいせい樹立じゅりつし、自身じしんによる統治とうちのみならず、傀儡かいらい大統領だいとうりょうえて中央ちゅうおう集権しゅうけん体制たいせい確立かくりつすることによって、軍事ぐんじりょく背景はいけいにした「ディアスの平和へいわ」ともばれることになるメキシコ史上しじょうはつ長期ちょうき安定あんてい実現じつげんした。

一方いっぽうで、ディアスは実証じっしょう主義しゅぎ信奉しんぽうするシエンティフィコ科学かがく主義しゅぎしゃ)とばれるエリートを登用とうようし、権威けんい主義しゅぎ体制たいせいしたでフアレス政権せいけんからつづいていた国家こっか近代きんだい西欧せいおう推進すいしんされた。

この時期じきには積極せっきょくてき外国がいこく資本しほん導入どうにゅうおこなわれ、工業こうぎょうすすみ、ぎんどう石油せきゆ開発かいはつじくすすんだ鉱山こうざん開発かいはつ鉄道てつどう敷設ふせつ輸出ゆしゅつ作物さくもつようプランテーション建設けんせつなどが外国がいこく資本しほんによっておこなわれ、経済けいざい発展はってんした。とく合衆国がっしゅうこく資本しほんによる鉄道てつどう建設けんせつ目覚めざましく、1876ねんに600kmであった鉄道てつどうそう延長えんちょうは、1910ねんにはやく20,000kmにたっした。

こうしてディアスは経済けいざい発展はってん治安ちあん回復かいふく実現じつげんしたが、他方たほう農村のうそんおおきく疲弊ひへいし、労働ろうどうしゃ困窮こんきゅうした。とく実証じっしょう主義しゅぎしゃ信奉しんぽうした社会しゃかいダーウィニズムてき観点かんてんからインディオやメスティーソの文化ぶんかへの弾圧だんあつすすみ、さら外国がいこく資本しほん進出しんしゅつによる工業こうぎょうやプランテーションだい農園のうえん成立せいりつによって、そのおおくは奴隷どれいてき零細れいさい賃金ちんぎん労働ろうどうしゃとしてのきびしい生活せいかついられることになった。このため、インディオの反乱はんらん労働ろうどう争議そうぎ相次あいついだが、それらのほとんどは軍隊ぐんたいによって弾圧だんあつされた。また、1892ねん鉱山こうざんほうによって地下ちか資源しげん国家こっか所有しょゆう原則げんそく見直みなおされると外国がいこく資本しほん鉱山こうざん開発かいはつ殺到さっとうし、1910ねんには国内こくない鉱山こうざんの3/4が外国がいこくじん所有しょゆうとなったように、経済けいざい体質たいしつ非常ひじょう従属じゅうぞくてきかつ脆弱ぜいじゃくなものになった。

こうして独裁どくさいせいしたでの発展はってんによる都市とし人口じんこう増加ぞうかや、社会しゃかい矛盾むじゅんおおきくなり、各地かくちでゼネストが発生はっせいするなど、社会しゃかい不安ふあん増大ぞうだいした。そして、貧富ひんぷ拡大かくだいにより窮乏きゅうぼうする民衆みんしゅう社会しゃかい不安ふあんなどを背景はいけいにして、独裁どくさいせいそのものに経済けいざい発展はってんによって成立せいりつした中産ちゅうさん階級かいきゅうから変革へんかくこえがり、やがて不満ふまん革命かくめいとなって爆発ばくはつすることになる。

メキシコ革命かくめい制度せいどてき革命かくめいとう体制たいせい確立かくりつ(1910ねん-1940ねん

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フランシスコ・マデーロ

ディアス体制たいせい経済けいざい拡大かくだいによってメキシコ史上しじょうはじめての長期ちょうき安定あんてい体制たいせいきずいたが、他方たほうではだい多数たすう民衆みんしゅう労働ろうどうしゃ植民しょくみん時代じだい以来いらい貧困ひんこん状態じょうたいかれており、独裁どくさいせいへの不満ふまん背景はいけいに、1906ねん中産ちゅうさん階級かいきゅう労働ろうどうしゃ階級かいきゅうによってディアス独裁どくさい打倒だとう目指めざメキシコ自由党じゆうとう設立せつりつされ、失敗しっぱいわったもののいくかの蜂起ほうききた。

このような不安定ふあんてい情勢じょうせいなかで、1908ねんにディアスが1910ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょ出馬しゅつばしないことを表明ひょうめいすると、メキシコ有数ゆうすう資産しさんだったフランシスコ・マデーロが「公正こうせい選挙せんきょとディアスの再選さいせん阻止そし」をかかげて選挙せんきょ活動かつどうおこない、ついに1910ねん4がつ大統領だいとうりょう選挙せんきょ立候補りっこうほしたが、投票とうひょう直前ちょくぜんにマデーロは逮捕たいほされた。

パンチョ・ビリャ

しかし、マデーロの追放ついほうと、マデーロ自身じしんによる扇動せんどうをきっかけにしてメキシコ民衆みんしゅうによって同年どうねん11がつにメキシコ各地かくち反乱はんらん勃発ぼっぱつし、チワワしゅうパンチョ・ビリャ反乱はんらんぐん北部ほくぶ掌握しょうあくすると、1911ねん2がつにマデーロは亡命ぼうめいさきアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくから帰国きこくし、3月には南部なんぶモレーロスしゅうからエミリアーノ・サパタひきいる反乱はんらんぐん決起けっきするなど革命かくめいはもはやおさえがたいうごきとなってメキシコ全土ぜんど波及はきゅうした。

しかし、マデーロは5月11にちにディアス政権せいけん和平わへい協約きょうやくむすび、革命かくめい運動うんどう中止ちゅうし布告ふこくした。1911ねん11月の選挙せんきょでマデーロは圧倒的あっとうてき支持しじ大統領だいとうりょう就任しゅうにんしたが、革命かくめい内部ないぶ路線ろせんちがいがあきらかになった。とく土地とち改革かいかくもとめるサパタサパティスタ)は11月25にちアヤラ計画けいかく発表はっぴょうし、メキシコ史上しじょうはつ農地のうち改革かいかく支配しはい実践じっせんし、政府せいふぐん敵対てきたいすることになった。また、ビクトリアーノ・ウエルタ将軍しょうぐんによってパンチョ・ビリャは逮捕たいほされ、初期しょき革命かくめい主要しゅよう人物じんぶつほとんどがマデーロ陣営じんえいからえると、事態じたい収拾しゅうしゅうできなくなったマデーロ政権せいけんは1913ねん2がつ9にちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大使たいしむすびついたウエルタ将軍しょうぐんのクーデターによって崩壊ほうかいし、マデーロいち虐殺ぎゃくさつされた。

ベヌスティアーノ・カランサ

しかし、ウエルタ政権せいけんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくウッドロウ・ウィルソン政権せいけんによって承認しょうにんされたため、コアウイラしゅうベヌスティアーノ・カランサソノーラしゅうアルバロ・オブレゴン蜂起ほうきし、革命かくめいだい段階だんかいはいった。一方いっぽう北部ほくぶのチワワしゅうではパンチョ・ビリャが亡命ぼうめいさきアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくから帰国きこくし、1914ねんにビリャのひきいる北部ほくぶぐん北部ほくぶ完全かんぜん掌握しょうあくした。また、モレーロスしゅうのエミリアーノ・サパタひきいる南部なんぶぐん支配しはい農地のうち改革かいかく実践じっせんし、強力きょうりょく基盤きばんきずいた。ウィルソン政権せいけん革命かくめい支援しえんする目的もくてきで1914ねん4がつにアメリカ海兵かいへいたいをベラクルスに派遣はけんし、ウエルタ政権せいけんによる海外かいがい貿易ぼうえき封鎖ふうさすると、勝機しょうきうしなったウエルタは7がつ亡命ぼうめいした。

ウエルタ政権せいけん崩壊ほうかい革命かくめいよん路線ろせんちがいから陣営じんえいかれて対立たいりつすることになった。1914ねん12月に北部ほくぶのビリャと南部なんぶのサパタがメヒコ入城にゅうじょうし、主導しゅどうけんにぎったが、カランサとオブレゴンはこれにたいして共同きょうどうしてたたかいをいどみ、1916ねんにはカランサによる主導しゅどうけん確立かくりつした。しかし、だい地主じぬし出身しゅっしん保守ほしゅてきなカランサは対外たいがいてきには強硬きょうこうさくったものの、内政ないせいめんでは革命かくめいによる社会しゃかい改革かいかく拒否きょひし、これをかねたオブレゴン急進きゅうしん自由じゆう主義しゅぎしゃによって1917ねん憲法けんぽう制定せいていされた。

エミリアーノ・サパタ

その内戦ないせんつづき、カランサは1919ねんだまちでサパタを暗殺あんさつし、内戦ないせん終結しゅうけつさせてぜんメキシコの支配しはいけん確立かくりつしたが、すで労働ろうどうしゃ農民のうみん支持しじうしなっており、さらには同盟どうめいしゃだったオブレゴンをもてきまわしたため、1920ねんきゅうサパタむすんだオブレゴンの反乱はんらんによってカランサ政権せいけん崩壊ほうかいし、同年どうねん5がつ9にちにオブレゴンはメヒコ入城にゅうじょうした。

オブレゴンはゲリラせんつづけていたビリャ武装ぶそう解除かいじょし、サパタもとめていながらカランサ時代じだい停滞ていたいしていた農地のうち改革かいかくふたた実施じっしされた。1920ねん9がつにオブレゴンは正式せいしき選挙せんきょ同年どうねん12がつ1にち大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。現在げんざい12がつ1にちはメキシコの大統領だいとうりょうとなっている。

オブレゴンは農地のうち改革かいかく軍制ぐんせい改革かいかく実行じっこうし、地方ちほう軍閥ぐんばつメキシコ連邦れんぽうぐん統合とうごうしたが、この措置そちはメキシコぐんない反対はんたいい、1923ねんにデ・ラ・ウエルタ将軍しょうぐんぐんやく4わり動員どういんして反乱はんらんこした。オブレゴンは反乱はんらんぐんやぶったが、りょう勢力せいりょく弾圧だんあつによっておおくの犠牲ぎせいしゃた。

1924ねん就任しゅうにんしたプルタルコ・エリアス・カリェスはオブレゴンと同様どうようにソノーラしゅう出身しゅっしんだったが、国家こっか宗教しゅうきょう政策せいさくすすめたためにカトリック教会きょうかいとの対立たいりつつよまり、1927ねん1がつ1にちにカトリック信者しんじゃ一群いちぐん蜂起ほうきし、クリステロ戦争せんそう勃発ぼっぱつした。その、1928ねんにオブレゴンが暗殺あんさつされると、1929ねん国民こくみん革命かくめいとう結成けっせいさかいにカリェスは黒幕くろまくとしてふたた政界せいかい進出しんしゅつし、メキシコの政治せいじ事実じじつじょう支配しはいした。

1920年代ねんだいはオブレゴンをはじめとしてソノーラしゅう出身しゅっしんしゃによって大統領だいとうりょうしょく独占どくせんされ、再建さいけんばれることになった。この時期じきにメキシコの民族みんぞく意識いしき高揚こうようや、地方ちほう軍閥ぐんばつ統合とうごう経済けいざい再建さいけん農地のうち改革かいかくすすみ、ニカラグアでのサンディーノ戦争せんそうではアメリカ海兵かいへいたいたたかサンディーノ支援しえんするなど独自どくじ外交がいこうつづいたが、1929ねん世界せかい恐慌きょうこう勃発ぼっぱつには、革命かくめい政権せいけん右傾うけいし、腐敗ふはい様相ようそうはじめていた。

ラサロ・カルデナス

1934ねんカルデナス政権せいけん成立せいりつした。当初とうしょカルデナスはカリェスの傀儡かいらい政権せいけんとしての色彩しきさいつよかったが、1935ねん6がつ民衆みんしゅう支持しじ背景はいけいにカリェスをアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく追放ついほうし、カリェス政治せいじから排除はいじょされた。カリェス追放ついほう、カルデナスは革命かくめい停滞ていたいしていた農地のうち改革かいかくや、労働ろうどうしゃ保護ほご軍制ぐんせい改革かいかくおこない、さらにボリビアいでラテンアメリカ番目ばんめとなるアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく資本しほん鉄道てつどう石油せきゆ会社かいしゃ国有こくゆう断行だんこうし、1940ねんにはメキシコ石油せきゆ公社こうしゃ設立せつりつされ、国民こくみん経済けいざい確立かくりつつとめた。また、文化ぶんかめんではインディヘニスモ称揚しょうようや、国立こくりつ工業こうぎょう大学だいがく設立せつりつおこなわれた。スペイン内戦ないせんたいしては共和きょうわ支援しえんして政治せいじ亡命ぼうめいしゃ多数たすうれ、ソビエト連邦れんぽうから追放ついほうされたレフ・トロツキー亡命ぼうめいをもれるなど自主じしゅ外交がいこうすすみ、カルデナス政権せいけんにメキシコ革命かくめいひとつの完成かんせいげた。

文化ぶんかめんでは、革命かくめい民族みんぞく意識いしき高揚こうようとも初代しょだい教育きょういくしょうホセ・バスコンセロスによってメキシコ壁画へきが運動うんどう推進すいしんされ、バスコンセロスの発表はっぴょうした『宇宙うちゅうてき人種じんしゅ』(1925ねん)によってメキシコの国民こくみん意識いしき起源きげんをインディヘナにもとめるインディヘニスモ運動うんどう確立かくりつした。

PRIいちとう独裁どくさい時代じだい

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1940ねん成立せいりつしたマヌエル・アビラ・カマチョ政権せいけんは、カルデナス政権せいけん悪化あっかした資本しほん地主じぬし、カトリック教会きょうかいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとの関係かんけい改善かいぜんつとめた。だい世界せかい大戦たいせんの1942ねん5がつ、メキシコの領土りょうどへの攻撃こうげきではなく、メキシコのタンカー「ポトレロ・デ・リャノ(en:SS Potrero del Llano)」が13にちに、「ファハ・デ・オロ(en:SS Faja de Oro)」が20日はつかに、ナチス・ドイツUボート(それぞれU-564とU-106)によってしずめられたことから、22にちメキシコはナチス・ドイツ、大日本帝国だいにっぽんていこくおよびイタリア王国おうこく宣戦せんせん布告ふこくし、だい世界せかい大戦たいせん参戦さんせんした。太平洋戦争たいへいようせんそうには空軍くうぐん一部いちぶ派遣はけんしてフィリピンのたたか日本にっぽんぐん交戦こうせんしている。ラテンアメリカ諸国しょこくではメキシコとブラジルだけがドイツおよ日本にっぽん海外かいがいたたかうために軍隊ぐんたい派遣はけんした。

だい世界せかい大戦たいせんのメキシコは順調じゅんちょう経済けいざい成長せいちょうせ、政権せいけん制度せいどてき革命かくめいとう(PRI)政権せいけんによって文民ぶんみん統治とうち維持いじされた。1946ねんにはメキシコ革命かくめいとう制度せいどてき革命かくめいとう(PRI)に再編さいへんされ、メキシコにおけるコーポラティズム組合くみあい主義しゅぎ国家こっか体制たいせい完成かんせいした。

こうして成立せいりつしたコーポラティズム体制たいせいは、それまでの革命かくめい路線ろせん修正しゅうせいして労働ろうどうしゃ農民のうみんよりも資本しほんだい地主じぬし重点じゅうてんうつしながら経済けいざい開発かいはつすすめていった。1950年代ねんだいから1970年代ねんだいまでのあいだのラテンアメリカ諸国しょこくではクーデター頻発ひんぱつし、軍事ぐんじ独裁どくさい政権せいけん数多かずおお誕生たんじょうしていったが、メキシコは文民ぶんみん統治とうち体制たいせい維持いじしながら「メキシコの奇跡きせき」とばれる高度こうど経済けいざい成長せいちょう達成たっせい1968ねんにはラテンアメリカ地域ちいきはつ近代きんだいオリンピックであるメキシコシティオリンピック開催かいさいしている。他方たほうこの時期じき外交がいこうにおいておや西側にしがわ諸国しょこく立場たちばから親米しんべい政策せいさく維持いじしながらも、キューバ革命かくめいキューバたいする米州べいしゅう機構きこうによる制裁せいさい反対はんたいや、日本にっぽんユーゴスラヴィアインドインドネシアカナダといった新興しんこうこくとの関係かんけい拡大かくだいなどにつとめた。

しかし、経済けいざい発展はってんによる格差かくさ拡大かくだいや、隣国りんごくアメリカにくら自由じゆう制約せいやくされたメキシコに不満ふまんものがこの時期じき学生がくせい知識ちしきそうから出現しゅつげんする。1968ねんのメキシコシティオリンピック直前ちょくぜんには、はん政府せいふデモたい軍隊ぐんたいによって弾圧だんあつし300にんもの死者ししゃしたトラテロルコ事件じけんや、1971ねん6がつ10日とおかの「木曜日もくようび事件じけん」など、体制たいせいによる強権きょうけんてき反対はんたい運動うんどう弾圧だんあつすすむにつれ、徐々じょじょにPRI体制たいせいでの近代きんだいゆがみがあらわになっていった。

1970ねん成立せいりつしたルイス・エチェベリア政権せいけん政治せいじへの不満ふまんやわらげるため、政治せいじはん釈放しゃくほうおこなった。対外たいがいてきには資源しげんナショナリズム前面ぜんめんした積極せっきょくてきだいさん世界せかい外交がいこうおこない、従来じゅうらいよりもさらアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく西側にしがわ世界せかいとは一線いっせんかくした外交がいこう路線ろせんったが、政権せいけん末期まっきには対外たいがい債務さいむが276おくドルにまで膨張ぼうちょうした。

クアウテモク・カルデナス

1976ねん成立せいりつしたホセ・ロペス・ポルティーヨ政権せいけんは、ぜん政権せいけん以来いらい経済けいざい危機きき克服こくふくするために国際こくさい通貨つうか基金ききん(IMF)の勧告かんこくれ、労働ろうどうしゃ賃金ちんぎん抑制よくせい緊縮きんしゅく政策せいさくり、さらには石油せきゆブームのたすけもあって一時いちじてき経済けいざい危機きき回避かいひした。内政ないせいめんでは政治せいじ改革かいかくおこない、国会こっかい議席ぎせき定数ていすうやしたほか、比例ひれい代表だいひょうせい導入どうにゅう極左きょくさ極右きょくう政党せいとう認可にんかおこない、はん政府せいふ不満ふまん解消かいしょうはかった。外交がいこうめんではエチェベリーア以来いらいだいさん世界せかい外交がいこう継続けいぞくし、南北なんぼく問題もんだい議論ぎろんするはつ南北なんぼくサミット英語えいごばん主催しゅさいしたほかだいいちニカラグア内戦ないせんさいしてはソモサ王朝おうちょうたたかサンディニスタ民族みんぞく解放かいほう戦線せんせん(FSLN)への全面ぜんめんてき支持しじ表明ひょうめいした。しかし、石油せきゆ依存いぞんした経済けいざい脆弱ぜいじゃくさはかくがたく、1982ねんには876おくドルをえる累積るいせき債務さいむ問題もんだい表面ひょうめんし、メキシコの国民こくみん経済けいざい危機きき直面ちょくめんした。

通貨つうか危機ききなかおこなわれた選挙せんきょにより、1982ねんにPRIからデ・ラ・マドリ大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。デ・ラ・マドリは国際こくさい通貨つうか基金ききん(IMF)の勧告かんこくしたがって緊縮きんしゅく財政ざいせい続行ぞっこうやペソのげをおこない、しん自由じゆう主義しゅぎによって財政ざいせい健全けんぜん目指めざしたが、その代償だいしょう国民こくみん生活せいかつ窮乏きゅうぼうした。1986ねんにメキシコの債務さいむは1,000おくドルをえた。外交がいこうめんではコンタドーラ・グループ結成けっせいし、エルサルバドル内戦ないせんだいニカラグア内戦ないせん停戦ていせんちからそそぎ、同時どうじアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとの関係かんけい改善かいぜんおこなった。

1988ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょは、PRIから分離ぶんりして国民こくみん民主みんしゅ戦線せんせん(FDN)を結成けっせいしたクアウテモク・カルデナスとPRIのカルロス・サリーナス・デ・ゴルタリいちとなり、50.36%の得票とくひょうかろうじてサリーナスが勝利しょうりしたが、史上しじょうかつてないほどのPRIのてい得票とくひょうりつくわえ、クアウテモク・カルデナスのように党内とうないからも離反りはんしゃ相次あいつぐなど、PRIいちとうせい限界げんかいだれにもあきらかになっていた。サリーナス政権せいけんでは、原油げんゆ価格かかく上昇じょうしょう産油さんゆこくメキシコのかぜとなり、経済けいざい堅調けんちょう維持いじした。サリーナス政権せいけんは「サリーナス革命かくめい」をかかげながらも社会しゃかい改革かいかくよりも経済けいざい開発かいはつ優先ゆうせんしてぜん政権せいけん以来いらいしん自由じゆう主義しゅぎ推進すいしんし、1992ねん憲法けんぽう改正かいせいして共有きょうゆう農場のうじょうたるエヒード廃止はいしと、農地のうち利用りよう市場いちば経済けいざい推進すいしんし、ここにメキシコ革命かくめい理念りねんひとつだった農地のうち改革かいかく精神せいしんうしなわれた。

サパティスタ国民こくみん解放かいほうぐんマルコスふく司令しれいかん

さらにサリーナスは市場いちば原理げんりもとづいてメキシコとアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく経済けいざい統合とうごうすすめ、1992ねんにはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくおよカナダ北米ほくべい自由じゆう貿易ぼうえき協定きょうてい(NAFTA)を締結ていけつしたが、NAFTAは先住民せんじゅうみん農民のうみん生活せいかつ基盤きばん破壊はかいする性質せいしつっていたため、NAFTA発効はっこうの1994ねん1がつ1にちさい南部なんぶチアパスしゅうからマヤけいインディオを主体しゅたいとしたサパティスタ国民こくみん解放かいほうぐん(EZLN)がインディオの生活せいかつ基盤きばんやメキシコの農業のうぎょう破壊はかいするNAFTA発効はっこう抗議こうぎして武装ぶそう蜂起ほうきし、近代きんだい以降いこうのメキシコのありかた根本こんぽん異議いぎとなえた。サリーナス政権せいけん末期まっき同年どうねん3がつには大統領だいとうりょう候補こうほルイス・ドナルド・コロシオ暗殺あんさつされ、国民こくみん政治せいじ不信ふしん一層いっそうふかまることになった。

大統領だいとうりょう候補こうほ暗殺あんさつ直後ちょくごおこなわれた1994ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょでは、コロシオにわって選出せんしゅつされたPRI候補こうほエルネスト・セディージョ大統領だいとうりょう就任しゅうにんしたが、セディージョは就任しゅうにん直後ちょくごからサリーナスぜん政権せいけん汚職おしょくや、EZLNの蜂起ほうきへの対応たいおうわれることとなった。経済けいざい停滞ていたい如何いかともしがたく、1994ねん12がつ20日はつかにはヘッジファンドによって通貨つうか危機ききテキーラ・ショック)が勃発ぼっぱつした。1996ねんにはちゅうべい自由じゆう貿易ぼうえきけん設立せつりつはこびとなった。一方いっぽうEZLNとの関係かんけいでは、1996ねん2がつサン・アンドレス合意ごうい締結ていけつされたが、以降いこう交渉こうしょう進展しんてんはなく、1997ねんにはメキシコぐん支援しえんするじゅん軍事ぐんじ組織そしきによってチアパスしゅうのインディオ虐殺ぎゃくさつ事件じけん発生はっせいした。

2000ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょ国民こくみん行動こうどうとう(PAN)から出馬しゅつばしたビセンテ・フォックス・ケサーダ勝利しょうりすると、前身ぜんしんとなった国民こくみん革命かくめいとう設立せつりつ以来いらい71年間ねんかんつづいたメキシコのいちとう独裁どくさい体制たいせい終焉しゅうえんむかえた。

制度せいどてき革命かくめいとういちとう体制たいせい崩壊ほうかい以降いこうのメキシコ(2000ねん- )

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革命かくめいはつPRIけい大統領だいとうりょう ビセンテ・フォックス・ケサーダ

フォックス政権せいけん誕生たんじょうによりPRIいちとう体制たいせい崩壊ほうかいしたが、フォックス政権せいけんでも国民こくみん所得しょとく向上こうじょうやEZLNとの交渉こうしょう進展しんてんしなかった。

2006ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょでは国民こくみん行動こうどうとう(PAN)、制度せいどてき革命かくめいとう民主革命党みんしゅかくめいとう(PRD)のさんとう候補こうほみだれた選挙せんきょせん展開てんかいされ、PANのフェリペ・カルデロンがPRDのアンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドール僅差きんさやぶって大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • ガレアーノ, エドゥアルド収奪しゅうだつされた大地だいち ラテンアメリカひゃくねん大久保おおくぼ光夫みつおやくしん評論ひょうろん東京とうきょう、1986ねん9がつISBN 978-4-7948-2234-5 
  • 大垣おおがき貴志きしろう物語ものがたりメキシコの歴史れきし 太陽たいようくに英傑えいけつたち』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ東京とうきょう中公新書ちゅうこうしんしょ 1935〉、2008ねん2がつISBN 978-4-12-101935-6 
  • 二村にむら久則ひさのり野田のだたかし牛田うしだ千鶴ちづる志柿しかき光浩みつひろ『ラテンアメリカ現代げんだいIII』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ東京とうきょう世界せかい現代げんだい 35〉、2006ねん4がつISBN 978-4-634-42350-3 
  • 増田ますだ義郎よしお『メキシコ革命かくめい 近代きんだいのたたかい』中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ東京とうきょう中公新書ちゅうこうしんしょ 164〉、1968ねん6がつISBN 978-4-12-100164-1 
  • 増田ますだ義郎よしお物語ものがたりラテン・アメリカの歴史れきし 未来みらい大陸たいりく中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ東京とうきょう中公新書ちゅうこうしんしょ 1437〉、1998ねん9がつISBN 978-4-12-101437-5 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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