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モンテ・アルバン

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
世界遺産 オアハカ歴史れきし地区ちく
モンテ・アルバンの古代こだい遺跡いせき
メキシコ合衆国がっしゅうこく
モンテ・アルバン遺跡、「中央広場」南東方向から見た神殿system M。
モンテ・アルバン遺跡いせき、「中央ちゅうおう広場ひろば南東なんとう方向ほうこうから神殿しんでんsystem M。
英名えいめい Historic Centre of Oaxaca and Archaeological Site of Monte Albán
ふつめい Centre historique de Oaxaca et Zone archéologique de Monte Albán
登録とうろく区分くぶん 文化ぶんか遺産いさん
登録とうろく基準きじゅん (1), (2), (3), (4)
登録とうろくねん 1987ねん
公式こうしきサイト 世界せかい遺産いさんセンター英語えいご
地図ちず
モンテ・アルバンの位置
使用しよう方法ほうほう表示ひょうじ
モンテ・アルバン遺構いこう配置はいち
オアハカ盆地ぼんち遺跡いせき位置いち
おど人々ひとびと神殿しんでん」の外壁がいへきにあるモンテ・アルバンIの「ダンサンテ(おどひと)」のいしぐん

モンテ・アルバン(Monte Albán)は、メキシコオアハカしゅうのオアハカ盆地ぼんち中央ちゅうおうオアハカ市街しがい西方せいほう10 km盆地ぼんちの「底面ていめん」からのだか400 mにあるやま頂上ちょうじょうたいらにしてきずかれたサポテカ文化ぶんか中心ちゅうしんをなす祭祀さいしセンターである。紀元前きげんぜん500ねんごろから紀元きげん800ねんごろまで繁栄はんえいした。こう古典こてんには、ミシュテカぞく支配しはいされた。メソアメリカ文明ぶんめいかんがえるうえ非常ひじょう重要じゅうよう考古こうこ遺跡いせきであって、1987ねんに「オアハカ歴史れきし地区ちくとモンテ・アルバンの古代こだい遺跡いせき」の世界せかい遺産いさんにも登録とうろくされている。遺跡いせき全体ぜんたいのひろがりは42 km2およぶが、中央ちゅうおう広場ひろばをかこむ東西とうざい200 m南北なんぼく300 m範囲はんいおも神殿しんでんや、天体てんたい観測かんそくしょ建造けんぞうぶつJ)、球戯きゅうぎじょうなどがある。

モンテ・アルバンの立地りっち条件じょうけんおよ建設けんせつ契機けいき

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モンテ・アルバンの立地りっち盆地ぼんちなか小高こだかおかうえきずかれていることがわかる。

モンテ・アルバンは、周囲しゅういとのだか400mの小高こだかやまうえという立地りっち条件じょうけんから、農業のうぎょう用水ようすいみず確保かくほかず、だい部分ぶぶん食料しょくりょう輸入ゆにゅうたよらざるをなかったとおもわれるが、一方いっぽうで、盆地ぼんち一望いちぼうできる天然てんねん要害ようがい位置いちし、オアハカの3つのしょう盆地ぼんちむすびつける交通こうつう要衝ようしょうでもあったとかんがえられる。このことから、かつては外敵がいてきたいしてオアハカ盆地ぼんちしょセンターが連合れんごうし、盆地ぼんち中央ちゅうおう中立ちゅうりつてきな「しん首都しゅと」を建設けんせつしたとかんがえる研究けんきゅうしゃもいた。また、このような小高こだかやまうえ祭祀さいしセンターをきずいたのは、サポテカの人々ひとびとにとってやま宗教しゅうきょうてき神聖しんせい重要じゅうよう場所ばしょであったことを意味いみしているともかんがえられるが、現在げんざいは、モンテ・アルバンが建設けんせつされる直接ちょくせつ契機けいきになったのは、さき古典こてん中期ちゅうきから後期こうきにかけてのオアハカ盆地ぼんち勢力せいりょくあらそいの激化げきかであると推察すいさつされている。というのは、モンテ・アルバンが建設けんせつされる直前ちょくぜん時期じきにそれまでは盆地ぼんちそこ集落しゅうらくきずかれていたのが、おかうえ防御ぼうぎょ機能きのうった集落しゅうらく次々つぎつぎ建設けんせつされるようになることが判明はんめいしてきたからである。

勢力せいりょくあらそいの中心ちゅうしんになるのは、モンテ・アルバン建設けんせつ直前ちょくぜん最大さいだい祭祀さいしセンターである盆地ぼんち北部ほくぶのエトラ(Etla)たに立地りっちするサン・ホセ・モゴテ盆地ぼんち東部とうぶのトラコローラ(Tlacolula)たに地域ちいき勢力せいりょく盆地ぼんち南部なんぶのバジェ・グランデ(Valle Grande)またサアチラ(Zaachila)たに地域ちいき勢力せいりょくであった。こうしゃが、サン・ホセ・モゴテに対抗たいこうして、モンテ・アルバンをきずいたというせつと、ぎゃくにトラコローラ、バジェ・グランデ連合れんごう対抗たいこうしてサン・ホセ・モゴテがモンテ・アルバンをきずいたというふたつのせつかんがえられている。

サン・ホセ・モゴテをはじめとするオアハカ盆地ぼんち遺跡いせき長年ながねんにわたって調査ちょうさしてきたマヤ文明ぶんめいしょ都市とし関係かんけいについての研究けんきゅう世界せかいてきられているジョイス・マーカス(Marcus,Joyce)と夫君ふくんケントV.フラナリー(Flannary,Kent V.)は、後者こうしゃせつ支持しじしている。その理由りゆうとして、モンテ・アルバンIa土器どき様式ようしき建築けんちく様式ようしきこよみ文字もじ体系たいけいは、直前ちょくぜんのロサリオ様式ようしきいだものがおおく、また、後述こうじゅつする「おど人々ひとびと(Danzantes)」のいしは、サン・ホセ・モゴテ石碑せきひ3ごう系譜けいふくものであり、ペルーチャビン文化ぶんか遺跡いせきセロ・セチン比較ひかくする研究けんきゅうしゃがいるもののメソアメリカには類例るいれいがないものであることがかんがえられる。

石碑せきひ12ごうと13ごうこよみかんする文字もじきざまれている。
モンテ・アルバンの「おどひと」のいし。サポテカ文字もじきざまれている。捕虜ほりょ名前なまえか?
モンテ・アルバンの「おどひと」のいし人物じんぶつぞう内部ないぶ外部がいぶ文字もじられる。

モンテ・アルバンの初期しょき歴史れきしと「おど人々ひとびと」のいし

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現在げんざいのこっている建造けんぞうぶつは、古典こてん相当そうとうするモンテ・アルバンIIIのものがほとんどであるが、中央ちゅうおう広場ひろば南西なんせいすみにある「おど人々ひとびと神殿しんでん」(Temple of the Danzantes)は、さき古典こてん中期ちゅうきまつから後期こうき初頭しょとう建造けんぞうぶつで、神殿しんでん周囲しゅういにおかれたいしには、あたかもおどっているようにえる人物じんぶつぞう「Danzante」や解読かいどくサポテカ文字もじとともにマヤにもがれることになるてんぼう表記ひょうき数字すうじこよみおもわれる表記ひょうきとともにきざまれている石碑せきひられる。 「おど人々ひとびと」のいしは、140以上いじょうられ、ひげやした老人ろうじんとしたくびだけになっているもの、ずべきはだか姿すがたにされた証拠しょうこ性器せいき輪郭りんかくきざまれたり、性器せいき切除せつじょきざまれ、ながれている場面ばめんまできざまれている。これは、モンテ・アルバンの支配しはいしゃによって捕虜ほりょにされて拷問ごうもんにかけられたり、殺害さつがいされた首長しゅちょうおうたちをきざんでいると推定すいていされている。このようないしきざむことによってモンテ・アルバンの支配しはいしゃ権力けんりょく軍事ぐんじりょく誇示こじし、正当せいとうする意味いみがあったとかんがえられている。人物じんぶつぞうわききざまれたサポテカ文字もじ犠牲ぎせいになった人物じんぶつ名前なまえしめしているのかもしれない。またマヤもちいられる260にちれきツォルキンこよみ)365にちれきハアブこよみ)のがたができていたことが石碑せきひきざまれた碑文ひぶんから判明はんめいしている。

モンテ・アルバンI(ぜん500ねん - ぜん100ねん)、IIぜん100ねん - 200ねん)にかけて、都市とし西部せいぶ北部ほくぶやく3 kmにわたって防御ぼうぎょかべきずかれ、ダムとやく2 kmにわたる用水路ようすいろ建設けんせつされた。モンテ・アルバンの人口じんこう紀元前きげんぜん100ごろには1まん7000にん、オアハカ盆地ぼんち全体ぜんたいでは、5まんにんたっしたと推定すいていされる。

モンテ・アルバン遺跡いせきの「中央ちゅうおう広場ひろば」をみなみからのぞむ。手前てまええるのは、天文台てんもんだい使用しようされた建造けんぞうぶつJ
モンテ・アルバン石碑せきひ6ごう。メキシコ中央ちゅうおう高原こうげん影響えいきょうである「言葉ことばのふきだし」文様もんようられるなどモンテ・アルバンIII特色とくしょくしめす。
テオティワカンのタルー・タブレロ建築けんちく手前てまえ神殿しんでん垂直すいちょくかべ斜面しゃめんかべわせになっているのに注目ちゅうもく

モンテ・アルバンIIになると、天文台てんもんだいかんがえられる建造けんぞうぶつJが建設けんせつされ、その壁面へきめんには40以上いじょうの「征服せいふく石版せきばん」がはめまれている。「征服せいふく石版せきばん」には、人身御供ひとみごくうになった人物じんぶつ征服せいふくまたはみつぎおさめおこなっていたとおもわれる地名ちめいきざまれている。モンテ・アルバンII支配しはいしゃは、140 km圏内けんないまち々を征服せいふくし、北方ほっぽう100 kmのオアハカ盆地ぼんちとテワカン盆地ぼんちなかあいだてんにクイカトラン・カニャーダ(Cuicatlán Canada)に前進ぜんしん軍事ぐんじ基地きちきずいた。

テオティワカンとの交流こうりゅう繁栄はんえい

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モンテ・アルバンIIIa(200ねん - 500ねん)には、みなみ基壇きだんたか15 mなが100 m以上いじょうのピラミッドをはじめ中央ちゅうおう広場ひろばおおくの建造けんぞうぶつきずかれた。人口じんこうは1まん6500にんたっしたと推定すいていされ、オアハカ盆地ぼんち全体ぜんたいでは、11まん5000にんたっしたとかんがえられている。この時期じき特徴とくちょうは、テオティワカン意識いしきしたタルー・タブレロしき建造けんぞうぶつきずかれ、みなみ基壇きだんの4すみにある石碑せきひのうち、石碑せきひリサ、石碑せきひ7ごうにテオティワカンじん来訪らいほう記事きじりできざまれ、建造けんぞうぶつXからも両者りょうしゃ政治せいじてき会合かいごう記念きねんしたとおもわれる石碑せきひ発見はっけんされている。テオティワカンじんは、武装ぶそうしたり、兵士へいしともなったものはひとりもいないわりに、コパル香炉こうろっている人物じんぶつなどがられるため、テオティワカン地図ちずプロジェクトでられる研究けんきゅうしゃルネ・ミロンなどは、特別とくべつ友好ゆうこうてき外交がいこう関係かんけいがあったのではないかと主張しゅちょうする。テオティワカンには、オアハカ地区ちく(Oaxaca Barrio)とばれるオアハカ独自どくじ遺物いぶつ検出けんしゅつされる場所ばしょがあり、モンテ・アルバンでは、緑色みどりいろ黒曜石こくようせき製品せいひん薄手うすでオレンジ土器どき(Thin Orange Ware)のつぼわん円筒えんとうがたさんそく土器どき、「フロレロ」、テオティワカン様式ようしき土偶どぐうなどが出土しゅつどする。ただし、量的りょうてきにはおおくはなく、貴族きぞく住居じゅうきょはかなどからの出土しゅつどかぎられることから支配しはいしゃそう同士どうし交流こうりゅうであって、同盟どうめい関係かんけい強化きょうかするための政略せいりゃく結婚けっこんもあったかもしれないがそれをたしかめるすべはない。以後いごのメキシコ中央ちゅうおう高原こうげんで260れき誕生たんじょう人名じんめいとする慣習かんしゅうられることから宗教しゅうきょう天文学てんもんがく情報じょうほう交換こうかんされたかもしれないが、さかんに交易こうえきがおこなわれているとはれない。なお、モンテ・アルバンでは、テオティワカンじんをはじめとする外国がいこくじん居住きょじゅうつかっていない。この時期じき、オアハカ盆地ぼんちでは、盆地ぼんち南部なんぶのセンターであるハリエサの人口じんこうが1まん2000にんほどと推定すいていされ、モンテ・アルバン以外いがいにもモンテ・アルバンとおな様式ようしきいしられるなど盆地ぼんち全体ぜんたい人口じんこう比較的ひかくてき均等きんとう分布ぶんぷしていたとかんがえられる。

モンテ・アルバンの衰退すいたい

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モンテ・アルバンIIIb(500ねん - 750ねん)には、人口じんこうはモンテ・アルバンに集中しゅうちゅうし、2まん5000にんたっしたとかんがえられ、規模きぼは、6.5 km2拡大かくだいした。盆地ぼんち全体ぜんたい人口じんこうは、8まんにんほどに減少げんしょうしたとかんがえられる。モンテ・アルバンの中央ちゅうおう広場ひろば完全かんぜん建物たてものかこまれたのがこの時期じきである。広場ひろば出入でいぐちが3かしょかぎられ、防御ぼうぎょせいしたことから、貧富ひんぷ拡大かくだいし、庶民しょみんそう不満ふまんたかまって不安定ふあんていになっていったともかんがえられる。

モンテ・アルバンIV(750ねん - 1000ねん)には、モンテ・アルバンはすっかり衰退すいたいし、人口じんこう4,000にんほどの二流にりゅうのセンターになりさがる。盆地ぼんち全体ぜんたいでは7まんにん減少げんしょうし、盆地ぼんち南部なんぶのハリエサが人口じんこう1まん6,000にんをかかえる盆地ぼんち最大さいだい集落しゅうらくとなったがモンテ=アルバンにられるだい建造けんぞうぶつかこまれた中央ちゅうおう広場ひろばきずかれず、しょうセンター同士どうし分裂ぶんれつ状態じょうたいになった。 なお、盆地ぼんち南部なんぶのトラコルラ河谷こうだにミトラがこのころから本格ほんかくてき活動かつどうはじめたとかんがえられている。

このような状態じょうたいであってもモンテ・アルバンの中央ちゅうおう広場ひろば放棄ほうきされずに維持いじされてきたと推定すいていされる。このことは、最近さいきん発掘はっくつ調査ちょうさによって、モンテ・アルバンV(1000ねん - 1520ねん)にきた基壇きだん建造けんぞうぶつBのさい上層じょうそう建設けんせつおこなわれたことが判明はんめいしたことからも裏付うらづけられている。

モンテ・アルバンへん年表ねんぴょう
ロサリオ
700B.C. - 500B.C
サン・ホセ・モゴテの優勢ゆうせい
モンテ・アルバンI
500B.C. - 100B.C.
おど人々ひとびと神殿しんでん建設けんせつ、サポテカ文字もじ出現しゅつげん。Ibまつ人口じんこう17000にん
モンテ・アルバンII
100B.C. - A.D.200
建造けんぞうぶつJ(天文台てんもんだい)、球戯きゅうぎじょう建設けんせつ、サポテカ王国おうこく勢力せいりょく拡張かくちょう人口じんこう14500にん
モンテ・アルバンIIIa
A.D.200 - A.D.500
人口じんこう16500にん中央ちゅうおう広場ひろばみなみ基壇きだんなどの建造けんぞうぶつ建設けんせつされる。テオティワカンとの外交がいこう同盟どうめい関係かんけい
モンテ・アルバンIIIb
A.D.500 - A.D.750
人口じんこう25000にん中央ちゅうおう広場ひろばをめぐる建造けんぞうぶつすべ完成かんせいした。
モンテ・アルバンIV
A.D.750 - A.D.1000
人口じんこうは4000にん衰退すいたい。オアハカ盆地ぼんち小規模しょうきぼセンターが分立ぶんりつ
モンテ・アルバンV
A.D.1000 - A.D.1521
ミシュテカの支配しはいきた基壇きだん建造けんぞうぶつBの建設けんせつ

参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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座標ざひょう: 北緯ほくい1702ふん38びょう 西経せいけい9646ふん04びょう / 北緯ほくい17.04389 西経せいけい96.76778 / 17.04389; -96.76778