サモトラキの港 みなと
サモトラキ島 とう (サモトラキとう、ギリシア語 ご : Σαμοθράκη / Samothráki )は、エ え ーゲ海 げかい 北東 ほくとう 部 ぶ に位置 いち するギリシャ 領 りょう の島 しま 。行政 ぎょうせい 上 じょう は東 ひがし マケドニア=トラキア地方 ちほう エヴロス県 けん に含 ふく まれ、ギリシャ領 りょう トラキアの南端 なんたん にあたる。サモトラケ島 とう とも呼 よ ばれ、「サモトラケのニケ 」像 ぞう の発掘 はっくつ 地 ち として知 し られる。
古典 こてん ギリシア語 ご ではサモトラーイケー (Σαμοθρᾴκ かっぱ η いーた / Samothrāíkē )と呼 よ ばれた。サモトラーケー 、サモトラケー などとも転記 てんき される。
トルコ語 ご ではセマーディレキ (Semadirek )と呼 よ ばれる。
ギリシャ=トルコ 国境 こっきょう のわずか数 すう キロの西方 せいほう の海 うみ に浮 う かぶ。島 しま 最長 さいちょう 部 ぶ で17km、面積 めんせき 178km2 。
島 しま の最高峰 さいこうほう は標高 ひょうこう 1,611メートルのサオス山 さん (フェンガリ山 さん ) (el:Σάος ) で、これはエ え ーゲ海 げかい の島々 しまじま にある山 やま の中 なか では最高峰 さいこうほう である。ホメーロス の叙事詩 じょじし 『イーリアス 』では、海神 わたつみ ポセイドーン がこの山 やま の山頂 さんちょう からトロイア戦争 せんそう を見物 けんぶつ したことになっている。
サモトラキ島 とう に人類 じんるい が居住 きょじゅう し始 はじ めたのは紀元前 きげんぜん 11世紀 せいき に遡 さかのぼ る。島 しま の名 な である「サモトラキ」とは「トラキア 地方 ちほう のサモス 」という意味 いみ で、古典 こてん 期 き の史料 しりょう では最初 さいしょ に入植 にゅうしょく したのはイオニア 地方 ちほう のサモス人 じん とされていた。しかし、発掘 はっくつ 調査 ちょうさ によって発見 はっけん された文字 もじ 史料 しりょう から、最初 さいしょ に入植 にゅうしょく したのはアイオリス 地方 ちほう の人々 ひとびと だったと推測 すいそく されている。紀元前 きげんぜん 8世紀 せいき にはギリシャ人 じん が入植 にゅうしょく しはじめる。紀元前 きげんぜん 5世紀 せいき 頃 ころ から、古 いにしえ の神 かみ カベイロス を祀 まつ る秘 ひ 儀 ぎ 信仰 しんこう が有名 ゆうめい となり、現在 げんざい サモトラキ神殿 しんでん 群 ぐん と呼 よ ばれている場所 ばしょ を聖地 せいち として多 おお くの入信 にゅうしん 者 しゃ が集 あつ まるようになる。
紀元前 きげんぜん 508年 ねん に島 しま はアケメネス朝 あさ ペルシアに奪 うば われ、のち紀元前 きげんぜん 5世紀 せいき のデロス同盟 どうめい 、紀元前 きげんぜん 377年 ねん の第 だい 二 に 次 じ 海上 かいじょう 同盟 どうめい ではアテナイ 側 がわ に加盟 かめい した。
ピリッポス2世 せい に服従 ふくじゅう してから紀元前 きげんぜん 168年 ねん までマケドニア王国 おうこく が宗主 そうしゅ 権 けん を握 にぎ った。伝説 でんせつ では、ピリッポス2世 せい と夫人 ふじん となるオリュンピアス は、カベイロスの秘 ひ 儀 ぎ を受 う けるためにサモトラキ島 とう を訪 おとず れていた時 とき に出会 であ ったといわれ、以後 いご 王家 おうけ 縁 えん の地 ち としてアンティゴノス朝 あさ のみならず、プトレマイオス朝 あさ からも庇護 ひご された。紀元前 きげんぜん 168年 ねん のピュドナの戦 たたか い でアンティゴノス朝 あさ はロ ろ ーマ帝国 まていこく に敗 やぶ れ滅亡 めつぼう したが、その最後 さいご の王 おう ペルセウス は逃避行 とうひこう の末 すえ にサモトラキ島 とう で捕 と らえられた。
サモトラキは独立 どくりつ し、この状態 じょうたい は紀元 きげん 70年 ねん にウェスパシアヌス のロ ろ ーマ帝国 まていこく に支配 しはい されるまで続 つづ いた。
トロイア 王家 おうけ の始祖 しそ であり、ローマ建国 けんこく の英雄 えいゆう アエネアス の祖 そ であるダルダノス はサモトラキ出身 しゅっしん であるという伝説 でんせつ があり、サモトラキ島 とう はローマ人 じん の関心 かんしん を集 あつ めた。カベイロスの秘 ひ 儀 ぎ に興味 きょうみ を持 も ち、多 おお くの有力 ゆうりょく 者 しゃ が入信 にゅうしん したと伝 つた えられる。ローマの庇護 ひご の下 した でサモトラケ島 とう は繁栄 はんえい したが、2世紀 せいき 末 すえ に大 だい 地震 じしん が起 お き、神域 しんいき も含 ふく め甚大 じんだい な被害 ひがい を受 う けたサモトラケ島 とう は被害 ひがい から立 た ち直 なお ること無 な く衰退 すいたい していった。4世紀 せいき にテオドシウス1世 せい が異教 いきょう を全面 ぜんめん 的 てき に禁止 きんし したことから、カベイロスの秘 ひ 儀 ぎ も消滅 しょうめつ してしまう。
東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく は1204年 ねん まで島 しま を支配 しはい し、その後 ご ヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく がサモトラキを獲得 かくとく 。1355年 ねん に一時 いちじ ジェノヴァ のガッティルージ家 か にヴェネツィアが追 お い出 だ されたことがある。
15世紀 せいき 前半 ぜんはん にはフィレンツェ の旅行 りょこう 家 か クリストフォロ・ブオンデルモンティや、アンコーナのキリアコスがこの地 ち を踏査 とうさ し、歴史 れきし 地図 ちず や古代 こだい 遺跡 いせき の記録 きろく を残 のこ している。
1457年 ねん 、オスマン帝国 ていこく が島 しま を征服 せいふく 。1821年 ねん からのギリシャ独立 どくりつ 戦争 せんそう で住民 じゅうみん の多 おお くが対 たい トルコ反乱 はんらん に加 くわ わり、多 おお くの人々 ひとびと が虐殺 ぎゃくさつ され人口 じんこう を減 へ らした。1913年 ねん 、バルカン戦争 せんそう の結果 けっか サモトラキはギリシャへ復帰 ふっき した。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか 、短期間 たんきかん ブルガリア に占領 せんりょう された。
主 おも な産業 さんぎょう は漁業 ぎょぎょう と観光 かんこう 。
島 しま の資源 しげん には、花崗岩 かこうがん と玄武岩 げんぶがん がある。
年 とし
人口 じんこう
増減 ぞうげん
島 しま 全体 ぜんたい の人口 じんこう
増減 ぞうげん
密度 みつど
1981年 ねん
-
-
2,871
-
16.13/km2
1991年 ねん
719
995/27.9%
3,083
+112/+3.90%
17.32/km2
サモトラキ市 し (Δήμος Σαμοθράκης )は、東 ひがし マケドニア・トラキア地方 ちほう エヴロス県 けん に属 ぞく する基礎 きそ 自治体 じちたい (ディモス )である。サモトラキ市 し はサモトラキ島 とう 1島 とう からなる。
北西 ほくせい 岸 がん のカマリオティッサ港 こう は、北 きた ギリシャのアレクサンドルーポリ とカヴァラ とをフェリー で結 むす ぶ。島 しま に商業 しょうぎょう 空港 くうこう はない。
島 しま で最 もっと も有名 ゆうめい な場所 ばしょ は、カマリオティッサから東 ひがし へ6キロメートルに位置 いち する、サモトラキ神殿 しんでん 群 ぐん (ギリシャ語 ご でHieron ton Megalon Theon )である。現存 げんそん する遺構 いこう の多 おお くは4世紀 せいき 以降 いこう に作 つく られたものがほとんどだが、ピリッポス2世 せい が紀元前 きげんぜん 340年 ねん に寄進 きしん した「テメノス」もしくは発見 はっけん されたレリーフにちなんで「踊 おど る少女 しょうじょ たちの聖 ひじり 所 しょ 」と呼 よ ばれる遺構 いこう や、プトレマイオス朝 あさ の王女 おうじょ アルシノエ2世 せい が紀元前 きげんぜん 280年 ねん に寄進 きしん した円形 えんけい 堂 どう アルシノエイオン、最終 さいしゅう 段階 だんかい の秘 ひ 儀 ぎ を行 おこな う神殿 しんでん ヒエロンの遺構 いこう などがある。
古代 こだい の都市 とし 遺跡 いせき はパレオポリ(旧 きゅう 市街 しがい )と呼 よ ばれ、北岸 ほくがん にある。古代 こだい の城壁 じょうへき が残 のこ り、サモトラキ神殿 しんでん 群 ぐん 同様 どうよう どっしりとしたサイクロピアン様式 ようしき で建 た てられている。エレウシス の秘 ひ 儀 ぎ と対照 たいしょう 的 てき に、神話 しんわ の儀礼 ぎれい が奴隷 どれい ・自由 じゆう 民 みん 両方 りょうほう の参加 さんか で行 おこな われていたという。
遺跡 いせき 群 ぐん の北西 ほくせい には中世 ちゅうせい の城塞 じょうさい 跡 あと と、紀元前 きげんぜん 3世紀 せいき 前半 ぜんはん にアンティゴノス・ゴナタス が勝利 しょうり の記念 きねん として奉納 ほうのう した三 さん 段 だん 櫂 かい 船 せん を展示 てんじ した展示 てんじ ホール、ネオリオンとストア の遺構 いこう がある。
ここにはギリシャ神話 しんわ の女神 めがみ ニケ を模 も した、全長 ぜんちょう 2.5メートルの大理石 だいりせき 像 ぞう 『サモトラケのニケ 』があった。この像 ぞう はフランスの考古 こうこ 学者 がくしゃ シャルル・シャンポワゾー によって1863年 ねん に一部 いちぶ が発見 はっけん された。現在 げんざい はルーヴル美術館 びじゅつかん に収蔵 しゅうぞう されている。
島 しま のみどころは他 た に絵 え のようなホラの旧 きゅう 市街 しがい 、いくつもの滝 たき がある。
周 しゅう 藤 ふじ 芳幸 よしゆき 、澤田 さわだ 典子 のりこ 『古代 こだい ギリシア遺跡 いせき 事典 じてん 』東京 とうきょう 堂 どう 出版 しゅっぱん 、2004年 ねん 。ISBN 978-4490106534 。
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