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サモトラキとう

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サモトラキとう
Σαμοθράκη
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サモトラキとううみからのなが
サモトラキ島の位置(ギリシャ内)
サモトラキ島
サモトラキとう
サモトラキとう位置いち
サモトラキ島の位置(エーゲ海内)
サモトラキ島
サモトラキとう
サモトラキとう (ゲ海げかい)
地理ちり
座標ざひょう 北緯ほくい4028ふん 東経とうけい2531ふん / 北緯ほくい40.467 東経とうけい25.517 / 40.467; 25.517
諸島しょとう 北東ほくとうエーゲ諸島しょとう
面積めんせき 177.977 km2
最高さいこう サオスさん (1,611 m)
行政ぎょうせい
くに ギリシャの旗 ギリシャ
地方ちほう ひがしマケドニア・トラキア
統計とうけい
人口じんこう 2,596にん (2021ねん現在げんざい)
人口じんこう密度みつど 15 /km2
サモトラキのみなと

サモトラキとう(サモトラキとう、ギリシア: Σαμοθράκη / Samothráki)は、ゲ海げかい北東ほくとう位置いちするギリシャりょうしま行政ぎょうせいじょうひがしマケドニア=トラキア地方ちほうエヴロスけんふくまれ、ギリシャりょうトラキアの南端なんたんにあたる。サモトラケとうともばれ、「サモトラケのニケぞう発掘はっくつとしてられる。

名称めいしょう

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古典こてんギリシアではサモトラーイケーΣαμοθρᾴκかっぱηいーた / Samothrāíkē)とばれた。サモトラーケーサモトラケーなどとも転記てんきされる。

トルコではセマーディレキSemadirek)とばれる。

地理ちり

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ギリシャ=トルコ国境こっきょうのわずかすうキロの西方せいほううみかぶ。しま最長さいちょうで17km、面積めんせき178km2

しま最高峰さいこうほう標高ひょうこう1,611メートルのサオスさん(フェンガリさん (el:Σάοςで、これはゲ海げかい島々しまじまにあるやまなかでは最高峰さいこうほうである。ホメーロス叙事詩じょじしイーリアス』では、海神わたつみポセイドーンがこのやま山頂さんちょうからトロイア戦争せんそう見物けんぶつしたことになっている[1]

歴史れきし

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サモトラキとう人類じんるい居住きょじゅうはじめたのは紀元前きげんぜん11世紀せいきさかのぼる。しまである「サモトラキ」とは「トラキア地方ちほうサモス」という意味いみで、古典こてん史料しりょうでは最初さいしょ入植にゅうしょくしたのはイオニア地方ちほうのサモスじんとされていた。しかし、発掘はっくつ調査ちょうさによって発見はっけんされた文字もじ史料しりょうから、最初さいしょ入植にゅうしょくしたのはアイオリス地方ちほう人々ひとびとだったと推測すいそくされている[1]紀元前きげんぜん8世紀せいきにはギリシャじん入植にゅうしょくしはじめる。紀元前きげんぜん5世紀せいきころから、いにしえかみカベイロスまつ信仰しんこう有名ゆうめいとなり、現在げんざいサモトラキ神殿しんでんぐんばれている場所ばしょ聖地せいちとしておおくの入信にゅうしんしゃあつまるようになる[1]紀元前きげんぜん508ねんしまアケメネスあさペルシアにうばわれ、のち紀元前きげんぜん5世紀せいきデロス同盟どうめい紀元前きげんぜん377ねんだい海上かいじょう同盟どうめいではアテナイがわ加盟かめいした[1]

ピリッポス2せい服従ふくじゅうしてから紀元前きげんぜん168ねんまでマケドニア王国おうこく宗主そうしゅけんにぎった。伝説でんせつでは、ピリッポス2せい夫人ふじんとなるオリュンピアスは、カベイロスのけるためにサモトラキとうおとずれていたとき出会であったといわれ、以後いご王家おうけえんとしてアンティゴノスあさのみならず、プトレマイオスあさからも庇護ひごされた[1]紀元前きげんぜん168ねんピュドナのたたかでアンティゴノスあさマ帝国まていこくやぶ滅亡めつぼうしたが、その最後さいごおうペルセウス逃避行とうひこうすえにサモトラキとうらえられた[1]。 サモトラキは独立どくりつし、この状態じょうたい紀元きげん70ねんウェスパシアヌスマ帝国まていこく支配しはいされるまでつづいた。 トロイア王家おうけ始祖しそであり、ローマ建国けんこく英雄えいゆうアエネアスであるダルダノスはサモトラキ出身しゅっしんであるという伝説でんせつがあり[1]、サモトラキとうはローマじん関心かんしんあつめた。カベイロスの興味きょうみち、おおくの有力ゆうりょくしゃ入信にゅうしんしたとつたえられる[1]。ローマの庇護ひごしたでサモトラケとう繁栄はんえいしたが、2世紀せいきすえだい地震じしんき、神域しんいきふく甚大じんだい被害ひがいけたサモトラケとう被害ひがいからなおること衰退すいたいしていった。4世紀せいきテオドシウス1せい異教いきょう全面ぜんめんてき禁止きんししたことから、カベイロスの消滅しょうめつしてしまう。

ひがしマ帝国まていこくは1204ねんまでしま支配しはいし、そのヴェネツィア共和きょうわこくがサモトラキを獲得かくとく。1355ねん一時いちじジェノヴァガッティルージにヴェネツィアがされたことがある。 15世紀せいき前半ぜんはんにはフィレンツェ旅行りょこうクリストフォロ・ブオンデルモンティや、アンコーナのキリアコスがこの踏査とうさし、歴史れきし地図ちず古代こだい遺跡いせき記録きろくのこしている[1]。 1457ねんオスマン帝国ていこくしま征服せいふく。1821ねんからのギリシャ独立どくりつ戦争せんそう住民じゅうみんおおくがたいトルコ反乱はんらんくわわり、おおくの人々ひとびと虐殺ぎゃくさつされ人口じんこうらした。1913ねんバルカン戦争せんそう結果けっかサモトラキはギリシャへ復帰ふっきした。だい世界せかい大戦たいせんなか短期間たんきかんブルガリア占領せんりょうされた。

社会しゃかい

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経済けいざい産業さんぎょう

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おも産業さんぎょう漁業ぎょぎょう観光かんこう

しま資源しげんには、花崗岩かこうがん玄武岩げんぶがんがある。

人口じんこう推移すいい

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とし 人口じんこう 増減ぞうげん しま全体ぜんたい人口じんこう 増減ぞうげん 密度みつど
1981ねん - - 2,871 - 16.13/km2
1991ねん 719 995/27.9% 3,083 +112/+3.90% 17.32/km2

行政ぎょうせい区画くかく

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サモトラキ
Σαμοθράκη
主要港であるカマリオティッサ
しゅ要港ようこうであるカマリオティッサ
所在地しょざいち
サモトラキの位置(ギリシャ内)
サモトラキ
サモトラキ
座標ざひょう 北緯ほくい4029ふん 東経とうけい2531ふん / 北緯ほくい40.483 東経とうけい25.517 / 40.483; 25.517座標ざひょう: 北緯ほくい4029ふん 東経とうけい2531ふん / 北緯ほくい40.483 東経とうけい25.517 / 40.483; 25.517
域内いきない位置いち
行政ぎょうせい
くに: ギリシャの旗 ギリシャ
地方ちほう: ひがしマケドニア・トラキア
けん: エヴロスけん
人口じんこう統計とうけい (2021ねん)
ディモス
 - 人口じんこう: 2,596 にん
 - 面積めんせき: 178.0 km2
 - 人口じんこう密度みつど: 15 にん/km2
その
標準時ひょうじゅんじ: EET/EEST (UTC+2/3)

自治体じちたい(ディモス)

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サモトラキΔήμος Σαμοθράκης)は、ひがしマケドニア・トラキア地方ちほうエヴロスけんぞくする基礎きそ自治体じちたいディモス)である。サモトラキはサモトラキとう1とうからなる。

交通こうつう

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北西ほくせいがんのカマリオティッサこうは、きたギリシャのアレクサンドルーポリカヴァラとをフェリーむすぶ。しま商業しょうぎょう空港くうこうはない。

文化ぶんか観光かんこう施設しせつ

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しまもっと有名ゆうめい場所ばしょは、カマリオティッサからひがしへ6キロメートルに位置いちする、サモトラキ神殿しんでんぐん(ギリシャHieron ton Megalon Theon)である。現存げんそんする遺構いこうおおくは4世紀せいき以降いこうつくられたものがほとんどだが、ピリッポス2せい紀元前きげんぜん340ねん寄進きしんした「テメノス」もしくは発見はっけんされたレリーフにちなんで「おど少女しょうじょたちのひじりしょ」とばれる遺構いこうや、プトレマイオスあさ王女おうじょアルシノエ2せい紀元前きげんぜん280ねん寄進きしんした円形えんけいどうアルシノエイオン、最終さいしゅう段階だんかいおこな神殿しんでんヒエロンの遺構いこうなどがある[1]

古代こだい都市とし遺跡いせきはパレオポリ(きゅう市街しがい)とばれ、北岸ほくがんにある。古代こだい城壁じょうへきのこり、サモトラキ神殿しんでんぐん同様どうようどっしりとしたサイクロピアン様式ようしきてられている。エレウシス対照たいしょうてきに、神話しんわ儀礼ぎれい奴隷どれい自由じゆうみん両方りょうほう参加さんかおこなわれていたという。

遺跡いせきぐん北西ほくせいには中世ちゅうせい城塞じょうさいあとと、紀元前きげんぜん3世紀せいき前半ぜんはんアンティゴノス・ゴナタス勝利しょうり記念きねんとして奉納ほうのうしたさんだんかいせん展示てんじした展示てんじホール、ネオリオンとストア遺構いこうがある[1]。 ここにはギリシャ神話しんわ女神めがみニケした、全長ぜんちょう2.5メートルの大理石だいりせきぞうサモトラケのニケ』があった。このぞうはフランスの考古こうこ学者がくしゃシャルル・シャンポワゾーによって1863ねん一部いちぶ発見はっけんされた。現在げんざいルーヴル美術館びじゅつかん収蔵しゅうぞうされている。

しまのみどころはのようなホラのきゅう市街しがい、いくつものたきがある。

出身しゅっしん人物じんぶつ

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脚注きゃくちゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • しゅうふじ芳幸よしゆき澤田さわだ典子のりこ古代こだいギリシア遺跡いせき事典じてん東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2004ねんISBN 978-4490106534 

外部がいぶリンク

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