(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ザ・リバティーンズ - Wikipedia コンテンツにスキップ

ザ・リバティーンズ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ザ・リバティーンズ
2014ねんのライブの様子ようす
基本きほん情報じょうほう
出身しゅっしん イングランドの旗 イングランドロンドン
ジャンル
活動かつどう期間きかん
レーベル
公式こうしきサイト thelibertines.com/
メンバー
きゅうメンバー

ザ・リバティーンズThe Libertines)は、イギリスロックバンドロンドン出身しゅっしん

概要がいよう

[編集へんしゅう]

ガレージロック・リバイバル・ムーブメントにおけるバンドの1つ。バンドの中心ちゅうしん人物じんぶつは、作詞さくし作曲さっきょく共同きょうどうおこなっていたカール・バラーピート・ドハーティ当初とうしょ目立めだった成功せいこうおさめられずにいたが、2000年代ねんだい前半ぜんはんからしだいに注目ちゅうもくあつめ、ついにはイギリスチャートでアルバム1、シングル2獲得かくとくするバンドとなった。2004ねん12月にリリースされた2ndアルバム『リバティーンズ革命かくめい』は、NME年間ねんかんベストアルバムで2えらばれた。なお、かれらの2まいのアルバムプロデューサーは、イギリスのパンク・ロックバンド、ザ・クラッシュミック・ジョーンズ担当たんとうした。

成功せいこう一方いっぽうで、バンド内部ないぶではドハーティのドラッグ中毒ちゅうどくクラック・コカインヘロイン)を原因げんいんとするトラブルがえず、結果けっかてきにこれが2004ねん解散かいさんにつながった。その、リバティーンズのメンバーはそれぞれのあたらしいバンド(ベイビーシャンブルズおよびダーティ・プリティ・シングス)で音楽おんがく活動かつどう継続けいぞくした。

2010ねん8がつには一時いちじてきさい結成けっせいたし[7]レディング・フェスティバルふくむいくつかのライヴをおこなった。2011ねんのインタビューでカール・バラーは将来しょうらいてき活動かつどう否定ひていした[8]ものの、その断続だんぞくてきにライブを継続けいぞく2014ねんはブリティッシュ・サマータイム・フェスティヴァルatハイドパークでヘッドライナーをつとめ、ヘッドライン・オブ・ザ・イヤーを受賞じゅしょうした[9]

2014ねん12月、あらたにVirgin/EMI Recordsと契約けいやくわしたと発表はっぴょう。ニュー・アルバムのリリースがまった。2015ねん6がつ26にち、シークレットゲストとしてグラストンベリーにて新曲しんきょくふくむ19きょく演奏えんそうした。2015ねん9がつ、3rdアルバムを発表はっぴょう

メンバー

[編集へんしゅう]

現在げんざいのメンバー

[編集へんしゅう]

きゅうメンバー

[編集へんしゅう]

タイムライン

[編集へんしゅう]

来歴らいれき

[編集へんしゅう]

結成けっせい〜ラフ・トレードとの契約けいやく

[編集へんしゅう]

ザ・リバティーンズの設立せつりつメンバーはカール・バラーピート・ドハーティ2人ふたり出会であったのは、バラーが大学だいがく演劇えんげきまなび、ドハーティのあねエイミー・ジョーとロンドンのリッチモンドでフラットをシェアしていたとき。ドハーティはべつ大学だいがくえい文学ぶんがくまなんでいた。このときドハーティは17さいであった[10]2人ふたりたがいの才能さいのう音楽おんがくへの情熱じょうねつづき、大学だいがく北部ほくぶロンドンのカムデン・ロードで共同きょうどう生活せいかつおくるようになる。[11]当初とうしょドハーティはバラーとザ・スミスモリッシー/マーのような歌手かしゅとギタリストの関係かんけいになろうとしていた[10]2人ふたりんでいたいえは、家賃やちんしゅう60ポンドやく1まん2000えん)でこわれた裏窓うらまどからはいむしかなく、ドハーティとバラーはシングルのマットレスで一緒いっしょていた[12]

隣人りんじんのスティーブ・バーロウ (Steve Bedlow〈一般いっぱんてきには、Scarborough Steveとばれる〉) とバンドを結成けっせいした。バンドめいをはじめ「ザ・ストランド (The Strand)」とし、のちに「ザ・リバティーンズ」とした。由来ゆらいは、マルキ・ド・サドの『ラスト・オブ・ザ・リバティーンズ (Lust of the Libertines)』から(「ジ・アルビオンズ〈The Albions〉」も検討けんとうされたがげされた)。ジョン・ハッサールジョニー・ボーレル出会であ練習れんしゅうおこなった。ボーレルが練習れんしゅうあらわれなくなり、ハッサールがベーシストとしてバンドにくわわった(ボーレルは、のちにレイザーライトのメンバーとなった)。この時点じてんでは、まだ固定こていてきなドラマーがいなかった。バンドはギグをおこなうようになり、おおくはドハーティとバラーのフラットが開催かいさいとなった。

3きょくレコーディングするために、プロデューサーにセックス・ピストルズ作品さくひん手掛てがけたことのあるグウィン・マシアス(Gwyn Mathias)をむかえ、オデッサ・スタジオへはいった。しかし、バンドは自分じぶんたちが用意よういしてきたドラマーに落胆らくたんし、 マシアスはポール・デュフール (Paul Dufour、別名べつめい:ミスター・ラズコックス〈Mr. Razzcocks〉) をヘルプとしてバンドにれた。デュフールは、50ポンドでレコーディングにくわわることを同意どういした。かれは54さいであり、のメンバーよりかなり年上としうえだった。年齢ねんれいおおきかったものの、デュフールはバンドにくわわったことで十分じゅうぶん感動かんどうしていた。バンドは、よりおおくのレコーディングをしはじめ、さらにとおくの開催かいさいでギグをするようになった。

2000ねん5がつ、バンドはワーナー・ミュージック・グループ弁護士べんごしであったペルシャじん女性じょせいのバニー (Banny Poostchi) と出会であった。バニーはバンドの潜在せんざいてき才能さいのう認識にんしきして、マネージャーをけた。『Legs 11』のレコーディングをおこなう。しかし、2000ねん12月になっても契約けいやくまらず、デュフール、ハッサール、バニーがバンドをはなれていく。[13]バニーはおなじようなスタイルで成功せいこうしているザ・ストロークスて、ラフ・トレード・レコードと6かげつ以内いない契約けいやくわす計画けいかくてる。この期間きかんにバンドはおおくのきょくげ、結果けっかてきに1stアルバムに収録しゅうろくされることになった。バニーはポール・デュフールの年齢ねんれいたかすぎるとかんがえ、ゲイリー・パウエルをドラマーとして加入かにゅうさせた。2001ねん12月、ラフ・トレードと契約けいやくわした。[14]

バンドはベーシストが必要ひつようとなり、ジョン・ハッサールが再度さいど加入かにゅうした。しかし、バンドの中心ちゅうしんはドハーティとバラーであるため、ハッサールはバックグラウンドにまることを通告つうこくされる。ドハーティとバラーは、ティーズデールどおり112aにあったフラットを一緒いっしょ賃借ちんしゃくし、アルビオン・ルームズ (The Albion Rooms) と名付なづけた(かれらのゲリラ・ギグのおおくの開催かいさいになった)。

『リバティーンズ宣言せんげん

[編集へんしゅう]

ラインナップがかたまったバンドは、よりおおくのギグをしはじめ、ザ・ストロークスザ・ヴァインズスーパーグラスオープニングアクトつとめた[15]。ミュージックプレスちゅう名前なまえひろがり、NMEはとくにリバティーンズへの関心かんしんった。

2002ねんりょうAめんシングルホワット・ア・ウェイスター/アイ・ゲット・ アロング」をリリースしてデビューをたす。プロデューサーはもとスウェードバーナード・バトラー。シングル発売はつばい同日どうじつエリザベス2せい女王じょおう即位そくい50周年しゅうねん記念きねん祝典しゅくてん開催かいさいされており、バッキンガム宮殿きゅうでんうちではロック・スター参加さんかのコンサートがおこなわれ、大々的だいだいてきにテレビ中継ちゅうけいされていた。彼等かれらはこれに対抗たいこうし、宮殿きゅうでんみちはさんだかいがわでギグを決行けっこう。さらにこのシングルをヴァージン・メガストア万引まんびきする(その模様もようのちにシングルとなる「ドント・ルック・バック・イントゥ・ザ・サン」のPVちゅう挿入そうにゅうされている)。こうしてバンドははん体制たいせいのヒーローとしての立場たちば確立かくりつした。シングルは放送ほうそう禁止きんし処分しょぶんとなったが、ぜんえい37記録きろく[16]

もとザ・クラッシュミック・ジョーンズをプロデューサーにむかえ、1stアルバムのレコーディングをおこなった[17]。レコーディングちゅうもバンドは可能かのうかぎおおくのギグをおこなっていた(セックス・ピストルズモリッシーオープニングアクトふくめ、2002ねんだけで100かい以上いじょう)。

2002ねん8がつサマーソニック出演しゅつえんし、はじめて日本にっぽんでライブをおこなった。ライブはたったの20ふん程度ていどだったが、ベストアクトの1つにげられた。ドハーティは、「日本にっぽんにいたときアルカディアにいるようだった」とコメント[14]

セカンドシングル「アップ・ザ・ブラケット」を9月30にちにリリースし、ぜんえい29記録きろくつづいて10がつ21にちに、1stアルバム『リバティーンズ宣言せんげん』をリリース。ぜんえい最高さいこう35どまりだったが世界中せかいじゅう音楽おんがくからたか評価ひょうかた。NMEアワーズで「ベスト・ニュー・バンド」にえらばれた。バラーがアルビオン・ルームズから独立どくりつしていく[18]

2003ねん4がつ日本にっぽんツアーを敢行かんこうした。やく2週間しゅうかん滞在たいざい期間きかんなかで、10かいのギグをおこなうという過密かみつなスケジュールのせいもあってか、札幌さっぽろ公演こうえんではドハーティが2きょく機材きざいすべ破壊はかいする事件じけんこす[16]。ギター1ほんとツイン・ヴォーカルで札幌さっぽろ公演こうえんえた[19]

メンバーあいだ関係かんけい悪化あっか

[編集へんしゅう]

『リバティーンズ宣言せんげん』のレコーディングとリリースのツアーちゅう、ドハーティのドラッグ使用しようりょう大幅おおはば増加ぞうかしていき、のメンバーとの関係かんけいわるくなっていく。バンドは気難きむずかしくなり、パフォーマンスのなかにも緊張きんちょう状態じょうたいれるようになった。

2003ねん5がつニューヨークで『Babyshambles Sessions』のレコーディングをおこなう。 バンドへの決意けついしるしとして、ドハーティとバラーはうでタトゥー "Libertine" をれた。しかし、バラーはドハーティのドラッグとその関係かんけいしゃ嫌気いやけがさし、セッションを途中とちゅうでやめ、ドハーティはひとりでレコーディングをえた。セッションはヘレン・スーとばれるファンにあたえられ、インターネットで無料むりょう公開こうかいされた(ドハーティが命令めいれいしたとされている)。

イギリスにもどると2人ふたり関係かんけいはさらにわるくなり、ドハーティはひとりでゲリラ・ギグをおこなうようになった。バーナード・バトラーをプロデューサーにむかえて「ドント・ルック・バック・イントゥ・ザ・サン」のレコーディングをおこなうが、ドハーティとバトラーの関係かんけいがうまくいかず、ドハーティはめったにレコーディングにあらわれなかった。

バラーの誕生たんじょうちかづいてきたとき、ドハーティはバラーとのあいだ緊張きんちょうやわらげようと、誕生たんじょういわ特別とくべつなギグを企画きかくした。しかし、バラーはすでに友人ゆうじんひらいてくれたパーティへ出席しゅっせきしており、ギグにくことができなかった。ギグでは、ひとり演奏えんそうするドハーティがのこされた。

バラーがシークレット・ギグにあらわれなかったのち、ドハーティはバンドのヨーロッパ・ツアーへの出発しゅっぱつ時間じかん姿すがたあらわさなかった[20]。ドハーティはこのとき裏切うらぎられたとかんじ、バラーと接触せっしょくするのをこばんでいた。バンドはニックというわりのギタリストをむかえ、ドハーティきでツアーを敢行かんこうした。ドイツのライブでは、ザ・クーパー・テンプル・クロースのディズ・ハモンドがボーカルとしてバンドをサポートした[16]途中とちゅうドハーティがパリのギグから合流ごうりゅうしようとするが、ドラッグ問題もんだい理由りゆうにバンドへもどることを拒否きょひされる[21]。そのあいだ、ドハーティはベイビーシャンブルズとして活動かつどうつづけた。7月、バンドはフジ・ロック・フェスティバル出演しゅつえんのために日本にっぽんかった。バンドが日本にっぽん滞在たいざいちゅういかみだしたドハーティがバラーのフラットに機材きざいとうぬすみに侵入しんにゅうし、逮捕たいほされるという事件じけんこした[22][23]

混乱こんらんなか、シングル「ドント・ルック・バック・イントゥ・ザ・サン」がリリースされる。ドハーティ逮捕たいほ話題わだいもあいまってぜんえい11にまでのぼりつめた。ドハーティの代役だいやくアンソニー・ロッソマンドむかえてレディング・フェスティバル出演しゅつえん。9月、ドハーティが住居じゅうきょ侵入しんにゅうざいで、2かげつ実刑じっけいしょせられる。ドハーティの保証人ほしょうにんにバラーがならなかったことに、ファンが非難ひなんびせた。

『リバティーンズ革命かくめい』〜活動かつどう停止ていし

[編集へんしゅう]

ドハーティ釈放しゃくほう、バラーがもんまえまでむかえにき、2人ふたりあつ抱擁ほうようわした。このばんないとおもわれていたハッサールとパウエルもくわわり、チャタムのクラブ「タップ・アンド・ティン」でドハーティ復活ふっかつ記念きねんのギグをおこなった[24]。NMEギグ・オブ・ザ・イヤーにえらばれる[18]。2003ねん12月の中頃なかごろ、ロンドン・フォーラムで3にち連続れんぞくギグをおこない、すべてソールド・アウトとなった。最終さいしゅうよるには、大勢おおぜいのファンがステージへがってきた[25][26]つづけて2004ねん3がつ、UKツアーをおこなう。

バニーにわり、クリエイション・レコーズ創立そうりつしゃアラン・マッギーがマネージャーとなった(のちにアラン・マッギーは、ダーティ・プリティ・シングスのマネージャーになった)。2ndアルバム制作せいさくのためにバーナード・バトラーとスタジオりするが、ドハーティとバトラーの関係かんけいがうまくいかず、すぐにやめてしまう。前年ぜんねん公式こうしきリリースされたのは「ドント・ルック・バック・イントゥ・ザ・サン」だけであったにもかかわらず、NMEアワーズでベスト・ブリティッシュ・バンドにえらばれた。授賞じゅしょうしきで「ドント・ルック・バック・イントゥ・ザ・サン」を披露ひろう。また、しきでドハーティとバラーは、ジークフリート・サスーンSuicide in the Trenches」をとも暗唱あんしょうした[27]

ミック・ジョーンズがプロデューサーに復帰ふっきし、スタジオりする。しかし、ドハーティのドラッグへきもどり、バラーとの関係かんけいめたものになる。レコーディング初日しょにち2人ふたりだい喧嘩けんかをし、2人ふたり喧嘩けんかからはなすためにセキュリティーがやとわれた[28]。ドハーティはリバティーンズのかたわら、友人ゆうじんのウルフマンとコラボレートし、シングル「フォー・ラヴァーズ」をリリース。ぜんえい7記録きろく。バラーは、ウルフマンとドハーティのドラッグへきこころよおもわなかったが、Bめんにギターで参加さんかした。アルバムのレコーディングをえるとドハーティはミキシングとアフレコをものまかせて、スタジオからってしまう。ドハーティがまともな状態じょうたいではなく、レコーディングできたのはわずか10日間にちかんであった[29]。2004ねん5がつ14にち、ドハーティはドラッグ中毒ちゅうどくつため、プライオリーへはい[30][31]。しかし、すぐにドハーティはプライオリーから[32]、1もどるが、1週間しゅうかんの6がつ7にちふたたした[33]

このあいだ、バラーはウエスト・エンドひら予定よていのクラブナイト「ダーティ・プリティ・シングス」の準備じゅんびをしていた[34]。ドハーティは、プライオリーを2かいしたに、クラブナイトのオープニング・パーティーへかおした。バンドメンバーに薬物やくぶつ治療ちりょうのためタイワット・タムクラボークへリハビリに決意けついかたった[35]。このばん楽器がっきまわりからりながらみじかいセットのギグをおこなった[36][37]。そして、これがリバティーンズ全員ぜんいんそろっての最後さいごのパフォーマンスとなった。

リハビリはふたた失敗しっぱいわり、ドハーティは寺院じいんを3日間にちかんり、ドラッグをもとめてバンコクかった[38]契約けいやくじょう、これ以上いじょうギグをキャンセルするわけにはいかないバンドは、ふたたびロッソマンドを代役だいやくむか活動かつどう再開さいかい。6月17にち、ドハーティがイングランドへ帰国きこくしたそのに、刃物はもの不法ふほう所持しょじ逮捕たいほされる[39]。9月1にち、ドハーティはロンドンの裁判所さいばんしょ出廷しゅっていし、無実むじつ主張しゅちょう。4かげつ実刑じっけいになる可能かのうせいがあったが、執行しっこう猶予ゆうよ12かげつになり実刑じっけいまぬかれた[40]。バラーは、ドハーティをすぐにはバンドへもどさなかったが、「ドハーティがドラッグ問題もんだい解決かいけつすれば、すぐにでもバンドへの復帰ふっき歓迎かんげいする」という声明せいめいぶん[41]。しかし、ドハーティはあたらしくはじめたベイビーシャンブルズとしてツアーを敢行かんこう成功せいこうし、バンドとの和解わかい可能かのうせいとおざけた[42]

2004ねん7がつフジ・ロック・フェスティバル出演しゅつえんのために、薬物やくぶつ問題もんだい解決かいけつしないドハーティきで日本にっぽんかった。8月、サマーソニック出演しゅつえん。コメディ・ステージでのライブであったがおおくの観客かんきゃくあつめた。

2ndアルバムからの1stシングル「キャント・スタンド・ミー・ナウ」をリリースし、ぜんえい2記録きろくすえまんもたして2ndアルバム『リバティーンズ革命かくめい』をリリースし、ぜんえい1記録きろく。11月、ラストシングル「ホワット・ビケイム・オブ・ザ・ライクリー・ラッズ」をリリースし、ぜんえい9記録きろく。バンドは最後さいご日本にっぽん公演こうえんおこない、全国ぜんこく7かしょしゅうった。

12月17にち、ドハーティ不在ふざいのままパリで最後さいごのギグをおこなった。期限きげん活動かつどう停止ていし事実じじつじょう解散かいさん)を宣言せんげんし、活動かつどうにピリオドを[43]

2005ねん2がつ、NMEアワーズで2ねん連続れんぞくでベスト・ブリティッシュ・バンドにえらばれた。授賞じゅしょうしきでバラーは「ピートにえなかったのは残念ざんねん。キスして仲直なかなおりするはずだったのに」と、コメント。

その、ドハーティはベイビーシャンブルズ、バラーとパウエルはダーティ・プリティ・シングス、ハッサールはイエティでそれぞれ活動かつどうしている。

さい結成けっせい

[編集へんしゅう]

ドハーティとバラーの2人ふたりは、リバティーンズ解散かいさんすうげつあいだ連絡れんらくっていた。しかし、2005ねん4がつ18にち午後ごご1130ふんごろ2人ふたり北部ほくぶロンドン・ハイゲイトのザ・ブーガールー・バーで再会さいかいした。この再会さいかい友好ゆうこうてきなものとわれている。2人ふたり再会さいかいしたのは、ドハーティがタイへ直前ちょくぜんって以来いらいやく10かげつぶりであった。2人ふたり最初さいしょ神経質しんけいしつになっていたが、抱擁ほうようたがいをむかい、ソファーにすわって会話かいわをした。[44][45]

つぎ再会さいかいは、2006ねん7がつ18にち、カムデンのダブリン・キャッスル・パブでおこなわれた[46][47]

NMEアワーズ2007で、ドハーティとバラーは再会さいかいし、バーへまえにテーブルでしばらくはなしをした[48]2人ふたりうのはダブリン・キャッスルのとき以来いらいだったが、本当ほんとうにうまくやっている様子ようすだったとNMEは報告ほうこくしている[49]

2007ねん4がつ12にち、ハックニー・エンパイア劇場げきじょうでドハーティのソロ・パフォーマンスにバラーが参加さんか。そのでドハーティとバラーによるリユニオンがおこなわれ、「タイム・フォー・ヒーローズ」など、リバティーンズのトラックが合計ごうけい13きょく演奏えんそうされた。コンサートがわりバックステージのまどから即興そっきょうギグもおこなわれ、そとかまえていたファンを熱狂ねっきょうさせた[50]

しかし、ドハーティ、バラーども共演きょうえんは1かいかぎりだと発言はつげんしている。バラーはダーティ・プリティ・シングスのニューアルバムに専念せんねんしているとインタビューにこたえた。一方いっぽう、ドハーティはソロ・アコースティック・アルバムにくわえ、ニューアルバム制作せいさくためにスタジオへはいることをあきらかにした。[51][52]

2007ねん6がつビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』40周年しゅうねん記念きねんカヴァー・アルバムのために、ドハーティとバラーが「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」をレコーディングした。2人ふたり一緒いっしょにレコーディングするのは、2004ねん4がつ以来いらいであった。[53][54]

グラストンベリー・フェスティバル日曜日にちようびのドハーティのソロ・アコースティック・ショーにバラーが参加さんかするのではないかといううわさながれた。ベイビーシャンブルズ、ダーティ・プリティ・シングスどもに、土曜日どようびのステージへは出演しゅつえんしたが、日曜日にちようび共演きょうえんおこなわれなかった。しかし、ドハーティはリバティーンズのトラックでアコースティック・ショーをスタートさせるなど、おもいがけないセットを披露ひろうした。[55]

ドハーティとバラーが、ロンドンのドンマー・ウエアハウスのためにロックンロール・ミュージカルをコラボレーションする予定よていだと報道ほうどうされた[56]。しかし、のちにバラーは、ドハーティと新曲しんきょく制作せいさくしているといううわさ否定ひていした[57]

2008ねん7がつのインタビューで、バラーはリバティーンズについて「やりかけの仕事しごと」とはなした。また、ドハーティと一緒いっしょにいたとき純粋じゅんすいさをわすれることができないともはなした。リバティーンズさい結成けっせい質問しつもんには「たぶん」とこたえている。[58][59]

2008ねん9がつ17にち、ドハーティはカムデンのプリンス・オブ・ウェールズ・パブでプライベート・ギグをおこなっていた。終盤しゅうばんかったところ、かつてのバンドメイトのギグに参加さんかするために、バラーがセキュリティにみちびかれてステージへがった。このリユニオンは突発とっぱつてきおこなわれたものとおもわれる。「ドント・ルック・バック・イントゥ・ザ・サン」や「タイム・フォー・ヒーローズ」、オアシスの「ドント・ルック・バック・イン・アンガー」などを演奏えんそうした。2人ふたりおおやけ一緒いっしょ演奏えんそうするのは2007ねん4がつのリユニオン以来いらいであった。また、バラーはあたらしくタトゥー「let's put our futures behind us」を前腕ぜんわんれたことをはなした。[60][61]

2008ねん10がつ1にち、カール・バラーひきいるダーティ・プリティ・シングスが2週間しゅうかんのUKツアーののち解散かいさんすることが発表はっぴょうされた。声明せいめいによると、バンドはあたらしいことをはじめる時期じきがきたということ。しかし、あたらしいこととは、リバティーンズのことではないとくわえている。[62][63]

2009ねん2がつ、ドハーティはレディング・フェスティバルからすうおくえんさい結成けっせいのオファーをけていたことをかした。しかしながら、バラーがでなかったためことわっていた。[64]バラーはインタビューに「バンドを解散かいさん自由じゆうになれたばかりで、さい結成けっせいのことであたまをいっぱいにするのはいやだ。いまはダメだ。」とこたえている[65]

2009ねん2がつ、NMEアワーズでのインタビューで、バラーは2人ふたりはまだリバティーンズのままであるとこたえている。ドハーティは、2010ねんにはバラーを説得せっとくできるとの予想よそうはなした。また、バラーはソロ・アルバムをリリースする可能かのうせいほのめかした。[66][67]

2009ねん5がつ15にち、ロンドンのリズム・ファクトリーで、バラー、ドハーティ、パウエルの3にんがライブをおこなった。これは生前せいぜんバンドが世話せわになっていたジョニー・セダッシーの追悼ついとうイベントであった。ハッサールは参加さんかせず、ベイビーシャンブルズのドリュー・マコーネルが代役だいやくつとめた。演奏えんそうされたきょくは「ホワット・ア・ウェイスター」「アップ・ザ・ブラケット」「キャント・スタンド・ミー・ナウ」など。[68][69]

音楽おんがくせい

[編集へんしゅう]

ドハーティとバラーはことなった音楽おんがくてき影響えいきょうけてきた。ドハーティはおもザ・ジャムザ・スミスチャス・アンド・デイヴ、ジ・オンリーワンズから、バラーはヴェルヴェット・アンダーグラウンド[70]ジャンゴ・ラインハルトザ・クラッシュドアーズから影響えいきょうけている。ほんでは、ドハーティはウィリアム・ブレイクエミリー・ディキンソントーマス・チャタートンなどをこのみ、バラーはサキエドワード時代じだい機知きちんだものをこのんだ。

レコーディングは、かなりローファイおこなわれた。ミキシングアフレコ最小限さいしょうげんおさえられ、最終さいしゅうてきにレコーディングされたおとなまちかく、洗練せんれんされていないものとなった。リバティーンズの登場とうじょうにより、それまでアメリカ一辺倒いっぺんとうだったUKチャートへ、おおくのイギリス新人しんじんバンドがあらわれるようになった[28]ザ・ビュー[71]ザ・ピジョン・ディテクティヴズ[72]ザ・メトロス[73]など、後進こうしんのバンドへ影響えいきょうあたえている。

来日らいにち公演こうえん 

[編集へんしゅう]
  • 2002ねん
    • 8/17,8/18 大阪おおさか/東京とうきょう SUMMER SONIC '02
  • 2003ねん
    • "THE LIBERTINES JAPAN TOUR 2003"
      • 4/8  名古屋なごや CLUB QUEATTRO
      • 4/9  心斎橋しんさいばし CLUB QUATTRO
      • 4/10 福岡ふくおか DRUM LOGOS
      • 4/11 京都きょうと CLUB METRO
      • 4/13 新宿しんじゅく LIQUID ROOM
      • 4/14 新宿しんじゅく LIQUID ROOM
      • 4/15 原宿はらじゅくアストロホール /MO'SOME TONEBENDER
      • 4/16 仙台せんだい CLUB JUNK BOX
      • 4/17 札幌さっぽろ PENNY LANE 24
      • 7/25 FUJI ROCK FESTIVAL'03(ピートは不参加ふさんか
  • 2004ねん(ぜん公演こうえんピートは不参加ふさんか
    • 8/1 FUJI ROCK FESTIVAL'04
    • 8/3 SHIBUYA-AX
    • “THE LIBERTINES JAPAN TOUR 2004”
      • 11/24 広島ひろしま CLUB QUATTRO
      • 11/25 福岡ふくおか Zepp Fukuoka
      • 11/27 名古屋なごや CLUB DIAMOND HALL
      • 11/29 東京とうきょう Zepp Tokyo
      • 12/1 川崎かわさき CLUB CITTA'
      • 12/2 大阪おおさか なんばHatch
      • 12/3 京都きょうと CLUB METRO

ディスコグラフィ

[編集へんしゅう]

アルバム

[編集へんしゅう]
発売はつばいねん タイトル UKチャート
2002ねん リバティーンズ宣言せんげん (Up The Bracket) 35
2004ねん リバティーンズ革命かくめい (The Libertines) 1
2007ねん ベスト・オブ・ザ・リバティーンズ〜TIME FOR HEROES
(Time for Heroes - The Best of The Libertines)
23
2015ねん リバティーンズ再臨さいりん (Anthems for Doomed Youth) 3

シングル

[編集へんしゅう]
発売はつばいねん タイトル UKチャート
2002ねん ホワット・ア・ウェイスター (What A Waster) 37
アップ・ザ・ブラケット (Up The Bracket) 29
2003ねん タイム・フォー・ヒーローズ (Time For Heroes) 20
ドント・ルック・バック・イントゥ・ザ・サン
(Don't Look Back Into The Sun)
11
2004ねん キャント・スタンド・ミー・ナウ (Can't Stand Me Now) 2
ホワット・ビケイム・オブ・ザ・ライクリー・ラッズ
(What Became Of The Likely Lads)
9

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ Barrett, Christopher (August 28, 2004). “Libertines' New Set Targets U.K. Peak”. Billboard (Nielsen Business Media) 116 (35): 57. ISSN 0006-2510. 
  2. ^ Lipshutz, Jason (2011ねん3がつ23にち). “Top 10 Garage Rock Revival Bands: Where Are They Now?”. Billboard. 2023ねん4がつ26にち閲覧えつらん
  3. ^ a b Phares, Heather. The Libertines Biography, Songs, & Albums - オールミュージック. 2023ねん4がつ26にち閲覧えつらん
  4. ^ Edgar, Robert; Mann, Fraser; Pleasance, Helen, eds (2019). Music, Memory and Memoir. Bloomsbury Publishing. p. 100. ISBN 978-1-501-34066-6 
  5. ^ Lowe, Pearl (2022). “Rock-n-Roll by the Sea”. CICO Books. p. 278. ISBN 978-1-800-65145-6 
  6. ^ Christopher, David P. (2015-04-24). British Culture: An Introduction. Routledge. p. 260. ISBN 978-1-317-56948-0 
  7. ^ リバティーンズ、さい結成けっせいギグ
  8. ^ カール・バラー、ザ・リバティーンズに「未来みらいはない」と断言だんげん
  9. ^ リバティーンズ、最優秀さいゆうしゅうヘッドライナーに Barks 2014ねん12月3にち
  10. ^ a b Pete Doherty meets Paul McCartney」 guardian.co.uk、2007ねん10がつ14にち
  11. ^ Toby L 「The Libertines - Various, UK, Throughout 2002」 rockfeedback.com、2004ねん2がつ9にち
  12. ^ カール、ピートとの共同きょうどう生活せいかつかた」 BARKS、2006ねん9がつ27にち
  13. ^ Free Williamsburg 「Free Williamsburg」 2004ねん9がつ
  14. ^ a b The Libertines - bounce.com 連載れんさい」 bounce.com、2002ねん12月19にち
  15. ^ The Libertines Interview」 BBC New、2002ねん10がつ28にち
  16. ^ a b c Biography」 RESERVOIR RECORDS。
  17. ^ The Libertines M.ジョーンズがデビューさくをプロデュース」 VIBE、2002ねん8がつ23にち
  18. ^ a b ピーター・ドハーティ ライヴ伝説でんせつ」 2007ねん11月。
  19. ^ ピーター・ドハーティ 目撃もくげきだん」 2007ねん10がつ
  20. ^ The Libertines ピート脱走だっそう解散かいさん危機きき!?」 VIBE、2003ねん6がつ19にち
  21. ^ ザ・リバティーンズ、ドハーティ脱退だったい? バンド存続そんぞく危機きき!?」 BARKS、2003ねん6がつ27にち
  22. ^ ザ・リバティーンズのピーター、住居じゅうきょ侵入しんにゅう窃盗せっとうざい逮捕たいほ」 BARKS、2003ねん7がつ30にち
  23. ^ The Libertines 窃盗せっとうつみ服役ふくえきしていたピートが釈放しゃくほうされる」 VIBE、2003ねん10がつ9にち
  24. ^ 刑期けいきえたピーターがザ・リバティーンズに復帰ふっき」 BARKS、2003ねん10がつ10日とおか
  25. ^ Masters and commanders」 The Observer、2003ねん12月21にち
  26. ^ The Libertines ロンドンでの3日間にちかん連続れんぞくコンサートにまくじる」 VIBE、2003ねん12月22にち
  27. ^ The Libertines ピートがラジオで朗読ろうどく披露ひろう!」 VIBE、2005ねん02がつ28にち
  28. ^ a b いもうとさわ奈美なみ 「『リバティーンズ革命かくめい日本にっぽんばんライナーノーツ」
  29. ^ The Libertines - bounce.com インタビュー」 bounce.com、2004ねん9がつ24にち
  30. ^ Peter Doherty Admitted To The Priory」 xfm.co.uk、2004ねん5がつ17にち
  31. ^ The Libertines ピートが薬物やくぶつ中毒ちゅうどく克服こくふくのためリハビリ・センターに入所にゅうしょ」 VIBE、2004ねん5がつ18にち
  32. ^ Pete Libertines leaves drug rehab」 NME.com、2004ねん5がつ24にち
  33. ^ The Libertines ピート、またもや失踪しっそう」 VIBE、2004ねん6がつ8にち
  34. ^ The Libertines クラブ・イベントにすけまじえて登場とうじょう」 VIBE、2004ねん6がつ7にち
  35. ^ ピート、はやくもリバティーンズに復活ふっかつ」 BARKS、2004ねん6がつ9にち
  36. ^ Pete rejoins The Libertines」 NME.com、2004ねん6がつ8にち
  37. ^ The Libertines ピートがバンドに復帰ふっき」 VIBE、2004ねん6がつ9にち
  38. ^ リバティーンズのピート、はやくもリハビリを拒絶きょぜつ」 BARKS、2004ねん6がつ15にち
  39. ^ ザ・リバティーンズのピート、凶器きょうき所有しょゆう逮捕たいほ」 BARKS、2004ねん6がつ21にち
  40. ^ リバティーンズのピート、実刑じっけいまぬかれる」 BARKS、2004ねん9がつ2にち
  41. ^ リバティーンズ、ピートきでショウを続行ぞっこう」 BARKS、2004ねん7がつ1にち
  42. ^ リバティーンズのピート、ソロでUKツアーを」 BARKS、2004ねん7がつ21にち
  43. ^ カール、リバティーンズの将来しょうらいについてかた」 BARKS、2005ねん1がつ6にち
  44. ^ Libertines Reunion」 NME.com、2005ねん4がつ18にち
  45. ^ リバティーンズ、カールとピートが再会さいかい」 BARKS、2005ねん4がつ20日はつか
  46. ^ リバティーンズ、カールとピートがパブで再会さいかい」 BARKS、2006ねん7がつ21にち
  47. ^ Libertines reunion」 NME.com、2006ねん7がつ20日はつか
  48. ^ カール、ピートと共演きょうえんのきっかけをかた」 BARKS、2007ねん4がつ17にち
  49. ^ NME 2007ねん3がつ10日とおか、page 39
  50. ^ ついに、ピートとカールがステージで共演きょうえん」 BARKS、2007ねん4がつ16にち
  51. ^ The Libertines speak about reunion」 NME.com、2007ねん4がつ25にち
  52. ^ ピート&カール、『リバティーンズのさい結成けっせいはない』」 BARKS、2007ねん4がつ26にち
  53. ^ Libertines Pete and Carl reunite for Beatles recording」 NME.com、2007ねん6がつ15にち
  54. ^ カールとピート、『Sgt. Pepper's』でデュエット」 BARKS、2007ねん6がつ18にち
  55. ^ カール、グラストンでピートとの共演きょうえんはないが結婚けっこん」 BARKS、2007ねん6がつ25 にち
  56. ^ ピートとカール、ミュージカルを制作せいさく」 BARKS、2008ねん3がつ4にち
  57. ^ Pete Doherty and Carl Barat 'not working together again'」 NME.com、2008ねん6がつ3にち
  58. ^ Carl Barat: 'The Libertines have unfinished business'」 NME.com、2008ねん7がつ6にち
  59. ^ リバティーンズにさい結成けっせいひかり!」 TSUTAYA online、2008ねん07がつ08にち
  60. ^ MTV UK: Pete & Carl Together Again
  61. ^ もとザ・リバティーンズのピート・ドハーティーとカール・バラー、ロンドンでライブ共演きょうえん」 RO69、2008ねん9がつ20日はつか
  62. ^ Dirty Pretty Things Official Announcement」 Dirty Pretty Things | Official website、2008ねん10がつ1にち
  63. ^ ダーティ・プリティ・シングス、解散かいさん」 BARKS、2008ねん10がつ2にち
  64. ^ ザ・リバティーンズ、レディングからさい結成けっせい依頼いらいける」 BARKS、2009ねん2がつ11にち
  65. ^ カール『リバティーンズのさい結成けっせいより俳優はいゆうへのみち」 BARKS、2009ねん2がつ13にち
  66. ^ ピート・ドハーティ、『リバティーンズさい結成けっせいは2010ねん』?!」 RO69、2009ねん3がつ2にち
  67. ^ ピート・ドハーティ『リバティーンズをさい結成けっせいするようカールを説得せっとくする』」 BARKS、2009ねん2がつ27にち
  68. ^ リバティーンズ、さい結成けっせい(のようなもの)」 BARKS、2009ねん5がつ20日はつか
  69. ^ ザ・リバティーンズさい結成けっせい? カール・バラー、今後こんごのライブ予定よていかた」 RO69、2009ねん5がつ20日はつか
  70. ^ リバティーンズぶし健在けんざい! 抜群ばつぐんのメロディとせつなさの2nd登場とうじょう」 BARKS、2004ねん8がつ31にち
  71. ^ HARD TO EXPLAIN
  72. ^ マンスリープッシュ」 VIBE、2007ねん5がつ18にち
  73. ^ インタビュー」 VIBE、2008ねん8がつ26にち

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]