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シネマスコーレ

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シネマスコーレ
Cinema Skhole
情報じょうほう
正式せいしき名称めいしょう シネマスコーレ
完成かんせい 1983ねん
開館かいかん 1983ねん2がつ19にち
客席きゃくせきすう 51せき
設備せつび ドルビーステレオ
用途ようと 映画えいが上映じょうえい
運営うんえい 有限ゆうげん会社かいしゃシネマスコーレ
所在地しょざいち 453-0015
愛知あいちけん名古屋なごや中村なかむら椿つばきまち8-12
:アートビル1かい
位置いち 北緯ほくい3510ふん10.8びょう 東経とうけい13652ふん44.1びょう / 北緯ほくい35.169667 東経とうけい136.878917 / 35.169667; 136.878917座標ざひょう: 北緯ほくい3510ふん10.8びょう 東経とうけい13652ふん44.1びょう / 北緯ほくい35.169667 東経とうけい136.878917 / 35.169667; 136.878917
アクセス JR名古屋なごやえき太閤通たいこうとおりこうより西にし徒歩とほやく2ふん
外部がいぶリンク http://www.cinemaskhole.co.jp/
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ホール
シネマスコーレがはいるアートビル

シネマスコーレ(Cinema Skhole)は、愛知あいちけん名古屋なごや中村なかむら椿つばきまちにある映画えいがかんミニシアター)。「スコーレ」はラテン語らてんごで「学校がっこう」を意味いみする[1][2]

歴史れきし[編集へんしゅう]

開館かいかん[編集へんしゅう]

開館かいかん当時とうじのオーナーは映画えいが監督かんとくでもある若松わかまつ孝二こうじである[1]若松わかまつは「わか映画えいが製作せいさくしゃ自分じぶんおもうような映画えいがつくっても、現実げんじつてきにメジャー作品さくひん配給はいきゅうする映画えいがかんではそれを上映じょうえいすることがむずかしい」とかんがえ、提供ていきょうすることを目的もくてきとして映画えいがかんつくりたいとかんがえていた[1]当初とうしょ東京とうきょう新宿しんじゅく映画えいがかん開館かいかんさせる予定よていだったが、条件じょうけん土地とちやビルがなく断念だんねんせざるをなかった。[よう出典しゅってん]

若松わかまつ知人ちじん保有ほゆうする名古屋なごやえき西側にしがわのビルをり、[よう出典しゅってん]1983ねん昭和しょうわ58ねん)2がつ19にちにシネマスコーレが開館かいかんした[3][2]支配人しはいにんとして、池袋いけぶくろ文芸ぶんげいにいた木全きまた純治すみはる就任しゅうにんした。

木全きまた純治すみはる支配人しはいにん時代じだい[編集へんしゅう]

1992ねん平成へいせい4ねん以降いこうには若松わかまつ知人ちじん深作ふかさく欣二きんじ監督かんとく滝田たきた洋二郎ようじろう監督かんとく阪本さかもと順治じゅんじ監督かんとくらをゲストにまねいた映画えいが合宿がっしゅく主宰しゅさいし、この映画えいが合宿がっしゅくからはおおくの映画えいがじんまれた[4]。2003ねん平成へいせい15ねん)に開館かいかん20周年しゅうねんむかえたさい、フラットだったホールない傾斜けいしゃけて鑑賞かんしょうしやすくした[2]

2012ねん平成へいせい24ねん)10がつ17にち、オーナーの若松わかまつ交通こうつう事故じこ死去しきょ[5]、シネマスコーレでは追悼ついとう上映じょうえいおこなわれた[4]松江まつえ哲明てつあき監督かんとくの『フラッシュバックメモリーズ 3D英語えいごばん』を上映じょうえいするため、2012ねん平成へいせい24ねんまつには日本にっぽんのミニシアターとしてははじめて3Dシステム導入どうにゅうした[6]

2018ねん平成へいせい30ねん)7がつ2にちには上田うえだ慎一郎しんいちろう監督かんとくてい予算よさん製作せいさくしたインディーズ映画えいがカメラをめるな!』を公開こうかいし、連日れんじつ満席まんせきとなってとなるだいヒットを記録きろくした[7]。シネマスコーレはK's cinemaシネマ・ロサいではや上映じょうえいした映画えいがかんである。

坪井つぼい篤志あつし支配人しはいにん時代じだい[編集へんしゅう]

2023ねんれい5ねん)2がつ19にちには開館かいかん40周年しゅうねん記念きねん上映じょうえいかいとトークショーが開催かいさいされた[8]同日どうじつには2代目だいめ支配人しはいにん坪井つぼい篤志あつし就任しゅうにんし、木全きまた純治すみはるはシネマスコーレの代表だいひょうとなった[8]開館かいかん40周年しゅうねん記念きねん企画きかくとして若松わかまつプロダクションをモデルとする映画えいがめられるか、おれたちを』が製作せいさくされ[8]名古屋なごやえき表側おもてがわにあるミッドランドスクエアシネマなどで全国ぜんこく公開こうかいされた。俳優はいゆう東出ひがしであきらだい木全きまたやくを、俳優はいゆう井浦いうらしん若松わかまつやくえんじている。開館かいかん40周年しゅうねん記念きねんとして『えよ!インディーズ2』が刊行かんこうされた[8]

上映じょうえい作品さくひん[編集へんしゅう]

名古屋なごやえき太閤通たいこうとおりこう路地ろじ一角いっかくにある[2]。メジャー配給はいきゅう会社かいしゃあつかわない小規模しょうきぼ作品さくひん自主じしゅ映画えいが積極せっきょくてき上映じょうえいしている[4]

若松わかまつ孝二こうじピンク映画えいが映画えいが監督かんとくデビューしており、当初とうしょしん東宝とうほうのピンク映画えいがなどを上映じょうえいしていた[8]。1980年代ねんだい中頃なかごろには韓国かんこく・インド・中国ちゅうごくなどのアジア映画えいが製作せいさくさかんになり、開館かいかん4ねんの1986ねん昭和しょうわ61ねん)にはアジア映画えいが主体しゅたいとするかたちいた[8]また、1980年代ねんだい後半こうはんからは黒澤くろさわあきら小津おつあん二郎じろうなど日本にっぽん巨匠きょしょう作品さくひんや、市川いちかわ雷蔵らいぞう主演しゅえんねむり狂四郎きょうしろうシリーズ、マキノ正博まさひろ時代じだいげき集中しゅうちゅう上映じょうえいするようになった。[よう出典しゅってん]

基礎きそ情報じょうほう[編集へんしゅう]

所在地しょざいち
交通こうつうアクセス

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c 若松わかまつ孝二こうじかくかたりき シネマスコーレ
  2. ^ a b c d シネマスコーレ 港町みなとちょうキネマどお
  3. ^ 映画えいがかん開場かいじょうした若松わかまつ監督かんとく」『映画えいがとも』1983ねん4がつごう
  4. ^ a b c 反骨はんこつ才人さいじん若松わかまつ孝二こうじ監督かんとく映画えいがはずっとつづけることができる」 Movie Walker Press、2012ねん10がつ23にち
  5. ^ 若松わかまつ孝二こうじ監督かんとく交通こうつう事故じこ死去しきょ 映画えいが.com、2012ねん10がつ18にち
  6. ^ ひがし静岡しずおか名古屋なごやしん百合ケ丘ゆりがおかでフラッシュバックメモリーズ!”. GOMA (2013ねん9がつ16にち). 2018ねん7がつ22にち閲覧えつらん
  7. ^ インディーズ映画えいが逆襲ぎゃくしゅう『カメラをめるな!』」『中日新聞ちゅうにちしんぶん』2018ねん8がつ20日はつか
  8. ^ a b c d e f 名駅めいえき西にし映画えいがかん「シネマスコーレ」が開館かいかん40周年しゅうねん 記念きねんトークショーでしん支配人しはいにん発表はっぴょう 名駅めいえき経済けいざい新聞しんぶん、2023ねん2がつ20日はつか

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 銀幕ぎんまく波瀾万丈はらんばんじょう シネマスコーレの15ねん』シネマスコーレ、1998ねん
  • えよ!インディーズ シネマスコーレ30ねん』シネマスコーレ、2013ねん
  • えよ!インディーズ2 シネマスコーレ40ねん』シネマスコーレ、2023ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]