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ジュリー・ケント (バレエダンサー)

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ジュリー・ケントとマルセロ・ゴメス
ジュリー・ケントとマルセロ・ゴメス英語えいごばん(2007ねん

ジュリー・ケントJulie Kent1969ねん7がつ11にち - )は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくバレエダンサーバレエ指導しどうしゃである[1][2]。1985ねん研修生けんしゅうせいとしてアメリカン・バレエ・シアター(ABT)にはいり、1986ねんローザンヌ国際こくさいバレエコンクールでスカラシップを受賞じゅしょうした[2][3]同年どうねん正式せいしきにABTに入団にゅうだんし、1993ねんプリンシパルとなった[2][3]。『ダンサー』(1987ねん)、『センターステージ』(2000ねん)など、映画えいがへの出演しゅつえん経験けいけんもある[2][4]。2015ねん現役げんえき引退いんたいし、2016ねん7がつにワシントン・バレエ(en:The Washington Ballet)の芸術げいじゅつ監督かんとく就任しゅうにんした[5][6]おっとのワシントン・バレエふく芸術げいじゅつ監督かんとくもとABTふく芸術げいじゅつ監督かんとくおよびもとABTプリンシパル)、ヴィクター・バービー(Victor Barbee)とのあいだに2あり[2][5][6]

経歴けいれき

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本名ほんみょうをジュリー・コックス(Julie Cox)といい、メリーランドしゅうベセスダまれた[注釈ちゅうしゃく 1][1][4]ちちアメリカじん化学かがくしゃははニュージーランド国籍こくせきもとフライトアテンダントでかつてはバレエダンサーであった[7]。3にんきょうだいのすえで、うえあにあねがいた[7]おさないころワシントンD.C.郊外こうがいんでいたため、ニューヨーク・シティ・バレエだん(NYCB)やABTの公演こうえん毎年まいとし開催かいさいされ、そのすべてのチケットをってかんっていた[7]はは以前いぜん自分じぶんまなんでいたバレエについて、おさないケントにいろいろと知識ちしきあたえたり、作品さくひん振付ふりつけ、ダンサーについてもはなしたりしていた[7]

メリーランド・ユース・バレエ・スクールでバレエをはじめ、オルテンシア・フォンセカに師事しじした[1][3][8]おさないころのゆめは、ABTかNYCBのどちらかでおどることだった[9]。ABTIIの夏期かき講習こうしゅうおよびNYCB付属ふぞくのスクール・オヴ・アメリカン・バレエでさらにバレエをまなび、子役こやくとして『コッペリア』などの舞台ぶたいつこともあった[1][2][9]。1985ねん研修生けんしゅうせいとしてABTにはいった[1][2][3][8]。1986ねんのローザンヌ国際こくさいバレエコンクールでアメリカじんとしてただ1人ひとりメダル(スカラシップ)を獲得かくとくし、同年どうねんには正式せいしきにABTの一員いちいんとなった[1][2][3]

彼女かのじょ注目ちゅうもくあつめたのは、ハーバート・ロス監督かんとく映画えいが『ダンサー』(1987ねん)でミハイル・バリシニコフ相手あいてやくえらばれたことであった[4]彼女かのじょ自身じしん映画えいがについてなにらない状態じょうたいであったが、バリシニコフが彼女かのじょ推薦すいせんしていた[4]映画えいが企画きかくがったとき、バリシニコフのアシスタントが「もっとハリウッドふう名前なまえう」と提案ていあんし、彼女かのじょもそれをれて「ジュリー・ケント」が誕生たんじょうした[4]

ケントは映画えいが出演しゅつえんつうじて、ロスの夫人ふじんでかつてのめいプリマ・バレリーナ、ノラ・ケイった[4][10]。ケイは1939ねんにバレエ・シアター(のABT)設立せつりつにダンサーとして加入かにゅうし、1942ねんにプリンシパルに昇格しょうかくした[10]。1951ねんから1954ねんまでの一時期いちじき、NYCBにせきいたものの、その期間きかん以外いがいはABTでおどつづけ、アントニー・チューダー振付ふりつけはしら』(en:Pillar of Fire (ballet)、1942ねん)のヘイガー、アグネス・デ=ミル振付ふりつけフォールリヴァー伝説でんせつ』(1948ねん)のリジー・ボーデンなどの名演めいえんで「女優じょゆうダンサー」と賛辞さんじけたほどのおどしゅであった[10]

ケントはケイの人間にんげんせいつよかれたが、当時とうじのケイはガンにおかされていて死期しきちかかった[4]病床びょうしょうのケイにいにくと、「あなたがのぞむなら、映画えいが女優じょゆうとして成功せいこうすることもできるわよ」とわれたが、ケントのこたえは「でも。わたしおどりたいんです」というものであった[4]同席どうせきしていたジョン・タラス(en:John Taras)も「彼女かのじょおどりをつづけるさ」と口添くちぞえし、それをいたケイは「OK」とつぶやいたという[4]。ケイが67ねん生涯しょうがいえたのは、それからもなくのことであった[4]

ケントはABTで1990ねんソリストとなり、1993ねんにプリンシパルに昇格しょうかくした[1][3][8]。ABTの舞台ぶたいでフリオ・ボッカ、ホセ・カレーニョアンヘル・コレーラ、マルセロ・ゴメス、ロベルト・ボッレなどと共演きょうえんし、NYCBでも舞台ぶたいった[7][9][11]。ケントは共演きょうえんしゃについて「すべてのパートナーがわたしなにかをあたえてくれました、わたし個性こせい開放かいほうするなにあたらしいものを」と述懐じゅっかいしていた[7]彼女かのじょにとって、とりわけ重要じゅうよう共演きょうえんしゃウラジーミル・マラーホフであった[2]。マラーホフは自身じしんのグループ公演こうえんなどの共演きょうえんしゃにしばしばケントをえらび、世界せかい各地かくちおど機会きかいあたえていた[2][7]。「ウラジーミルはわたしにとって本当ほんとう重要じゅうようなパートナーです」とケントはい、つづけて「あにいもうとのようにあいっているかんじ。もっともしんつう友人ゆうじんのひとりです」とべていた[7]

2006ねんにABT在籍ざいせき20周年しゅうねんいで2011ねん在籍ざいせき25周年しゅうねんいわってから、ケントは自分じぶん自身じしん引退いんたいについてずっとかんがえるようになり「いつどうやって終止符しゅうしふつべきか」とおもつづけていた[5]。ABTが2015ねんシーズンに上演じょうえんする演目えんもくなかでケントがおどることができるものはわずかだったため、芸術げいじゅつ監督かんとくのアドバイスもあって「まえすすむために」引退いんたい決意けついした[5][12]

2015ねん6がつ20日はつか、ケントはABTで『ロミオとジュリエット』(ケネス・マクミラン振付ふりつけ)のジュリエットやくおどって舞台ぶたいわかれをげた[5]客席きゃくせきには家族かぞく友人ゆうじんおよびファンだけではなく、各地かくちからかつての共演きょうえんしゃたちもけつけ、引退いんたい公演こうえんのカーテンコールは20ふん以上いじょうつづいた[5]。カーテンコールには、おっとのヴィクター・バービーと2人ふたり子供こども一緒いっしょった[5]

引退いんたい一時期いちじき、ABTで教育きょういくプログラム(サマー・インテンシヴ)を担当たんとうしていた[6]。2016ねん7がつ1にちから、ワシントン・バレエの芸術げいじゅつ監督かんとく就任しゅうにんした[6]。ケント自身じしんも「わたし自分じぶんはABTにいるものとおもっていました」とい、当初とうしょはこのはなしっていたが、ワシントン・バレエとのはないをつづけた結果けっか就任しゅうにん受諾じゅだくした[6]。ケントはみずからがワシントン・バレエの舞台ぶたいおどることについて「こたえはノーです」と表明ひょうめいしたうえで、「ワシントン・バレエをどのようにひきいていくかがいまはいちばん大切たいせつです」とかたっている[6]

映画えいがでは『ダンサー』のほかに、ニコラス・ハイトナー監督かんとく作品さくひん『センターステージ』(en:Center Stage (2000 film))にも実際じっさいのケント自身じしんおもわせる役柄やくがら出演しゅつえんした[2][4]。1993ねんトロントでエリック・ブルーンしょう、2000ねん4がつにはアメリカじんとしてはじめてブノワしょう受賞じゅしょうしている[3][8]

レパートリーと評価ひょうか

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ケントはABTに30ねんにわたって在籍ざいせきし、国際こくさいしょくゆたかなスター集団しゅうだんなかにあって生粋きっすいのアメリカじんプリマ・バレリーナとしてたか人気にんきがあった[2][5][13]。ケントは身体しんたい能力のうりょくたかさや超絶ちょうぜつ技巧ぎこう観客かんきゃくおどろかせるタイプではなく、正確せいかく舞踊ぶよう技術ぎじゅつささえられた軽快けいかい端正たんせいおどりと情感じょうかんちた表現ひょうげんりょく作品さくひん世界せかいひろげていくダンサーである[2]。『白鳥はくちょうみずうみ』や『ねむれるもり美女びじょ』、『ジゼル』などクラシック・バレエやロマンティック・バレエのヒロインをおどって好評こうひょうたが、それだけではなく『ザ・グラン・パ・ド・ドゥ』(クリスティアン・シュプック振付ふりつけ)のようなコミカルな小品しょうひん的確てきかくおどりこなし、『アポロ』、『スターズ・アンド・ストライプス』、『チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ』などのバランシンしょ作品さくひんではゆたかな音楽おんがくせい流麗りゅうれいうごきをせた[2]

最初さいしょにABTで主役しゅやくおどった作品さくひんは、アントニー・チューダーの『リラのえん』(en:Jardin aux Lilas)であった[4]。ケントがチューダーと出会であったのは、ABTに入団にゅうだんしてあいだもないころのことだった[4]。『はしら』のリバイバル上演じょうえん指導しどうにやってきたチューダーとの最後さいごのリハーサルが終了しゅうりょうしたとき、ケントは「ありがとうございました。あなたと一緒いっしょにスタジオにいられて本当ほんとう光栄こうえいでした」と感謝かんしゃ言葉ことばべた[4]。その言葉ことばいたチューダーはおどろいたかおをしながらも「どういたしまして」とこたえたという[4]。チューダーはそのすぐに死去しきょし、ケントは翌年よくねんになって『リラのえん』の主役しゅやくキャロラインに抜擢ばってきされた[4]。ケントは当時とうじ回想かいそうして「いまになってみれば、それこそまさしくキャロラインのすることだったのだとわかります」とかたっていた[4]

ABTでの主役しゅやくは、『ジゼル』、『ロミオとジュリエット』、『白鳥はくちょうみずうみ』、『マノン』などがつづいた[4]。ケントの美質びしつは『ロミオとジュリエット』、『マノン』(ともにケネス・マクミラン振付ふりつけ)や『オネーギン』(ジョン・クランコ振付ふりつけ)などのドラマティックなバレエ作品さくひんでも存分ぞんぶんかされた[2]。これらの作品さくひんおどじょうで、ケイやチューダーのほかマルシア・ハイデ(クランコ作品さくひんおどじょうでの有益ゆうえき助言じょげんあたえた)などとの交流こうりゅうがケントのやくづくりに好影響こうえいきょうあたえた[4]。キャリアの終盤しゅうばんには、ジョン・ノイマイヤーとも仕事しごとをして、かれの『椿つばきひめ』をレパートリーにくわえて好評こうひょう[11][14][15]。ABTでケントはチューダー、クランコ、マクミランなどをてノイマイヤーにつづく「物語ものがたりバレエ」作品さくひん次々つぎつぎおどってきた[14]文芸ぶんげい評論ひょうろん三浦みうら雅士まさしはケントとの対談たいだんで「あなたがまさに物語ものがたりバレエの主流しゅりゅう位置いちしていることがわかります」と称賛しょうさんしている[7]

私生活しせいかつ

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おっとのヴィクター・バービーも、バレエダンサー・指導しどうしゃである[2][5][6]。バービーは42年間ねんかんにわたってABTに在籍ざいせきし、プリンシパルおよびふく芸術げいじゅつ監督かんとくつとめていた[6]。ケントはバービーについて「わたしてきたなかでもっともうつくしく、もっとも力強ちからづよ役者やくしゃのひとりです」とひょうしていた[5]。バービーもABTをってワシントン・バレエのふく芸術げいじゅつ監督かんとく就任しゅうにんし、ケントの補佐ほさつとめることになった[6]

夫妻ふさいにはいちなんいちじょがあり、子供こどもたちもABTが世界せかい各国かっこく公演こうえんおこなさいにたびたび同行どうこうしていた[3][2][5][6]。ワシントン・バレエへの移籍いせきについて、ケントはもともとこの地域ちいき出身しゅっしんであったことにくわえて、実母じつぼがワシントンからくるまで30ふんのところにんでいるため、自分じぶん子供こどもたちが毎日まいにちうことができるようになるてんげていた[6]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 『アメリカン・バレエ・シアター』 2011ねん日本にっぽん公演こうえんプログラムでは、「メリーランドしゅうポトマック」(en:Potomac, Maryland)の出身しゅっしん記述きじゅつしている[3]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g 『オックスフォード バレエダンス辞典じてん』、p.174.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『バレエ・ダンサー201』、p.53.
  3. ^ a b c d e f g h i 『アメリカン・バレエ・シアター』 2011ねん日本にっぽん公演こうえんプログラム、p .48.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『ダンスマガジン』2014ねん5がつごう、pp .26-29.
  5. ^ a b c d e f g h i j k 『ダンスマガジン』2015ねん10がつごう、pp .52-54.
  6. ^ a b c d e f g h i j k 『ダンスマガジン』2016ねん8がつごう、p .65.
  7. ^ a b c d e f g h i 『ダンスマガジン』2014ねん5がつごう、pp .32-33.
  8. ^ a b c d JULIE KENT” (英語えいご). アメリカン・バレエ・シアターウェブサイト. 2017ねん1がつ26にち閲覧えつらん
  9. ^ a b c 『ダンスマガジン』2008ねん10がつごう、pp .18-19.
  10. ^ a b c 『オックスフォード バレエダンス辞典じてん』、p.166.
  11. ^ a b 『ダンスマガジン』2013ねん12がつごう、pp .26-27.
  12. ^ Michael Cooper (2014ねん9がつ30にち). “Three Ballet Theater Principals to Retire” (英語えいご). ニューヨークタイムズ. 2017ねん1がつ26にち閲覧えつらん
  13. ^ 魅惑みわくのバレエの世界せかい-入門にゅうもんへん-』、pp .30-31.
  14. ^ a b 『ダンスマガジン』2014ねん5がつごう、pp .30-31.
  15. ^ 『ダンスマガジン』2010ねん12がつごう、p .59.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • ジャパン・アーツ 『アメリカン・バレエ・シアター』 2011ねん日本にっぽん公演こうえんプログラム
  • ダンスマガジンへん 『バレエ・ダンサー201』 新書しんしょかん、2009ねんISBN 978-4-403-25099-6
  • ダンスマガジン 2008ねん10がつごうだい18かんだい11ごう)、新書しんしょかん、2008ねん
  • ダンスマガジン 2010ねん12がつごうだい20かんだい12ごう)、新書しんしょかん、2010ねん
  • ダンスマガジン 2013ねん12がつごうだい23かんだい12ごう)、新書しんしょかん、2012ねん
  • ダンスマガジン 2014ねん5がつごうだい24かんだい5ごう)、新書しんしょかん、2014ねん
  • ダンスマガジン 2015ねん10がつごうだい25かんだい10ごう)、新書しんしょかん、2015ねん
  • ダンスマガジン 2016ねん8がつごうだい25かんだい8ごう)、新書しんしょかん、2016ねん
  • デブラ・クレイン、ジュディス・マックレル 『オックスフォード バレエダンス事典じてん鈴木すずきあきら監訳かんやく赤尾あかおつよしじん海野うみのさとし長野ながの由紀ゆきやく平凡社へいぼんしゃ、2010ねんISBN 978-4-582-12522-1
  • 渡辺わたなべ真弓まゆみちょ瀬戸せと秀美ひでみ写真しゃしん魅惑みわくのバレエの世界せかい-入門にゅうもんへん-』 あお林堂はやしどう、2015ねんISBN 978-4-7926-0533-9

外部がいぶリンク

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