ジュークボックス(Wurlitzer社 しゃ 3500 Zodiac)
上 うえ のジュークボックスを開 ひら いたところ
その中身 なかみ
ジュークボックス (英 えい : jukebox )は、自動 じどう 販売 はんばい 機 き (自動 じどう サービス機 き )の一種 いっしゅ であり、本来 ほんらい は店舗 てんぽ に置 お いて、内部 ないぶ に多数 たすう (数 すう 十 じゅう 枚 まい から2000枚 まい 程度 ていど )のシングルレコード (例外 れいがい 的 てき にCDやMP3など)を収納 しゅうのう し、任意 にんい の曲 きょく を再生 さいせい させて楽 たの しむ機器 きき である。設置 せっち 者 しゃ は消費 しょうひ 者 しゃ が硬貨 こうか を投入 とうにゅう することで収益 しゅうえき を得 え る。
ジュークボックス以前 いぜん に、硬貨 こうか を投入 とうにゅう すると動作 どうさ するオルゴール や自動 じどう ピアノ が存在 そんざい していた。
1889年 ねん 11月23日 にち 、パシフィック・フォノグラム社 しゃ の総 そう 支配人 しはいにん ルイス・グラスがアメリカ ・カリフォルニア州 しゅう サンフランシスコ のパレ・ロワイヤル・サルーンにジュークボックスを初 はじ めて設置 せっち した記録 きろく が残 のこ っている。このときの装置 そうち は電動 でんどう のエジソン 蓄音機 ちくおんき (蝋 ろう 管 かん 式 しき )に聴音 ちょうおん 管 かん を4つつけたものでそれぞれに硬貨 こうか 投入 とうにゅう 口 こう があり、独立 どくりつ して動作 どうさ するようになっていた。この硬貨 こうか で動作 どうさ する蓄音機 ちくおんき は1890年代 ねんだい に広 ひろ まった[ 1] [ 2] 。これは現在 げんざい のジュークボックスとは使用 しよう 目的 もくてき が違 ちが い、人 ひと の声 こえ が聞 き こえるのを驚 おどろ かせると言 い う物 もの であったらしい。様々 さまざま な音声 おんせい を録音 ろくおん した蝋 ろう 管 かん を装着 そうちゃく した蓄音機 ちくおんき を並 なら べた "phonograph parlors"(蓄音機 ちくおんき パーラー)が出現 しゅつげん した。中 なか には、蝋 ろう 管 かん (レコード)を自動 じどう で入 い れ替 か える機構 きこう を備 そな えた蓄音機 ちくおんき も登場 とうじょう した。しかし1900年代 ねんだい になると蓄音機 ちくおんき も目新 めあたら しいものではなくなり、一般 いっぱん 家庭 かてい に蓄音機 ちくおんき が浸透 しんとう し始 はじ めると、公共 こうきょう の場 ば では大 だい 音量 おんりょう の機械 きかい 式 しき オーケストリオン が設置 せっち されるようになり、硬貨 こうか 投入 とうにゅう 式 しき の蓄音機 ちくおんき は廃 すた れていった。
その後 ご 電気 でんき 録音 ろくおん とアンプ が考案 こうあん され、硬貨 こうか 投入 とうにゅう 式 しき の蓄音機 ちくおんき が復活 ふっかつ する。
1927年 ねん 、Automated Musical Instrument Company(後 ご のAMI)が、レコードを選択 せんたく できるジュークボックスを発売 はつばい して成功 せいこう を収 おさ めた。1928年 ねん 、自動 じどう ピアノを製造 せいぞう していた Justus P. Seepburg が、レコードプレーヤー とスピーカーを組 く み合 あ わせ、硬貨 こうか を投入 とうにゅう することで8枚 まい のレコードから選 えら んで演奏 えんそう させることができるジュークボックスを開発 かいはつ した[ 3] 。当初 とうしょ シェラック 製 せい 78回転 かいてん のSP盤 ばん のレコードが主流 しゅりゅう だったが、1950年 ねん に塩化 えんか ビニール製 せい 45回転 かいてん のシングル盤 ばん が登場 とうじょう すると、そちらに移行 いこう した。
"jukebox" という用語 ようご は、1940年 ねん ごろからアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく で使 つか われはじめた。もともと、(西部 せいぶ 劇 げき によく出 で てくるような)飲食 いんしょく やギャンブルを楽 たの しむ店 みせ を "juke joint" と呼 よ んでおり、それが語源 ごげん となっている。"juke" はガラ語 ご で「無法 むほう 、騒々 そうぞう しい、悪 わる い」の意 い 。
ジュークボックスの中 なか でも、ウォールボックス型 がた が最 もっと も高 こう 収益 しゅうえき だった。客 きゃく が席 せき にある装置 そうち で曲 きょく を選 えら ぶと、壁 かべ に設置 せっち されたジュークボックスが遠隔 えんかく 制御 せいぎょ で演奏 えんそう を開始 かいし する方式 ほうしき である。例 たと えば1949年 ねん に登場 とうじょう した Seeburg 3W1 は100曲 きょく を内蔵 ないぞう できる Model M100A ジュークボックスを使 つか っていた。1960年代 ねんだい にはステレオ が主流 しゅりゅう となり、この時代 じだい のウォールボックスでは客 きゃく の席 せき にある装置 そうち にもスピーカーを内蔵 ないぞう し、サンプルが聞 き けるようになった。なお、このころシングル盤 ばん はほとんど製造 せいぞう されず、代 か わりにジュークボックス専用 せんよう に "little LP" と呼 よ ばれるレコードが製造 せいぞう されていた。これは、シングル盤 ばん と同 おな じ大 おお きさだが33回転 かいてん であり、当時 とうじ のジュークボックスの機構 きこう で使 つか えるようになっていた。
このころのジュークボックスには、派手 はで な照明 しょうめい やディスコ およびサイケデリック の効果 こうか など装飾 そうしょく 的 てき 改善 かいぜん を施 ほどこ したものもあるが、内部 ないぶ の機構 きこう に大 おお きな進歩 しんぽ はない。各 かく レコードが演奏 えんそう された回数 かいすう を表示 ひょうじ するカウンタ機能 きのう が装備 そうび され、人気 にんき のあるレコードを残 のこ して、人気 にんき のないレコードだけを入 い れ替 か えることができるようになった。
ジュークボックスは当初 とうしょ から極 きわ めて収益 しゅうえき 性 せい の高 たか い産業 さんぎょう だった。1940年代 ねんだい から1960年代 ねんだい 中盤 ちゅうばん まで人気 にんき が高 たか く、特 とく に1950年代 ねんだい に大 だい 流行 りゅうこう した。当時 とうじ はレコードやプレーヤーが高価 こうか であり、特 とく に一般 いっぱん 的 てき な黒人 こくじん 層 そう には手 て に入 い れられないものであつた。1940年代 ねんだい 中 ちゅう ごろ、アメリカで生産 せいさん されたレコードの4分 ぶん の3がジュークボックスで使 つか われた[ 4] 。ジュークボックスで他 た よりも大 おお きく聞 き こえるようにするため、音圧 おんあつ を上 あ げる工夫 くふう もあった(ラウドネス・ウォー )。
1980年代 ねんだい になるとCD やカラオケ の登場 とうじょう で市場 いちば が小 ちい さくなり、従来 じゅうらい 型 がた のものは姿 すがた を消 け した。海外 かいがい ではCDの登場 とうじょう と共 とも に、CDを採用 さいよう したジュークボックスが登場 とうじょう している。さらに、20世紀 せいき 末 まつ にかけて、CDも使 つか わない完全 かんぜん デジタル式 しき のジュークボックスが登場 とうじょう した。これは楽曲 がっきょく 選択 せんたく 機構 きこう と再生 さいせい 機構 きこう を専用 せんよう のコンピュータで置 お き換 か えたものである。新 あら たな楽曲 がっきょく をインターネット からダウンロードするので、収録 しゅうろく 曲 きょく が絶対 ぜったい に古 ふる くならない利点 りてん がある。
近年 きんねん ではiTunes ・x-アプリ (旧名 きゅうめい SonicStage )・BeatJam ・Windows Media Player ・SD-Jukebox 等 ひとし のメディアプレーヤー ソフトでパソコン のハードディスク にCD録音 ろくおん やダウンロード購入 こうにゅう した曲 きょく をストックできるようになっているほか、ハードディスク内蔵 ないぞう のミニコンポ にも同様 どうよう の機能 きのう を持 も つ製品 せいひん が複数 ふくすう のメーカーから販売 はんばい されており、これらもジュークボックスと呼 よ ばれることがある[ 5] 。その他 た にも玩具 おもちゃ 店 てん 、ヴィレッジヴァンガード などの雑貨 ざっか 店 てん やCDショップなどに本来 ほんらい のジュークボックスの雰囲気 ふんいき を取 と り入 い れたCDラジオやSDオーディオプレーヤーなどが低 てい 価格 かかく でセガ やWINTECH (廣 こう 華 はな 物産 ぶっさん )などから販売 はんばい され手軽 てがる に購入 こうにゅう できるようにもなっている。なおボウリング 場 ば やゲームセンター などではレーザーディスク やDVD を用 もち い、多数 たすう の楽曲 がっきょく と映像 えいぞう を内蔵 ないぞう した「レーザージューク 」が設置 せっち されていることがある。
さらに近年 きんねん では、タッチパネル から楽曲 がっきょく を選択 せんたく するとインターネット 経由 けいゆ で音楽 おんがく と映像 えいぞう をストリーミング 再生 さいせい できるデジタルジュークボックス がボウリング 場 ば やカフェ 、パブ などで設置 せっち されていることがある。
1941年 ねん の24枚 まい のレコードを内蔵 ないぞう できるジュークボックス (Wurlitzer model 750)
1930年代 ねんだい 初 はじ めまでのジュークボックスは木製 もくせい の筐体 きょうたい に硬貨 こうか 投入 とうにゅう 口 こう とボタンがいくつかあるだけだったが、その後 ご 徐々 じょじょ に装飾 そうしょく や照明 しょうめい が派手 はで になっていった。1941年 ねん の Wurlitzer 850 Peacock はプラスチックを使 つか い、カラフルな照明 しょうめい で色 いろ が変化 へんか する美 うつく しいものだった。しかし、アメリカが戦争 せんそう に突入 とつにゅう すると、金属 きんぞく やプラスチックは軍事 ぐんじ 用 よう に必要 ひつよう とされ、1946年 ねん までジュークボックスは製造 せいぞう されなくなった。1942年 ねん の Wurlitzer 950 は金属 きんぞく を節約 せつやく するため、硬貨 こうか 投入 とうにゅう 口 こう が木製 もくせい になっている。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が終 お わると、ジュークボックスのデザインにもその時代 じだい の浮 う かれた雰囲気 ふんいき が反映 はんえい された。AMIが戦後 せんご 初 はじ めて製造 せいぞう した Model A では、乳白色 にゅうはくしょく のプラスチックとカラフルなガラス玉 だま を外装 がいそう に使 つか い、"Mother of Plastic" と呼 よ ばれた。
ハバナのホテルにある Wurlitzer 1015 の再 さい 生産 せいさん 品 ひん
Wurlitzer 1015 Bubbler は最 もっと も一般 いっぱん 的 てき なデザインのジュークボックスである。このようなジュークボックスは1950年代 ねんだい にもよく見 み られ、1940年代 ねんだい のデザインであるにもかかわらず、1950年代 ねんだい のポップカルチャーと結 むす びつけて語 かた られることが多 おお い。これを設計 せっけい したポール・フラーは、戦時 せんじ 中 ちゅう に工場 こうじょう が軍需 ぐんじゅ 用 よう に徴用 ちょうよう されたとき仕事 しごと がなくなり、暇 ひま になったのでデザインばかりしていた。それがポップカルチャーを象徴 しょうちょう するデザインを生 う み出 だ すことになった。
その後 ご 、ジュークボックスのデザインは「ハイテク」を感 かん じさせるものになっていき、それまでのクラシックなものとは全 まった く違 ちが うものとなっていった。また、内蔵 ないぞう できるレコード枚数 まいすう が増 ふ えていったため、その曲名 きょくめい と選曲 せんきょく ボタンを並 なら べるだけでかなりの表面積 ひょうめんせき を要 よう し、装飾 そうしょく に使 つか える部分 ぶぶん が減 へ っていった。枚数 まいすう が増 ふ えたのは技術 ぎじゅつ 的 てき 進歩 しんぽ という面 めん もあるが、SP盤 ばん からシングル盤 ばん になってレコードそのものが小 ちい さくなったためでもある。
曲名 きょくめい 表示 ひょうじ が回転 かいてん 式 しき のドラムにされている物 もの もあり、より多 おお くの枚数 まいすう を扱 あつか える機種 きしゅ もある[ 6] 。
1940年代 ねんだい のジュークボックスは黄色 おうしょく のプラスチックが多用 たよう されていたことから Golden Age と呼 よ ばれ、1950年代 ねんだい のジュークボックスはクロム風 ふう の外観 がいかん が多 おお かったため Silver Age と呼 よ ばれた。
日本 にっぽん には戦後 せんご に進駐軍 しんちゅうぐん が導入 どうにゅう したといわれ、1970年代 ねんだい まで飲食 いんしょく 業 ぎょう やホテル などに設置 せっち されて全盛期 ぜんせいき を迎 むか えたといわれている。太 ふとし 東 ひがし 貿易 ぼうえき (後 ご のタイトー )、レメーヤー&スチュアート社 しゃ (後 ご のサービスゲームズ。後 ご のセガ )、V&V社 しゃ の3社 しゃ が最大手 さいおおて として、米国 べいこく よりジュークボックスを輸入 ゆにゅう していた。
1960年代 ねんだい には国産 こくさん 化 か が始 はじ まり、1962年 ねん にはレメーヤー&スチュアート社 しゃ (当時 とうじ の社名 しゃめい は日本 にっぽん 娯楽 ごらく 物産 ぶっさん )より国産 こくさん 初 はつ のジュークボックス「セガ1000」が発売 はつばい されている。セガ1000は日本 にっぽん で大 だい ヒットし、日本 にっぽん 娯楽 ごらく 物産 ぶっさん も社名 しゃめい をセガに変更 へんこう した。しかし1960年代 ねんだい 後半 こうはん ごろよりピンボールやエレメカなどにアミューズメント機器 きき の主役 しゅやく は移 うつ り、1967年 ねん にはV&V社 しゃ の社員 しゃいん の中山 なかやま 隼雄 はやお (後 ご のセガ社長 しゃちょう )が独立 どくりつ して日本 にっぽん 初 はつ のゲーム機 き のディストリビューターであるエスコ貿易 ぼうえき を設立 せつりつ した他 ほか 、タイトーやセガ もゲーム機 き のディストリビューションおよび自社 じしゃ 開発 かいはつ を行 おこな うようになる。
他 ほか にも、現在 げんざい ゲームソフトメーカーやゲームセンター、アミューズメント施設 しせつ を運営 うんえい する企業 きぎょう の一部 いちぶ が創業 そうぎょう 当初 とうしょ はジュークボックスに何 なん らかの形 かたち (輸入 ゆにゅう ・販売 はんばい など)で携 たずさ わっていた[ 7] 。
2008年 ねん にはセガトイズ からwurlitzerのデザインを模 も した「ホームジュークボックス」が発売 はつばい されているが、ジュークボックス事業 じぎょう は現在 げんざい のセガグループ の主力 しゅりょく ではなく、あくまでアンティーク風 ふう おもちゃ(レトロおもちゃ)の一 ひと つとして扱 あつか われている。なお、SEGA 1000は現存 げんそん が確認 かくにん されておらず、現存 げんそん する国産 こくさん 最古 さいこ のジュークボックスは日本 にほん ビクター製 せい のJB-5000となる。
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