(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ジョン・ベイカー・ホルロイド (初代シェフィールド伯爵) - Wikipedia コンテンツにスキップ

ジョン・ベイカー・ホルロイド (初代しょだいシェフィールド伯爵はくしゃく)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョージ・ロムニーによる肖像しょうぞう

初代しょだいシェフィールド伯爵はくしゃくジョン・ベイカー・ホルロイド英語えいご: John Baker Holroyd, 1st Earl of Sheffield PC FRS出生しゅっしょうめいジョン・ホルロイドJohn Holroyd)、1735ねん12月21にち1821ねん5月30にち)は、イギリス政治せいじアイルランド貴族きぞく庶民しょみんいん議員ぎいんつとめるかたわら、おも貿易ぼうえき政策せいさくかんするパンフレットを出版しゅっぱんした[1]爵位しゃくい官職かんしょくかえ申請しんせいした結果けっか、80だいになって伯爵はくしゃくじょされた[2]エドワード・ギボンとは30ねん以上いじょういの友人ゆうじんであり、ギボンの死後しごにその作品さくひんしゅう出版しゅっぱんした[3]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

[編集へんしゅう]

アイザック・ホルロイド(Isaac Holroyd、1708ねん – 1778ねん[1])とつまドロシー(Dorothy、1777ねんぼつ[3]、ダニエル・ベイカーのむすめ)の次男じなんとして、1735ねん12月21にちまれた[4]。ホルロイド元々もともとヨークシャー家系かけいであり、17世紀せいきのときにアイルランドに移住いじゅうした[3]

ダブリン教育きょういくけたのち[3]、1760ねん4がつ21にち騎兵きへい少尉しょうい英語えいごばんとしてだい21けい竜騎兵りゅうきへい連隊れんたい英語えいごばん入隊にゅうたい、1761ねん12月24にち大尉たいい昇進しょうしんしたが[4]連隊れんたいは1763ねん解散かいさんされた[5]同年どうねんから1766ねんまで大陸たいりくヨーロッパたび[4]、1763ねん9がつにはローザンヌしたしい友人ゆうじんとなる歴史れきしエドワード・ギボン出会であった[3]。ギボンははじめホルロイドを尊大そんだいであるとかんがえたが、2人ふたりはすぐにしたしくなり、以降いこう生涯しょうがいにわたる友人ゆうじんとなって、死後しごおな教会きょうかい埋葬まいそうされている[3]

1762ねんあにダニエルが戦死せんししたほか[3]母方ははかたのおじジョーンズ・ベイカーの死去しきょによりその遺産いさん継承けいしょうし、「ベイカー」をせいくわえた[4]。1769ねんに31,000ポンドだい2だいデ・ラ・ウォー伯爵はくしゃくジョン・ウェスト英語えいごばんからサセックスシェフィールド・プレイス英語えいごばん購入こうにゅうしたことで地主じぬしジェントリそう1人ひとりになった[1][5][6]

1度目どめ議員ぎいん[編集へんしゅう]

1774ねんイギリスそう選挙せんきょサセックス選挙せんきょ英語えいごばんからの出馬しゅつば検討けんとうしたが、ギボンは「(訳注やくちゅう地主じぬしになって)5ねんノウス・ホモ批判ひはんをかわすにはみじかすぎる」とホルロイドを説得せっとくして、立候補りっこうほりやめさせた[5]。このそう選挙せんきょではサセックスに選挙せんきょせんがあり、ホルロイドは1774ねん11月に当選とうせんしゃだい6だいじゅん男爵だんしゃくサー・トマス・スペンサー・ウィルソン英語えいごばん当選とうせんいわいの手紙てがみおくった[7]

1779ねんだい22けい竜騎兵りゅうきへい連隊れんたい英語えいごばん招集しょうしゅうし、連隊れんたいコヴェントリー駐留ちゅうりゅうしたためホルロイドはコヴェントリー政界せいかい熟知じゅくちするようになり、1780ねん2がつコヴェントリー選挙せんきょ英語えいごばん補欠ほけつ選挙せんきょ出馬しゅつばした[5][8]。ギボンはこのときもホルロイドに助言じょげんし、「今回こんかい空位くういではあなたが手早てばや行動こうどうしたから、対立たいりつ候補こうほ立候補りっこうほふせげるでしょう。しかしそう選挙せんきょではあなたのてきである地方自治体ちほうじちたいcorporation)がねむっているはずもなく、敗北はいぼくか、10,000ポンドついやしてしまわないよう、いかなる保証ほしょう約束やくそくもすべきでないことを警告けいこくする」とべた[5]。ギボンの言葉ことばとおり、ホルロイドは補欠ほけつ選挙せんきょ投票とうひょう当選とうせんたしたが、同年どうねんそう選挙せんきょでははげしい選挙せんきょせんたたかうはめになった[8]

当選とうせんから1かげつの3がつ17にち議会ぎかい動議どうぎをした[3]動議どうぎ自体じたい可決かけつされたが、当時とうじ議会ぎかいでは新人しんじん議員ぎいんによる目立めだった行動こうどう歓迎かんげいされず、ホルロイドはかえって批判ひはんされた[3]同年どうねん6がつ2にちゴードン暴動ぼうどう英語えいごばん[注釈ちゅうしゃく 1]勃発ぼっぱつすると、ホルロイドは庶民しょみんいん首謀しゅぼうしゃジョージ・ゴードンきょう英語えいごばんたいし「これまであなたの行動こうどう狂気きょうきだとかんがえていたが、いま狂気きょうきというよりは悪意あくいだとかんじている」とべ、みずからノーサンバランド民兵みんぺいたいひきいてゴードン暴動ぼうどう鎮圧ちんあつ協力きょうりょくした[1][4]

1780ねんそう選挙せんきょでは『英国えいこく議会ぎかい英語えいごばん』によれば、国政こくせいをめぐり地方自治体ちほうじちたい候補こうほ2めい野党やとう支持しじし、ホルロイドらはん地方自治体ちほうじちたい候補こうほノース内閣ないかく支持しじしたほか、コヴェントリーでゴードン暴動ぼうどうによるはんカトリック感情かんじょうたかまりがあったが、いずれも決定的けっていてきではなく、結局けっきょくのところ地方自治体ちほうじちたいはん地方自治体ちほうじちたいという対立たいりつじく勝敗しょうはい理由りゆうだった[8]新聞しんぶんではおたがいの非難ひなん応酬おうしゅうになり、『英国えいこく議会ぎかい』によればその内容ないよう真偽しんぎ判定はんてい不可能ふかのうだった[8]。そして、投票とうひょうはじまると投票とうひょうしょ周辺しゅうへん暴動ぼうどうこり、8にち投票とうひょうわったのちも97にんしか投票とうひょうできなかった[8]シェリフは10月26にち一旦いったん投票とうひょうり、暴動ぼうどう投票とうひょう継続けいぞくできなかったと庶民しょみんいん報告ほうこくしたが、事情じじょう聴取ちょうしゅののち11がつ29にち投票とうひょう再開さいかいされ、25日間にちかんつづいた[8]。2度目どめ投票とうひょうは1度目どめのときより状況じょうきょう改善かいぜんしており、シェリフは12月29にち結果けっか公表こうひょうした[8]。この投票とうひょう結果けっかではホルロイドが1,295ひょう得票とくひょうすう4)で落選らくせんしたが、1の1,319ひょうとわずか24ひょうであり、『コヴェントリー・マーキュリー』は1781ねん1がつ1にち報道ほうどう結果けっかあやまりで、実際じっさいにはホルロイド1,295ひょう得票とくひょうすう2)などはん地方自治体ちほうじちたい候補こうほ2めい当選とうせんすると指摘してきした[8]庶民しょみんいん審議しんぎののち、2がつ27にちにホルロイドらはん地方自治体ちほうじちたい候補こうほ2めい当選とうせん決定けっていし、シェリフをニューゲート監獄かんごくおくりにしたうえでコヴェントリーにおける選挙せんきょ管理かんり改善かいぜんする法案ほうあん審議しんぎした[8]。また審議しんぎあいだにはホルロイドが1781ねん1がつ9にちアイルランド貴族きぞくであるミーズけんにおけるダナモアのシェフィールド男爵だんしゃくじょされた[4]。このように1780ねん選挙せんきょせんはホルロイドの辛勝しんしょうわり、ホルロイドが与党よとう支持しじしたため政府せいふ選挙せんきょ資金しきんとしてホルロイドに2,000ポンド支払しはらった[5]

庶民しょみんいんではノース内閣ないかく(1770ねん – 1782ねん)、フォックス=ノース連立れんりつないかく(1783ねん)を支持しじシェルバーン伯爵はくしゃくないかく(1782ねん – 1783ねん)、だい1しょうピットないかく(1783ねん – 1801ねん)に反対はんたいした[5]投票とうひょうにおいてもシェルバーン伯爵はくしゃくないかくアメリカ独立どくりつ戦争せんそう予備よび講和こうわ条約じょうやく反対はんたいひょうとうじた[5]。1783ねん4がつ3にち王立おうりつ協会きょうかいフェロー選出せんしゅつされた[10]。フォックス=ノース連立れんりつないかくの1783ねん9がつ20日はつか、アイルランド貴族きぞくであるロスコモンけんにおけるロスコモンのシェフィールド男爵だんしゃくじょされた[4]。このシェフィールド男爵だんしゃくには特別とくべつ残余ざんよけんspecial remainder)が規定きていされており、初代しょだい男爵だんしゃく男系だんけい男子だんし断絶だんぜつした場合ばあい初代しょだい男爵だんしゃくむすめ2にんおよびその男系だんけい男子だんし継承けいしょうできるとした[4]同年どうねん首相しゅしょうしょうピットアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくたいする航海こうかい条例じょうれい緩和かんわ法案ほうあん提出ていしゅつすると、ホルロイドはObservations on the Commerce of the American Statesだいする著作ちょさく出版しゅっぱんして(1783ねん初版しょはん、1784ねんだい6はん緩和かんわ法案ほうあん反対はんたい法案ほうあん廃案はいあんんだ[1]

1784ねんイギリスそう選挙せんきょにおいてはホルロイドらはん地方自治体ちほうじちたい候補こうほフォックス地方自治体ちほうじちたい候補こうほしょうピットであり、地方ちほう政治せいじ対立たいりつする候補こうほ国政こくせいでも対立たいりつしたかたちになったが、『英国えいこく議会ぎかい』では国政こくせいでの対立たいりつ選挙せんきょへの影響えいきょう不明ふめいであるとし、になったのは地方自治体ちほうじちたい候補こうほである初代しょだいじゅん男爵だんしゃくサー・サンプソン・ギデオン潤沢じゅんたく選挙せんきょ資金しきんがあり、はん地方自治体ちほうじちたい候補こうほがそれをみて早々そうそうにあきらめた結果けっかだとした[8]

落選らくせんしたとしにアイルランドでの領地りょうちおとずれ、1785ねんObservations on the Manufactures, Trade, and Present State of Irelandだいする、しょうピットの通商つうしょう政策せいさく批判ひはんする著作ちょさく出版しゅっぱんした[2]。シェフィールドはこの著作ちょさくでアイルランドの繁栄はんえいがイギリスとの緊密きんみつ関係かんけい維持いじにかかっていると主張しゅちょうした[2]。1786ねん3がつむすめマリア・ジョセファ英語えいごばん演劇えんげきたが、このような状況じょうきょうにあるシェフィールドはむすめ著作ちょさくで「先週せんしゅう木曜日もくようびにはじめて演劇えんげきた。(中略ちゅうりゃく)パパは輸出入ゆしゅつにゅういそがしくてそんなことかんがえられなかった」と茶化ちゃかされた[3]

2度目どめ議員ぎいん[編集へんしゅう]

1789ねん9がつから1790ねん5がつまでレディング選挙せんきょ英語えいごばん選挙せんきょ活動かつどうをしたが、のちブリストル選挙せんきょ英語えいごばんうつ[2]1790ねんイギリスそう選挙せんきょでブリストルから出馬しゅつばした[11]。ブリストルでは1784ねんそう選挙せんきょはげしい選挙せんきょせんすえ与野党よやとうが1議席ぎせきずつという結果けっかになり、1790ねんそう選挙せんきょでは選挙せんきょせんけて与野党よやとうが1にんずつ指名しめいする合意ごうい成立せいりつした[11]野党やとうホイッグとうはシェフィールド男爵だんしゃくだい4だいじゅん男爵だんしゃくサー・ギルバート・エリオット、ウィリアム・カニンガム(William Cuninghame)といった候補こうほ検討けんとうしたのち、シェフィールドを指名しめいして当選とうせんさせた[11]

このとし、シェフィールドは選挙せんきょまえ奴隷どれい貿易ぼうえき廃止はいし反対はんたいする著作ちょさくObservations on the Project for Abolishing the Slave Trade出版しゅっぱんしており、ギボンから小言こごとわれていたが、選挙せんきょ情勢じょうせいには影響えいきょうしなかった[2]。さらに1791ねん2がつには穀物こくもつほうによる保護ほご貿易ぼうえき政策せいさく提唱ていしょうするObservations on the Corn Bill now depending in Parliament出版しゅっぱん議会ぎかいでも穀物こくもつ法案ほうあん審議しんぎ意見いけんべた[2]。また4がつ19にち奴隷どれい貿易ぼうえき廃止はいし反対はんたいする演説えんぜつをして、6がつ家族かぞくとともにローザンヌでギボンをおとずれた[2]

1792ねんフランス革命かくめい戦争せんそう勃発ぼっぱつとともに与党よとう鞍替くらがえし、1793ねん5がつ農業のうぎょう委員いいんかい英語えいごばん[注釈ちゅうしゃく 2]設立せつりつされるとその委員いいん就任しゅうにんした[2]。しかし官職かんしょくなど政府せいふ後援こうえんられず、不満ふまんつの状態じょうたいだった[2]。1796ねん1がつよりアイルランド貴族きぞくにおける伯爵はくしゃくもとめるようになったが、アイルランドにんでいないため『英国えいこく議会ぎかい』は成功せいこうするかくりつひくいとひょうした[2]。ホイッグとう指導しどうしゃ与党よとうりした内務ないむ大臣だいじんポートランド公爵こうしゃくへの申請しんせい明確めいかく返答へんとうしかなかった[2]

1794ねんにギボンが死去しきょした[3]。シェフィールドはギボンの自伝じでんなどの著作ちょさく編集へんしゅうし、1796ねんGibbon's Miscellaneous Worksとして出版しゅっぱんした[1][3]

1796ねんイギリスそう選挙せんきょでは出馬しゅつば検討けんとうちゅうにポートランド公爵こうしゃく交渉こうしょうし、出馬しゅつば代償だいしょうとしてグレートブリテン貴族きぞくへの叙爵じょしゃく約束やくそくそうとしたが失敗しっぱいした[11]。ホイッグとうベンジャミン・ホブハウス英語えいごばん出馬しゅつばさせ、与党よとうチャールズ・ブラッグ英語えいごばんくわえてシェフィールド男爵だんしゃく出馬しゅつばさせた[11]。ブリストルのトーリーとう指導しどうしゃたちは商務しょうむちょう長官ちょうかん初代しょだいホークスベリー男爵だんしゃくチャールズ・ジェンキンソン英語えいごばんにシェフィールド以外いがい候補こうほ推薦すいせんもとめたが、ホークスベリー男爵だんしゃくはシェフィールドが当選とうせんできそうであれば支持しじすべきと判断はんだんし、投票とうひょうにおいてもホブハウスのいきおいがよわく1にち撤退てったいして、シェフィールドが714ひょうでトップ当選とうせんしている[11]当選とうせんとともにふたたびポートランド公爵こうしゃく伯爵はくしゃく申請しんせいしたが、今度こんど明確めいかく却下きゃっかされている[2]

シェフィールドはアイルランド庶民しょみんいん議長ぎちょう英語えいごばんジョン・フォスター友人ゆうじん関係かんけいにあったが、アイルランド王国おうこくグレートブリテン王国おうこく合同ごうどうをめぐり、シェフィールドは賛成さんせい、フォスターは反対はんたいことなる立場たちばだった[2]議会ぎかいでの議論ぎろんでは性急せいきゅう実施じっし反乱はんらんこすとべた以外いがい合同ごうどう賛成さんせいした[2]どう時期じきにも伯爵はくしゃく申請しんせいつづけたが、アイルランド総督そうとくカムデン伯爵はくしゃく英語えいごばんとそのにんであるコーンウォリス侯爵こうしゃくはともに不在ふざい地主じぬしであることを理由りゆう反対はんたい、ポートランド公爵こうしゃく総督そうとくあたましにはめられないと返答へんとうし、またアイルランド貴族きぞく代表だいひょう議員ぎいんへの選出せんしゅつ連合れんごう王国おうこく貴族きぞくへの叙爵じょしゃく約束やくそくできないとした[2]

アディントンないかく成立せいりつしたのち、シェフィールドは内定ないていしゃがいることをりつつ、商務しょうむちょうふく長官ちょうかん英語えいごばん官職かんしょく申請しんせいした[2]申請しんせいけて、ポートランド公爵こうしゃく後任こうにん内務ないむ大臣だいじんであるチチェスター伯爵はくしゃく首相しゅしょうヘンリー・アディントン説得せっとくして、つぎ議会ぎかい解散かいさんのときにシェフィールドを連合れんごう王国おうこく貴族きぞくじょするとの許諾きょだくをさせた[2]。シェフィールドはその穀物こくもつ法案ほうあんをめぐり商務しょうむちょう長官ちょうかんリヴァプール伯爵はくしゃく英語えいごばん意見いけんわないことから、たとえ内定ないていしゃがいなくても就任しゅうにんできなかったはずだとチチェスターに説明せつめいし、わりにフォスターを商務しょうむちょう委員いいん推薦すいせんした[2]

1802ねんイギリスそう選挙せんきょでは叙爵じょしゃく内定ないていにより出馬しゅつばせず、議員ぎいん退任たいにんした[11]。1802ねん7がつ29にち連合れんごう王国おうこく貴族きぞくであるヨークしゅうにおけるシェフィールドのシェフィールド男爵だんしゃくじょされた[4]

晩年ばんねん[編集へんしゅう]

庶民しょみんいんはなれたのち通商つうしょうかんするパンフレット多数たすう出版しゅっぱんし、アイルランド貴族きぞく伯爵はくしゃくへの昇叙しょうじょ目指めざした[2]。1803ねんから1806ねんまで農業のうぎょう委員いいんかい委員いいんちょうつとめたのち[3]、1809ねん12がつ20日はつか枢密すうみつ顧問こもんかん商務しょうむちょう委員いいん任命にんめいされ、いずれも死去しきょまでつとめた[4]。1816ねん1がつ22にち、80さいにしてアイルランド貴族きぞくであるペヴェンジー子爵ししゃくシェフィールド伯爵はくしゃくじょされた[4]

晩年ばんねんにもA Letter on the Corn Laws(1815ねん穀物こくもつほうかんするパンフレット)、Remarks on the Bill of the Last Parliament for the Amendment of the Poor Laws, with observations, &c.(1819ねん救貧きゅうひんほうかんするパンフレット)を出版しゅっぱんしたが[1][3]、パンフレット出版しゅっぱん実際じっさいには政界せいかいでの栄達えいたつにはぎゃく効果こうかであり、初代しょだいオークランド男爵だんしゃくウィリアム・イーデン英語えいごばんが1806ねん2がつ首相しゅしょうグレンヴィル男爵だんしゃくての手紙てがみでホルロイドの商務しょうむちょう委員いいん任命にんめい反対はんたいしたとき、「(商務しょうむちょうの)業務ぎょうむりょうおさえ、効率こうりつてき完遂かんすいするにはしずかな熟慮じゅくりょ調査ちょうさによる迅速じんそく決定けってい不可欠ふかけつであり、航海こうかいほうかんするてしない議論ぎろんやパンフレットでのなが推論すいろん(と議論ぎろん二番煎にばんせんじ)にさらされてはならない」とべている[2]

1820ねん11月に貴族きぞくいん最後さいご発言はつげんをしたのち[3]、1821ねん5がつ30にちポートランド・プレイス英語えいごばん自宅じたく死去しきょフレッチング英語えいごばん埋葬まいそうされた[4]息子むすこジョージ英語えいごばん爵位しゃくい継承けいしょうした[4]

家族かぞく[編集へんしゅう]

1767ねん、アビゲイル・ウェイ(Abigail Way、1746ねんごろ – 1793ねん4がつ3にち、ルイス・ウェイのむすめ)と結婚けっこん[4]、1なん2じょをもうけた[13]

1794ねん12月26にち、ルーシー・ペラム(Lucy Pelham、1763ねん2がつ22にち – 1797ねん1がつ18にち初代しょだいチチェスター伯爵はくしゃくトマス・ペラムむすめ)と再婚さいこんしたが[4]2人ふたりあいだ子供こどもはいなかった[13]

1798ねん1がつ20日はつか、アン・ノース(Anne North、1764ねん1がつ8にち – 1832ねん1がつ18にちだい2だいギルフォード伯爵はくしゃくフレデリック・ノース次女じじょ)と再婚さいこん[4]、1なん1じょをもうけた[13]

著作ちょさく[編集へんしゅう]

  • 政治せいじ関連かんれん
    • Observations on the Commerce of the American States(1783ねん初版しょはん、1784ねんだい6はん[1]
    • Observations on the Manufactures, Trade, and Present State of Ireland(1785ねん[1]
    • Observations on the Project for Abolishing the Slave Trade(1790ねん匿名とくめい出版しゅっぱん、1791ねん記名きめい出版しゅっぱん[1]
    • Observations on the Corn Bill now depending in Parliament(1791ねん2がつ[1][2]
    • Speech on the Union with Ireland, 22 April 1799(1799ねん[1]
    • Remarks on the Deficiency of Grain occasioned by the Bad Harvest of 1799(1800ねん[1]
    • Observations on the Objections made to the Export of Wool from Great Britain to Ireland(1800ねん[1]
    • Strictures on the Necessity of inviolably maintaining the Navigation and Colonial System of Great Britain(1804ねん[1]
    • The Orders in Council and the American Embargo beneficial to the Commercial and Political Interests of Great Britain(1809ねん[1]
    • On the Trade in Wool and Woollens(1813ねん[1]
    • Report at the Meeting at Lewes Wool Fair(1813ねん、1816ねん[1]
    • Observations on the Impolicy, Abuses, and False Interpretation of the Poor Laws(1813ねん[1]
    • On the Trade in Wool and Woollens, including an Exposition of the Commercial Situation of the British Empire(1813ねん[1]
    • A Letter on the Corn Laws(1815ねん[1]
    • Remarks on the Bill of the Last Parliament for the Amendment of the Poor Laws, with observations, &c.(1819ねん[1]
  • エドワード・ギボン著作ちょさくしゅう
    • Gibbon's Miscellaneous Works(1796ねん初版しょはん、1814ねん、1837ねん再版さいはん[1]
    • Memoirs of the Life and Writings of Edward Gibbon(1826ねん、ホルロイドの死後しご出版しゅっぱん[1]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 1780ねん6がつ2にちジョージ・ゴードンきょう英語えいごばんはんカトリックの群衆ぐんしゅうひきいて庶民しょみんいん行進こうしん1778ねん教皇きょうこうほう英語えいごばんカトリック刑罰けいばつほう一部いちぶ廃止はいしした法律ほうりつ)の廃止はいし請願せいがんそうとしたが、いざウェストミンスターくと群衆ぐんしゅう庶民しょみんいん乱入らんにゅうするとおどし、やがてはんカトリック暴動ぼうどう発展はってんした事件じけん[9]
  2. ^ 公認こうにん協会きょうかいchartered society)であり[12]行政ぎょうせい一部いちぶではない。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x Williams, James (1891). "Holroyd, John Baker" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語えいご). Vol. 27. London: Smith, Elder & Co. pp. 200–202.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u Fisher, David R. (1986). "BAKER HOLROYD, John, 1st Baron Sheffield [I] (1735-1821), of Sheffield Place, Suss. and Grave Hall, Yorks.". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語えいご). The History of Parliament Trust. 2024ねん2がつ13にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o Canonn, John (24 May 2012) [23 September 2004]. "Holroyd, John Baker, first earl of Sheffield". Oxford Dictionary of National Biography (英語えいご) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/13608 (よう購読こうどく、またはイギリス公立こうりつ図書館としょかんへの会員かいいん加入かにゅう。)
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q Cokayne, George Edward; White, Geoffrey H., eds. (1949). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Rickerton to Sisonby) (英語えいご). Vol. 11 (2nd ed.). London: The St Catherine Press. pp. 663–666.
  5. ^ a b c d e f g h Brooke, John (1964). "BAKER HOLROYD, John (1735-1821), of Sheffield Place, Suss.". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語えいご). The History of Parliament Trust. 2024ねん2がつ13にち閲覧えつらん
  6. ^ Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Sheffield, John Baker Holroyd, 1st Earl of" . Encyclopædia Britannica (英語えいご). Vol. 24 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 822.
  7. ^ Brooke, John (1964). "Sussex". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語えいご). The History of Parliament Trust. 2024ねん2がつ13にち閲覧えつらん
  8. ^ a b c d e f g h i j Brooke, John (1964). "Coventry". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語えいご). The History of Parliament Trust. 2024ねん2がつ13にち閲覧えつらん
  9. ^ Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Gordon, Lord George" . Encyclopædia Britannica (英語えいご). Vol. 12 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 253.
  10. ^ "Holroyd; John Baker (1735 - 1821); 1st Earl of Sheffield". Record (英語えいご). The Royal Society. 2024ねん2がつ13にち閲覧えつらん
  11. ^ a b c d e f g Fisher, David R. (1986). "Bristol". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語えいご). The History of Parliament Trust. 2024ねん2がつ13にち閲覧えつらん
  12. ^ "Records created or inherited by the Agriculture, Fisheries and Food Departments, and related bodies". The National Archives (英語えいご). 2024ねん2がつ13にち閲覧えつらん
  13. ^ a b c d e Lodge, Edmund, ed. (1872). The Peerage of the British Empire as at Present Existing (英語えいご) (41st ed.). London: Hurst and Blackett. p. 512.
  14. ^ Cokayne, George Edward; White, Geoffrey H., eds. (1953). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Skelmersdale to Towton) (英語えいご). Vol. 12.1 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. p. 253.

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

グレートブリテン議会ぎかい英語えいごばん
先代せんだい
ウォルター・ウォリング英語えいごばん
エドワード・ロー・ヨー英語えいごばん
庶民しょみんいん議員ぎいんコヴェントリー選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ
1780ねん
同職どうしょくエドワード・ロー・ヨー英語えいごばん
次代じだい
サー・トマス・ハリファックス英語えいごばん
トマス・ロジャース英語えいごばん
先代せんだい
サー・トマス・ハリファックス英語えいごばん
トマス・ロジャース英語えいごばん
庶民しょみんいん議員ぎいんコヴェントリー選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ
1781ねん1784ねん
同職どうしょくエドワード・ロー・ヨー英語えいごばん 1781ねん – 1783ねん
ウィリアム・シーモア=コンウェイ閣下かっか 1783ねん – 1784ねん
次代じだい
サー・サンプソン・ギデオンじゅん男爵だんしゃく
ジョン・アードリー・ウィルモット英語えいごばん
先代せんだい
マシュー・ブリックデイル英語えいごばん
ヘンリー・クルーガー英語えいごばん
庶民しょみんいん議員ぎいんブリストル選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ
1790ねん1800ねん
同職どうしょくウスター侯爵こうしゃく英語えいごばん 1790ねん – 1796ねん
チャールズ・ブラッグ英語えいごばん 1796ねん – 1801ねん
次代じだい
連合れんごう王国おうこく議会ぎかい
グレートブリテンおよびアイルランド連合れんごう王国おうこく議会ぎかい
先代せんだい
グレートブリテン議会ぎかい
庶民しょみんいん議員ぎいんブリストル選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ
1801ねん1802ねん
同職どうしょくチャールズ・ブラッグ英語えいごばん
次代じだい
チャールズ・ブラッグ英語えいごばん
エヴァン・ベイリー英語えいごばん
アイルランドの爵位しゃくい
爵位しゃくい創設そうせつ シェフィールド伯爵はくしゃく
1816ねん – 1821ねん
次代じだい
ジョージ・ホルロイド英語えいごばん
シェフィールド男爵だんしゃく
だい2
1783ねん – 1821ねん
シェフィールド男爵だんしゃく
だい1
1781ねん – 1821ねん
イギリスの爵位しゃくい
爵位しゃくい創設そうせつ シェフィールド男爵だんしゃく
だい3
1802ねん – 1821ねん
次代じだい
ジョージ・ホルロイド英語えいごばん