ジョージ・ロムニー による肖像 しょうぞう 画 が 。
初代 しょだい シェフィールド伯爵 はくしゃく ジョン・ベイカー・ホルロイド (英語 えいご : John Baker Holroyd, 1st Earl of Sheffield PC FRS 、出生 しゅっしょう 名 めい ジョン・ホルロイド (John Holroyd )、1735年 ねん 12月21日 にち – 1821年 ねん 5月30日 にち )は、イギリス の政治 せいじ 家 か 、アイルランド貴族 きぞく 。庶民 しょみん 院 いん 議員 ぎいん を務 つと める傍 かたわ ら、主 おも に貿易 ぼうえき 政策 せいさく に関 かん するパンフレットを出版 しゅっぱん した[1] 。爵位 しゃくい や官職 かんしょく を繰 く り返 かえ し申請 しんせい した結果 けっか 、80代 だい になって伯爵 はくしゃく に叙 じょ された[2] 。エドワード・ギボン とは30年 ねん 以上 いじょう の付 つ き合 あ いの友人 ゆうじん であり、ギボンの死後 しご にその作品 さくひん 集 しゅう を出版 しゅっぱん した[3] 。
アイザック・ホルロイド(Isaac Holroyd 、1708年 ねん – 1778年 ねん [1] )と妻 つま ドロシー(Dorothy 、1777年 ねん 没 ぼつ [3] 、ダニエル・ベイカーの娘 むすめ )の次男 じなん として、1735年 ねん 12月21日 にち に生 う まれた[4] 。ホルロイド家 か は元々 もともと ヨークシャー の家系 かけい であり、17世紀 せいき のときにアイルランドに移住 いじゅう した[3] 。
ダブリン で教育 きょういく を受 う けた後 のち [3] 、1760年 ねん 4月 がつ 21日 にち に騎兵 きへい 少尉 しょうい (英語 えいご 版 ばん ) として第 だい 21軽 けい 竜騎兵 りゅうきへい 連隊 れんたい (英語 えいご 版 ばん ) に入隊 にゅうたい 、1761年 ねん 12月24日 にち に大尉 たいい に昇進 しょうしん したが[4] 、連隊 れんたい は1763年 ねん に解散 かいさん された[5] 。同年 どうねん から1766年 ねん まで大陸 たいりく ヨーロッパ を旅 たび し[4] 、1763年 ねん 9月 がつ にはローザンヌ で親 した しい友人 ゆうじん となる歴史 れきし 家 か エドワード・ギボン と出会 であ った[3] 。ギボンははじめホルロイドを尊大 そんだい であると考 かんが えたが、2人 ふたり はすぐに親 した しくなり、以降 いこう 生涯 しょうがい にわたる友人 ゆうじん となって、死後 しご も同 おな じ教会 きょうかい に埋葬 まいそう されている[3] 。
1762年 ねん に兄 あに ダニエルが戦死 せんし したほか[3] 、母方 ははかた のおじジョーンズ・ベイカーの死去 しきょ によりその遺産 いさん を継承 けいしょう し、「ベイカー」を姓 せい に加 くわ えた[4] 。1769年 ねん に31,000ポンド で第 だい 2代 だい デ・ラ・ウォー伯爵 はくしゃく ジョン・ウェスト(英語 えいご 版 ばん ) からサセックス のシェフィールド・プレイス (英語 えいご 版 ばん ) を購入 こうにゅう したことで地主 じぬし ジェントリ層 そう の1人 ひとり になった[1] [5] [6] 。
1度目 どめ の議員 ぎいん 期 き [ 編集 へんしゅう ]
1774年 ねん イギリス総 そう 選挙 せんきょ でサセックス選挙 せんきょ 区 く (英語 えいご 版 ばん ) からの出馬 しゅつば を検討 けんとう したが、ギボンは「(訳注 やくちゅう :地主 じぬし になって)5年 ねん はノウス・ホモ の批判 ひはん をかわすには短 みじか すぎる」とホルロイドを説得 せっとく して、立候補 りっこうほ を取 と りやめさせた[5] 。この総 そう 選挙 せんきょ ではサセックスに選挙 せんきょ 戦 せん があり、ホルロイドは1774年 ねん 11月に当選 とうせん 者 しゃ 第 だい 6代 だい 準 じゅん 男爵 だんしゃく サー・トマス・スペンサー・ウィルソン(英語 えいご 版 ばん ) へ当選 とうせん 祝 いわ いの手紙 てがみ を送 おく った[7] 。
1779年 ねん に第 だい 22軽 けい 竜騎兵 りゅうきへい 連隊 れんたい (英語 えいご 版 ばん ) を招集 しょうしゅう し、連隊 れんたい がコヴェントリー に駐留 ちゅうりゅう したためホルロイドはコヴェントリー政界 せいかい を熟知 じゅくち するようになり、1780年 ねん 2月 がつ にコヴェントリー選挙 せんきょ 区 く (英語 えいご 版 ばん ) の補欠 ほけつ 選挙 せんきょ に出馬 しゅつば した[5] [8] 。ギボンはこのときもホルロイドに助言 じょげん し、「今回 こんかい の空位 くうい ではあなたが手早 てばや く行動 こうどう したから、対立 たいりつ 候補 こうほ の立候補 りっこうほ を防 ふせ げるでしょう。しかし総 そう 選挙 せんきょ ではあなたの敵 てき である地方自治体 ちほうじちたい (corporation )が眠 ねむ っているはずもなく、敗北 はいぼく か、10,000ポンド を費 つい やしてしまわないよう、いかなる保証 ほしょう か約束 やくそく もすべきでないことを警告 けいこく する」と述 の べた[5] 。ギボンの言葉 ことば の通 とお り、ホルロイドは補欠 ほけつ 選挙 せんきょ で無 む 投票 とうひょう 当選 とうせん を果 は たしたが、同年 どうねん の総 そう 選挙 せんきょ では激 はげ しい選挙 せんきょ 戦 せん を戦 たたか うはめになった[8] 。
当選 とうせん から1か月 げつ 後 ご の3月 がつ 17日 にち に議会 ぎかい で動議 どうぎ をした[3] 。動議 どうぎ 自体 じたい は可決 かけつ されたが、当時 とうじ の議会 ぎかい では新人 しんじん 議員 ぎいん による目立 めだ った行動 こうどう は歓迎 かんげい されず、ホルロイドはかえって批判 ひはん された[3] 。同年 どうねん 6月 がつ 2日 にち にゴードン暴動 ぼうどう (英語 えいご 版 ばん ) [注釈 ちゅうしゃく 1] が勃発 ぼっぱつ すると、ホルロイドは庶民 しょみん 院 いん で首謀 しゅぼう 者 しゃ ジョージ・ゴードン卿 きょう (英語 えいご 版 ばん ) に対 たい し「これまであなたの行動 こうどう を狂気 きょうき だと考 かんが えていたが、今 いま は狂気 きょうき というよりは悪意 あくい だと感 かん じている」と述 の べ、自 みずか らノーサンバランド民兵 みんぺい 隊 たい を率 ひき いてゴードン暴動 ぼうどう の鎮圧 ちんあつ に協力 きょうりょく した[1] [4] 。
1780年 ねん の総 そう 選挙 せんきょ では『英国 えいこく 議会 ぎかい 史 し (英語 えいご 版 ばん ) 』によれば、国政 こくせい をめぐり地方自治体 ちほうじちたい の推 お す候補 こうほ 2名 めい が野党 やとう を支持 しじ し、ホルロイドら反 はん 地方自治体 ちほうじちたい の候補 こうほ がノース内閣 ないかく を支持 しじ したほか、コヴェントリーでゴードン暴動 ぼうどう による反 はん カトリック感情 かんじょう の高 たか まりがあったが、いずれも決定的 けっていてき ではなく、結局 けっきょく のところ地方自治体 ちほうじちたい と反 はん 地方自治体 ちほうじちたい という対立 たいりつ 軸 じく が勝敗 しょうはい の理由 りゆう だった[8] 。新聞 しんぶん ではお互 たが いの非難 ひなん の応酬 おうしゅう になり、『英国 えいこく 議会 ぎかい 史 し 』によればその内容 ないよう の真偽 しんぎ 判定 はんてい は不可能 ふかのう だった[8] 。そして、投票 とうひょう が始 はじ まると投票 とうひょう 所 しょ 周辺 しゅうへん で暴動 ぼうどう が起 お こり、8日 にち 目 め の投票 とうひょう が終 お わった後 のち も97人 にん しか投票 とうひょう できなかった[8] 。シェリフ は10月26日 にち に一旦 いったん 投票 とうひょう を打 う ち切 き り、暴動 ぼうどう で投票 とうひょう が継続 けいぞく できなかったと庶民 しょみん 院 いん に報告 ほうこく したが、事情 じじょう 聴取 ちょうしゅ ののち11月 がつ 29日 にち に投票 とうひょう が再開 さいかい され、25日間 にちかん 続 つづ いた[8] 。2度目 どめ の投票 とうひょう は1度目 どめ のときより状況 じょうきょう が改善 かいぜん しており、シェリフは12月29日 にち に結果 けっか を公表 こうひょう した[8] 。この投票 とうひょう 結果 けっか ではホルロイドが1,295票 ひょう (得票 とくひょう 数 すう 4位 い )で落選 らくせん したが、1位 い の1,319票 ひょう とわずか24票 ひょう 差 さ であり、『コヴェントリー・マーキュリー』紙 し は1781年 ねん 1月 がつ 1日 にち の報道 ほうどう で結果 けっか が誤 あやま りで、実際 じっさい にはホルロイド1,295票 ひょう (得票 とくひょう 数 すう 2位 い )など反 はん 地方自治体 ちほうじちたい の候補 こうほ 2名 めい が当選 とうせん すると指摘 してき した[8] 。庶民 しょみん 院 いん は審議 しんぎ ののち、2月 がつ 27日 にち にホルロイドら反 はん 地方自治体 ちほうじちたい の候補 こうほ 2名 めい の当選 とうせん を決定 けってい し、シェリフをニューゲート監獄 かんごく 送 おく りにしたうえでコヴェントリーにおける選挙 せんきょ 管理 かんり を改善 かいぜん する法案 ほうあん を審議 しんぎ した[8] 。また審議 しんぎ の間 あいだ にはホルロイドが1781年 ねん 1月 がつ 9日 にち にアイルランド貴族 きぞく であるミーズ県 けん におけるダナモアのシェフィールド男爵 だんしゃく に叙 じょ された[4] 。このように1780年 ねん の選挙 せんきょ 戦 せん はホルロイドの辛勝 しんしょう に終 お わり、ホルロイドが与党 よとう を支持 しじ したため政府 せいふ は選挙 せんきょ 資金 しきん としてホルロイドに2,000ポンド支払 しはら った[5] 。
庶民 しょみん 院 いん ではノース内閣 ないかく (1770年 ねん – 1782年 ねん )、フォックス=ノース連立 れんりつ 内 ない 閣 かく (1783年 ねん )を支持 しじ 、シェルバーン伯爵 はくしゃく 内 ない 閣 かく (1782年 ねん – 1783年 ねん )、第 だい 1次 じ 小 しょう ピット内 ない 閣 かく (1783年 ねん – 1801年 ねん )に反対 はんたい した[5] 。投票 とうひょう においてもシェルバーン伯爵 はくしゃく 内 ない 閣 かく 期 き のアメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう 予備 よび 講和 こうわ 条約 じょうやく に反対 はんたい 票 ひょう を投 とう じた[5] 。1783年 ねん 4月 がつ 3日 にち 、王立 おうりつ 協会 きょうかい フェロー に選出 せんしゅつ された[10] 。フォックス=ノース連立 れんりつ 内 ない 閣 かく 期 き の1783年 ねん 9月 がつ 20日 はつか 、アイルランド貴族 きぞく であるロスコモン県 けん におけるロスコモンのシェフィールド男爵 だんしゃく に叙 じょ された[4] 。このシェフィールド男爵 だんしゃく 位 い には特別 とくべつ 残余 ざんよ 権 けん (special remainder )が規定 きてい されており、初代 しょだい 男爵 だんしゃく の男系 だんけい 男子 だんし が断絶 だんぜつ した場合 ばあい は初代 しょだい 男爵 だんしゃく の娘 むすめ 2人 にん およびその男系 だんけい 男子 だんし が継承 けいしょう できるとした[4] 。同年 どうねん に首相 しゅしょう 小 しょう ピット がアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく に対 たい する航海 こうかい 条例 じょうれい の緩和 かんわ 法案 ほうあん を提出 ていしゅつ すると、ホルロイドはObservations on the Commerce of the American States と題 だい する著作 ちょさく を出版 しゅっぱん して(1783年 ねん 初版 しょはん 、1784年 ねん 第 だい 6版 はん )緩和 かんわ 法案 ほうあん に反対 はんたい 、法案 ほうあん を廃案 はいあん に追 お い込 こ んだ[1] 。
1784年 ねん イギリス総 そう 選挙 せんきょ においてはホルロイドら反 はん 地方自治体 ちほうじちたい の候補 こうほ がフォックス 派 は 、地方自治体 ちほうじちたい の候補 こうほ が小 しょう ピット派 は であり、地方 ちほう 政治 せいじ で対立 たいりつ する候補 こうほ が国政 こくせい でも対立 たいりつ した形 かたち になったが、『英国 えいこく 議会 ぎかい 史 し 』では国政 こくせい での対立 たいりつ の選挙 せんきょ への影響 えいきょう を不明 ふめい であるとし、決 き め手 て になったのは地方自治体 ちほうじちたい の候補 こうほ である初代 しょだい 準 じゅん 男爵 だんしゃく サー・サンプソン・ギデオン に潤沢 じゅんたく な選挙 せんきょ 資金 しきん があり、反 はん 地方自治体 ちほうじちたい の候補 こうほ がそれをみて早々 そうそう にあきらめた結果 けっか だとした[8] 。
落選 らくせん した年 とし にアイルランドでの領地 りょうち を訪 おとず れ、1785年 ねん にObservations on the Manufactures, Trade, and Present State of Ireland と題 だい する、小 しょう ピットの通商 つうしょう 政策 せいさく を批判 ひはん する著作 ちょさく を出版 しゅっぱん した[2] 。シェフィールドはこの著作 ちょさく でアイルランドの繁栄 はんえい がイギリスとの緊密 きんみつ な関係 かんけい の維持 いじ にかかっていると主張 しゅちょう した[2] 。1786年 ねん 3月 がつ に娘 むすめ マリア・ジョセファ (英語 えいご 版 ばん ) が演劇 えんげき に出 で たが、このような状況 じょうきょう にあるシェフィールドは娘 むすめ の著作 ちょさく で「先週 せんしゅう の木曜日 もくようび にはじめて演劇 えんげき に出 で た。(中略 ちゅうりゃく )パパは輸出入 ゆしゅつにゅう に忙 いそが しくてそんなこと考 かんが えられなかった」と茶化 ちゃか された[3] 。
2度目 どめ の議員 ぎいん 期 き [ 編集 へんしゅう ]
1789年 ねん 9月 がつ から1790年 ねん 5月 がつ までレディング選挙 せんきょ 区 く (英語 えいご 版 ばん ) で選挙 せんきょ 活動 かつどう をしたが、後 のち にブリストル選挙 せんきょ 区 く (英語 えいご 版 ばん ) に移 うつ り[2] 、1790年 ねん イギリス総 そう 選挙 せんきょ でブリストルから出馬 しゅつば した[11] 。ブリストルでは1784年 ねん の総 そう 選挙 せんきょ で激 はげ しい選挙 せんきょ 戦 せん の末 すえ 、与野党 よやとう が1議席 ぎせき ずつという結果 けっか になり、1790年 ねん の総 そう 選挙 せんきょ では選挙 せんきょ 戦 せん を避 さ けて与野党 よやとう が1人 にん ずつ指名 しめい する合意 ごうい が成立 せいりつ した[11] 。野党 やとう ホイッグ党 とう はシェフィールド男爵 だんしゃく 、第 だい 4代 だい 準 じゅん 男爵 だんしゃく サー・ギルバート・エリオット 、ウィリアム・カニンガム(William Cuninghame )といった候補 こうほ を検討 けんとう した後 のち 、シェフィールドを指名 しめい して当選 とうせん させた[11] 。
この年 とし 、シェフィールドは選挙 せんきょ の前 まえ に奴隷 どれい 貿易 ぼうえき の廃止 はいし に反対 はんたい する著作 ちょさく Observations on the Project for Abolishing the Slave Trade を出版 しゅっぱん しており、ギボンから小言 こごと を言 い われていたが、選挙 せんきょ の情勢 じょうせい には影響 えいきょう しなかった[2] 。さらに1791年 ねん 2月 がつ には穀物 こくもつ 法 ほう による保護 ほご 貿易 ぼうえき 政策 せいさく を提唱 ていしょう するObservations on the Corn Bill now depending in Parliament を出版 しゅっぱん 、議会 ぎかい でも穀物 こくもつ 法案 ほうあん の審議 しんぎ で意見 いけん を述 の べた[2] 。また4月 がつ 19日 にち に奴隷 どれい 貿易 ぼうえき 廃止 はいし に反対 はんたい する演説 えんぜつ をして、6月 がつ に家族 かぞく とともにローザンヌ でギボンを訪 おとず れた[2] 。
1792年 ねん のフランス革命 かくめい 戦争 せんそう 勃発 ぼっぱつ とともに与党 よとう に鞍替 くらが えし、1793年 ねん 5月 がつ に農業 のうぎょう 委員 いいん 会 かい (英語 えいご 版 ばん ) [注釈 ちゅうしゃく 2] が設立 せつりつ されるとその委員 いいん に就任 しゅうにん した[2] 。しかし官職 かんしょく など政府 せいふ の後援 こうえん を得 え られず、不満 ふまん が募 つの る状態 じょうたい だった[2] 。1796年 ねん 1月 がつ よりアイルランド貴族 きぞく における伯爵 はくしゃく 位 い を求 もと めるようになったが、アイルランドに住 す んでいないため『英国 えいこく 議会 ぎかい 史 し 』は成功 せいこう する確 かく 率 りつ が低 ひく いと評 ひょう した[2] 。ホイッグ党 とう の指導 しどう 者 しゃ で与党 よとう 入 い りした内務 ないむ 大臣 だいじん ポートランド公爵 こうしゃく への申請 しんせい も不 ふ 明確 めいかく な返答 へんとう しかなかった[2] 。
1794年 ねん にギボンが死去 しきょ した[3] 。シェフィールドはギボンの自伝 じでん などの著作 ちょさく を編集 へんしゅう し、1796年 ねん にGibbon's Miscellaneous Works として出版 しゅっぱん した[1] [3] 。
1796年 ねん イギリス総 そう 選挙 せんきょ では出馬 しゅつば の検討 けんとう 中 ちゅう にポートランド公爵 こうしゃく と交渉 こうしょう し、出馬 しゅつば の代償 だいしょう としてグレートブリテン貴族 きぞく への叙爵 じょしゃく の約束 やくそく を引 ひ き出 だ そうとしたが失敗 しっぱい した[11] 。ホイッグ党 とう はベンジャミン・ホブハウス (英語 えいご 版 ばん ) を出馬 しゅつば させ、与党 よとう はチャールズ・ブラッグ (英語 えいご 版 ばん ) に加 くわ えてシェフィールド男爵 だんしゃく を出馬 しゅつば させた[11] 。ブリストルのトーリー党 とう 指導 しどう 者 しゃ たちは商務 しょうむ 庁 ちょう 長官 ちょうかん の初代 しょだい ホークスベリー男爵 だんしゃく チャールズ・ジェンキンソン(英語 えいご 版 ばん ) にシェフィールド以外 いがい の候補 こうほ の推薦 すいせん を求 もと めたが、ホークスベリー男爵 だんしゃく はシェフィールドが当選 とうせん できそうであれば支持 しじ すべきと判断 はんだん し、投票 とうひょう においてもホブハウスの勢 いきお いが弱 よわ く1日 にち 目 め に撤退 てったい して、シェフィールドが714票 ひょう でトップ当選 とうせん している[11] 。当選 とうせん とともに再 ふたた びポートランド公爵 こうしゃく に伯爵 はくしゃく 位 い を申請 しんせい したが、今度 こんど は明確 めいかく に却下 きゃっか されている[2] 。
シェフィールドはアイルランド庶民 しょみん 院 いん 議長 ぎちょう (英語 えいご 版 ばん ) ジョン・フォスター と友人 ゆうじん 関係 かんけい にあったが、アイルランド王国 おうこく とグレートブリテン王国 おうこく の合同 ごうどう をめぐり、シェフィールドは賛成 さんせい 、フォスターは反対 はんたい と異 こと なる立場 たちば だった[2] 。議会 ぎかい での議論 ぎろん では性急 せいきゅう な実施 じっし が反乱 はんらん を起 お こすと述 の べた以外 いがい は合同 ごうどう に賛成 さんせい した[2] 。同 どう 時期 じき にも伯爵 はくしゃく 位 い の申請 しんせい を続 つづ けたが、アイルランド総督 そうとく のカムデン伯爵 はくしゃく (英語 えいご 版 ばん ) とその後 ご 任 にん であるコーンウォリス侯爵 こうしゃく はともに不在 ふざい 地主 じぬし であることを理由 りゆう に反対 はんたい 、ポートランド公爵 こうしゃく も総督 そうとく 頭 あたま 越 ご しには決 き められないと返答 へんとう し、またアイルランド貴族 きぞく 代表 だいひょう 議員 ぎいん への選出 せんしゅつ も連合 れんごう 王国 おうこく 貴族 きぞく への叙爵 じょしゃく も約束 やくそく できないとした[2] 。
アディントン内 ない 閣 かく が成立 せいりつ した後 のち 、シェフィールドは内定 ないてい 者 しゃ がいることを知 し りつつ、商務 しょうむ 庁 ちょう 副 ふく 長官 ちょうかん (英語 えいご 版 ばん ) の官職 かんしょく を申請 しんせい した[2] 。申請 しんせい を受 う けて、ポートランド公爵 こうしゃく の後任 こうにん の内務 ないむ 大臣 だいじん であるチチェスター伯爵 はくしゃく は首相 しゅしょう ヘンリー・アディントン を説得 せっとく して、次 つぎ の議会 ぎかい 解散 かいさん のときにシェフィールドを連合 れんごう 王国 おうこく 貴族 きぞく に叙 じょ するとの許諾 きょだく をさせた[2] 。シェフィールドはその後 ご 、穀物 こくもつ 法案 ほうあん をめぐり商務 しょうむ 庁 ちょう 長官 ちょうかん のリヴァプール伯爵 はくしゃく (英語 えいご 版 ばん ) と意見 いけん が合 あ わないことから、たとえ内定 ないてい 者 しゃ がいなくても就任 しゅうにん できなかったはずだとチチェスターに説明 せつめい し、代 か わりにフォスターを商務 しょうむ 庁 ちょう 委員 いいん に推薦 すいせん した[2] 。
1802年 ねん イギリス総 そう 選挙 せんきょ では叙爵 じょしゃく の内定 ないてい により出馬 しゅつば せず、議員 ぎいん を退任 たいにん した[11] 。1802年 ねん 7月 がつ 29日 にち 、連合 れんごう 王国 おうこく 貴族 きぞく であるヨーク州 しゅう におけるシェフィールドのシェフィールド男爵 だんしゃく に叙 じょ された[4] 。
庶民 しょみん 院 いん を離 はな れた後 のち も通商 つうしょう に関 かん するパンフレット を多数 たすう 出版 しゅっぱん し、アイルランド貴族 きぞく の伯爵 はくしゃく 位 い への昇叙 しょうじょ を目指 めざ した[2] 。1803年 ねん から1806年 ねん まで農業 のうぎょう 委員 いいん 会 かい の委員 いいん 長 ちょう を務 つと めた後 のち [3] 、1809年 ねん 12月 がつ 20日 はつか 、枢密 すうみつ 顧問 こもん 官 かん と商務 しょうむ 庁 ちょう 委員 いいん に任命 にんめい され、いずれも死去 しきょ まで務 つと めた[4] 。1816年 ねん 1月 がつ 22日 にち 、80歳 さい にしてアイルランド貴族 きぞく であるペヴェンジー子爵 ししゃく とシェフィールド伯爵 はくしゃく に叙 じょ された[4] 。
晩年 ばんねん にもA Letter on the Corn Laws (1815年 ねん 、穀物 こくもつ 法 ほう に関 かん するパンフレット)、Remarks on the Bill of the Last Parliament for the Amendment of the Poor Laws, with observations, &c. (1819年 ねん 、救貧 きゅうひん 法 ほう に関 かん するパンフレット)を出版 しゅっぱん したが[1] [3] 、パンフレット出版 しゅっぱん は実際 じっさい には政界 せいかい での栄達 えいたつ には逆 ぎゃく 効果 こうか であり、初代 しょだい オークランド男爵 だんしゃく ウィリアム・イーデン(英語 えいご 版 ばん ) が1806年 ねん 2月 がつ に首相 しゅしょう グレンヴィル男爵 だんしゃく 宛 あ ての手紙 てがみ でホルロイドの商務 しょうむ 庁 ちょう 委員 いいん 任命 にんめい に反対 はんたい したとき、「(商務 しょうむ 庁 ちょう の)業務 ぎょうむ 量 りょう を抑 おさ え、効率 こうりつ 的 てき に完遂 かんすい するには静 しず かな熟慮 じゅくりょ と調査 ちょうさ による迅速 じんそく な決定 けってい が不可欠 ふかけつ であり、航海 こうかい 法 ほう に関 かん する果 は てしない議論 ぎろん やパンフレットでの長 なが い推論 すいろん (と議論 ぎろん の二番煎 にばんせん じ)に晒 さら されてはならない」と述 の べている[2] 。
1820年 ねん 11月に貴族 きぞく 院 いん で最後 さいご の発言 はつげん をした後 のち [3] 、1821年 ねん 5月 がつ 30日 にち にポートランド・プレイス (英語 えいご 版 ばん ) の自宅 じたく で死去 しきょ 、フレッチング (英語 えいご 版 ばん ) で埋葬 まいそう された[4] 。息子 むすこ ジョージ (英語 えいご 版 ばん ) が爵位 しゃくい を継承 けいしょう した[4] 。
1767年 ねん 、アビゲイル・ウェイ(Abigail Way 、1746年 ねん ごろ – 1793年 ねん 4月 がつ 3日 にち 、ルイス・ウェイの娘 むすめ )と結婚 けっこん [4] 、1男 なん 2女 じょ をもうけた[13] 。
1794年 ねん 12月26日 にち 、ルーシー・ペラム(Lucy Pelham 、1763年 ねん 2月 がつ 22日 にち – 1797年 ねん 1月 がつ 18日 にち 、初代 しょだい チチェスター伯爵 はくしゃく トマス・ペラム の娘 むすめ )と再婚 さいこん したが[4] 、2人 ふたり の間 あいだ に子供 こども はいなかった[13] 。
1798年 ねん 1月 がつ 20日 はつか 、アン・ノース(Anne North 、1764年 ねん 1月 がつ 8日 にち – 1832年 ねん 1月 がつ 18日 にち 、第 だい 2代 だい ギルフォード伯爵 はくしゃく フレデリック・ノース の次女 じじょ )と再婚 さいこん [4] 、1男 なん 1女 じょ をもうけた[13] 。
政治 せいじ 関連 かんれん
Observations on the Commerce of the American States (1783年 ねん 初版 しょはん 、1784年 ねん 第 だい 6版 はん )[1]
Observations on the Manufactures, Trade, and Present State of Ireland (1785年 ねん )[1]
Observations on the Project for Abolishing the Slave Trade (1790年 ねん 匿名 とくめい 出版 しゅっぱん 、1791年 ねん 記名 きめい 出版 しゅっぱん )[1]
Observations on the Corn Bill now depending in Parliament (1791年 ねん 2月 がつ )[1] [2]
Speech on the Union with Ireland, 22 April 1799 (1799年 ねん )[1]
Remarks on the Deficiency of Grain occasioned by the Bad Harvest of 1799 (1800年 ねん )[1]
Observations on the Objections made to the Export of Wool from Great Britain to Ireland (1800年 ねん )[1]
Strictures on the Necessity of inviolably maintaining the Navigation and Colonial System of Great Britain (1804年 ねん )[1]
The Orders in Council and the American Embargo beneficial to the Commercial and Political Interests of Great Britain (1809年 ねん )[1]
On the Trade in Wool and Woollens (1813年 ねん )[1]
Report at the Meeting at Lewes Wool Fair (1813年 ねん 、1816年 ねん )[1]
Observations on the Impolicy, Abuses, and False Interpretation of the Poor Laws (1813年 ねん )[1]
On the Trade in Wool and Woollens, including an Exposition of the Commercial Situation of the British Empire (1813年 ねん )[1]
A Letter on the Corn Laws (1815年 ねん )[1]
Remarks on the Bill of the Last Parliament for the Amendment of the Poor Laws, with observations, &c. (1819年 ねん )[1]
エドワード・ギボン 著作 ちょさく 集 しゅう
Gibbon's Miscellaneous Works (1796年 ねん 初版 しょはん 、1814年 ねん 、1837年 ねん 再版 さいはん )[1]
Memoirs of the Life and Writings of Edward Gibbon (1826年 ねん 、ホルロイドの死後 しご に出版 しゅっぱん )[1]
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