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ソトぞく

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バソト
バソトのくにつくったモショエショエ1せいかれ大臣だいじんたち
(530まんにん(2001推定すいてい)から640.9まんにん[1])
居住きょじゅう地域ちいき
みなみアフリカ, レソト
南アフリカ共和国の旗 みなみアフリカ354まん4304にん(2001統計とうけい)から472.3まんにん[1]
レソトの旗 レソト166.9まんにん[1]
ボツワナの旗 ボツワナ1.1まんにん[1]
エスワティニの旗 エスワティニ6000にん[1]
アメリカ合衆国の旗 アメリカ300 にん[1]
言語げんご
ソト
宗教しゅうきょう
アフリカ伝統でんとう宗教しゅうきょう, キリスト教きりすときょう
関連かんれんする民族みんぞく
きたソトぞく, ツワナぞく

ソトぞく(Sotho、Basotho、Basuto)は、5世紀せいきごろからアフリカ南部なんぶバントゥーけい民族みんぞく。ソトのくにモショエショエ1せいが19世紀せいき初頭しょとうにアフリカ南部なんぶ分散ぶんさんしていたソト・ツワナぞく氏族しぞくあつめたことまれた。今日きょうおおくのソトぞくみなみアフリカにんでおり、オレンジ自由じゆうこく領域りょういき元々もともとモショエショエのくにいまレソト)だった。

歴史れきし[編集へんしゅう]

19世紀せいきまで[編集へんしゅう]

バントゥーぐんはな牧畜ぼくちく民族みんぞくおよそ200から500ねんごろみなみアフリカに定住ていじゅうした[2]西部せいぶから中央ちゅうおうアフリカ周辺しゅうへん起源きげん人々ひとびと鉄器てっき時代じだいなみみなみアフリカ半島はんとうちゅうひろまり、容易ようい土着どちゃく石器せっき時代じだい住民じゅうみんわった[3]。19世紀せいきまでに安定あんていした定住ていじゅう生活せいかつあらわれた。ングニはな民族みんぞく初期しょきズールーじんコサじん)はひがしからみなみ沿岸えんがん支配しはいした。それにたいし、おおくのソト王国おうこく高原こうげん南部なんぶこった(自由じゆうしゅうハウテンしゅう一部いちぶ[2]。ソトぞく社会しゃかい高度こうど分散ぶんさんしており、クラール拡大かくだい氏族しぞく基本きほん構成こうせいされ、どちらも首長しゅちょう支配しはいした[4]首長しゅちょうこくゆる連合れんごうこく統合とうごうされていった[4]

ズールー拡張かくちょう政策せいさく白人はくじん入植にゅうしょく[編集へんしゅう]

19世紀せいきにソトぞく歴史れきし重大じゅうだいいまつづく2つの事件じけんきる。ひがしではシャカがズールーじん皇帝こうていになった[2]。ズールーじん社会しゃかい分散ぶんさんした氏族しぞく社会しゃかいから統合とうごうされるにつれ、常備じょうびぐん王国おうこくおおくの侵略しんりゃく戦争せんそうこした[2]のちに「ディファカネ」とばれるズールーじん拡大かくだいにつれて、ひがしからの避難ひなんみん急増きゅうぞうした[5]。これらの集団しゅうだんハイヴェルドむソトぞく接触せっしょくした。1823ねんにはソトぞくいち集団しゅうだんであるマコロロぞくがこの圧力あつりょくきたいやられ、オカバンゴ・デルタザンベジがわバロツェランド現在げんざいザンビア移動いどうした[6]。1845ねんには、マココロぞくはバロツェランドを征服せいふくした[7]同時どうじに、1652ねんケープタウン入植にゅうしょくしたオランダじん子孫しそんはソトぞく領域りょういきたっはじめた[8]の20世紀せいきに「フーアトレッカーズ(開拓かいたくしゃ)」とばれるかれらは、当時とうじイギリスじんにはボーアじんとしてられていた。ナポレオン戦争せんそう結果けっかみなみアフリカ南西なんせい沿岸えんがんはイギリスに割譲かつじょうされ、その地域ちいき農家のうかはオランダじんことにした[2]言語げんごけと奴隷どれい解放かいほうへの不満ふまんによって、オランダじん入植にゅうしょくしゃはイギリス支配しはいのケープ植民しょくみんてた。かれらはやがてみなみアフリカの後背こうはい独立どくりつした政治せいじ組織そしきつくこと成功せいこうした[8]

モショエショエ[編集へんしゅう]

これらの開発かいはつ時代じだい、モショエショエおう(モショウェショウェやあやまってモシェシュともばれる)はハイヴェルド南部なんぶのソトしょ王国おうこく支配しはいした[2]かれ国際こくさいてき外交がいこうりょく戦略せんりゃくけると評価ひょうかされており、かれディファカネへの避難ひなんみん統合とうごう国家こっかこと出来でき[9]かれすぐれた統率とうそつりょくのおかげかれちいさなくに危険きけん困難こんなんすなわちズールーじん覇権はけんやオランダじん開拓かいたくしゃ内地ないちへの拡大かくだいだいえい帝国ていこく思惑おもわくびた。これらの困難こんなんみなみアフリカ土着どちゃく王国おうこくを19世紀せいきちゅうほろぼした[10]。1822ねんに、かれ首都しゅとブータ・ブーテ設置せっちした。ここはきたまもりやすいドラケンスバーグ山脈さんみゃくようし、やがてレソト王国おうこくへと発展はってんしていった[11]首都しゅとのちサバ・ボシウうつされた[12]。オランダじん開拓かいたくしゃ集団しゅうだん侵略しんりゃく対処たいしょするために、かれはフランスに国内こくないでの布教ふきょう活動かつどうみとめた[13]パリ福音ふくいん宣教せんきょう教会きょうかいから派遣はけんされた宣教師せんきょうしは、おう外交がいこう助言じょげんおこな近代きんだい兵器へいき購入こうにゅう手伝てつだった[14]くに大臣だいじんとして活動かつどうするかたわら、宣教師せんきょうし初期しょきはカサリスとアーボウッセト)はソトぞく正書法せいしょほう制定せいていやソト教材きょうざい印刷いんさつで1837から1855ねんあいだ重要じゅうよう役割やくわりたした[15]。1878ねん最初さいしょのソトばん聖書せいしょつくられた[16]

イギリス保護ほご時代じだい[編集へんしゅう]

1868ねんに、自由じゆうしゅう・ソト戦争せんそうでボーアじん西部せいぶ低地ていちうばわれたのち、モショエショエ1せいヴィクトリア女王じょおうレソト当時とうじバソトゥランドとしてられていた)をイギリスの保護ほごこくにさせること成功せいこうした。イギリス行政ぎょうせいちょうマセルかれ、現在げんざいのレソトの首都しゅとになっている[8]国内こくない問題もんだい地域ちいき首長しゅちょう権限けんげんち、イギリスは外交がいこう防衛ぼうえい担当たんとうした[17]。1869ねんに、イギリスはバソトゥランドの国境こっきょう画定かくてい作業さぎょう手伝てつだった[8]。バソトゥランドにはおおくの氏族しぞく領地りょうちっていたが、ソト話者わしゃおおくはオレンジ自由じゆうしゅうことになり、フーアトレッカー共和きょうわこくがソト王国おうこくせっすることになった。イギリスのオレンジ自由じゆうしゅうみなみアフリカ共和きょうわこくふくめてすべてのバソトゥランドを併合へいごうするという目論見もくろみ失敗しっぱいした[3]。1966ねんには、バソトゥランドはイギリスから独立どくりつり、レソト王国おうこくとなった。

今日きょうのソト[編集へんしゅう]

ソトぞく言語げんごは「セソト」[18]や「セソト・サ・ボーワ」(使用しよう頻度ひんどすくない)とばれる[19]。ソトを「みなみソト」とし、ペディとはことなるとする文献ぶんけんもある。ソトはレソトじんうち150まんにんだいいち言語げんごであり、これは人口じんこうの85%をめる[20]。ソト英語えいごがレソトの公用こうようである[20]。レソトの大人おとな識字しきじりつは59%で、これはアフリカでは最高さいこうくにの1つである[21]みなみアフリカでは、やく400まんにんがソトだいいち言語げんごとしている[22]自由じゆうしゅうの62%の住民じゅうみんがソトだいいち言語げんごとしている[22]ハウテンしゅうではやく10%の住民じゅうみんがソトだいいち言語げんごのようにはな[22]北西きたにししゅうでは5%の住民じゅうみんがソトだいいち言語げんごとし、とくにマボロカ地方ちほう集中しゅうちゅうしている[22]ムプマランガしゅう住民じゅうみんの3%がソトだいいち言語げんごとし、おおくがスタンダートン地区ちくんでいる[22]ひがしケープしゅう住民じゅうみんの2%がソトだいいち言語げんごとし、しゅう北部ほくぶかたまっている[22]推定すいてい500まんにんがソトだい以降いこう言語げんごとしてもちいている[23]。ソトみなみアフリカの公用こうようの1つである[18]。レソトとみなみアフリカ以外いがいでは、6まんにんシロジ(ソトちか言語げんご)をザンビアはなしている[23]ボツワナスワジランドナミビアカプリビ回廊かいろう少数しょうすうのソト話者わしゃがいる[23]。ソト研究けんきゅう対象たいしょうとしても学習がくしゅう手段しゅだんとしてももちいられる[21]はな言葉ことば言葉ことば両方りょうほう幼稚園ようちえんから大学だいがく博士はかせ課程かていまでもちいられている[21]商業しょうぎょう情報じょうほう科学かがく科学かがく数学すうがく法律ほうりつ領域りょういきではソト専門せんもん用語ようごいま比較的ひかくてきすくない[21]アパルトヘイト以降いこうソト発信はっしんりょくたかまった。ラジオ・レセディは24あいだソトだけで放送ほうそうしているラジオきょくで、SABC(みなみアフリカ放送ほうそう協会きょうかい)が運営うんえいしている。レソトにも自由じゆうしゅうにも地域ちいきラジオきょくほかにも存在そんざいする[21]みなみアフリカ放送ほうそう協会きょうかい独立どくりつテレビ放送ほうそうきょくeTV毎日まいにち30ふんソト速報そくほうながれる。両社りょうしゃどもいくつかのソト方言ほうげん番組ばんぐみつくっている。レソトの新聞しんぶんほとんどはソト単独たんどくもしくは英語えいごとの併記へいきかれている。現在げんざいみなみアフリカでは、自由じゆうしゅうクワクワフォーリーズブルグフィックスブルグひとし都市とし以外いがいではソト成熟せいじゅくした新聞しんぶんいが、人気にんき月刊げっかん雑誌ざっしの「ボナ」はソト記事きじもある[21][21]。ソト正書法せいしょほう成文せいぶんされてから、ソト文学ぶんがく作品さくひんかれるようになった。そのなかもっと有名ゆうめいものトーマス・モフォロの「チャカ[よう曖昧あいまい回避かいひ]」という叙事詩じょじしで、英語えいごやドイツふくいくつかの言語げんご翻訳ほんやくされている[24]

今日きょうのソトぞく[編集へんしゅう]

ソトぞく中心ちゅうしんみなみアフリカの自由じゆうしゅうとそこに隣接りんせつするレソトである[25]りょう地方ちほうども田舎いなかでは貧困ひんこんてい開発かいはつ状態じょうたい蔓延まんえんしている[26]。これは一部いちぶのソト話者わしゃ安定あんていした仕事しごとこう品質ひんしつ生活せいかつをしているが、おおくが経済けいざいてき苦境くきょうなからしているためである[27]土地とち所有しょゆうしゃおおくが生活せいかつくるしく、小規模しょうきぼ商業しょうぎょうてき農業のうぎょうをしている[20]過剰かじょう放牧ほうぼく土地とち管理かんり失敗しっぱい拡大かくだいちゅう問題もんだいである[20]人口じんこう移動いどうのためにソト大陸たいりくひろ範囲はんいはなされている。貨幣かへい経済けいざいはいために、ソトぞく男性だんせいはよくみなみアフリカの鉱業こうぎょう分野ぶんや出稼でかせぎをしている[28]自由じゆうしゅうやレソトからの出稼でかせ労働ろうどうしゃみなみアフリカの都市としにソトひろめている。出稼でかせぎはソト話者わしゃ家族かぞく人生じんせい悪影響あくえいきょうおよぼすと一般いっぱんてきられている。大人おとな基本きほんてき男性だんせい)がなんひゃくkmもさき都市としはたらため家族かぞく貧困ひんこん地域ちいきいていくためである[29]。アパルトヘイト政策せいさくによって政府せいふはソト話者わしゃバントゥースタンへの移住いじゅう強制きょうせいしたがあまり効果こうかく、20世紀せいきあいだちゅうおおくの労働ろうどうしゃ黒人こくじん伝統でんとう地域ちいきはなれていた[30]男性だんせい鉱業こうぎょう仕事しごとつけやすいのにたいして、女性じょせい農業のうぎょう内職ないしょく重点じゅうてんいた[30]都市とし魅力みりょくおとろえず、レソトやソトぞく地域ちいきまれの黒人こくじんにとって国内こくない移住いじゅう現実げんじつてき選択肢せんたくしでありつづけている[31]一般いっぱんてきに、ソト話者わしゃ雇用こようじょうきょうみなみアフリカ社会しゃかい全体ぜんたいのそれとている。歴史れきしてき要因よういんにより、ソトぞくみなみアフリカの黒人こくじん失業しつぎょうりつたか[32]専門せんもんひと教育きょういく健康けんこう薬学やくがく法律ほうりつ政治せいじ分野ぶんやはたらいている。ひと公務員こうむいん民間みんかん企業きぎょう目指めざす。宗教しゅうきょうめんでは、キリストきょう宣教師せんきょうしがモショエショエがくにまもこと補佐ほさしたため、キリストきょうはソトぞくひろひろまっている。今日きょうでは、ソト話者わしゃおおくはキリストきょう土着どちゃく信仰しんこうぜた宗教しゅうきょう信仰しんこうしている。「モディモ」(かみ)はせるさだめのもの近寄ちかよれない最高さいこう存在そんざいであり、祖先そせんがモディモときているひとむすけることで、祖先そせんへのちかいや尊敬そんけいはぐくまれる[33]公的こうてきには、レソトじん多数たすうカトリックである[20]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

参考さんこう資料しりょう[編集へんしゅう]

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