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ティトゥス・ラルキウス・フラウス

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ティトゥス・ラルキウス・フラウス
T. Larcius Flavus
出生しゅっしょう 不明ふめい
死没しぼつ 不明ふめい
出身しゅっしん階級かいきゅう パトリキ
氏族しぞく ラルキウス氏族しぞく
官職かんしょく トリブヌス・ミリトゥム紀元前きげんぜん504ねん?)
執政しっせいかん紀元前きげんぜん501ねん、498ねん
独裁どくさいかん紀元前きげんぜん501ねんもしくは498ねん
プラエフェクトゥス・ウルビ紀元前きげんぜん494ねん
レガトゥス紀元前きげんぜん493)
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ティトゥス・ラルキウス・フラウスラテン語らてんご: Titus Larcius Flavusなま没年ぼつねんしょう)もしくはルフス(ラテン語らてんご: Rufus)は、共和きょうわせいローマ初期しょき紀元前きげんぜん6世紀せいき)の政治せいじ軍人ぐんじん執政しっせいかんつとめ、さらにローマではつ独裁どくさいかん就任しゅうにんしたとされる。

経歴けいれき

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最初さいしょのコンスルシップ

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紀元前きげんぜん501ねん執政しっせいかん選出せんしゅつされると、かれたサビニじん若者わかものひとさらって一触即発いっしょくそくはつ事態じたいとなり、さらにはラティウム同盟どうめい不穏ふおんうごきをせており、はじめて独裁どくさいかん選出せんしゅつ検討けんとうされた。リウィウスは、それが本当ほんとうなんであったか不明瞭ふめいりょうだとうが、おそらくラルキウスが選出せんしゅつされ、その副官ふっかんにはスプリウス・カッシウス・ウェケッリヌス任命にんめいされたとしている。

ローマ市内しないでは執政しっせいかんリクトルファスケスからおのはずしていたが、独裁どくさいかんのそれはおのをつけたままであり、上訴じょうそおこなえないため人々ひとびとおそれられた。またおそれたのはローマ市民しみんだけでなく、サビニじん独裁どくさいかんかれたことでローマがわ本気ほんきであることさっし、講和こうわもとめてきた。交渉こうしょう決裂けつれつしたものの、交戦こうせん翌年よくねんされた[1]

ハリカルナッソスのディオニュシオスは、独裁どくさいかんのシステムをギリシア由来ゆらいのものと推測すいそくしている[2]さらかれによると、ラルキウスが独裁どくさいかんとなったのは紀元前きげんぜん498ねんだという[3]

度目どめのコンスルシップ

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紀元前きげんぜん498ねんにも執政しっせいかん選出せんしゅつされた。リウィウスによるとこのとし平和へいわだったというが[4]、ディオニュシオスによると少々しょうしょう事情じじょうことなる。

当時とうじプレブス戦争せんそうによって貧困ひんこん状態じょうたいおちいこと問題もんだいされ議論ぎろんされていたが[5]元老げんろういん反対はんたいって戦争せんそう強力きょうりょくすすめるため、独裁どくさいかん設立せつりつ検討けんとうした[6]。ラルキウスが適任てきにんであるとかんがえられたがかれ自身じしん興味きょうみしめさず、同僚どうりょう執政しっせいかんクロエリウスなか強制きょうせいてき指名しめいしたという[7]

独裁どくさいかんとなると、副官ふっかんに(紀元前きげんぜん501ねんおなじ)カッシウスを指名しめいし、兵役へいえき登録とうろくしなければ財産ざいさん市民しみんけん没収ぼっしゅうするとして、成人せいじん男性だんせい15まん700にんかぞげ、年寄としよりをのぞ遠征えんせいぐん編成へんせいした[8]かれぐんを3つにけ、ラティウム同盟どうめい予想よそう侵攻しんこう配置はいちしたが、その一方いっぽう犠牲ぎせいないにしたことはないと、ラティウムがわしょ都市とし和平わへいちかけた。そのうちでもローマ最後さいごおうタルクィニウス一族いちぞく亡命ぼうめいしていたトゥスクルムはローマりょうらそうとしたが、ラルキウスはクロエリウスに精鋭せいえいあたえてこれを撃退げきたいしている。そのとき捕虜ほりょたものの、身代金みのしろきんなしでおくかえし、そのためにラティウム同盟どうめいいち年間ねんかん休戦きゅうせんやくされた[9]

これらのことおこなったあと、ラルキウスはだれ一人ひとり市民しみんころすことなく任期にんき返上へんじょうしたという。ディオニュシオスは、ローマの独裁どくさいかんそうじてこのような幸運こううんれいおおいが、スッラによってローマじん独裁どくさいかん危険きけんせいはじめて認識にんしきすることになったのだとしている[10]

そののキャリア

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ディオニュシオスによると、かれはその紀元前きげんぜん494ねんプラエフェクトゥス・ウルビ (ローマの長官ちょうかん)をつとめている[11]さらにそのとし翌年よくねんこった聖山ひじりやま事件じけん (プレブスが集団しゅうだん離脱りだつした事件じけん)では、プレブスの債務さいむ解消かいしょうについて元老げんろういん意見いけんたたかわされたが、かれ事態じたい解決かいけつのためにその対象たいしょうひろげるべきだとうったえ、それは採用さいようされなかったもののプレブスとの交渉こうしょうやく一人ひとりとしてえらばれている[12]

またよく紀元前きげんぜん493ねん執政しっせいかんポストゥムス・コミニウス・アウルンクスおこなったウォルスキぞくたいする軍事ぐんじ行動こうどう従軍じゅうぐんし、コリオリ包囲ほういせんてき援軍えんぐん後背こうはいかれると、ぐん半分はんぶんまかされ包囲ほうい継続けいぞくし、グナエウス・マルキウス・コリオラヌス活躍かつやくもあって陥落かんらくさせている[13][14][15]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ リウィウス,『ローマ建国けんこく』2.18
  2. ^ ディオニュシオス,『ローマ古代こだい』5.73-74
  3. ^ T. R. S. Broughton (1951, 1986). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association. p. 12 
  4. ^ リウィウス,『ローマ建国けんこく』2.21
  5. ^ ディオニュシオス,『ローマ古代こだい』5.66-69
  6. ^ ディオニュシオス,『ローマ古代こだい』5.71
  7. ^ ディオニュシオス,『ローマ古代こだい』5.72
  8. ^ ディオニュシオス,『ローマ古代こだい』5.75
  9. ^ ディオニュシオス,『ローマ古代こだい』5.76
  10. ^ ディオニュシオス,『ローマ古代こだい』5.77
  11. ^ T. R. S. Broughton (1951, 1986). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association. p. 14 
  12. ^ T. R. S. Broughton (1951, 1986). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association. p. 15 
  13. ^ リウィウス,『ローマ建国けんこく』2.33
  14. ^ ディオニュシオス,『ローマ古代こだい』6.92
  15. ^ プルタルコス,『対比たいひ列伝れつでん』コリオラヌス.8

関連かんれん項目こうもく

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公職こうしょく
先代せんだい
オピテル・ウェルギニウス・トリコストゥス
スプリウス・カッシウス・ウェケッリヌス
ローマ執政しっせいかん(コンスル)
紀元前きげんぜん501ねん
同僚どうりょう
ポストゥムス・コミニウス・アウルンクス
次代じだい
セルウィウス・スルピキウス・カメリヌス・コルヌトゥス
マニウス・トゥッリウス・ロングス
先代せんだい
ティトゥス・アエブティウス・ヘルウァ
ガイウス・ウェトゥリウス・ゲミヌス・キクリヌス
ローマ執政しっせいかん(コンスル)
紀元前きげんぜん498ねん
同僚どうりょう
クィントゥス・クロエリウス・シクルス
次代じだい
アウルス・センプロニウス・アトラティヌス
マルクス・ミヌキウス・アウグリヌス
公職こうしょく
先代せんだい
紀元前きげんぜん508ねん V
プブリウス・ウァレリウス・プブリコラ
ティトゥス・ルクレティウス・トリキピティヌス
ローマケンスス
紀元前きげんぜん498ねん VI
同僚どうりょう
クィントゥス・クロエリウス・シクルス
次代じだい
紀元前きげんぜん493ねん VII
ポストゥムス・コミニウス・アウルンクス
スプリウス・カッシウス・ウェケッリヌス