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ビタス・ゲルレイティス

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ビタス・ゲルレイティス
Vitas Gerulaitis
ビタス・ゲルレイティス
基本きほん情報じょうほう
フルネーム Vytautas Kevin Gerulaitis
愛称あいしょう リトアニアのライオン (Lithuanian Lion)
国籍こくせき アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
出身しゅっしん ニューヨークブルックリン
生年月日せいねんがっぴ (1954-07-26) 1954ねん7がつ26にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1994-09-17) 1994ねん9月17にち(40さいぼつ
身長しんちょう 182cm
体重たいじゅう 70kg
きて みぎ
ツアー経歴けいれき
デビューねん 1971ねん
引退いんたいねん 1986ねん
ツアー通算つうさん 34しょう
シングルス 26しょう
ダブルス 8しょう
生涯しょうがい通算つうさん成績せいせき 667しょう339はい
シングルス 503しょう216はい
ダブルス 164しょう123はい
生涯しょうがい獲得かくとく賞金しょうきん 2,778,748 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくドル
4だい大会たいかい最高さいこう成績せいせき・シングルス
ちょんつよし 優勝ゆうしょう (1977/12)
ぜんふつ じゅん優勝ゆうしょう (1980)
ちょんすぐる ベスト4 (1977・78)
全米ぜんべい じゅん優勝ゆうしょう (1979)
優勝ゆうしょう回数かいすう 1 (ごう1)
4だい大会たいかい最高さいこう成績せいせき・ダブルス
ちょんつよし 1回戦かいせん )1983)
ぜんふつ ベスト4 (1980)
ちょんすぐる 優勝ゆうしょう (1975)
全米ぜんべい 3回戦かいせん (1972)
優勝ゆうしょう回数かいすう 1 (えい1)
キャリア自己じこ最高さいこうランキング
シングルス 3
ダブルス 43

ヴィータウタス・ケビン・"ビタス"・ゲルレイティス (Vytautas Kevin "Vitas" Gerulaitis、1954ねん7がつ26にち - 1994ねん9月17にち[ちゅう 1]) は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくニューヨークブルックリン出身しゅっしんもと男子だんしプロテニス選手せんしゅ

1970年代ねんだい後半こうはん活躍かつやくし、1977ねん12月の全豪ぜんごうオープン男子だんしシングルスで優勝ゆうしょうした。シングルス自己じこ最高さいこうランキングは3ATPツアーでシングルス26しょう、ダブルス8しょうげた。父親ちちおやリトアニアのテニス・チャンピオンであり、ゲルレイティスは“Lithuanian Lion” (リトアニアのライオン) というニックネームでばれた。1さい年下とししたいもうとルタ・ゲルレイティス英語えいごばんもプロテニス選手せんしゅである。

経歴けいれき

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ゲルレイティスの活躍かつやくした時代じだいは、男子だんしテニスの歴史れきしつうじてもっとかがやかしい黄金おうごんであり、同年代どうねんだい選手せんしゅとしてビョルン・ボルグジミー・コナーズなどの強豪きょうごう選手せんしゅがいたため、かれ現在げんざい印象いんしょうはややうすくなった。しかしボルグと数々かずかず熱戦ねっせんひろげ、友人ゆうじんでもあった。

ゲルレイティスはコロンビア大学ころんびあだいがくを1ねん中退ちゅうたいし、1971ねんにプロテニス選手せんしゅとなった。4だい大会たいかいにデビューした1971ねん全米ぜんべいオープンでは、1回戦かいせんやぶれた相手あいて日本にっぽん坂井さかい利郎としろう選手せんしゅであった。1975ねんウィンブルドン選手権せんしゅけんで、ゲルレイティスはおなアメリカサンディ・マイヤーとペアをみ、4だい大会たいかい男子だんしダブルスではつ優勝ゆうしょうたす。ゲルレイティスのテニス成績せいせきおおきくはじめたのは、1976ねんウィンブルドン選手権せんしゅけんベスト8進出しんしゅつからである。ゲルレイティスは4回戦かいせん大会たいかい前年ぜんねん優勝ゆうしょうしゃアーサー・アッシュやぶったが、つづ準々じゅんじゅん決勝けっしょうラウル・ラミレスやぶれた。それからウィンブルドンでは、1977ねん1978ねんの2ねん連続れんぞくでベスト4にすすんだが、1977ねん準決勝じゅんけっしょうビョルン・ボルグ最終さいしゅうだい5セット6-8までった試合しあいは、いまなお選手権せんしゅけん史上しじょうのこめい勝負しょうぶの1つとしてかたがれている。

1977ねん全豪ぜんごうオープンは、年頭ねんとう1月開催かいさい年末ねんまつ12月開催かいさいの2おこなわれた。ゲルレイティスが優勝ゆうしょうしたのは12月の年末ねんまつ開催かいさい大会たいかいで、決勝けっしょう相手あいてジョン・ロイドであった。さきにゲルレイティスが2セットを先取せんしゅしたが、ロイドがだい3・だい4セットを連取れんしゅしていつく。最終さいしゅうだい5セットでゲルレイティスはロイドをはなし、6-3, 7-6, 5-7, 3-6, 6-2のスコアではつ優勝ゆうしょうかざった。

そののゲルレイティスは4だい大会たいかいで2じゅん優勝ゆうしょうわり、1979ねん全米ぜんべいオープン決勝けっしょうでは当時とうじ20さいジョン・マッケンローに5-7, 3-6, 3-6でやぶれ、1980ねんぜんふつオープン決勝けっしょうではボルグに4-6, 1-6, 2-6でやぶれた。ゲルレイティスとボルグの対戦たいせん成績せいせきは、ボルグの16せん全勝ぜんしょうである。ゲルレイティスは1986ねん3月のブリュッセル・インドア最後さいごに31さい現役げんえき引退いんたいした。その1だけ1989ねんぜんふつオープン男子だんしダブルスでコナーズとんで出場しゅつじょうした。

ビタス・ゲルレイティスは1994ねん9月17にちニューヨークしゅうロングアイランド友人ゆうじんたく滞在たいざいしていたとき睡眠すいみんちゅうにエアコン装備そうび故障こしょうし、一酸化いっさんか炭素たんそ中毒ちゅうどくのため40さい死去しきょした。

なお、チェンジコートごとにラケットのグリップテープをえていたこと有名ゆうめいである。

注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ニューヨーク市内しないにあるかれ墓石はかいしには「9がつ17にち」ときざまれており、デビスカップのプロフィールページにもこの日付ひづけ掲載けいさいされているが、文献ぶんけんによっては「9がつ18にち」と掲載けいさいしているものもあり、若干じゃっかん混乱こんらんられる。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Bud Collins, “Total Tennis: The Ultimate Tennis Encyclopedia” Sport Classic Books, Toronto (2003 Ed.) ISBN 0-9731443-4-3
  • ATPツアー発行はっこう「プレーヤーズ・ガイド」1995年版ねんばん (英語えいご、ツアーの公式こうしきガイドブック。ゲルレイティスの追悼ついとう記事きじがある)

外部がいぶリンク

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