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ジミー・コナーズ

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ジミー・コナーズ
Jimmy Connors
ジミー・コナーズ
基本きほん情報じょうほう
フルネーム James Scott Connors
愛称あいしょう ジミー
国籍こくせき アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
出身しゅっしん どうイリノイしゅうベルビル
生年月日せいねんがっぴ (1952-09-02) 1952ねん9月2にち(72さい
身長しんちょう 177cm
体重たいじゅう 70kg
きて ひだり
バックハンド りょう手打てう
殿堂でんどう 1998ねん
ツアー経歴けいれき
デビューねん 1972ねん
引退いんたいねん 1996ねん
ツアー通算つうさん 125しょう
シングルス 109しょう
ダブルス 16しょう
生涯しょうがい通算つうさん成績せいせき 1449しょう368はい
シングルス 1274しょう285はい
ダブルス 175しょう83はい
生涯しょうがい獲得かくとく賞金しょうきん $8,641,040
4だい大会たいかい最高さいこう成績せいせき・シングルス
ちょんつよし 優勝ゆうしょう(1974)
ぜんふつ ベスト4(1979・80・84・85)
ちょんすぐる 優勝ゆうしょう(1974・82)
全米ぜんべい 優勝ゆうしょう(1974・76・78・82・83)
優勝ゆうしょう回数かいすう 8(ごう1・えい2・まい5)
4だい大会たいかい最高さいこう成績せいせき・ダブルス
ちょんつよし 3回戦かいせん(1974)
ぜんふつ じゅん優勝ゆうしょう(1973)
ちょんすぐる 優勝ゆうしょう(1973)
全米ぜんべい 優勝ゆうしょう(1975)
優勝ゆうしょう回数かいすう 2(えい1・まい1)
くにべつ対抗たいこうせん最高さいこう成績せいせき
デビスはい じゅん優勝ゆうしょう(1984)
キャリア自己じこ最高さいこうランキング
シングルス 1(1974ねん7がつ29にち
ダブルス 370(1993ねん3がつ1にち

ジミー・コナーズJimmy Connors, 1952ねん9月2にち - )は、アメリカイリノイしゅうベルビル出身しゅっしんもと男子だんしプロテニス選手せんしゅ。フルネームは James Scott Connors (ジェームズ・スコット・コナーズ)という。カリフォルニア大学だいがくロサンゼルスこう(U.C.L.A.)出身しゅっしん

ビョルン・ボルグジョン・マッケンローイワン・レンドルらとならび、男子だんしテニスの歴史れきしつうじてもっとかがやかしい黄金おうごん時代じだいきずいためい選手せんしゅのひとりである。コナーズは1970年代ねんだい男子だんしテニスかいながらく王者おうじゃとして君臨くんりんした。左利ひだりきき、バックハンド・ストロークはりょう手打てうち。

4だい大会たいかい通算つうさん8しょうは、フレッド・ペリーケン・ローズウォールイワン・レンドルアンドレ・アガシなら男子だんしテニス歴代れきだい8タイ記録たいきろくATPツアーのシングルスではいずれも男子だんし歴代れきだい1のツアー109しょう、シングルス1243しょうなどのだい記録きろくつ。世界せかいランキング1連続れんぞく保持ほじ記録きろく「160しゅう」は歴代れきだい2(当時とうじ歴代れきだい12007ねん2がつ26にちロジャー・フェデラーがコナーズの記録きろく更新こうしんし、2008ねん8がつ17にちまで「237しゅう」を記録きろく)。また世界せかいランキング1通算つうさん在位ざいい記録きろく「268しゅう」は当時とうじ歴代れきだい最長さいちょうで、現在げんざいでもジョコビッチ(398しゅう)、フェデラー(310しゅう)、サンプラス(286しゅう)、レンドル(270しゅう)に歴代れきだい5である。 闘志とうしあふれるプレーでたか人気にんきあつめ、観客かんきゃく自分じぶん味方みかたにつけるじゅつにもすぐれた選手せんしゅだった。

選手せんしゅ経歴けいれき

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プロり - 1975ねん

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1970ねん8がつカリフォルニア大学だいがくロサンゼルスこう(U.C.L.A)入学にゅうがく1972ねんにプロ転向てんこう1973ねんウィンブルドン男子だんしダブルスでイリ・ナスターゼルーマニア)とんではつ優勝ゆうしょうたした。1974ねん、コナーズははつ出場しゅつじょう全豪ぜんごうオープン決勝けっしょうフィル・デントくだして優勝ゆうしょうすると、ウィンブルドン全米ぜんべいオープンでは、当時とうじ39さいオーストラリアめい選手せんしゅケン・ローズウォールやぶり、4だい大会たいかい男子だんしシングルスの年間ねんかん3かん獲得かくとくした。なおのこぜんふつ出場しゅつじょう停止ていし出場しゅつじょうであったため、このとしはグランドスラム無敗むはいであった。また、それ以外いがい大会たいかいふくめてもじつに15大会たいかい優勝ゆうしょうかざるなど圧倒的あっとうてき成績せいせきのこし、同年どうねん7がつはじめて世界せかいランキング1になった。 このころコナーズは女子じょしプロテニス選手せんしゅクリス・エバート交際こうさいし、テニスかいのビッグ・カップルとして話題わだいあつめたが、後日ごじつ婚約こんやく破棄はきした。 よく1975ねん前年ぜんねんおなじグランドスラム3大会たいかいでいずれも決勝けっしょう進出しんしゅつ連覇れんぱ王手おうてをかけたが、すべてじゅん優勝ゆうしょうわった。 ぜんごうではジョン・ニューカム、ウィンブルドンではアーサー・アッシュ全米ぜんべいではマニュエル・オランテスやぶれている。しかし全米ぜんべいではナスターゼとんだ男子だんしダブルスで1973ねんウィンブルドン以来いらい優勝ゆうしょうたしている。なお、コナーズのぜんごう出場しゅつじょうはこの1975ねん最後さいごとなった。 このとしも9大会たいかい優勝ゆうしょうするなどの好成績こうせいせきのこし、世界せかいランク1ゆずらなかった。

1976ねん - 1979ねん

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よく1976ねん、コナーズは全米ぜんべいオープンで3ねん連続れんぞく決勝けっしょう進出しんしゅつたし、決勝けっしょう当時とうじ世界せかいランク2ビョルン・ボルグくだし2ねんぶり2かい優勝ゆうしょうたした。このとしは、グランドスラムにはウィンブルドンと全米ぜんべいふたつにしか出場しゅつじょうしなかったが、それでも13大会たいかい優勝ゆうしょうするなど依然いぜん圧倒あっとうする成績せいせきのこした。 よく1977ねんもグランドスラムにはウィンブルドンと全米ぜんべいのみに出場しゅつじょうし、その両方りょうほう決勝けっしょう進出しんしゅつした。しかし、ウィンブルドンでは ボルグに、全米ぜんべいではギリェルモ・ビラスやぶれいずれもじゅん優勝ゆうしょうわった。 このとし、コナーズはボルグ世界せかいランク1うばわれ、連続れんぞく在位ざいい記録きろくは160しゅうでストップした。しかしわずか1しゅううばかえし、そこからさらに84しゅうわたって世界せかいランク1君臨くんりんつづけた。 このとしボルグ、ビラスとも10大会たいかい以上いじょう優勝ゆうしょうかざるなど絶好調ぜっこうちょうだったが、コナーズの牙城がじょうくずすことはできなかった。 よく1978ねんもウィンブルドンと全米ぜんべいのみに出場しゅつじょうし、その両方りょうほう決勝けっしょう進出しんしゅつ。ウィンブルドンでは前年ぜんねんおなじくボルグにやぶれたが、全米ぜんべいではそのボルグくだし、2ねんぶり3度目どめ優勝ゆうしょうかざった。 1979ねんは、ぜんふつ出場しゅつじょう停止ていしけ、6ねんぶりにぜんほとけ出場しゅつじょうし、ベスト4の成績せいせきのこした。つづくウィンブルドンでは準決勝じゅんけっしょうでボルグと対戦たいせんしてやぶれ、3ねん連続れんぞくボルグはばまれる結果けっかとなった。また5ねん連続れんぞく決勝けっしょう進出しんしゅつちゅうだった全米ぜんべい準決勝じゅんけっしょうでもマッケンローやぶれて連続れんぞく決勝けっしょう進出しんしゅつ記録きろくが5でストップした。世界せかいランク1ボルグうばわれ、ここにコナーズ時代じだいわった。

1980ねん~1985ねん(不遇ふぐう時期じき復活ふっかつ)

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コナーズはそのしばらく ボルグマッケンロー後塵こうじんはいし4だい大会たいかい優勝ゆうしょうからとおざかった。1980ねん前年ぜんねん同様どうようぜんえら以外いがいのグランドスラム3大会たいかいすべてで準決勝じゅんけっしょう敗退はいたいわる。1981ねんぜんふつでは準々じゅんじゅん決勝けっしょう、ウィンブルドンと全米ぜんべいでは準決勝じゅんけっしょうやぶれた。しかし、 ボルグ1981ねんのウィンブルドン決勝けっしょうマッケンローやぶれて6連覇れんぱのがし、全米ぜんべいでもおなマッケンローやぶれて以後いごほとんど試合しあいなくなると、コナーズは徐々じょじょいきかえはじめた。 1982ねんぜんほとけこそ準々じゅんじゅん決勝けっしょうやぶれたもののウィンブルドンと全米ぜんべい優勝ゆうしょうかざった。ウィンブルドン決勝けっしょうでは、ボルグ退しりぞけて世界せかいランク1となっていた前年ぜんねん覇者はしゃマッケンローとの4あいだ15ぶん熱戦ねっせんせいし、8ねんぶり2度目どめ優勝ゆうしょうかざり、1978ねん全米ぜんべい以来いらいのグランドスラム優勝ゆうしょうめた。全米ぜんべいオープンでは決勝けっしょうイワン・レンドルくだし4ねんぶり4度目どめ優勝ゆうしょうたした。また、このとしは3ねんぶりに世界せかいランク1にもなり、そのしばらくマッケンローレンドル壮絶そうぜつ世界せかいランク1あらそいをひろげた。 よく1983ねんには、ぜんふつで3ねん連続れんぞく準々じゅんじゅん決勝けっしょう敗退はいたい連覇れんぱ目指めざしたウィンブルドンではまさかの4回戦かいせん敗退はいたいわったが、全米ぜんべいオープンレンドルくだし、2ねん連続れんぞく5度目どめ優勝ゆうしょう、4だい大会たいかい通算つうさん8しょうげた。これはコナーズのプロ通算つうさん「100しょう」の記念きねんてき優勝ゆうしょうとなると同時どうじに、コナーズの最後さいごの4だい大会たいかい優勝ゆうしょうとなった。 よく1984ねんは、ウィンブルドンで2ねんぶりの決勝けっしょう進出しんしゅつしたが、このとし82しょう3はいという圧倒的あっとうてき成績せいせきのこしたマッケンローやぶじゅん優勝ゆうしょうわった。これがコナーズの最後さいごの4だい大会たいかい決勝けっしょうとなった。コナーズは4だい大会たいかい決勝けっしょうに15進出しんしゅつし、8しょう7はいという成績せいせきのこしている。また、ぜんほとけ全米ぜんべい準決勝じゅんけっしょう敗退はいたいわった。1985ねんは、ぜんふつ、ウィンブルドン、全米ぜんべいのいずれも準決勝じゅんけっしょう敗退はいたいわった。

1986ねん~(現役げんえき晩年ばんねん)

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そののコナーズは、年齢ねんれいてきおとろえもあって好成績こうせいせきすくなくなり、1986ねんは15ねんぶりにグランドスラム準々じゅんじゅん決勝けっしょう進出しんしゅつできなかった(しかしグランドスラム以外いがい大会たいかいでは軒並のきな好成績こうせいせき維持いじしており、このとしもトップ10をまもっている)。しかしよく1987ねんは、35さいむかえるにもかかわらずぜんふつでは準々じゅんじゅん決勝けっしょう、ウィンブルドンと全米ぜんべいでは準決勝じゅんけっしょうまで進出しんしゅつした。そのはグランドスラムでの早期そうき敗退はいたいえたが、地元じもと全米ぜんべいでは1988ねん1989ねんにも準々じゅんじゅん決勝けっしょうまですすんだ。 1990ねん手首てくび手術しゅじゅつけ、公式こうしきせんにほとんど出場しゅつじょうしなかった(0しょう3はい)。しかしよく1991ねんは、全米ぜんべいオープンで、コナーズはワイルドカードでかろうじてノーシード選手せんしゅとして出場しゅつじょう深夜しんやまでひろげただい1ラウンドでパトリック・マッケンローだい5セットでつ。だい2、だい3ラウンドでストレすとれト勝とがちし、39さいむかえるだい4ラウンドでアーロン・クリックステインとの歴史れきしてき死闘しとうひろげ、だい5セットで見事みごと逆転ぎゃくてん勝利しょうりかざる。準決勝じゅんけっしょう当年度とうねんどぜんふつオープン優勝ゆうしょうしゃジム・クーリエにストレートにやぶれてベスト4にとどまったが、コナーズの久々ひさびさ活躍かつやくはアメリカのテニスファンをおおいにかせた。

コナーズが1年間ねんかんをフル参戦さんせんしたのは1992ねん最後さいごでこのとしかぎりをかぎりにだい一線いっせん退しりぞいたが、そのとしすう大会たいかいずつの出場しゅつじょう記録きろくがあり、1996ねん(1大会たいかいのみ)まで出場しゅつじょう記録きろくのこっている。先述せんじゅつしたように、そのなが選手せんしゅ生活せいかつ数々かずかずだい記録きろくのこしている。ほかにも20ねん連続れんぞくグランドスラム出場しゅつじょうをはじめ、14ねん連続れんぞくグランドスラム準々じゅんじゅん決勝けっしょう進出しんしゅつなど、選手せんしゅ生命せいめいながさを象徴しょうちょうする記録きろくっている。

全米ぜんべいオープン5しょうは、ピート・サンプラスロジャー・フェデラーなら大会たいかい最多さいたタイ記録たいきろく(オープンまえ全米ぜんべい選手権せんしゅけんでは、リチャード・シアーズウィリアム・ラーンドビル・チルデンの3にんが7優勝ゆうしょうしている)。 また、全米ぜんべいオープンではシングルス通算つうさんで98しょうげた。これは全米ぜんべい最多さいたしょう記録きろくである。以下いか2フェデラーが89しょう、3のジョコビッチが88しょう(2023ねん終了しゅうりょう)、4アガシが79しょう,5レンドルが73しょう、6サンプラスが71しょうと2以下いかおおきなをつけている。

ウィンブルドンでもシングルス通算つうさんで84しょうげており、フェデラーの105しょうとジョコビッチの92しょう(2023ねん終了しゅうりょう)にぐ3である。4ベッカーが71しょう、5サンプラスが63しょう

全盛期ぜんせいき出場しゅつじょうできなかったぜんふつオープンのみ優勝ゆうしょうにはとどかず、4準決勝じゅんけっしょうまりにわった。

引退いんたい

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現役げんえき引退いんたい、35さい以上いじょう選手せんしゅ対象たいしょうにした男子だんしテニスのシニア・ツアーを提唱ていしょうしたのはコナーズである。1998ねん国際こくさいテニス殿堂でんどうりをたした。2006ねん7がつ26にち、コナーズはアンディ・ロディックのコーチに就任しゅうにんすることを表明ひょうめいした。現在げんざいは、シニアツアー参戦さんせん最低さいてい年齢ねんれいは「30さい」にげられている。

プレースタイル

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コナーズは、テニスかい強打きょうだ概念がいねんんだ選手せんしゅわれる。当時とうじのテニスには優雅ゆうがなイメージがあり、フォアもバックもスライスでうつくしくめるのが主流しゅりゅうであったが、コナーズはフラットの強打きょうだれてそのイメージを根底こんていからくつがえした。そのため、「野獣やじゅう」コナーズとばれることもあった。コントロールのむずかしい強力きょうりょくなフラットけいのショットを天性てんせいのボールタッチで次々つぎつぎたた光景こうけいはまさに野獣やじゅうそのものだったであろう。

また、男子だんしテニスにりょう手打てうちバックハンドをんだのも、コナーズとボルグであるとわれる。それまでりょう手打てうちは非力ひりき女子じょし選手せんしゅがするものだと敬遠けいえんされていたが、コナーズとボルグ登場とうじょうによりそのイメージは払拭ふっしょくされた。現在げんざいではだい多数たすう上位じょうい選手せんしゅりょう手打てうちとなっている。

弱点じゃくてんとしてサーブのよわさがあったが、それをおぎなってあまりあるストロークとリターンをもつうえ、ネットダッシュも積極せっきょくてき採用さいようし、ボレーもこなすことが出来できオールラウンダーともべる選手せんしゅであった。

私生活しせいかつ

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コナーズは1974ねんから1975ねんにかけておなじプロテニス選手せんしゅクリス・エバート婚約こんやくしていた。1974ねんウィンブルドン選手権せんしゅけんのシングルスではダブル優勝ゆうしょうという快挙かいきょたし、マスコミから「ラブバード・ダブル」と称賛しょうさんされた。2人ふたり婚約こんやくは1975ねんのウィンブルドン選手権せんしゅけん直前ちょくぜん破棄はきされた。そのコナーズとエバートは1976ねんと1978ねん一時いちじてき和解わかいしたが結局けっきょくわかれた。2013ねん5がつにコナーズは自伝じでんき、そのなかでエバートが子供こども妊娠にんしんしたが一方いっぽうてき中絶ちゅうぜつめたと主張しゅちょうしている[1][2][3]

もとミス・ワールドマージョリー・ウォレスは1976ねんから1977ねんにかけてコナーズと婚約こんやくしていた。1979ねん、コナーズはプレイボーイプレイメイトパティ・マクガイア結婚けっこんした。夫妻ふさいにはブレットという息子むすことオーブリーというむすめ2人ふたり子供こどもがおり、カリフォルニアしゅうサンタバーバラんでいる[4][5]

記録きろく

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※オープン以降いこう

最多さいた通算つうさん試合しあいすう「1557」
最多さいた通算つうさん試合しあい勝利しょうりすう「1274しょう
最多さいた通算つうさんタイトル獲得かくとくすう「109」
最多さいた通算つうさん決勝けっしょう進出しんしゅつすう「164かい
最多さいた通算つうさん準決勝じゅんけっしょう進出しんしゅつ「235かい
最多さいたグランドスラムグラスコート勝利しょうりすう「107しょう
年間ねんかん勝率しょうりつ80%以上いじょう「13ねん」※歴代れきだい4
1974–1985,1987
年間ねんかん勝率しょうりつ80%以上いじょう「12ねん連続れんぞく」※歴代れきだい2
1974–1985
グランドスラム通算つうさん準決勝じゅんけっしょう進出しんしゅつ「31かい」※歴代れきだい4
グランドスラム通算つうさん準々じゅんじゅん決勝けっしょう進出しんしゅつ「41かい」※歴代れきだい4
グランドスラム通算つうさん勝利しょうりすう「233しょう」※歴代れきだい4
最多さいた全米ぜんべいオープン優勝ゆうしょう「5かい
ピート・サンプラスロジャー・フェデラータイ記録たいきろく
全米ぜんべいオープン連続れんぞくベスト4「12連続れんぞく
全米ぜんべいオープン最多さいた勝利しょうりすう「98しょう
全米ぜんべいオープン最多さいた試合しあいすう「115」
全米ぜんべいオープン最多さいたほん大会たいかい参加さんか「22かい
ワールドチャンピオンシップテニス最多さいた優勝ゆうしょう「48」
9ねん連続れんぞく5タイトル以上いじょう獲得かくとく
1972–1980
13ねん連続れんぞく4タイトル以上いじょう獲得かくとく
1972–1984
グランプリチャンピオンシップシリーズ 1シーズンで5タイトル
ロッド・レーバー、ノバク・ジョコビッチタイ記録たいきろく
3年間ねんかんはじめからわりまで世界せかいランキング1
ロジャー・フェデラー記録きろく
12年間ねんかん世界せかいランク3以内いない
1973–1984
12ねん連続れんぞく世界せかいランク3以内いない
1973–1984
14年間ねんかん世界せかいランク4以内いない
1973–1987
14年間ねんかん世界せかいランク5以内いない
1973–1987
16年間ねんかん世界せかいランク10以内いない
1973–1988
16ねん連続れんぞく世界せかいランク10以内いない
1973–1988

※その多数たすう記録きろく保持ほじ

4だい大会たいかい優勝ゆうしょう

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  • 全豪ぜんごうオープン 男子だんしシングルス:1しょう(1974ねん
  • ウィンブルドン 男子だんしシングルス:2しょう(1974ねん、1982ねん)/男子だんしダブルス:1しょう(1973ねん
  • 全米ぜんべいオープン:5しょう(1974ねん、1976ねん、1978ねん、1982ねん、1983ねん)/男子だんしダブルス:1しょう(1975ねん) [大会たいかい歴代れきだい4タイ記録たいきろく
    • コナーズは全米ぜんべいオープンで過去かこ採用さいようされた3種類しゅるいのコートサーフェス(表面ひょうめんすべてで優勝ゆうしょうした、唯一ゆいいつのテニス選手せんしゅである(天然てんねんしば1974ねん、グリーンクレー:1976ねん、ハード:1978ねん1982ねん1983ねん
とし 大会たいかい 対戦たいせん相手あいて 試合しあい結果けっか
1974ねん 全豪ぜんごうオープン オーストラリアの旗 フィル・デント 7-6, 6-4, 4-6, 6-3
1974ねん ウィンブルドン オーストラリアの旗 ケン・ローズウォール 6-1, 6-1, 6-4
1974ねん 全米ぜんべいオープン オーストラリアの旗 ケン・ローズウォール 6-1, 6-0, 6-1
1976ねん 全米ぜんべいオープン スウェーデンの旗 ビョルン・ボルグ 6-4, 3-6, 7-6, 6-4
1978ねん 全米ぜんべいオープン スウェーデンの旗 ビョルン・ボルグ 6-4, 6-2, 6-2
1982ねん ウィンブルドン アメリカ合衆国の旗 ジョン・マッケンロー 3-6, 6-3, 6-7, 7-6, 6-4
1982ねん 全米ぜんべいオープン チェコの旗 イワン・レンドル 6-3, 6-2, 4-6, 6-4
1983ねん 全米ぜんべいオープン チェコの旗 イワン・レンドル 6-3, 6-7, 7-5, 6-0

ATPツアー決勝けっしょう進出しんしゅつ結果けっか

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シングルスタイトル:(109)

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カテゴリー タイトルすう
グランドスラム 8
年間ねんかん最終さいしゅうせん : マスターズ・グランプリ (1970–1989) 1
年間ねんかん最終さいしゅうせん : WCTファイナル (1971–1989) 2
スーパーハイカテゴリー : グランプリスーパーシリーズ (1970–1989) 17
ハイカテゴリー :グランプリスーパーシリーズ (1970–1989), WCT (1968–1989) 49
ローカテゴリー : グランプリレギュラーシリーズ (1970–1989), WCT R シリーズ (1968–1989) 32
サーフェスべつタイトル
屋外おくがいクレー (11)
屋外おくがいしば (9)
屋外おくがいハード (34)
室内しつないハード (16)
室内しつないカーペット (39)

4だい大会たいかいシングルス成績せいせき

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略語りゃくご説明せつめい
 W   F  SF QF #R RR Q# LQ  A  Z# PO  G   S   B  NMS  P  NH

W=優勝ゆうしょう, F=じゅん優勝ゆうしょう, SF=ベスト4, QF=ベスト8, #R=#回戦かいせん敗退はいたい, RR=ラウンドロビン敗退はいたい, Q#=予選よせん#回戦かいせん敗退はいたい, LQ=予選よせん敗退はいたい, A=大会たいかい不参加ふさんか, Z#=デビスカップ/BJKカップ地域ちいきゾーン, PO=デビスカップ/BJKカッププレーオフ, G=オリンピックきんメダル, S=オリンピックぎんメダル, B=オリンピックどうメダル, NMS=マスターズシリーズから降格こうかく, P=開催かいさい延期えんき, NH=開催かいさいなし.

大会たいかい 1970 1971 1972 1973 1974 1975 1976 1977 1978 1979 1980
全豪ぜんごうオープン A A A A W F A A/A A A A
ぜんふつオープン A A 2R 1R A A A A A SF SF
ウィンブルドン A 1R QF QF W F QF F F SF SF
全米ぜんべいオープン 1R 2R 1R QF W F W F W SF SF
大会たいかい 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 通算つうさん成績せいせき
全豪ぜんごうオープン A A A A A - A A A A A A 11-1
ぜんふつオープン QF QF QF SF SF A QF A 2R A 3R 1R 40-13
ウィンブルドン SF W 4R F SF 1R SF 4R 2R A 3R 1R 84-18
全米ぜんべいオープン SF W W SF SF 3R SF QF QF A SF 2R 98-17

: 1971ねんウィンブルドン1回戦かいせん不戦敗ふせんぱい通算つうさん成績せいせきふくまない。 また、1974ねん・1975ねんぜんごう、1972ねんぜんふつは64ドローである。


テニス4だい大会たいかい男子だんしシングルス優勝ゆうしょう記録きろく
順位じゅんい 回数かいすう 選手せんしゅめい
1 24しょう セルビアの旗 ノバク・ジョコビッチ *
2 22しょう スペインの旗 ラファエル・ナダル *
3 20しょう スイスの旗 ロジャー・フェデラー
4 14しょう アメリカ合衆国の旗 ピート・サンプラス
5 12しょう オーストラリアの旗 ロイ・エマーソン
6タイ 11しょう オーストラリアの旗 ロッド・レーバー | スウェーデンの旗 ビョルン・ボルグ
8 10しょう アメリカ合衆国の旗 ビル・チルデン
9タイ 8しょう フランスの旗 マックス・デキュジス | フランスの旗 アンリ・コシェ | イギリスの旗 フレッド・ペリー | オーストラリアの旗 ケン・ローズウォール | アメリカ合衆国の旗 ジミー・コナーズ | チェコスロバキアの旗 イワン・レンドル | アメリカ合衆国の旗 アンドレ・アガシ
*は現役げんえき選手せんしゅ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Jimmy, Connors (2013). The Outsider. New York City, NY: Bantam/HarperCollins. pp. 132–133. ISBN 978-0-593-06927-1 
  2. ^ Jimmy, Connors. “Today Show Interview”. NBC News Today Show. 2023ねん7がつ30にち閲覧えつらん
  3. ^ Chase, Chris (2013ねん5がつ2にち). “Jimmy Connors implies Chris Evert was pregnant with his child”. USA Today. http://ftw.usatoday.com/2013/05/jimmy-connors-chris-evert-pregnant/ 2023ねん7がつ30にち閲覧えつらん 
  4. ^ “Connors still swaggering after all these years”. The Guardian. (2006ねん6がつ21にち). https://www.theguardian.com/sport/2006/jun/21/tennis.wimbledon2006 2023ねん7がつ30にち閲覧えつらん 
  5. ^ 'Lovebird Double' who ruled Wimbledon”. The Independent (London) (2004ねん6がつ19にち). 2016ねん3がつ3にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2023ねん7がつ30にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク

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