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ニコラ・ピリッチ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
Nikola Pilić, 1975

ニコラ・ピリッチNikola Pilić, 1939ねん8がつ27にち - )は、ユーゴスラビアげんクロアチア)・スプリト出身しゅっしんもと男子だんしプロテニス選手せんしゅ本名ほんみょうは「ニコラ・ピリッチ」というが、愛称あいしょうの「ニキ・ピリッチ」(Niki Pilić または Nikki Pilić)でよくられる。1973ねんぜんふつオープン男子だんしシングルスじゅん優勝ゆうしょうしゃ1970ねん全米ぜんべいオープン男子だんしダブルスでピエール・バルトフランス)とんだ優勝ゆうしょうもある。左利ひだりききの選手せんしゅで、強力きょうりょくなサービスとフォアハンド・ストロークをおおきな武器ぶきにした。現役げんえき選手せんしゅ時代じだいは、同僚どうりょうたちのなかでもひときわ強烈きょうれつ個性こせいぬしとしてられた。指導しどうしゃとしてもおおくの実績じっせきち、男子だんしテニス団体だんたいせんデビスカップ監督かんとくとしてチームを4優勝ゆうしょうみちびき、自身じしん経営けいえいする「ニキ・ピリッチ・テニスアカデミー」でノバク・ジョコビッチセルビア)などをそだげたことでられる。

ピリッチのテニス経歴けいれきは、1960ねんウィンブルドン選手権せんしゅけん2回戦かいせんからはじまる。1961ねんから1967ねんまでの7年間ねんかんかれはデビスカップのユーゴスラビア代表だいひょう選手せんしゅつとめた。1966ねんウィンブルドン男子だんしダブルス1回戦かいせんで、ピリッチはジーン・スコットアメリカ)とペアをみ、クリフ・リッチー(アメリカ)&トルベン・ウルリッヒデンマークぐみに 19-21, 12-10, 6-4, 4-6, 9-7 のスコアでった。この試合しあいひろげられた「98ゲーム」は、41年間ねんかんにわたりウィンブルドン男子だんしダブルスの最多さいたゲーム記録きろくであった。(2007ねんのウィンブルドン男子だんしダブルス2回戦かいせんで、マルセロ・メロアンドレ・サ(ともにブラジルぐみケビン・ウリエットジンバブエ)&ポール・ハンリーオーストラリアぐみが 5-7, 7-6, 4-6, 7-6, 28-26 の「102ゲーム」をたたかい、41ねんぶりにピリッチたちの記録きろく更新こうしんした。)1967ねん、ピリッチはぜんふつ選手権せんしゅけんトニー・ローチオーストラリア)との準決勝じゅんけっしょうすすみ、当時とうじ男子だんしテニス世界せかいランキングで「7」にはいった。全米ぜんべい選手権せんしゅけん終了しゅうりょうかれはプロテニス選手せんしゅ転向てんこうした。

ピリッチがプロ選手せんしゅになった時期じきは、テニス史上しじょう最大さいだい転換てんかんてんであった「オープン措置そち」の実施じっしかさなる。それまでのテニスグランドスラム大会たいかいぜんごう選手権せんしゅけんぜんふつ選手権せんしゅけん・ウィンブルドン選手権せんしゅけん全米ぜんべい選手権せんしゅけん)は、出場しゅつじょう資格しかくがアマチュア選手せんしゅ限定げんていされていたが、1960年代ねんだいにはプロ選手せんしゅたちがえてきて、アマチュアテニスの選手せんしゅそううすくなり、競技きょうぎレベルの低下ていかすすんでいた。そのため1968ねんの「ぜんふつオープン」から、グランドスラム大会たいかいにプロ選手せんしゅ出場しゅつじょう解禁かいきんする措置そち実施じっしされた。こうしてテニスかいは「オープン時代じだい」をむかえる。これに先立さきだち、著名ちょめいなスポーツ競技きょうぎ運営うんえいしゃラマー・ハント1932ねん - 2006ねん)が、従来じゅうらいのプロテニスツアーとはことなるあたらしい組織そしき設立せつりつした。8にんのプロ選手せんしゅたちが、ハントがあらたに創設そうせつした男子だんしプロテニスツアー「ワールド・チャンピオンシップ・テニス」(World Championship Tennis, 略称りゃくしょう WCT)と最初さいしょ契約けいやく締結ていけつした。8にん顔触かおぶれは、ユーゴスラビアのニキ・ピリッチ、ジョン・ニューカムトニー・ローチ(この2人ふたりはオーストラリア)、デニス・ラルストンアール・ブックホルツ(この2人ふたりアメリカ)、ピエール・バルトフランス)、クリフ・ドリスデールみなみアフリカ)、ロジャー・テーラーイギリス)である。この8にん当時とうじのテニスかいで「ハンサム・エイト」(The Handsome Eight)とばれた。WCTは徐々じょじょ契約けいやく選手せんしゅやしていったが、後年こうねんにも「ハンサム・エイト」のがワールド・チャンピオンシップ・テニスの同義語どうぎごとしてもちいられることがあった。

WCT発足ほっそくから2ねん1970ねん、ピリッチはおなじく「ハンサム・エイト」の1人ひとりであるピエール・バルトとペアをみ、全米ぜんべいオープン男子だんしダブルスで優勝ゆうしょうした。この決勝けっしょうせんで、2人ふたりオーストラリアペアのロッド・レーバーロイ・エマーソンくみを 6-3, 7-6, 4-6, 7-6 でやぶ勝利しょうりげた。1971ねんウィンブルドンで、ピリッチは女優じょゆうのミア・アダモヴィッチとい、結婚けっこん生活せいかつはいる。つまミアのおじは、当時とうじ「ユーゴスラビア・テニス連盟れんめい」の会長かいちょうつとめていた。

1973ねん、ニキ・ピリッチの人生じんせい最大さいだい波乱はらんおとずれる。このとしから男子だんし団体だんたいせんデビスカップもオープンされ、プロ選手せんしゅ出場しゅつじょう可能かのうになったが、ピリッチはユーゴスラビア・テニス連盟れんめいからのデビスカップ出場しゅつじょう要請ようせい拒否きょひつづけた。そのため、かれはユーゴテニス連盟れんめいから9ヶ月かげつ出場しゅつじょう停止ていし処分しょぶんをいいわたされる。このけんぜんふつオープン直前ちょくぜんあきらかになり、「国際こくさいローンテニス連盟れんめい」(International Lawn Tennis Federation, 略称りゃくしょうILTF:現在げんざい国際こくさいテニス連盟れんめい)は緊急きんきゅう会合かいごうひらいて、かれ出場しゅつじょう停止ていし処分しょぶんを9ヶ月かげつから1ヶ月かげつ短縮たんしゅくすることを検討けんとうした。1ヶ月かげつ出場しゅつじょう停止ていし処分しょぶんは、ウィンブルドンから発効はっこうする。この騒動そうどうのさなかで、ピリッチはぜんふつオープン男子だんしシングルスじゅん優勝ゆうしょうしゃとなり、おなじく共産きょうさん主義しゅぎくにであったルーマニアイリ・ナスターゼに 3-6, 3-6, 0-6 でやぶれた。当時とうじ発足ほっそくしたばかりの男子だんしプロテニス協会きょうかいAssociation of Tennis Professionals, 略称りゃくしょうATP)に加盟かめいしていた選手せんしゅたちは、このけんたんにピリッチ1にん問題もんだいではなく「ATPツアー全体ぜんたい問題もんだい」とおもめた。当時とうじはどこのくにでも、選手せんしゅたちの活動かつどう自国じこくのテニス連盟れんめい拘束こうそくされ、海外かいがい遠征えんせいなどを自由じゆうにできないケースがおおかったため、かれらはピリッチとユーゴテニス連盟れんめい摩擦まさつを「他人事たにんごとではない」とみなした。その結果けっかとして、ウィンブルドン開幕かいまく直前ちょくぜんに「ピリッチが出場しゅつじょうできないトーナメントはすべてボイコットする」決議けつぎ採択さいたくされ、総計そうけい「79めい」のATPツアー加盟かめい選手せんしゅたちがウィンブルドンをボイコットした。出場しゅつじょう停止ていし処分しょぶんけたのち、ピリッチは全米ぜんべいオープンヤン・コデシュチェコスロバキア)との準々じゅんじゅん決勝けっしょうまですすんだ。そのかれ問題もんだいされたデビスカップにも1974ねんから1977ねんまで4年間ねんかんユーゴ代表だいひょう選手せんしゅとして出場しゅつじょうし、1978ねんぜんふつオープンまで4だい大会たいかい出場しゅつじょうした。

ピリッチは1978ねん7がつの「シュトゥットガルト選手権せんしゅけん」を最後さいご選手せんしゅ生活せいかつから引退いんたいし、その西にしドイツ市民しみんけん取得しゅとくした。かれ1987ねんからデビスカップで西にしドイツ代表だいひょうチームの監督かんとく就任しゅうにんし、1988ねんミュンヘンで「ニキ・ピリッチ・テニスアカデミー」を設立せつりつした。ピリッチ監督かんとくのもとに、デビスカップの西にしドイツ代表だいひょうチームは1988ねん1989ねんデ杯ではい2連覇れんぱ達成たっせいした。1990ねん10月3にちドイツさい統一とういつにより、チーム名称めいしょう西にしドイツ(ドイツ連邦れんぽう共和きょうわこく)から「ドイツ」となる。ピリッチは1993ねんにドイツを4ねんぶり3度目どめ優勝ゆうしょうみちびき、1997ねんまで統一とういつドイツチームをひきいた。その2001ねんから2005ねんまで故国ここくクロアチア代表だいひょう監督かんとくつとめ、2005ねんにクロアチア・チームをデ杯ではいはつ優勝ゆうしょうみちびいた。かれはドイツで1988ねん1989ねん1993ねん、クロアチアで2005ねん優勝ゆうしょう監督かんとくとなり、2つのことなるチームで4のデビスカップ優勝ゆうしょう貢献こうけんしたことになる。ミュンヘンにある「ニキ・ピリッチ・テニスアカデミー」からは、2008ねん全豪ぜんごうオープン優勝ゆうしょうしゃになったノバク・ジョコビッチをはじめ、エルネスツ・ガルビスラトビア)やサンドラ・クレーゼルドイツ)などの選手せんしゅたちがそだっている。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Bud Collins, “History of Tennis: An Authoritative Encyclopedia and Record Book” New Chapter Press, Washington D.C. (2008 Ed.) ISBN 978-0942257410
  • Martin Hedges, “The Concise Dictionary of Tennis” (コンサイス・テニス辞書じしょ) Mayflower Books Inc., New York (1978) ISBN 0-8317-1765-3
  • Richard Evans, “Open Tennis: The First Twenty Years” (オープンテニス-最初さいしょの20年間ねんかん) Bloomsbury Publishing Ltd., London (1988) ISBN 0-7475-0175-0 本書ほんしょからは77-96ページのだい9しょう“The ATP Boycott”を参照さんしょうした。
  • Jack Kramer, “The Game: My 40 Years in Tennis” (ゲーム-テニスにおけるわが40ねん) G. P. Putnam's Sons, New York (1979) ISBN 0-399-12336-9 本書ほんしょからはだい7しょう(104-122ページ)を参照さんしょうした。

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]