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Nikola Pilić, 1975
ニコラ・ピリッチ (Nikola Pilić , 1939年 ねん 8月 がつ 27日 にち - )は、ユーゴスラビア (現 げん クロアチア )・スプリト 出身 しゅっしん の元 もと 男子 だんし プロテニス 選手 せんしゅ 。本名 ほんみょう は「ニコラ・ピリッチ」というが、愛称 あいしょう の「ニキ・ピリッチ」(Niki Pilić または Nikki Pilić )でよく知 し られる。1973年 ねん の全 ぜん 仏 ふつ オープン男子 だんし シングルス準 じゅん 優勝 ゆうしょう 者 しゃ 。1970年 ねん の全米 ぜんべい オープン男子 だんし ダブルスでピエール・バルト (フランス )と組 く んだ優勝 ゆうしょう もある。左利 ひだりき きの選手 せんしゅ で、強力 きょうりょく なサービスとフォアハンド・ストロークを大 おお きな武器 ぶき にした。現役 げんえき 選手 せんしゅ 時代 じだい は、同僚 どうりょう たちの中 なか でもひときわ強烈 きょうれつ な個性 こせい の持 も ち主 ぬし として知 し られた。指導 しどう 者 しゃ としても多 おお くの実績 じっせき を持 も ち、男子 だんし テニス団体 だんたい 戦 せん ・デビスカップ の監督 かんとく としてチームを4度 ど 優勝 ゆうしょう に導 みちび き、自身 じしん の経営 けいえい する「ニキ・ピリッチ・テニスアカデミー」でノバク・ジョコビッチ (セルビア )などを育 そだ て上 あ げたことで知 し られる。
ピリッチのテニス経歴 けいれき は、1960年 ねん のウィンブルドン選手権 せんしゅけん 2回戦 かいせん から始 はじ まる。1961年 ねん から1967年 ねん までの7年間 ねんかん 、彼 かれ はデビスカップのユーゴスラビア 代表 だいひょう 選手 せんしゅ を務 つと めた。1966年 ねん のウィンブルドン 男子 だんし ダブルス1回戦 かいせん で、ピリッチはジーン・スコット (アメリカ )とペアを組 く み、クリフ・リッチー (アメリカ)&トルベン・ウルリッヒ (デンマーク )組 ぐみ に 19-21, 12-10, 6-4, 4-6, 9-7 のスコアで勝 か った。この試合 しあい で繰 く り広 ひろ げられた「98ゲーム」は、41年間 ねんかん にわたりウィンブルドン男子 だんし ダブルスの最多 さいた ゲーム記録 きろく であった。(2007年 ねん のウィンブルドン男子 だんし ダブルス2回戦 かいせん で、マルセロ・メロ &アンドレ・サ (ともにブラジル )組 ぐみ とケビン・ウリエット (ジンバブエ )&ポール・ハンリー (オーストラリア )組 ぐみ が 5-7, 7-6, 4-6, 7-6, 28-26 の「102ゲーム」を戦 たたか い、41年 ねん ぶりにピリッチたちの記録 きろく を更新 こうしん した。)1967年 ねん 、ピリッチは全 ぜん 仏 ふつ 選手権 せんしゅけん でトニー・ローチ (オーストラリア )との準決勝 じゅんけっしょう に進 すす み、当時 とうじ の男子 だんし テニス世界 せかい ランキングで「7位 い 」に入 はい った。全米 ぜんべい 選手権 せんしゅけん 終了 しゅうりょう 後 ご 、彼 かれ はプロテニス選手 せんしゅ に転向 てんこう した。
ピリッチがプロ選手 せんしゅ になった時期 じき は、テニス史上 しじょう 最大 さいだい の転換 てんかん 点 てん であった「オープン化 か 措置 そち 」の実施 じっし と重 かさ なる。それまでのテニスグランドスラム大会 たいかい (全 ぜん 豪 ごう 選手権 せんしゅけん ・全 ぜん 仏 ふつ 選手権 せんしゅけん ・ウィンブルドン選手権 せんしゅけん ・全米 ぜんべい 選手権 せんしゅけん )は、出場 しゅつじょう 資格 しかく がアマチュア選手 せんしゅ に限定 げんてい されていたが、1960年代 ねんだい にはプロ選手 せんしゅ たちが増 ふ えてきて、アマチュアテニスの選手 せんしゅ 層 そう が薄 うす くなり、競技 きょうぎ レベルの低下 ていか が進 すす んでいた。そのため1968年 ねん の「全 ぜん 仏 ふつ オープン 」から、グランドスラム大会 たいかい にプロ選手 せんしゅ の出場 しゅつじょう を解禁 かいきん する措置 そち が実施 じっし された。こうしてテニス界 かい は「オープン化 か 時代 じだい 」を迎 むか える。これに先立 さきだ ち、著名 ちょめい なスポーツ競技 きょうぎ 運営 うんえい 者 しゃ のラマー・ハント (1932年 ねん - 2006年 ねん )が、従来 じゅうらい のプロテニスツアーとは異 こと なる新 あたら しい組織 そしき を設立 せつりつ した。8人 にん のプロ選手 せんしゅ たちが、ハントが新 あら たに創設 そうせつ した男子 だんし プロテニスツアー「ワールド・チャンピオンシップ・テニス」(W orld C hampionship T ennis, 略称 りゃくしょう WCT)と最初 さいしょ の契約 けいやく を締結 ていけつ した。8人 にん の顔触 かおぶ れは、ユーゴスラビアのニキ・ピリッチ、ジョン・ニューカム とトニー・ローチ (この2人 ふたり はオーストラリア)、デニス・ラルストン とアール・ブックホルツ (この2人 ふたり はアメリカ )、ピエール・バルト (フランス )、クリフ・ドリスデール (南 みなみ アフリカ )、ロジャー・テーラー (イギリス )である。この8人 にん は当時 とうじ のテニス界 かい で「ハンサム・エイト」(The Handsome Eight )と呼 よ ばれた。WCTは徐々 じょじょ に契約 けいやく 選手 せんしゅ を増 ふ やしていったが、後年 こうねん にも「ハンサム・エイト」の呼 よ び名 な がワールド・チャンピオンシップ・テニスの同義語 どうぎご として用 もち いられることがあった。
WCT発足 ほっそく から2年 ねん 後 ご の1970年 ねん 、ピリッチは同 おな じく「ハンサム・エイト」の1人 ひとり であるピエール・バルト とペアを組 く み、全米 ぜんべい オープン男子 だんし ダブルスで優勝 ゆうしょう した。この決勝 けっしょう 戦 せん で、2人 ふたり はオーストラリア ペアのロッド・レーバー &ロイ・エマーソン 組 くみ を 6-3, 7-6, 4-6, 7-6 で破 やぶ る勝利 しょうり を挙 あ げた。1971年 ねん のウィンブルドン で、ピリッチは女優 じょゆう のミア・アダモヴィッチと知 し り合 あ い、結婚 けっこん 生活 せいかつ に入 はい る。妻 つま ミアのおじは、当時 とうじ 「ユーゴスラビア・テニス連盟 れんめい 」の会長 かいちょう を務 つと めていた。
1973年 ねん 、ニキ・ピリッチの人生 じんせい で最大 さいだい の波乱 はらん が訪 おとず れる。この年 とし から男子 だんし 団体 だんたい 戦 せん のデビスカップ もオープン化 か され、プロ選手 せんしゅ の出場 しゅつじょう が可能 かのう になったが、ピリッチはユーゴスラビア・テニス連盟 れんめい からのデビスカップ出場 しゅつじょう 要請 ようせい を拒否 きょひ し続 つづ けた。そのため、彼 かれ はユーゴテニス連盟 れんめい から9ヶ月 かげつ の出場 しゅつじょう 停止 ていし 処分 しょぶん をい渡 いわた される。この件 けん は全 ぜん 仏 ふつ オープン直前 ちょくぜん に明 あき らかになり、「国際 こくさい ローンテニス連盟 れんめい 」(I nternational L awn T ennis F ederation, 略称 りゃくしょう ILTF:現在 げんざい の国際 こくさい テニス連盟 れんめい )は緊急 きんきゅう 会合 かいごう を開 ひら いて、彼 かれ の出場 しゅつじょう 停止 ていし 処分 しょぶん を9ヶ月 かげつ から1ヶ月 かげつ へ短縮 たんしゅく することを検討 けんとう した。1ヶ月 かげつ の出場 しゅつじょう 停止 ていし 処分 しょぶん は、ウィンブルドン から発効 はっこう する。この騒動 そうどう のさなかで、ピリッチは全 ぜん 仏 ふつ オープン男子 だんし シングルス準 じゅん 優勝 ゆうしょう 者 しゃ となり、同 おな じく共産 きょうさん 主義 しゅぎ 国 くに であったルーマニア のイリ・ナスターゼ に 3-6, 3-6, 0-6 で敗 やぶ れた。当時 とうじ 発足 ほっそく したばかりの男子 だんし プロテニス協会 きょうかい (A ssociation of T ennis P rofessionals, 略称 りゃくしょう ATP)に加盟 かめい していた選手 せんしゅ たちは、この件 けん は単 たん にピリッチ1人 にん の問題 もんだい ではなく「ATPツアー全体 ぜんたい の問題 もんだい 」と重 おも く受 う け止 と めた。当時 とうじ はどこの国 くに でも、選手 せんしゅ たちの活動 かつどう が自国 じこく のテニス連盟 れんめい に拘束 こうそく され、海外 かいがい 遠征 えんせい などを自由 じゆう にできないケースが多 おお かったため、彼 かれ らはピリッチとユーゴテニス連盟 れんめい の摩擦 まさつ を「他人事 たにんごと ではない」とみなした。その結果 けっか として、ウィンブルドン開幕 かいまく 直前 ちょくぜん に「ピリッチが出場 しゅつじょう できないトーナメントはすべてボイコットする」決議 けつぎ が採択 さいたく され、総計 そうけい 「79名 めい 」のATPツアー加盟 かめい 選手 せんしゅ たちがウィンブルドンをボイコットした。出場 しゅつじょう 停止 ていし 処分 しょぶん が明 あ けた後 のち 、ピリッチは全米 ぜんべい オープン でヤン・コデシュ (チェコスロバキア )との準々 じゅんじゅん 決勝 けっしょう まで勝 か ち進 すす んだ。その後 ご 、彼 かれ は問題 もんだい 視 し されたデビスカップにも1974年 ねん から1977年 ねん まで4年間 ねんかん ユーゴ代表 だいひょう 選手 せんしゅ として出場 しゅつじょう し、1978年 ねん 全 ぜん 仏 ふつ オープン まで4大 だい 大会 たいかい に出場 しゅつじょう した。
ピリッチは1978年 ねん 7月 がつ の「シュトゥットガルト 選手権 せんしゅけん 」を最後 さいご に選手 せんしゅ 生活 せいかつ から引退 いんたい し、その後 ご 西 にし ドイツ市民 しみん 権 けん を取得 しゅとく した。彼 かれ は1987年 ねん からデビスカップで西 にし ドイツ代表 だいひょう チームの監督 かんとく に就任 しゅうにん し、1988年 ねん にミュンヘン の地 ち で「ニキ・ピリッチ・テニスアカデミー」を設立 せつりつ した。ピリッチ監督 かんとく のもとに、デビスカップの西 にし ドイツ代表 だいひょう チームは1988年 ねん ・1989年 ねん にデ杯 ではい 2連覇 れんぱ を達成 たっせい した。1990年 ねん 10月3日 にち のドイツ再 さい 統一 とういつ により、チーム名称 めいしょう も西 にし ドイツ(ドイツ連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく )から「ドイツ 」となる。ピリッチは1993年 ねん にドイツを4年 ねん ぶり3度目 どめ の優勝 ゆうしょう に導 みちび き、1997年 ねん まで統一 とういつ ドイツチームを率 ひき いた。その後 ご 2001年 ねん から2005年 ねん まで故国 ここく クロアチア の代表 だいひょう 監督 かんとく を務 つと め、2005年 ねん にクロアチア・チームをデ杯 ではい 初 はつ 優勝 ゆうしょう に導 みちび いた。彼 かれ はドイツで1988年 ねん ・1989年 ねん ・1993年 ねん 、クロアチアで2005年 ねん に優勝 ゆうしょう 監督 かんとく となり、2つの異 こと なるチームで4度 ど のデビスカップ優勝 ゆうしょう に貢献 こうけん したことになる。ミュンヘンにある「ニキ・ピリッチ・テニスアカデミー」からは、2008年 ねん 全豪 ぜんごう オープン 優勝 ゆうしょう 者 しゃ になったノバク・ジョコビッチ をはじめ、エルネスツ・ガルビス (ラトビア )やサンドラ・クレーゼル (ドイツ )などの選手 せんしゅ たちが育 そだ っている。
Bud Collins , “History of Tennis: An Authoritative Encyclopedia and Record Book ” New Chapter Press, Washington D.C. (2008 Ed.) ISBN 978-0942257410
Martin Hedges, “The Concise Dictionary of Tennis ” (コンサイス・テニス辞書 じしょ ) Mayflower Books Inc., New York (1978) ISBN 0-8317-1765-3
Richard Evans, “Open Tennis: The First Twenty Years ” (オープンテニス-最初 さいしょ の20年間 ねんかん ) Bloomsbury Publishing Ltd., London (1988) ISBN 0-7475-0175-0 本書 ほんしょ からは77-96ページの第 だい 9章 しょう “The ATP Boycott”を参照 さんしょう した。
Jack Kramer , “The Game: My 40 Years in Tennis ” (ゲーム-テニスにおけるわが40年 ねん ) G. P. Putnam's Sons, New York (1979) ISBN 0-399-12336-9 本書 ほんしょ からは第 だい 7章 しょう (104-122ページ)を参照 さんしょう した。