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『ファイナル・カット 』(The Final Cut )は、1983年 ねん に発表 はっぴょう されたピンク・フロイド のアルバム 。ロジャー・ウォーターズ 在籍 ざいせき 時 じ のラスト・アルバムである。本 ほん 作 さく はサブタイトルの"A requiem for the post war dream by Roger Waters"(ロジャー・ウォーターズによる戦後 せんご の夢 ゆめ へのレクイエム )とあるように、ウォーターズのソロアルバムと看做 みな されることが多 おお い。また、「フレッチャー・メモリアル・ホーム」に登場 とうじょう するフレッチャーとは、ウォーターズの父 ちち のエリック・フレッチャー・ウォーターズのことである。彼 かれ は第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に出兵 しゅっぺい し、イタリア で戦死 せんし している。LPジャケットやCDのブックレットには「for Eric Fletcher Waters 1913-1944」と書 か かれてあり、亡 な き父 ちち の鎮魂 ちんこん の意味 いみ を込 こ めたアルバムである。
当初 とうしょ の予定 よてい ではアルバム、コンサート、そして映画 えいが と、『ザ・ウォール』の一連 いちれん のプロジェクトの締 し めくくりとして、映画 えいが 「ピンク・フロイド ザ・ウォール」のサウンドトラック『Spare Bricks』が制作 せいさく される予定 よてい であった (映画 えいが でもそのように告知 こくち されている) [1] 。しかし、1982年 ねん 7月 がつ に勃発 ぼっぱつ したフォークランド紛争 ふんそう に影響 えいきょう され、(一連 いちれん のプロジェクトの発案 はつあん 者 しゃ である) ロジャー・ウォーターズ は考 かんが えを改 あらた めることになる[1] 。ウォーターズは、当時 とうじ の首相 しゅしょう マーガレット・サッチャーが決断 けつだん した武力 ぶりょく 行使 こうし に極 きわ めて批判 ひはん 的 てき だった。
ウォーターズは、新 しん アルバムのテーマとしてサッチャー英 えい 首相 しゅしょう 、ロナルド・レーガン 米 べい 大統領 だいとうりょう へのメッセージを歌 うた うことを決意 けつい した。戦後 せんご の輝 かがや かしい夢 ゆめ を求 もと めていた兵隊 へいたい たちの、その戦後 せんご の没落 ぼつらく した姿 すがた を描 えが き出 だ すことによって、より戦争 せんそう の悲惨 ひさん さを伝 つた えるという手法 しゅほう をとっている。自分 じぶん が戦争 せんそう に加担 かたん し犯 おか してきた過 あやま ちや苦悩 くのう を、ウォーターズの父親 ちちおや の姿 すがた をリンクさせながら書 か き綴 つづ っている。
アルバムのタイトル「The Final Cut」はシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』にてシーザーがブルータスに背中 せなか を刺 さ される際 さい の一節 いっせつ 「This was the most unkinest cut of all」を参考 さんこう につけられた[1] 。
プロデューサーとしてクレジットされているのはウォーターズとジェイムス・ガスリーの2人 ふたり のみである。ギルモアは、ウォーターズから「共同 きょうどう プロデューサーを放棄 ほうき しなければプロジェクトを破棄 はき する」との要求 ようきゅう に応 おう じたが、印税 いんぜい の配分 はいぶん までは放棄 ほうき しなかった[2] 。また、リチャード・ライトの名前 なまえ がアルバムに一切 いっさい クレジットされていないことで、ライトの脱退 だったい が対外 たいがい 的 てき に明 あき らかになった。 ライトに代 か わって、本 ほん 作 さく では『ザ・ウォール』のレコーディングとツアーに参加 さんか していたアンディ・ボウン がキーボードを弾 ひ いている[3] 。
アルバムの全 ぜん 13曲 きょく は全 すべ てロジャー・ウォーターズ一 いち 人 にん のみのクレジットであり、リード・ヴォーカルも1曲 きょく を除 のぞ いてウォーターズによるものである。「ノット・ナウ・ジョン」はギルモアがリード・ボーカルを務 つと めたロック・ナンバーで、シングルとしてもリリースされた。サウンド技術 ぎじゅつ の面 めん では「ホロフォニクス 」と呼 よ ばれる立体 りったい 音響 おんきょう システムを導入 どうにゅう しており、奥行 おくゆ きのある音 おと 作 づく りが行 おこな われた[4] 。
アルバムのテーマをウォーターズが一方 いっぽう 的 てき に決 き め、レコーディングもウォーターズの独断 どくだん で進 すす められた。ウォーターズはギルモアとメイスンのプレイに満足 まんぞく しなくなっていき、外部 がいぶ のセッション・ミュージシャンをますます多用 たよう していった。特 とく にアルバムの最後 さいご を飾 かざ る「トゥー・サンズ・イン・ザ・サンセット」では、ウォーターズはメイスンのプレイに満足 まんぞく できず、セッションドラマーのアンディ・ニューマーク と交代 こうたい させた[5] 。ウォーターズとギルモアとの亀裂 きれつ は抜 ぬ き差 さし しならないところまで進 すす み、バンド内 ない でのウォーターズの親 した しい友人 ゆうじん だったメイスンもギルモアに同調 どうちょう するようになった[5] 。
ウォーターズも、「ギルモアとメイスンとはバンド・メンバーとして一緒 いっしょ に活動 かつどう することはもはや不可能 ふかのう だ」と悟 さと り、バンドの活動 かつどう の停止 ていし を目論 もくろ むことになる。本 ほん 作 さく 発売 はつばい 後 ご にツアーを行 おこな うという話 はなし もあったが、ウォーターズが計画 けいかく を中止 ちゅうし させた[6] 。そして本 ほん 作 さく 発売 はつばい から2年 ねん 後 ご の1985年 ねん 12月、ウォーターズはピンク・フロイドからの脱退 だったい を発表 はっぴょう した。
セールスはそれまでに比 くら べると決 けっ して芳 かんば しくなかったが、イギリスではチャート の1位 い に輝 かがや いた(2週 しゅう 連続 れんぞく )[7] 。これは『アニマルズ 』『狂気 きょうき 』と『ザ・ウォール 』が達成 たっせい できなかったことである(ただし、売上 うりあげ 枚数 まいすう 自体 じたい は3作 さく のほうが上 うえ である)。
ウォーターズの私小説 ししょうせつ 的 てき な内容 ないよう であることや、非常 ひじょう に重 おも く沈痛 ちんつう なサウンドであることから、本 ほん 作 さく に対 たい する評価 ひょうか は賛否 さんぴ 両論 りょうろん に分 わ かれている。ローリング・ストーン のライターであるカート・ローダーは「最高 さいこう 傑作 けっさく 。ロック・アートの不朽 ふきゅう の名作 めいさく 」と絶賛 ぜっさん した[8] 。
ザ・ポスト・ウォー・ドリーム The Post War Dream
ユア・ポッシブル・パスツ Your Possible Past
ワン・オブ・ザ・フュー One Of The Few
ホエン・ザ・タイガーズ・ブローク・フリー When The Tigers Broke Free
ザ・ヒーローズ・リターン The Hero's Return
ザ・ガンナーズ・ドリーム The Gunner's Dream
パラノイド・アイズ Paranoid Eyes
ゲット・ユア・フィルシィ・ハンズ・オフ・マイ・デザート Get Your Filthy Hands Off My Desert
ザ・フレッチャー・メモリアル・ホーム The Fletcher Memorial Home
サザンプトン・ドック Southampton Dock
ファイナル・カット The Final Cut
ノット・ナウ・ジョン Not Now John
トゥー・サンズ・イン・ザ・サンセット Two Suns In The Sunset
4.は2004年 ねん リマスター再発 さいはつ 版 ばん 収録 しゅうろく のボーナス・トラック。
^ a b c ニコラス・シャフナー著 ちょ 今井 いまい 幹 みき 晴 はれ 訳 やく 『ピンク・フロイド 神秘 しんぴ 』1993年 ねん 、宝島社 たからじましゃ 、p.305
^ シャフナー、1993年 ねん 、p.307
^ マベット、1995年 ねん 、p.153
^ アンディ・マベット著 ちょ 山崎 やまざき 智之 としゆき 訳 やく 『ピンク・フロイド全曲 ぜんきょく 解説 かいせつ 』1995年 ねん 、シンコー・ミュージック、p.154
^ a b シャフナー、1993年 ねん 、p.308
^ シャフナー、1993年 ねん 、p.314
^ “Pink Floyd|full Official Chart History ”. Official Charts. 2023年 ねん 1月 がつ 20日 はつか 閲覧 えつらん 。
^ シャフナー、1993年 ねん 、p.313