(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ホルヘ・ブルチャガ - Wikipedia コンテンツにスキップ

ホルヘ・ブルチャガ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ホルヘ・ブルチャガ
1986 FIFAワールドカップ決勝けっしょうでのブルチャガ (中央ちゅうおう)
名前なまえ
本名ほんみょう ホルヘ・ルイス・ブルチャガ
Jorge Luis Burruchaga
愛称あいしょう エル・ブル
ラテン文字もじ Jorge BURRUCHAGA
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき アルゼンチンの旗 アルゼンチン
生年月日せいねんがっぴ (1962-10-09) 1962ねん10月9にち(61さい
出身しゅっしん グアレグアイスペインばん
身長しんちょう 177cm
体重たいじゅう 75kg
選手せんしゅ情報じょうほう
ポジション MF (OH) / FW
あし 右足みぎあし
クラブ1
とし クラブ 出場しゅつじょう (得点とくてん)
1979-1981 アルゼンチンの旗 アルセナル 49 (7)
1982-1985 アルゼンチンの旗 インデペンディエンテ 146 (53)
1985-1992 フランスの旗 ナント 140 (27)
1992-1993 フランスの旗 ヴァランシエンヌ 32 (10)
1995-1998 アルゼンチンの旗 インデペンディエンテ 89 (19)
通算つうさん 456 (116)
代表だいひょうれき
1981 アルゼンチンの旗 アルゼンチン U-20 2 (0)
1983-1990 アルゼンチンの旗 アルゼンチン 57 (13)
監督かんとくれき
2002-2005 アルゼンチンの旗 アルセナル
2005-2006 アルゼンチンの旗 エストゥディアンテス
2006-2007 アルゼンチンの旗 インデペンディエンテ
2008-2009 アルゼンチンの旗 バンフィエルド
2009-2010 パラグアイの旗 アルセナル
2011-2012 パラグアイの旗 リベルタ
2012-2014 アルゼンチンの旗 アトレティコ・デ・ラファエラ
2015-2016 アルゼンチンの旗 アトレティコ・デ・ラファエラ
1. 国内こくないリーグせんかぎる。
■テンプレート■ノート 解説かいせつ■サッカー選手せんしゅpj

ホルヘ・ルイス・ブルチャガ(Jorge Luis Burruchaga, 1962ねん10月9にち - )は、アルゼンチンエントレ・リオスしゅう出身しゅっしんサッカー選手せんしゅ、サッカー指導しどうしゃ。ニックネームはブル (Burru) 。メインのポジションはミッドフィールダーオフェンシブハーフ)だが、ときにFWとしても起用きようされた[1]息子むすこロマン・ブルチャガはテニス選手せんしゅマウロ・ブルチャガはサッカー選手せんしゅである[2]

ィンデペンディエンテでは、1984ねんリベルタドーレスはいで2試合しあいつうじての決勝けっしょうゴールをめ、優勝ゆうしょう貢献こうけん。1986ねんメキシコワールドカップでは1ゴール1アシストの活躍かつやく[3]、アルゼンチンを優勝ゆうしょうみちびいた。

クラブ経歴けいれき[編集へんしゅう]

CAインデペンディエンテでは、1983ねんアルゼンチンリーグ優勝ゆうしょう、1984ねんコパ・リベルタドーレス1リーグ、2リーグで9試合しあい5ゴールを[4]決勝けっしょう進出しんしゅつおおきな役割やくわりたすと、決勝けっしょうグレミオせんで1stレグで決勝けっしょうゴールを[4]、これが1stレグ、2ndレグをつうじて唯一ゆいいつのゴールとなり、優勝ゆうしょう原動力げんどうりょくとなった[5]同年どうねん12がつ日本にっぽん開催かいさいされたインターコンチネンタルカップではリヴァプールを1-0でやぶ優勝ゆうしょうたした。

1985ねん、1982ねんと1983ねんにもオファーをした、フランスのFCナント移籍いせき[6]移籍いせき初年度しょねんどはリーグ2UEFAカップでは準々じゅんじゅん決勝けっしょうまで進出しんしゅつした[6]。1986ねんのワールドカップ、マラドーナの所属しょぞくするSSCナポリ獲得かくとくうごいたが、クラブあいだ合意ごういいたらず移籍いせき成立せいりつしなかった[6]。1987ねんひざだい怪我けがい、再起さいき不能ふのうとまでわれたこともあった[6]すうひざ故障こしょうにより、サンプドリアインテルへの移籍いせきがそれぞれ破談はだんとなった[6]。その、ナントのキャプテンをつとめ、1992ねんまで在籍ざいせきした[6]

1992-93シーズンはヴァランシエンヌFC移籍いせき、リーグせんけたゴールをげる活躍かつやくをしていたが、八百長やおちょう疑惑ぎわくまれ、2年間ねんかんはクラブチームでの試合しあいからの出場しゅつじょう停止ていし処分しょぶんけた[7]

処分しょぶんけてからは古巣ふるすインデペンディエンテに復帰ふっき、1996ねん南米なんべいスーパーカップ制覇せいは[8]や1995ねんレコパカップ優勝ゆうしょう貢献こうけん[9][10](1996ねん神戸こうべ開催かいさいされたグレミオせんでは試合しあいにはやぶれたが、PKで1ゴールをめている[4]。)、1998ねんのアルゼンチンリーグ前期ぜんきリーグ、ベレス・サルスフィエルドせん最後さいご引退いんたいした。

代表だいひょうれき[編集へんしゅう]

1983ねんから1990ねんにかけてアルゼンチン代表だいひょうでプレーし、1983ねんコパ・アメリカでは得点とくてんすうは3ゴールながら[3]大会たいかい得点とくてんおうになった。

1986ねんメキシコワールドカップでは、グループリーグ最終さいしゅうせんブルガリアせんでゴール[3]準決勝じゅんけっしょうベルギーせんではマラドーナの決勝けっしょうゴールをアシスト[3]決勝けっしょうせん西にしドイツせんではFKからブラウンの先制せんせいてんをアシスト、さらに決勝けっしょうてんとなる3てんのゴールをめアルゼンチンに優勝ゆうしょうをもたらした[11]

1990ねんイタリアワールドカップでは、グループリーグだい2せんソビエト連邦れんぽうせんでゴールをめるなどぜん7試合しあい出場しゅつじょう[3]決勝けっしょう進出しんしゅつしたが、西にしドイツに0-1とやぶじゅん優勝ゆうしょうわった。1994ねんワールドカップアメリカ大会たいかいとき、アルゼンチンサッカー協会きょうかい大会たいかいメンバーに招集しょうしゅうすべくうごいたが、フランスリーグでの八百長やおちょう事件じけんにより、1996年度ねんどまで出場しゅつじょう停止ていしであるとFIFAが結論けつろんけたため、メンバーりが出来できなかった[12]代表だいひょうでは57試合しあい出場しゅつじょう13ゴールをげた[13]

指導しどうしゃ経歴けいれき[編集へんしゅう]

現役げんえき引退いんたい指導しどうしゃとして国内こくないクラブの監督かんとく歴任れきにんしている。2005ねんレイナルド・メルロ後継こうけいとしてエストゥディアンテス・デ・ラ・プラタ監督かんとく就任しゅうにんした。

2006ねんCAインデペンディエンテ監督かんとく就任しゅうにんしたが、2007ねん4がつ更迭こうてつされた。2008ねんCAバンフィエルド監督かんとく就任しゅうにんしたが、2009ねん3がつ辞任じにんした。

プレースタイルなど[編集へんしゅう]

ゴールまえ突如とつじょ出現しゅつげんしてゴールをうば感覚かんかくや、サッカーセンスのたかさを武器ぶき活躍かつやくした[1]代表だいひょうではディエゴ・マラドーナとのプレーの相性あいしょうがとてもよく、マラドーナは、自分じぶん副官ふっかんよう存在そんざいであったとしている[14]

個人こじん成績せいせき[編集へんしゅう]

クラブでの成績せいせき[編集へんしゅう]

クラブ リーグ カップ リーグはい 国際こくさい大会たいかい 合計ごうけい
シーズン クラブ リーグ 出場しゅつじょう 得点とくてん 出場しゅつじょう 得点とくてん 出場しゅつじょう 得点とくてん 出場しゅつじょう 得点とくてん 出場しゅつじょう 得点とくてん
アルゼンチン リーグ カップ リーグはい 国際こくさい大会たいかい 合計ごうけい
1980 アルセナル プリメーラB 15 1 15 1
1981 34 6 34 6
1982 インデペンディエンテ プリメーラ 52 17
1983 55 23
1984 29 10
1985 10 3
1985–86 0 0
フランス リーグ カップ リーグはい 国際こくさい大会たいかい 合計ごうけい
1985–86 ナント ディヴィジオン1 36 9
1986–87 30 6
1987–88 10 2
1988–89 6 2
1989–90 27 4
1990–91 3 0
1991–92 28 4
1992–93 ヴァランシエンヌ 32 10
アルゼンチン リーグ カップ リーグはい 国際こくさい大会たいかい 合計ごうけい
1994–95 インデペンディエンテ プリメーラ 11 1
1995–96 27 6
1996–97 31 9
1997–98 20 3
小計しょうけい アルゼンチン 284 79
フランス 140 37
合計ごうけい 424 116

代表だいひょうでの成績せいせき[編集へんしゅう]

出典しゅってん[15]


アルゼンチン代表だいひょう国際こくさいAマッチ
とし出場しゅつじょう得点とくてん
1983 7 3
1984 12 2
1985 9 3
1986 10 2
1987 1 1
1988 0 0
1989 7 0
1990 11 2
通算つうさん 57 13

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b サッカーマガジン 1986/4 P.10-15
  2. ^ 息子むすこのウィンブルドン出場しゅつじょうに「くるしい」、ちちはWはいせいしたもとアルゼンチン代表だいひょう”. afpbb. 2020ねん11月25にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e Jorge Burruchaga Nationalteam”. transfermarket.com. 2020ねん11月25にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c Jorge Burruchaga all goals”. transfermarket.com. 2020ねん11月25にち閲覧えつらん
  5. ^ トヨタカップ 1984ねん 大会たいかい公式こうしきパンフレット インデペンディエンテたいリヴァプール P.42
  6. ^ a b c d e f FC Nantes. Les souvenirs de Jorge Burruchaga : « Suaudeau m’a donné envie d’entraîner »”. OUEST France (2023ねん4がつ9にち). 2023ねん8がつ29にち閲覧えつらん
  7. ^ Adams, Tom (2011ねん3がつ10日とおか). “The shame of Marseille”. ESPN FC. 2015ねん6がつ11にち閲覧えつらん
  8. ^ Bobrowsky, Josef (2001ねん4がつ11にち). “Supercopa Libertadores 1995 – Full Details”. RSSSF. 2015ねん6がつ11にち閲覧えつらん
  9. ^ Un estigma que se reitera” (スペイン). Lá Nación. 2015ねん6がつ11にち閲覧えつらん
  10. ^ Garin, Erik (2003ねん7がつ3にち). “Recopa 1994”. RSSSF. 2015ねん6がつ11にち閲覧えつらん
  11. ^ World Cup 2014: 100 great World Cup moments – 41 days to go”. BBC Sport (2014ねん5がつ2にち). 2017ねん4がつ11にち閲覧えつらん
  12. ^ CONFIRMAN LA SANCIÓN A BURRUCHAGA” (スペイン). EL Tiempo. 2022ねん2がつ23にち閲覧えつらん
  13. ^ Mamrud, Roberto (2015ねん1がつ8にち). “Argentina - Record International Players”. RSSSF. 2015ねん6がつ11にち閲覧えつらん
  14. ^ マラドーナ独白どくはく 東洋館とうようかん出版しゅっぱんしゃ 248ページから
  15. ^ Burruchaga, Jorge”. National-Football-Teams.com. 2017ねん3がつ1にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]