(Translated by https://www.hiragana.jp/)
マラーター - Wikipedia コンテンツにスキップ

マラーター

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
マラーターぞくから転送てんそう
マラーター
マラーターの兵士へいし1813ねん
そう人口じんこう
1おく2000まんにん[1]
居住きょじゅう地域ちいき
マハーラーシュトラしゅうグジャラートしゅうゴアしゅうマディヤ・プラデーシュしゅうカルナータカしゅうアーンドラ・プラデーシュしゅうテランガーナしゅうタミル・ナードゥしゅうなど[2]
言語げんご
マラーティー
宗教しゅうきょう
ヒンドゥーきょう

マラーターマラーティー:मराठा, 英語えいご:Marāthā)は、インド民族みんぞくであり、 カースト集団しゅうだんひとつ。マラーターじんぞくマラーティーじん(Marathi people)ともばれる。マラータともカナ表記ひょうきされるが、原音げんおんでの発音はつおんにより忠実ちゅうじつ表記ひょうきマラーターである。

概要がいよう

[編集へんしゅう]
マハーラーシュトラ地方ちほう

マラーターはカースト集団しゅうだんとしては、中世ちゅうせいあらわれた比較的ひかくてきあたらしいカースト集団しゅうだんであり、その起源きげんはクンビーとばれる農耕のうこうカーストから派生はせいしたとされる。民族みんぞくてきにはインド・アーリヤじんドラヴィダじんとの混血こんけつとするせつもある。

なお、このカーストは単一たんいつヴァルナから形成けいせいされるカースト集団しゅうだんではなく、バラモンクシャトリヤヴァイシャシュードラ不可ふかさわみんといった区別くべつがあるカースト集団しゅうだんである。とはいえ、マラーター民族みんぞくとしてはクシャトリヤを自称じしょうしており、ヒンドゥーきょうもとづく独特どくとく価値かちかん形成けいせいしている。

マラーターの本来ほんらい居住きょじゅうはマハーラーシュトラ地方ちほうであるが、後述こうじゅつするマラーターの勢力せいりょく拡大かくだいもあって、現在げんざいグジャラートしゅうゴアしゅうマディヤ・プラデーシュしゅうアーンドラ・プラデーシュしゅうカルナータカしゅうテランガーナしゅうタミル・ナードゥしゅうなどひろ地域ちいき分布ぶんぷしている。

17世紀せいき、18世紀せいきには、シヴァージーバージー・ラーオなど著名ちょめい武人ぶじん政治せいじ輩出はいしゅつした。

歴史れきし

[編集へんしゅう]

初期しょきのマラーター

[編集へんしゅう]

いつごろかは不明ふめいだが、マラーターはクンビーとばれる集団しゅうだん母集団ぼしゅうだんから分離ぶんりして派生はせいし、マハーラーシュトラ地方ちほう居住きょじゅうしたとされる。クンビー・カーストからは完全かんぜんかれ、閉鎖へいさてきなカーストとなったのかもいつごろかはわかっていない。ただ、13世紀せいきごろにクシャトリヤのカーストにぞくすると主張しゅちょうする集団しゅうだんあらわれ、マラーターを自称じしょうする集団しゅうだんあらわれたという。

15世紀せいきまつにデカンのバフマニーあさ分裂ぶんれつし、16世紀せいきデカン・スルターンあさの5王国おうこく割拠かっきょすると、クシャトリヤと自称じしょうする勇猛ゆうもう果敢かかん戦士せんしであるマラーターは、その傭兵ようへいとして活躍かつやくした。

とくにデカン西部せいぶアフマドナガル王国おうこくビジャープル王国おうこく領土りょうどにはマラーターがおお居住きょじゅうし、おおくのマラーターの豪族ごうぞく家臣かしんとなっていた。これら豪族ごうぞくおおくは50前後ぜんこうから地域ちいき社会しゃかい地域ちいき共同きょうどうたい)の世襲せしゅうてき首長しゅちょうであった。両国りょうこくはこの地域ちいき社会しゃかいをそのままぐんさとといった行政ぎょうせい単位たんいとしてあつかったため、かれらは「さとぬし」とばれた。

シヴァージーとマラーター王国おうこく成立せいりつ

[編集へんしゅう]
シヴァージー

1636ねん、アフマドナガル王国おうこくがムガル帝国ていこくほろぼされると、その武将ぶしょうであったマラーター豪族ごうぞくのシャハージーはビジャープル王国おうこく武将ぶしょうとなり、プネーに封土ほうどあたえられた。その息子むすこシヴァージーである。

シヴァージーはやがてマラーター勢力せいりょく結集けっしゅうし、王国おうこくたいして反乱はんらんこし、その過程かていおおくのさとぬししたがえ、コンカン地方ちほう一大いちだい勢力せいりょくきずいた。1660ねん以降いこう、ムガル帝国ていこく皇帝こうていアウラングゼーブに直接ちょくせつ対決たいけついどみ、けい騎兵きへいたくみにあやつ戦法せんぽうをとり、じゅう装備そうび帝国ていこくぐん翻弄ほんろうし、帝国ていこくりょう各地かくち略奪りゃくだつした。

1674ねん、シヴァージーはマラーターおうとして即位そくいしきげ、かれとするマラーター王国おうこく創始そうしした。かれ即位そくいさいして、マラーター・カーストがクシャトリヤのカーストとみとめられていることにこだわり、バラモンらにマラーターがクシャトリヤであることをみとめさせている。なお、翌年よくねんにはおとうとヴィヤンコージーもタミル地方ちほうタンジャーヴール・マラーター王国おうこく創始そうししている。

シヴァージーはデカンにヒンドゥーの復興ふっこうをめざし、ムスリム勢力せいりょくであるデカンのビジャープル王国おうこくゴールコンダ王国おうこくきたインドのムガル帝国ていこくたたかつづけたが、1680ねん死亡しぼうした。

デカン戦争せんそう・アウラングゼーブとのたたか

[編集へんしゅう]
サンバージー

シヴァージーの死後しご同年どうねん息子むすこのサンバージーが王位おうい継承けいしょうしたが、アウラングゼーブはシヴァージーのてデカンに大挙たいきょ南下なんかした(デカン戦争せんそう)。

1686ねんにビジャープル王国おうこくが、1687ねんにゴールコンダ王国おうこくがムガル帝国ていこくにそれぞれほろぼされたのち、ムガル帝国ていこくとマラーター勢力せいりょく直接ちょくせつ対決たいけつとなった。だが、サンバージーは次第しだい劣勢れっせいになってゆき、1689ねんとらえられて処刑しょけいされた。

危機ききおちいったマラーター王国おうこくはそのおとうとラージャーラームようし、みなみインドのタミル地方ちほうへとげ、シェンジ籠城ろうじょうしてたたかった(シェンジ包囲ほういせん)。

シェンジ落城らくじょう、サーターラーにもどったマラーター勢力せいりょくいきおいをかえし、ムガル帝国ていこくりょう各地かくち襲撃しゅうげきかえし、1707ねんにアウラングゼーブがぬと帝国ていこくぐんはデカンから撤退てったいした。

マラーター勢力せいりょく拡大かくだい

[編集へんしゅう]
バージー・ラーオ

1708ねん、マラーター王国おうこく中心ちゅうしんマラーター同盟どうめい結成けっせいされ、徐々じょじょにムガル帝国ていこく反撃はんげき開始かいしした。

1713ねん、マラーターおうシャーフー自身じしんもっと忠実ちゅうじつだったバーラージー・ヴィシュヴァナート宰相さいしょう(ペーシュワー)に任命にんめいした。あいだもなくしてマラーターおうからバラモン階級かいきゅう王国おうこく宰相さいしょう実権じっけんうつった。

1720ねんにバーラージーがぬと、息子むすこバージー・ラーオ王国おうこく宰相さいしょうとなった。かれ卓越たくえつした軍事ぐんじてき才能さいのうち、シヴァージーの再来さいらいともいえる偉大いだい人物じんぶつであった。かれみなみインドに遠征えんせいしたのち、きたインドへとマラーターの勢力せいりょく拡大かくだいはかった。

そして、その時代じだいにマラーターの勢力せいりょくはデカンをえ、みなみインドときたインドを勢力せいりょくけんとし、1737ねんにはデリーにまで進出しんしゅつした。この過程かてい遠征えんせい活躍かつやくした諸侯しょこう(サルダール)封土ほうど征服せいふく封土ほうどとしてみとめられ、おおくの人々ひとびとがそれらの移住いじゅうした。

また、その息子むすこ宰相さいしょうバーラージー・バージー・ラーオ時代じだいには、マラーターはベンガル地方ちほうとパンジャーブ地方ちほうにまで進出しんしゅつした。

マラーターの凋落ちょうらくとイギリスへの従属じゅうぞく

[編集へんしゅう]

マラーターはきたインドにおけるアフガン勢力せいりょくとの衝突しょうとつ(アフガン・マラーター戦争せんそう)の結果けっか、1761ねん1がつ14にちだいさんパーニーパトのたたか全面ぜんめん衝突しょうとつしたが大敗たいはいし、おもだった武将ぶしょうらをはじめすうまん犠牲ぎせいしゃしてしまった。

これにより、マラーター同盟どうめい結束けっそく事実じじつじょう崩壊ほうかいし、マラーター王国おうこく、シンディア、ホールカル、ボーンスレー、ガーイクワード、5つの勢力せいりょく分立ぶんりつするかたちとなった。そして、宰相さいしょうをめぐるあらそいが勃発ぼっぱつしたとき、当時とうじインドの植民しょくみんすすめていたイギリスの介入かいにゅうゆるすこととなった。

とはいえ、ほこたかきマラーターの戦士せんしらがイギリスの支配しはい簡単かんたんれるはずがなかった。だいいちマラーター戦争せんそうだいマラーター戦争せんそうにおいて、イギリスはマラーター同盟どうめいくずすことに失敗しっぱいしたのみならず、結果けっかてきおおきな損失そんしつしている。とくだいマラーター戦争せんそうでは、ヤシュワント・ラーオ・ホールカル奮戦ふんせん目立めだった。

だが、だいマラーター戦争せんそうこした王国おうこく宰相さいしょうであるバージー・ラーオ2せいふたた戦禍せんかまねれ、1817ねんから1818ねんにかけておこなわれただいさんマラーター戦争せんそうでイギリスはマラーター同盟どうめい制圧せいあつした。これにより、マラーターの支配しはい領域りょういきすべてが、イギリス直轄ちょっかつりょうはん王国おうこくとなった。

独立どくりつ運動うんどうとマラーター

[編集へんしゅう]
マハーデーヴ・ゴーヴィンド・ラーナデー

しかし、19世紀せいき後半こうはんインドだい反乱はんらんがおきると、バージー・ラーオ2せい養子ようしナーナー・サーヒブやジャーンシーのはん王妃おうひラクシュミー・バーイー蜂起ほうきしたのをはじめ、マラーターは蜂起ほうきし、反乱はんらん参加さんかした。

20世紀せいきにインド独立どくりつ運動うんどうさかんになると、マハーラーシュトラ地方ちほうでもマラーターが独立どくりつ運動うんどうをはじめ、バール・ガンガーダル・ティラクマハーデーヴ・ゴーヴィンド・ラーナデーゴーパール・クリシュナ・ゴーカレービームラーオ・ラームジー・アンベードカルといった人々ひとびと輩出はいしゅつした。そのうち、前者ぜんしゃさんにんはバラモンであったが、後者こうしゃ不可ふかさわみんとその身分みぶんはかけはなれていた。

いずれにせよ、マラーターの人々ひとびとはインド独立どくりつ運動うんどうおおきな役割やくわりたした。現在げんざい、マラーターの政党せいとうであるシヴ・セーナーはムンバイの市政しせいにぎり、マハーラーシュトラしゅうでもつよ影響えいきょうりょくっている。

マラーターの価値かちかん

[編集へんしゅう]

著名ちょめいなマラーターの人物じんぶつ

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 12 crore Maharashtrians - Devendra Fadnavis”. NDTV (August 14, 2015). 2018ねん4がつ28にち閲覧えつらん
  2. ^ Ethnologue report for language code:mar”. Ethnologue.com. 2013ねん5がつ9にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]