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マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョ (イタリア語 ご : Maria Jose del Belgio , 1906年 ねん 8月 がつ 4日 にち - 2001年 ねん 1月 がつ 27日 にち )は、イタリア 国王 こくおう ウンベルト2世 せい の王妃 おうひ 。1946年 ねん 5月9日 にち から35日間 にちかん の王妃 おうひ としての在位 ざいい 期間 きかん により「五月 ごがつ 王妃 おうひ (Regina di Maggio )」と呼 よ ばれた。
ベルギー 国王 こくおう アルベール1世 せい とその王妃 おうひ エリザベート の長女 ちょうじょ としてオーステンデ で生 う まれた。ベルギー国王 こくおう レオポルド3世 せい 、フランドル伯 はく シャルル は実兄 じっけい にあたる。彼女 かのじょ の名 な は母方 ははかた の祖母 そぼ マリア・ヨーゼファ・フォン・ポルトゥガル に因 ちな んで名付 なづ けられ、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん まではザクセン=コーブルク=ゴータ 公 おおやけ 女 おんな の称号 しょうごう を与 あた えられていた。
世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご の1930年 ねん 1月 がつ 8日 にち 、24歳 さい のマリーア・ジョゼはイタリア王 おう ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 せい の長男 ちょうなん である、ピエモンテ公 こう ウンベルト・ディ・サヴォイアと結婚 けっこん した。夫 おっと との間 あいだ に4人 にん の子供 こども を儲 もう けた。
子宝 こだから には早 はや い段階 だんかい で恵 めぐ まれたが、それでも2人 ふたり の夫婦 ふうふ 仲 なか は良好 りょうこう とは言 い えなかった。
マリーア・ジョゼは晩年 ばんねん のインタビューで「私 わたし 達 たち は幸 しあわ せな夫婦 ふうふ ではなかった」(On n'a jamais été heureux )と述懐 じゅっかい している。両者 りょうしゃ の結婚 けっこん が両家 りょうけ で話 はな し合 あ われた時 とき 、ヨーロッパ諸国 しょこく の王族 おうぞく 界隈 かいわい では2人 ふたり がたまたま結婚 けっこん 適齢 てきれい 期 き の人間 にんげん として残 のこ った形 かたち になっていたため、気性 きしょう が合 あ うかどうかを話 はな し合 あ う余地 よち はなかった。ウンベルトにはまだ選 えら ぶ相手 あいて (適齢 てきれい 期 き の王女 おうじょ )がいない訳 わけ ではなかったが、マリーア・ジョゼの側 がわ はウンベルト以外 いがい に地位 ちい と年齢 ねんれい が近 ちか い男性 だんせい がいなかった。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の間 あいだ 、マリーア・ジョゼはナチス・ドイツ によって占領 せんりょう されていたベルギー王国 おうこく の王族 おうぞく であったため、枢軸 すうじく 国 こく に加 くわ わっているイタリアと連合 れんごう 国 こく との外交 がいこう 上 じょう の小 ちい さな窓口 まどぐち と見 み なされた。イタリア王家 おうけ がファシズム やナチスに全面 ぜんめん 的 てき な賛意 さんい を示 しめ すのとは裏腹 うらはら に、ベルギー王家 おうけ と同 おな じく反 はん ナチス・反 はん ファシズムの意思 いし を持 も つマリーア・ジョゼは連合 れんごう 国 こく から高 たか い評価 ひょうか を得 え た。イギリスの外交 がいこう 官 かん は「イタリア王家 おうけ 内 ない で数少 かずすく ない理解 りかい 者 しゃ 」と日記 にっき に記 しる している。また彼女 かのじょ は弾圧 だんあつ される反 はん 枢軸 すうじく 国 こく パルチザン に対 たい しても協力 きょうりょく 的 てき で、スイス政府 せいふ を通 とお した物資 ぶっし 援助 えんじょ などを密 ひそ かに行 い っていた。あるパルチザンの旅団 りょだん は彼女 かのじょ を名誉 めいよ 顧問 こもん に据 す える考 かんが えすら示 しめ したが、流石 さすが にこれは拒否 きょひ している。
大戦 たいせん 後半 こうはん の1943年 ねん に、イタリアがナチスの支援 しえん を受 う けたイタリア社会 しゃかい 共和 きょうわ 国 こく (サロ共和 きょうわ 国 こく )の成立 せいりつ で内戦 ないせん 状態 じょうたい に突入 とつにゅう すると、老 ろう 王 おう ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 せい は隠棲 いんせい して引退 いんたい 状態 じょうたい に入 はい った。代 か わって陸軍 りくぐん 中将 ちゅうじょう となっていた夫 おっと のウンベルトが摂政 せっしょう としてイタリア王国 おうこく を指導 しどう する立場 たちば になり、初 はじ めてマリーア・ジョゼの活動 かつどう と歩調 ほちょう を合 あ わせる向 む きを示 しめ した。ウンベルトはマリーア・ジョゼを連 つ れてイタリア領内 りょうない の各地 かくち を訪問 ほうもん して兵士 へいし や住民 じゅうみん を激励 げきれい し、国民 こくみん からの広 ひろ い支持 しじ を獲得 かくとく した。もしこの時 とき にヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 せい がウンベルトに王位 おうい を託 たく せば、王政 おうせい が続 つづ いていた可能 かのう 性 せい は非常 ひじょう に大 おお きかった。しかしヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 せい は不名誉 ふめいよ な存命 ぞんめい 中 ちゅう の退位 たいい を避 さ けて、国民 こくみん 投票 とうひょう のわずか数 すう 週間 しゅうかん 前 まえ まで息子 むすこ に王位 おうい を継 つ がせなかった。
王政 おうせい 廃止 はいし によりサヴォイア家 か がイタリアから追放 ついほう されると、マリーア・ジョゼはウンベルト2世 せい や子供 こども たちと共 とも にポルトガル へと逃 のが れた。そこで短期間 たんきかん 同居 どうきょ した後 のち 、マリーア・ジョゼは子供 こども を連 つ れてスイス のジュネーヴ へと移 うつ った。ウンベルト2世 せい もマリーア・ジョゼを特 とく に追 お うことはなく、ポルトガルの社交 しゃこう 界 かい に留 と まり、2人 ふたり は実質 じっしつ 的 てき な別居 べっきょ 状態 じょうたい となった。しかし宗教 しゅうきょう と政治 せいじ 的 てき な理由 りゆう から離婚 りこん することはなく、法律 ほうりつ 上 じょう は夫婦 ふうふ のままであった。
ウンベルト2世 せい はサヴォイア王家 おうけ の家長 かちょう としてイタリア国内 こくない に残 のこ る王 おう 党派 とうは からの支持 しじ を集 あつ め続 つづ けており、王位 おうい 復帰 ふっき に障害 しょうがい となる離婚 りこん は避 さ けたかった。またウンベルト2世 せい は反 はん 教会 きょうかい 主義 しゅぎ 的 てき な歴代 れきだい イタリア王 おう としては珍 めずら しく敬虔 けいけん なカトリック教徒 きょうと であり、離婚 りこん は戒律 かいりつ に違反 いはん する行為 こうい だった。マリーア・ジョゼは別居 べっきょ 後 ご 、メキシコ に邸宅 ていたく を構 かま えて子供 こども たちと生活 せいかつ を送 おく った。1983年 ねん に夫 おっと のウンベルト2世 せい が亡 な くなると、しばしば欧州 おうしゅう にも戻 もど るようになった。
2001年 ねん 、マリーア・ジョゼは94歳 さい の長寿 ちょうじゅ を全 まっと うして亡 な くなった。
1938年 ねん 、この年 とし のザルツブルク音楽 おんがく 祭 さい の出演 しゅつえん を辞退 じたい してスケジュールの空 あ いていた指揮 しき 者 しゃ アルトゥーロ・トスカニーニ のために、ルツェルン音楽 おんがく 祭 さい が開始 かいし された。ルツェルン音楽 おんがく 祭 さい にはトスカニーニ目当 めあ てで多 おお くのイタリアの音楽 おんがく ファンや上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう の人々 ひとびと が訪 おとず れ、ジャコモ・プッチーニ の遺族 いぞく や元 もと 首相 しゅしょう イヴァノエ・ボノーミ などの顔 かお も見 み られたが、その中 なか で最 もっと も高位 こうい の人物 じんぶつ がマリーア・ジョゼであった。マリーア・ジョゼは、トスカニーニにサインをしてもらうつもりでヴェルディ の『レクイエム 』のヴォーカルスコアを持参 じさん していた。しかし、マリーア・ジョゼがいくら反 はん ファシズムの意思 いし を持 も つ人物 じんぶつ であっても、トスカニーニからしてみればサヴォイア家 か はベニート・ムッソリーニ やファシスト党 とう の庇護 ひご 者 しゃ であり、その中 なか の一人 ひとり としか見 み なさなかったために、コンサート終了 しゅうりょう 後 ご に楽屋 がくや を訪問 ほうもん したマリーア・ジョゼとの面会 めんかい をトスカニーニは拒否 きょひ 。トスカニーニの妻 つま であるカルラが仲裁 ちゅうさい に入 はい ったもののトスカニーニは面会 めんかい 拒否 きょひ の姿勢 しせい を最後 さいご まで崩 くず さず、結局 けっきょく マリーア・ジョゼが折 お れて引 ひ き下 さ がるしかなかった。一方 いっぽう 、ムッソリーニも密告 みっこく 者 しゃ の情報 じょうほう からマリーア・ジョゼのルツェルン音楽 おんがく 祭 さい 訪問 ほうもん の話 はなし を聞 き き、憤慨 ふんがい したという。
ハーヴェイ・サックス『トスカニーニの時代 じだい 』髙久暁 あかつき (訳 わけ )、音楽之友社 おんがくのともしゃ 、1995年 ねん 。
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