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マルクス・クラウディウス・マルケッルス (紀元前166年の執政官) - Wikipedia コンテンツにスキップ

マルクス・クラウディウス・マルケッルス (紀元前きげんぜん166ねん執政しっせいかん)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

マルクス・クラウディウス・マルケッルス
M. Claudius M. f. M. n. Marcellus
コルドバにあるマルケッルスの立像りつぞう
出生しゅっしょう 紀元前きげんぜん209ねんころ
死没しぼつ 紀元前きげんぜん148ねん
出身しゅっしん階級かいきゅう プレブス
氏族しぞく クラウディウス氏族しぞく
官職かんしょく まもるみんかん紀元前きげんぜん171ねん
法務ほうむかん紀元前きげんぜん169ねん
執政しっせいかん紀元前きげんぜん171ねん紀元前きげんぜん155ねん紀元前きげんぜん152ねん
指揮しきした戦争せんそう ヒスパニア征服せいふく戦争せんそう
たいリグリア戦争せんそう
だいケルティベリア戦争せんそう
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マルクス・クラウディウス・マルケッルス(Marcus Claudius Marcellus、紀元前きげんぜん209ねんごろ - 紀元前きげんぜん148ねん)は共和きょうわせいローマプレブス平民へいみん出身しゅっしん政治せいじ軍人ぐんじん執政しっせいかん(コンスル)をさんつとめた(紀元前きげんぜん166ねん紀元前きげんぜん155ねん紀元前きげんぜん152ねん)。初回しょかいかい執政しっせいかん就任しゅうにんには、いずれもリグリア勝利しょうりして凱旋がいせんしき実施じっししている。紀元前きげんぜん153ねんにローマぐんヒスパニアケルティベリア敗北はいぼくきっすると、マルケッルスはその軍事ぐんじ能力のうりょく期待きたいされて紀元前きげんぜん152ねんさん度目どめ執政しっせいかん就任しゅうにんしたが、これはウィリウスほうen執政しっせいかん就任しゅうにんには10ねん期間きかんける)にはんするものであった。マルケッルスは比較的ひかくてき穏当おんとう講和こうわむすぼうとしたが、元老げんろういん戦争せんそう継続けいぞくすることを要求ようきゅうした。紀元前きげんぜん151ねん、マルケッルスはケルティベリアを降伏ごうぶくさせた。紀元前きげんぜん148ねんには外交がいこう使節しせつとしてヌミディアへ派遣はけんされるが、ふね沈没ちんぼつ溺死できしした。

マルケッルスはヒスパニア最初さいしょ植民しょくみん都市としであるコルドバ建設けんせつしゃでもある。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

出自しゅつじ[編集へんしゅう]

クラウディウス氏族しぞくには、パトリキ貴族きぞくけいとプレブスけいがあるが、クラウディウス・マルケッルスはプレブスけいである。クラウディウス・マルケッルスからマギステル(上位じょうい公職こうしょく就任しゅうにんしゃ時期じきでも、クラウディウス・クラッススクリエンテスまもるしゃ)であった[1]マルケッルスコグノーメン家族かぞくめい)は、プラエノーメン個人こじんめい)のマルクスに由来ゆらいする[2]が、プルタルコスによれば、その語源ごげんはローマの軍神ぐんしんであるマルスである[3]。マルケッルスのコグノーメンを最初さいしょ名乗なのったのは、紀元前きげんぜん331ねん執政しっせいかんマルクス・クラウディウス・マルケッルスである[4]

紀元前きげんぜん331ねんから紀元前きげんぜん51ねんまでに、マルクス・クラウディウス・マルケッルス執政しっせいかんは7にんいる。ほん記事きじのマルケッルスは紀元前きげんぜん196ねん執政しっせいかんマルクス・クラウディウス・マルケッルス息子むすこで、だいポエニ戦争せんそう英雄えいゆう一人ひとり執政しっせいかんを5かいつとめたマルクス・クラウディウス・マルケッルスまごである[1]

初期しょき経歴けいれき[編集へんしゅう]

マルケッルスが記録きろく最初さいしょあらわれるのは紀元前きげんぜん177ねんちちともなって神祇官じんぎかん(ポンティフェクス)に就任しゅうにんしたときである[5]紀元前きげんぜん171ねんにはまもるみんかんつとめた[6]。このころローマでは、だいさんマケドニア戦争せんそう勃発ぼっぱつともなって、あらたなぐん編成へんせいされていた。ケントゥリオひゃくにん隊長たいちょうたち部隊ぶたい編成へんせい以前いぜん実績じっせき考慮こうりょされていないと苦情くじょうつたえると、マルケッルスと同僚どうりょう一人ひとりマルクス・フルウィウス・ノビリオル執政しっせいかんにそのむねつたえるとしたが、まもるみんかんからは支援しえんられなかった[7]紀元前きげんぜん170ねん、フィオバのボイオーティア都市としシスヴィ(en)の住民じゅうみんかんする上院じょういんれいに、立会たちあいじんとして署名しょめいしている[8][9]

紀元前きげんぜん169ねん、マルケッルスは法務ほうむかん(プラエトル)に就任しゅうにん[10]。その職権しょっけんって執政しっせいかんクィントゥス・マルキウス・ピリップス グナエウス・セルウィリウス・カエピオ徴兵ちょうへい不正ふせいうったえ、元老げんろういん代理だいりとしてかれ自身じしんあたらしい軍団ぐんだん指揮しきすることとなった[11]。くじきの結果けっか、マルケッルスはヒスパニア戦線せんせん担当たんとうすることとなった。丁度ちょうどこのころヒスパニア・キテリオルきんヒスパニアぞくしゅう)とヒスパニア・ウルテリオルとおヒスパニアぞくしゅう)は一時いちじてき統合とうごうされていた[12]ティトゥス・リウィウスによれば、マルケッルスはマルコリカを占領せんりょうしたとされ(この名前なまえはこれ以降いこうあらわれない[9])、戦利せんりひんとして10ポンドのかねと100まんセステルティウスぎんって、紀元前きげんぜん168ねんすえにローマにもどった[13]。ロシアの学者がくしゃコロレンコスは、すでにこの時期じきにバエティスがわ現在げんざいグアダルキビールがわ)にめんし、のちヒスパニア・バエティカ首都しゅととなるコルドバが建設けんせつされていたとかんがえている[12]

ウィリウスほうen政務せいむかん就任しゅうにん最低さいてい年齢ねんれいや、つぎ政務せいむかん就任しゅうにんまでの最短さいたん期間きかんめた法律ほうりつ)でさだめられた最短さいたん期間きかんぎたため、マルケッルスは紀元前きげんぜん165ねんまつ翌年よくねん執政しっせいかん選挙せんきょ立候補りっこうほし、パトリキ候補こうほガイウス・スルピキウス・ガッルスとも当選とうせんした[14]執政しっせいかんとしてマルケッルスはガリアじんに、ガッルスはリグリアひと勝利しょうり[15]りょう者共ものども凱旋がいせんしき実施じっししている[16]

紀元前きげんぜん155ねん、マルケッルスは度目どめ執政しっせいかん就任しゅうにん同僚どうりょう執政しっせいかんプブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルムであった[17]。ウィリウスほうさだめる最短さいたん期間きかんの10ねん経過けいかした直後ちょくご当選とうせんであったが、これはスキピオ・アフリカヌス以来いらいはじめてのケースであった[18]。マルケッルスは再度さいどリグリアでたたかい、ローマの植民しょくみん都市としルナ防衛ぼうえいした。この功績こうせきたたえて、マルケッルスは度目どめ凱旋がいせんしき実施じっししている[19]。またルナのフォルムにはかれぞうてられた[20]

ヒスパニア(だいケルティベリア戦争せんそう[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん2世紀せいきのイベリア半島はんとう
だいだいヒスパニア・キテリオル
みどりヒスパニア・ウルテリオル

マルケッルスのつぎ任務にんむは、ヒスパニアでのローマぐん敗北はいぼく関連かんれんするものであった(だいケルティベリア戦争せんそう)。紀元前きげんぜん153ねん執政しっせいかんクィントゥス・フルウィウス・ノビリオルが、ヒスパニア・キテリオルでケルティベリアひと敗北はいぼくしており、この危機ききたいしてマルケッルスはさん度目どめ執政しっせいかんえらばれた(紀元前きげんぜん152ねん)。これはあきらかにウィリウスほうはんするものであった。その経緯けいい立候補者りっこうほしゃかんしては不明ふめいであるが、研究けんきゅうしゃたちはマルケッルスの軍事ぐんじ能力のうりょくって、ヒスパニアでの戦争せんそう早急そうきゅう終了しゅうりょうさせることが目的もくてきであったとかんがえている[21][22]同僚どうりょう執政しっせいかんルキウス・ウァレリウス・フラックスであった[23]。フラックスはマルケッルスをそれまでも支援しえんしていた可能かのうせいがあり、両者りょうしゃ良好りょうこう関係かんけいにあった[24]したがって、通常つうじょうとはことなって担当たんとう戦線せんせんのくじきはおこなわれなかった。マルケッルスは元老げんろういんみんかい特別とくべつ決定けっていで、ヒスパニア・キテリオルを担当たんとうすることとなった[25]

マルケッルスはノビリオルがうしなったへい補充ほじゅうするために、イタリアで歩兵ほへい8,000、騎兵きへい500を徴募ちょうぼした。紀元前きげんぜん152ねんはる、マルケッルスはぐんともにヒスパニアにはいったが、そう兵力へいりょくは23,000にたっしていた。マルケッルスはオキリスを降伏ごうぶくさせると住民じゅうみん寛大かんだいあつかった。「このような寛大かんだいさと謙虚けんきょさをて」[26]、ネルゴブリゲはマルケッルスに講和こうわもうれた。しかし講和こうわ成立せいりつ、ネルトブリガの住民じゅうみんはローマの後衛こうえい部隊ぶたい攻撃こうげきした。このため、マルケッルスはまち包囲ほういし、再度さいど講和こうわ要請ようせいたいして、アレヴァキぞくen)、ベリぞくen)およびティティぞくen)も講和こうわれないかぎり、これをゆるさないと宣言せんげんした。これをるとさん部族ぶぞくは、だいいちケルティベリア戦争せんそうティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨルとの合意ごうい更新こうしんしてもらえるならば、ある程度ていど懲罰ちょうばつ覚悟かくごすることを表明ひょうめいした。たいして、ローマとの同盟どうめい関係かんけい維持いじし、敵対てきたいする部族ぶぞくから襲撃しゅうげきけていた部族ぶぞくはこれに反対はんたいした。このため、マルケッルスは停戦ていせんのみを実施じっしし、両者りょうしゃからの代表だいひょうだんをローマにおくった[27][28]

しかし元老げんろういんでは、マルケッルスの行動こうどう理解りかいされなかった。マルケッルスの政敵せいてきは、執政しっせいかんあらたな名誉めいよるためにてき有利ゆうり条約じょうやくむすぼうとしており、また「戦争せんそうまえから消極しょうきょくてきであった」と非難ひなんした[29]。マルケッルスの政敵せいてきなか著名ちょめいなのはプブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌしょうスキピオ)であった。マルケッルスはもっと積極せっきょくてき戦争せんそう継続けいぞくするよう命令めいれいされた。くわえて、翌年よくねんにはぜん執政しっせいかん(プロコンスル)としてのインペリウム軍事ぐんじ指揮しきけん)はあたえないことが決定けっていされた[20][30][31]

マルケッルスはコルドバで冬営とうえいした。コルドバはかれ建設けんせつしたもので、この地域ちいきでは最初さいしょのローマ植民しょくみん都市としであった。ストラボンによれば、コルドバは「肥沃ひよく広大こうだい地域ちいき」であり「ローマじん先住民せんじゅうみんえらんで」植民しょくみんおこなわれた都市としであった[32]。ケルティベリアとの停戦ていせん期間きかん利用りようして、ヒスパニア・ウルテリオルルシタニアひといちげきあたえた。おそらくは、かれ行動こうどうぞくしゅう総督そうとくマルクス・アティリウス・セラッヌスと協力きょうりょくしたものであったとおもわれる[33]。この攻撃こうげき目的もくてきは、兵士へいし略奪りゃくだつ機械きかいあたえ、自身じしん名声めいせいげると同時どうじに、ケルティベリアじん精神せいしんてき影響えいきょうあたえることであったであろう。また、マルケッルスはネルゴブリゲを強襲きょうしゅうした[34]

マルケッルスの後任こうにんであるルキウス・リキニウス・ルクッルスはイタリアでへいあつめるのにきわめて苦労くろうしており、このためマルケッルスにはケルティベリアとの戦争せんそうわらせる時間じかんができた。マルケッルスはてきぐんをヌマンティア(en)にかえし(おそらくはローマぐん勝利しょうりしたとおもわれる)、そのベリぞくとティティぞく降伏ごうぶくした。かれらは600タレントという莫大ばくだい賠償金ばいしょうきん支払しはら[35]人質ひとじちし、ベリぞくとティティぞく今後こんごみつぎ納金のうきん支払しはらうとともにローマぐん兵士へいし提供ていきょうすることとなった[36][37]

ローマでこの条約じょうやくがどのようにあつかわれたかの資料しりょうい。ヒスパニアに到着とうちゃくしたルクッルスはヴァカエイぞくen)とルシタニアじんとのみたたかっていることから、元老げんろういん条約じょうやく批准ひじゅんしたことがかる。他方たほうで、この条約じょうやくかんして懐疑かいぎてき見方みかたもあったとおもわれ[37]、マルケッルスの支持しじしゃたち批准ひじゅんにこぎつけるまでには非常ひじょう苦労くろうがあったであろう[38]

その[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん151ねんにローマに帰還きかん凱旋がいせんしき実施じっしできなかったが、コロレンコフによれば「すで凱旋がいせんしき実施じっししており、とく重要じゅうようなものではなかった」[39]名誉めいよ勇気ゆうき神殿しんでんに、マルケッルスは3たいぞうてている。すなわち、かれ自身じしんちち、および祖父そふぞうであり、「合計ごうけいで9かい執政しっせいかんつとめた3にんのマルケッルス( tres Marcelli novies consules )」ときざんだ[40]おなねんマルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウスだいカト)は、執政しっせいかん再任さいにん禁止きんしもとめる演説えんぜつ元老げんろういんおこな[41]、それに沿った法律ほうりつ制定せいていされた[42]

紀元前きげんぜん148ねん、すでにだいさんポエニ戦争せんそうはじまっていたが、マルケッルスはヌミディアおうマシニッサへの使節しせつ一人ひとりとなった。しかし航海こうかい途中とちゅうあらし遭遇そうぐうし、事故死じこしした[43][44]

子孫しそん[編集へんしゅう]

家系かけい以外いがい資料しりょうではあきらかではないが、マルケッルスには同名どうめい息子むすこがいたとおもわれる。その息子むすこ、すなわちマルケッルスのまごには紀元前きげんぜん91ねん按察かん(アエディリス)となったマルクス、紀元前きげんぜん80ねん法務ほうむかん(プラエトル)であるガイウスがいる。そののクラウディウス・マルケッルスのものたちは、アウグストゥス義理ぎりあにであるガイウス・クラウディウス・マルケッルス・ミノルふくめ、すべてがマルケッルスの子孫しそんである[1]

評価ひょうか[編集へんしゅう]

古代こだい歴史れきしたちは、マルケッルスを「最高さいこう勇気ゆうき信心しんじん勝利しょうり栄光えいこう」のぬしであったとするが[25][45]、ポリュビオスだけは例外れいがいである。だいケルティベリア戦争せんそうでの振舞ふるまいに、「しんよわっていた」としている。しかしフランスの歴史れきし学者がくしゃG. サイモンは、ポリュビオスはマルケッルスの政敵せいてきであるスキピオ・アエミリアヌスの庇護ひごけており、マルケッルスにたいする評価ひょうか真実しんじつではないとしている[46]

現代げんだい歴史れきしは、マルケッルスがウィリウスほう要求ようきゅうする最短さいたん期間きかんである10ねん経過けいかした直後ちょくご度目どめ執政しっせいかん就任しゅうにんしたことを重視じゅうししている[25]紀元前きげんぜん2世紀せいきにおいて、マルケッルスよりおお執政しっせいかんつとめたのはローマぐん軍政ぐんせい改革かいかくおこなったガイウス・マリウスのみである[12]。アスティンは、マルケッルスをその時代じだい最高さいこう軍人ぐんじん一人ひとりであったとみとめている[47]。マルケッルスが紀元前きげんぜん151ねんにケルティベリアに勝利しょうりしたのち、ヒスパニアでは紀元前きげんぜん143ねんまで戦乱せんらん発生はっせいしなかった[48]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c Münzer F. "Claudius Marcellus", 1899, s. 2731-2732.
  2. ^ プルタルコス対比たいひ列伝れつでんマルケッルス』、approx. 2.
  3. ^ プルタルコス『対比たいひ列伝れつでん:マルケッルス』、1.
  4. ^ Münzer F. "Claudius Marcellus", 1899, s. 2732.
  5. ^ Broughton R., 1951, p. 399.
  6. ^ Broughton R., 1951, p. 417.
  7. ^ リウィウスローマ建国けんこく』、XLII, 32, 7-8.
  8. ^ IG VII 2225
  9. ^ a b Münzer F. "Claudius 225", 1899, s. 2758.
  10. ^ Broughton R., 1951 , p. 424.
  11. ^ リウィウス『ローマ建国けんこく』、XLIII, 14.
  12. ^ a b c Korolenkov A., 2013, p. 88.
  13. ^ リウィウス『ローマ建国けんこく』、XLV, 4, 1.
  14. ^ Broughton R., 1951, p. 437.
  15. ^ リウィウス『ローマ建国けんこく』、Pereches, 46.
  16. ^ Münzer F. "Claudius 225", 1899, s.2758-2759.
  17. ^ Broughton R., 1951, p. 448.
  18. ^ Korolenkov A., 2013, p. 88-89.
  19. ^ Corpus Inscriptionum Latinarum 11, 1339
  20. ^ a b Münzer F. "Claudius 225", 1899, s. 2759.
  21. ^ Simon G., 2008, p. 55-56.
  22. ^ Korolenkov A., 2013, p. 89.
  23. ^ Broughton R., 1951, p. 453.
  24. ^ Münzer F. "Valerius 174", 1955, s. 21.
  25. ^ a b c Simon G., 2008, p. 56.
  26. ^ アッピアノス『ローマ:イベリア・ローマ戦争せんそう』、48.
  27. ^ Korolenkov A., 2013, p. 90.
  28. ^ Simon G., 2008, p. 58-59.
  29. ^ ポリュビオス歴史れきし』、XXXV, 3.
  30. ^ Korolenkov A., 2013, p. 91-92.
  31. ^ Simon G., 2008, p. 62-68.
  32. ^ ストラボン地理ちり』、III, 2, 1.
  33. ^ Simon G., 2008, p. 60-61.
  34. ^ Korolenkov A., 2013 , p. 92.
  35. ^ ストラボン『地理ちり』、III, 4, 13.
  36. ^ Korolenkov A., 2013, p. 93-95.
  37. ^ a b Simon G., 2008, p. 71-74.
  38. ^ Korolenkov A., 2013, p. 96.
  39. ^ Korolenkov A., 2013, p. 97.
  40. ^ アスコニウス・ペディアヌス『キケロ演説えんぜつたいする注釈ちゅうしゃくしょ』、Pedian , P11.
  41. ^ Trukhina N., 1986, p. 179-180.
  42. ^ Vasiliev A., 2014, p. 173.
  43. ^ リウィウス『ローマ建国けんこく』、Pereches, 50.
  44. ^ Münzer F. "Claudius 225", 1899, s. 2760.
  45. ^ キケロ『演説えんぜつしゅう』、In defense of Piso, 44.
  46. ^ Simon G., 2008, p. 66.
  47. ^ Astin A., 1967, p. 4.
  48. ^ Simon G., 2008 , p. 74.

参考さんこう資料しりょう[編集へんしゅう]

古代こだい資料しりょう[編集へんしゅう]

研究けんきゅうしょ[編集へんしゅう]

  • Vasiliev A. "Magistrate Power in Rome in the Republican Epoch: Traditions and Innovations" - St. Petersburg. , 2014. - 215 p.
  • Dotsenko N. "Roman aggression in Spain and the struggle of the Spanish tribes for independence (154-133 BC)" - Rostov n / D., 1965.
  • Korolenkov A. "Mark Claudius Marcellus and the End of the First Stage of the Numantine War" // Ancient World and Archeology. - 2013. - No. 13 . - P. 88-99 .
  • Simon G. "The wars of Rome in Spain" - Moscow : The Humanitarian Academy, 2008. - 288 p. - ISBN 978-5-93762-023-1 .
  • Trukhina N. "Politics and politics of the "golden age" of the Roman Republic" - M .: Publishing house of the Moscow State University, 1986. - 184 p.
  • Astin A. "Scipio Aemilianus" - Oxford, 1967.
  • Broughton R. "Magistrates of the Roman Republic" - New York, 1951. - Vol. I. - P. 600.
  • Münzer F. "Claudii Marcelli" // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1899. - T. IV, 1 . - P. 1358-1361.
  • Münzer F. "Claudius 225" // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1899. - T. IV, 1 . - P. 2758-2760.
  • Münzer F. "Valerius 174" // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1955. - T. VIII, 1 . - P. 20-21.

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
クィントゥス・アエリウス・パエトゥス
マルクス・ユニウス・ペンヌス
執政しっせいかん
同僚どうりょうガイウス・スルピキウス・ガッルス
紀元前きげんぜん166ねん
次代じだい
ティトゥス・マンリウス・トルクァトゥス
グナエウス・オクタウィウス
先代せんだい
ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・ルプス
ガイウス・マルキウス・フィグルス II
執政しっせいかん
同僚どうりょうプブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルム
紀元前きげんぜん155ねん
次代じだい
ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌス
クィントゥス・オピミウス
先代せんだい
ティトゥス・アンニウス・ルスクス
クィントゥス・フルウィウス・ノビリオル
執政しっせいかん
同僚どうりょうルキウス・ウァレリウス・フラックス
紀元前きげんぜん152ねん
次代じだい
アウルス・ポストゥミウス・アルビヌス
ルキウス・リキニウス・ルクッルス