アルフレッド・マーシャル

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アルフレッド・マーシャル
しん古典こてん経済けいざいがく(ケンブリッジ学派がくは)
生誕せいたん (1842-07-26) 1842ねん7がつ26にち
死没しぼつ (1924-07-13) 1924ねん7がつ13にち(81さいぼつ
影響えいきょう
けた人物じんぶつ
レオン・ワルラス
ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ
ヴィルフレド・パレート
ジュール・デュピュイ
影響えいきょう
あたえた人物じんぶつ
ジョン・メイナード・ケインズ
アーサー・セシル・ピグー
実績じっせき 一般いっぱん均衡きんこう理論りろんにおける価格かかく需要じゅよう変動へんどう分析ぶんせき
貨幣かへい数量すうりょうせつへの貢献こうけん(マーシャルの k
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アルフレッド・マーシャル英語えいご: Alfred Marshall1842ねん7がつ26にち - 1924ねん7がつ13にち)は、イギリス経済けいざい学者がくしゃしん古典こてん経済けいざいがく代表だいひょうする研究けんきゅうしゃケンブリッジ大学けんぶりっじだいがく教授きょうじゅつとめ、ケインズピグーそだて、ケンブリッジ学派がくは (しん古典こてん)形成けいせいし、どう大学だいがく経済けいざい学科がっか独立どくりつにも尽力じんりょくした。

主著しゅちょ経済けいざいがく原理げんり』("Principles of Economics", 1890ねん)では需要じゅよう供給きょうきゅう理論りろん、すなわち限界げんかい効用こうよう生産せいさん費用ひよう首尾しゅび一貫いっかんした理論りろんたばわせた。このほんながあいだ、イギリスでもっと使つかわれる経済けいざいがく教科書きょうかしょとなった。マーシャルの『経済けいざいがく原理げんり』は、スミスの『国富こくふろん』、リカードの『経済けいざいがくおよび課税かぜい原理げんり』、マルクスの『資本しほんろん』、ケインズの『雇用こよう利子りしおよび貨幣かへい一般いっぱん理論りろん』とともに経済けいざいがく五大ごだい古典こてんとされる[1]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

マーシャルは、1842ねんロンドンのベルモンジー (Bermondsey) でまれた。ロンドン郊外こうがいのクラパン (Clapham) で成長せいちょうし Merchant Taylor's School で教育きょういくけ、そこで数学すうがくたいする素質そしつあらわした。ちち息子むすこ聖職せいしょくしゃとなることをのぞんでいたものの、マーシャル自身じしん数学すうがく研究けんきゅうこころざし、ケンブリッジ大学けんぶりっじだいがくへの合格ごうかくかれ学問がくもんみちらせた。

ジョン・スチュアート・ミル著作ちょさくむことによって、社会しゃかい正義せいぎ主張しゅちょうしたミルに共鳴きょうめいし、人間にんげん内面ないめんてき幸福こうふくゆたかな生活せいかつるためどうすればよいかということをかんがえるようになった[2]。また、ロンドンの貧民ひんみんがい自分じぶんたことにより、人々ひとびと貧困ひんこんから救済きゅうさいしたいという使命しめいかんから、経済けいざいがく研究けんきゅう転向てんこうした[2]

1868ねん道徳どうとく科学かがく担当たんとう講師こうし任命にんめいされ、さらにケンブリッジに創設そうせつされた w:Newnham College, Cambridge女性じょせいけカレッジ)において経済けいざいがく講師こうしとなった。そのかたわら、経済けいざいがく数学すうがくてき厳密げんみつさについての研究けんきゅうすす経済けいざいがくをより科学かがくてきなものにするようつとめる。

1877ねんにカレッジでのおしだったメアリ・ペイリーと結婚けっこんするが、フェローの独身どくしん規定きていによって退職たいしょく余儀よぎなくされ、ブリストルに新設しんせつされた University College で校長こうちょうとなって、そこでふたた経済けいざいがく講義こうぎおこなった。

1870年代ねんだいにマーシャルは国際こくさい貿易ぼうえき保護ほご主義しゅぎ問題もんだいてんかんしてなんさつリーフレットあらわしたが、1879ねんにこれらの著作ちょさくおおくをまとめて『外国がいこく貿易ぼうえき純粋じゅんすい理論りろん: 国内こくない価値かち純粋じゅんすい理論りろん[3]公刊こうかん

おなじく1879ねんつまともに『産業さんぎょう経済けいざいがく』("The Economics of Industry" ) を公刊こうかん洗練せんれんされた理論りろんてき基礎きそ立脚りっきゃくしていたこのほんはそれまで支配しはいてきであったジョン・スチュアート・ミルの『経済けいざいがく原理げんり』にわる地位ちい毎年まいとしのごとく増刷ぞうさつされた。 マーシャルはこの著作ちょさくによっておおきな名声めいせい1882ねんウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ死去しきょすると、かれ時代じだいにおいて英国えいこく代表だいひょうする経済けいざい学者がくしゃとなった。

マーシャルはヘンリー・フォーセット英語えいごばん死去しきょすると、1884ねん12月にケンブリッジ大学けんぶりっじだいがく政治せいじ経済けいざいがく教授きょうじゅ選出せんしゅつされ翌年よくねん1885ねん1がつにケンブリッジへもどり、2がつには教授きょうじゅ就任しゅうにん講演こうえんおこなった。 ケンブリッジでは、経済けいざいがくのためのあたらしい学科がっか創設そうせつ努力どりょくし、1903ねんにようやく実現じつげんした。このときまで、経済けいざいがく歴史れきし道徳どうとく科学かがく学士がくし課程かていしたおしえられており、経済けいざいがく精力せいりょくてき専門せんもんされた学生がくせいたちがマーシャルがのぞむようにはそだちにくかった。

マーシャルは1881ねんかれ畢生ひっせい著作ちょさく、『経済けいざいがく原理げんり』の著作ちょさくかり、それからの10ねんおおくをこの著作ちょさく完成かんせいのためについやした。その著作ちょさくについての計画けいかく徐々じょじょ拡張かくちょうされ、経済けいざいがくぜん体系たいけいふくべつかんほんとして公刊こうかんされることになる。 だいいちかん1890ねん出版しゅっぱんされ、世界せかいてき喝采かっさいけて、かれ時代じだいにおける主要しゅよう経済けいざい学者がくしゃ一人ひとりとしての地位ちい確立かくりつした。 だいかんでは外国がいこく貿易ぼうえき貨幣かへい貿易ぼうえき変動へんどう課税かぜい、およびあつまりさん主義しゅぎげられる予定よていで、だいいちかん刊行かんこうしてから20ねん以上いじょうかれは『経済けいざいがく原理げんり』のだいかん完成かんせい精力せいりょくかたむけた。だが、細部さいぶたいしても妥協だきょうなく注意ちゅういはら完全かんぜん主義しゅぎてき性格せいかくわざわいし[注釈ちゅうしゃく 1]未完みかんわった。

かれ健康けんこう問題もんだい1880年代ねんだいから徐々じょじょ悪化あっかし、1908ねんにはかれ教授きょうじゅしょく自発じはつてき退しりぞき、後任こうにん教授きょうじゅにピグーが選出せんしゅつされるように奔走ほんそうした。かれは『経済けいざいがく原理げんり』の著作ちょさくつづけることをのぞんだが、かれ健康けんこう悪化あっかつづけ、計画けいかく個々ここさらなる研究けんきゅうによって増大ぞうだいつづけた。

1914ねんだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつかれ国際こくさい経済けいざい診断しんだん改訂かいていするよううながし、1919ねんかれは『産業さんぎょう貿易ぼうえきろん[注釈ちゅうしゃく 2]を77さいにして出版しゅっぱんした。この著作ちょさくはより理論りろんてきな『経済けいざいがく原理げんり』にくらべてより実証じっしょうてきなものであり、そのため理論りろん経済けいざい学者がくしゃたちから同様どうよう喝采かっさいけることはできなかった。

死去しきょする前年ぜんねん1923ねんには『貨幣かへい信用しんようおよ商業しょうぎょう』("Money, Credit, and Commerce" ) を出版しゅっぱんした。これは、過去かこはん世紀せいきわたって出版しゅっぱんしたものと、出版しゅっぱんしなかった経済けいざいがくてき着想ちゃくそうふくんだものである。

マーシャルはケンブリッジの自宅じたくである Balliol Croft で、1924ねん7がつ13にちに81さい死去しきょした。

業績ぎょうせき[編集へんしゅう]

マーシャルの経済けいざいがくでは、ミクロの価格かかく理論りろんなどの分析ぶんせき手法しゅほうもちいて、労働ろうどうしゃてい賃金ちんぎんたかくする、あるいは過酷かこく労働ろうどうやわらげることを目標もくひょうとした[4]

マーシャルの経済けいざいがくジョン・スチュアート・ミルアダム・スミス、およびデヴィッド・リカード著作ちょさく拡張かくちょうだった。かれヴィルフレド・パレートジュール・デュプイのような、経済けいざい学者がくしゃかれ著作ちょさくへの寄与きよ軽視けいしし、かれ自身じしんたいするウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ影響えいきょう渋々しぶしぶみとめただけだった。

経済けいざい思想しそう歴史れきしにおけるマーシャルの影響えいきょう否定ひていがたい。かれは、供給きょうきゅう需要じゅよう関数かんすうたいする価格かかく決定けっていについて厳格げんかくんだ最初さいしょ経済けいざい学者がくしゃであり、近代きんだい経済けいざい学者がくしゃ価格かかくのシフトと需給じゅきゅう曲線きょくせんのシフトのあいだ関係かんけい解明かいめいをマーシャルにっている。マーシャルは「限界げんかい革命かくめい」の重要じゅうよう参与さんよしゃであり、「消費しょうひしゃ各々おのおの限界げんかい効用こうようたいしておな価格かかくとなるようにこころみる」という着想ちゃくそうは、かれのもうひとつの貢献こうけんである。

生産せいさんしゃ余剰よじょう消費しょうひしゃ余剰よじょう[編集へんしゅう]

需要じゅよう価格かかく弾力だんりょくせいは、これらの着想ちゃくそう拡張かくちょうとして、マーシャルによってはじめて明瞭めいりょう概念がいねんされたものである。生産せいさんしゃ余剰よじょう消費しょうひしゃ余剰よじょう分配ぶんぱいされた経済けいざい福利ふくりは、マーシャルによる貢献こうけんであり、実際じっさい、2つは時折ときおり「マーシャルの余剰よじょう」とひょうされる。かれはこの余剰よじょう着想ちゃくそうを、課税かぜい価格かかくシフトが市場いちば福利ふくりあたえる影響えいきょう厳格げんかく分析ぶんせきもちいた。 ただし晩年ばんねんのマーシャルは、効用こうようはかせい前提ぜんていとしたこの概念がいねん現実げんじつ適用てきようせいには消極しょうきょくてき態度たいどをとった。かれはまた、じゅん地代じだい識別しきべつした。

マーシャルのkと所得しょとく流通りゅうつう速度そくど[編集へんしゅう]

Elements of economics of industry, 1892

貨幣かへい数量すうりょうせつにおけるフィッシャーの交換こうかん方程式ほうていしき

V についてくと、

より V とは、ざい取引とりひきがく PT とマネーサプライ Mとしてとらえることができる。ここで P価格かかく水準すいじゅんT取引とりひきりょうである。 この V貨幣かへい取引とりひき流通りゅうつう速度そくど (Velocity of circulation of money) とばれる[注釈ちゅうしゃく 3]

一般いっぱんてきには GDP関連かんれんさせ、ざい取引とりひきりょう T実質じっしつGDP Y以下いかのようにあらわすことがおおい。

同様どうよう流通りゅうつう速度そくど V についてくと、

V名目めいもくGDP PY とマネーサプライ Mとしてあらわせる。この V貨幣かへい所得しょとく流通りゅうつう速度そくど(Income velocity of money) とばれる。

ここで流通りゅうつう速度そくど逆数ぎゃくすう 1/Vk とすると、交換こうかん方程式ほうていしきより、名目めいもくGDPおよびマネーサプライとの関係かんけいつぎのようになる。

この k はマーシャルの kばれる。名目めいもく GDP にたいするマネーの割合わりあいであり、この1 であればマネーサプライと名目めいもく GDP がひとしくなる。 また GDP にふくまれない取引とりひきがあるため、所得しょとく流通りゅうつう速度そくど取引とりひき流通りゅうつう速度そくどよりちいさい[5]。 ただし、GDPにふくまれない取引とりひき除外じょがいする場合ばあいT = aY (Tざい取引とりひきりょう a定数ていすう, Y実質じっしつGDP) とあらわすとき、定数ていすう a1仮定かていする (T = Y )。

マーシャルの k推移すいいから、現在げんざい経済けいざいでマネーが過剰かじょうなのか不足ふそくしているのかを調しらべるさい指標しひょうとなる。 なお、マーシャルにおける元々もともとしき

は(Md : 貨幣かへい需要じゅようA : 資産しさん総額そうがく)、のちのケインズにおける貨幣かへい需要じゅよう関数かんすう貨幣かへい需要じゅよう = 取引とりひき需要じゅよう + 投機とうきてき(資産しさん)需要じゅよう)の原形げんけいといわれる。

経済けいざい騎士きしどうあつまりさん主義しゅぎ批判ひはん[編集へんしゅう]

マーシャルは1907ねん論文ろんぶん経済けいざい騎士きしどう社会しゃかいてき可能かのうせい」で、戦争せんそうにおける騎士きしどうが、無私むし忠誠ちゅうせいしんふくむように、ビジネスにおける騎士きしどう公共こうきょうてき精神せいしんふくみ、それは高貴こうき困難こんなん事柄ことがらを、それがゆえにおこなうというよろこびをもふくんでいるとし、「産業さんぎょうにおいて、最高さいこう建設けんせつてき仕事しごとたいするおも動機どうきは、困難こんなん克服こくふくし、だれもがみとめる指導しどうしゃ地位ちい獲得かくとくしようとする騎士きしどうてき願望がんぼうである。」と経済けいざい騎士きしどう提唱ていしょうした[6]

その一方いっぽうで、生産せいさん手段しゅだん所有しょゆう管理かんり国家こっか移転いてんさせようとするあつまりさん主義しゅぎ(コレクティビスト、社会しゃかい主義しゅぎ共産きょうさん主義しゅぎふくむ)については、「あつまりさん主義しゅぎしゃ支配しはいいちじるしく拡大かくだいされ、自由じゆう企業きぎょうのこされた領域りょういきがあまりにも制限せいげんされるならば、官僚かんりょうてき手法しゅほうあつりょくによって、物質ぶっしつてきとみ源泉げんせんだけでなく、人間にんげんせいのよりたか資質ししつおおくもまたそこなわれるにちがいないと確信かくしんしている。」とあつまりさん主義しゅぎ危険きけんいた[7]

また、現在げんざい社会しゃかい状態じょうたいはげしく非難ひなんすることによろこびをかんじる人々ひとびと努力どりょくは、一時いちじてき熱狂ねっきょうこすかもしれないが、しかし、それらは公共こうきょう利益りえきのための地道じみち仕事しごとから活力かつりょくをそらすことになるので有害ゆうがいであるとし、「現在げんざい経済けいざい状態じょうたい固有こゆう弊害へいがい誇張こちょうすることは、ながれば進歩しんぽおくらせることになる。」と批判ひはんする[8]

マーシャルは、「現代げんだいは、しばしばわれているほどには浪費ろうひてきでも過酷かこくでもない。国民こくみんそう所得しょとく半分はんぶんよりもずっとおおく、おそらくはよんぶんさん程度ていどは、生活せいかつ方法ほうほうかんして現在げんざいかぎられた理解りかい範囲はんいない可能かのうかぎ効率こうりつてきに、幸福こうふく生活せいかつ向上こうじょう役立やくだつようにもちいられている。」[6]べて、現代げんだいにおいて増大ぞうだいしつつあるとみ用途ようとだい部分ぶぶんは、下劣げれつでも身勝手みがってでもなく、人々ひとびと利潤りじゅん俸給ほうきゅう賃金ちんぎんるための労働ろうどうでの分配ぶんぱいじょうきょう変化へんかをみると、物質ぶっしつてき快楽かいらく贅沢ぜいたくひん供給きょうきゅうする人々ひとびといちじるしくえているわけでもないし、一方いっぽう人々ひとびと病気びょうき治療ちりょうしたり、知的ちてき芸術げいじゅつてき能力のうりょく発展はってんさせる職業しょくぎょうはたら人々ひとびといちじるしくえていると指摘してきする[8]。また、公的こうてき資金しきんは、選挙せんきょ自分じぶん意思いしとお人々ひとびと利益りえきやすために支出ししゅつされているわけではなく、おも女性じょせい子供こども利益りえきのためについやされているし、現代げんだいでは、貧困ひんこんしゃ富裕ふゆうしゃよりも税金ぜいきんおおささえはらわされたりすることや、貧困ひんこんしゃ病気びょうきくるしみをらすよりも富裕ふゆうしゃ閑職かんしょくあたえるようなふるいしきたりも廃止はいしされた[8]。たとえば、チャールス・ブースは、イギリスの人口じんこうの3ぶんの1が飢餓きが瀬戸せとがわにあると主張しゅちょうするが、現代げんだい労働ろうどうしゃ賃金ちんぎんは、かつての賃金ちんぎんの4ばい上昇じょうしょうしている[注釈ちゅうしゃく 4]批判ひはんする[8]。ユートピアの計画けいかくしゃあつまりさん主義しゅぎしゃ社会しゃかい主義しゅぎしゃ)たちは、とみ平等びょうどう分配ぶんぱいされれば、すべてのひと現在げんざい労働ろうどうしゃとどかないような安楽あんらく洗練せんれん贅沢ぜいたくひんはいるようになるとかんがえるが、しかし、おおくの裕福ゆうふく熟練じゅくれん労働ろうどうしゃ所得しょとくは、イギリスの国民こくみん所得しょとく17おくポンドを4300まんにんぜん人口じんこう平等びょうどう分配ぶんぱいするよりもおおくの所得しょとくをすでにており、もし所得しょとく平等びょうどう分配ぶんぱい実施じっしされれば、かれらの所得しょとくるのである[8]

トマス・モアウィリアム・モリスのユートピアは実行じっこう可能かのうなものとして主張しゅちょうされているわけではないが、近年きんねん(20世紀せいき初頭しょとう)ではそれが実行じっこう可能かのうであると主張しゅちょうしながら、経済けいざい現実げんじつについての十分じゅうぶん研究けんきゅうもとづかないまま計画けいかくがなされ、われわれはおおくの被害ひがいけているとマーシャルはいう[8]

アダム・スミス福祉ふくし事業じぎょうかかわったが、公共こうきょう福祉ふくし事業じぎょう政府せいふ参加さんかさせるようすすめる人々ひとびと本当ほんとう動機どうきが、自分じぶん利益りえき増大ぞうだいか、縁故えんこしゃ報酬ほうしゅうのよい地位ちいあたえることであったことを経験けいけんした[7]。マーシャルは、普通ふつう教育きょういくがあり、統治とうちしゃ統治とうちし、権力けんりょく乱用らんよう阻止そしすることができる現代げんだいでは、公共こうきょう事業じぎょう安全あんぜん企画きかくできるが、政府せいふ牛耳ぎゅうじっているものたちの利己りこてき腐敗ふはいした目的もくてき悪用あくようされる危険きけんもあるという[7]

マーシャルによれば、19世紀せいきから20世紀せいき初頭しょとうにかけての社会しゃかい主義しゅぎ共産きょうさん主義しゅぎあつまりさん主義しゅぎ実験じっけんでは、機械きかい使用しようすることを軽蔑けいべつし、住居じゅうきょ家具かぐについてさえも私有しゆう財産ざいさんみとめず、趣味しゅみ生活せいかつじょう事柄ことがらについても個性こせい発揮はっきする余地よちみとめず、全員ぜんいん労働ろうどうによる共同きょうどう生産せいさんぶつ平等びょうどう分配ぶんぱいした[9]差別さべつがあるとすれば、力強ちからづよいメンバーにはきびしい仕事しごとあてて、病人びょうにんにはよい食事しょくじあたえる程度ていどであり、労働ろうどうしゃ能力のうりょくおうじて分類ぶんるいし、困難こんなんまたは不快ふかい仕事しごとをしたひとには労働ろうどう時間じかん短縮たんしゅくなどでわせをすることもなかった[9]。こうした社会しゃかい主義しゅぎ実験じっけん結果けっか普通ふつう人間にんげんにとっては、騎士きしどうよりも嫉妬しっとしんほうがはるかに強力きょうりょくであるということが決定的けっていてき証明しょうめいされた[9]。マーシャルは、「これらのユートピアの失敗しっぱい直接的ちょくせつてき原因げんいんが、その技術ぎじゅつてき欠陥けっかんにあったということはまれである。失敗しっぱい原因げんいんはむしろ、一部いちぶのメンバーが、もの困難こんなん不快ふかい仕事しごとぶんよりすこししかやっていないとか、生活せいかつじょう安楽あんらく娯楽ごらくをこっそりとぶん以上いじょう享受きょうじゅしているものがいる、とおもんだりするところにある。しかし、こうした不満ふまんいている人々ひとびとも、近隣きんりん企業きぎょううつってそこで相応そうおう待遇たいぐうつけるのは容易よういではなかった。なぜなら、そうすれば、かれらをこの運動うんどうきつけ、またかれらのうちあるものがそのために犠牲ぎせいはらってきた希望きぼう理想りそう放棄ほうきすることになるからである。現代げんだい世界せかいにおいては、ほとんどのひとには移動いどう自由じゆうというかたち健全けんぜん感情かんじょうのはけぐちあたえられているが、かれらの俯瞰ふかんにはそのはけぐちがない。そのため、不満ふまん表面ひょうめん潜伏せんぷくし、鬱積うっせきしていき、ついには社会しゃかい全体ぜんたい怨恨えんこんち、破局はきょくむかえたのである」とし、このことは、ほとんどすべての計画けいかく経験けいけんしたところであるという[9]

マーシャルは、「人々ひとびとしん経済けいざい騎士きしどう精神せいしん浸透しんとうするのでないかぎり、あつまりさん主義しゅぎ計画けいかく完全かんぜん実行じっこうされれば、社会しゃかいてき災厄さいやくまれるであろう。」という[9]えざる自由じゆう創意そうい必要ひつようとされる産業さんぎょうに、あつまりさん主義しゅぎてき管理かんり必要ひつよう導入どうにゅうすることによって、創造そうぞうてき企業きぎょう活動かつどう範囲はんいせばめてしまうまえに、あつまりさん主義しゅぎしょ困難こんなん研究けんきゅうすることが必要ひつようであるとしたうえでマーシャルは、経済けいざいにおける騎士きしどうは、ただちに成果せいかすわけでもない公共こうきょう事業じぎょうオクタヴィア・ヒルおこなった緑地りょくちたい設置せっち芸術げいじゅつ公園こうえん交通こうつう病院びょういんなどへ富裕ふゆうそう関与かんよさせることとなり、とみ公共こうきょう用途ようときょうせられるならば、公共こうきょう目的もくてきのために重税じゅうぜいせられても、資本しほん流出りゅうしゅつする心配しんぱいもなく、こうしてまれる騎士きしどうもとづく国民こくみんてき社会しゃかい主義しゅぎでは、民間みんかん企業きぎょうのもとで繁栄はんえいするだろうと主張しゅちょうする[10]

まちにんせつ (waiting theory)[編集へんしゅう]

マーシャルは、資本しほんサービスの価格かかくとしての利子りしりつ需要じゅよう供給きょうきゅうによって決定けっていされるとし、資本しほん限界げんかい生産せいさんりょくによって需要じゅようが、貯蓄ちょちくにともなうまちにん(waiting、つこと)によって供給きょうきゅう左右さゆうされるとした[11]。あるざい現在げんざい用途ようと将来しょうらい用途ようととのあいだへの配分はいぶん計画けいかくする消費しょうひしゃは,それぞれの用途ようとからの限界げんかい効用こうようひとしくなるよう配分はいぶんおこなうが、通常つうじょう現在げんざい消費しょうひ将来しょうらいどうりょう消費しょうひよりも選好せんこうする[11]。マーシャルの利子りしろんでは、現在げんざい消費しょうひひかえ、将来しょうらいばすという時間じかん要素ようそ重視じゅうしされ、これをまてにんせつ (waiting theory)という[11]

評価ひょうか[編集へんしゅう]

1890ねんからかれ死去しきょする1924ねんまで、かれ経済けいざいがく専門せんもんしょく尊敬そんけいされるちちであり、かれ死後しごはん世紀せいきわたり、ほとんどの経済けいざい学者がくしゃにとって尊敬そんけいすべき祖父そふであった。かれはその生涯しょうがいつうじて、かれ以前いぜん経済けいざいがく指導しどうしゃたちがためらわなかったような論争ろんそうを、ある意味いみけた。かれ公平こうへいさが経済けいざい学者がくしゃ仲間なかまからのおおきな尊敬そんけい公平こうへい崇敬すうけいつくげ、Balliol Croftと名付なづけられたかれ自宅じたく来賓らいひんえることがなかった。

ケンブリッジでのかれ学生がくせいたちは、ジョン・メイナード・ケインズアーサー・セシル・ピグーふくむ、経済けいざいがく史上しじょう大物おおものとなった。かれもっと重要じゅうよう遺産いさんは、20世紀せいきのこりの期間きかんわたって経済けいざいがく分野ぶんや気風きふうつくる、尊敬そんけいされ、学術がくじゅつてきで、科学かがくてき根拠こんきょもとづいた経済けいざい学者がくしゃたちのための専門せんもんしょく創設そうせつしたことである。マーシャルに可愛かわいがられたケインズは、のちかれのことをこうひょうした。

説教せっきょうしゃとしてまた人間にんげん牧師ぼくしとして、かれはほかの同様どうよう人物じんぶつよりも格別かくべつすぐれていたわけではない。しかし科学かがくしゃとしては、かれはそのせんもん分野ぶんやにおいて、ひゃく年間ねんかんつうじて世界中せかいじゅうもっと偉大いだい学者がくしゃであった。にもかかわらず、かれ自身じしんこのんで優位ゆういあたえようとしたのはかれ本性ほんしょうだいいち側面そくめんであった。…わしのようなするどてんけるつばさとは、みちひとのいいつけにしたがうためにしばしば地上ちじょうかえされた — ケインズ『人物じんぶつ評伝ひょうでん東洋経済新報社とうようけいざいしんぽうしゃ

中野なかの剛志たけしは、マーシャルの理論りろんヘーゲルドイツ歴史れきし学派がくは多大ただい影響えいきょうけ、むしろ経済けいざいナショナリズムであり、しん古典こてんはげしく対立たいりつしていたドイツ歴史れきし学派がくはちかかったと指摘してきする[12]ドイツ堪能かんのうで、わかころドイツ留学りゅうがくして、ドイツ哲学てつがくドイツ歴史れきし学派がくは影響えいきょうけたマーシャルは、リカードマルサスのような古典こてん経済けいざいがくもの時代じだいとはことなり、近代きんだい産業さんぎょう社会しゃかいは、せいがくてき機械きかいてき均衡きんこう状態じょうたいにはならないのが通例つうれいであると指摘してきした。またしん古典こてん経済けいざいがくとはことなり、人間にんげんを、利己りこてき孤立こりつした合理ごうりてき個人こじん仮定かていして理論りろん構築こうちくすることを拒絶きょぜつした。さらにしん古典こてん経済けいざいがく理論りろんてき前提ぜんていである方法ほうほうろんてき個人こじん主義しゅぎ放棄ほうきし、その対局たいきょくにある方法ほうほうろんてき全体ぜんたい主義しゅぎ採用さいようした[13]

語録ごろく[編集へんしゅう]

  • 経済けいざい学者がくしゃは、cool head, but warm heart 冷静れいせい頭脳ずのうあたたかいしん をたねばならない」(1885ねんケンブリッジ大学けんぶりっじだいがく経済けいざいがく教授きょうじゅ就任しゅうにん講演こうえん[14]
  • マーシャルは、理論りろん現実げんじつから乖離かいりすれば「たんなるひまつぶし」にぎないとしており、現実げんじつ課題かだい理論りろんじょう問題もんだい混同こんどうしないように警告けいこくしていた[15]
  • 「もし人々ひとびととみほこりとしないならば、人間にんげんみずからを尊敬そんけいすることはできない。世界せかいしん栄光えいこう役立やくだとうとして、とみるためにおおいに努力どりょくすることは、たしかに有意義ゆういぎである。」とかたった[6]。マーシャルは、19世紀せいきまつから20世紀せいき初頭しょとうにかけては、とみ軽蔑けいべつするようないがえているが、それはそのほう容易よういだからであるともかたった[6]
  • 現在げんざい経済けいざい状態じょうたい固有こゆう弊害へいがい誇張こちょうすることは、ながれば進歩しんぽおくらせることになる。」[8]
  • 経済けいざい学者がくしゃ一般いっぱんに、民間みんかん努力どりょく範囲はんいないではカバーできない社会しゃかい改良かいりょうのための国家こっか活動かつどう活発かっぱつになることをのぞんでいる。しかし、あつまりさん主義しゅぎしゃのぞむような国家こっか活動かつどういちじるしい拡大かくだいには反対はんたいである。」[7]民衆みんしゅう社会しゃかいてき改善かいぜん促進そくしんするために熱心ねっしん努力どりょくするものは、社会しゃかい主義しゅぎしゃであるといわれるが、その意味いみでは自分じぶんも、ほとんどすべての経済けいざい学者がくしゃも、社会しゃかい主義しゅぎしゃであるとマーシャルはいう[7]

著作ちょさく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ このよう性格せいかくから、1890年代ねんだい大蔵おおくら大臣だいじんのための貿易ぼうえき政策せいさくかんするメモなど、マーシャルの著作ちょさくには未完みかんわったものがおお
  2. ^ 原題げんだい産業さんぎょう貿易ぼうえき産業さんぎょう技術ぎじゅつとビジネス機構きこうおよ様々さまざま階級かいきゅう国民こくみん状態じょうたいかんするその影響えいきょう』, "Industry and Trade : A Study of Industrial Technique and Business Organization, and their Influences on the Conditions of Various Classes and Nations"
  3. ^ 貨幣かへい回転かいてんさせた、使つかった回数かいすうかんがえても
  4. ^ 現代げんだい労働ろうどうしゃ賃金ちんぎんしゅう21シリングでは小麦こむぎ24ペック購入こうにゅうできるが、これは中世ちゅうせいから近代きんだいまでの平均へいきんてき労働ろうどうしゃ購入こうにゅうできた小麦こむぎ6ペックの4ばいである。また、イギリスの所得しょとくはドイツの所得しょとくよりもおおい。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ N.Kaldor, Limitations of the General Theory,1983,p1:根井ねい雅弘まさひろ「マーシャル 『原理げんり』とケンブリッジ学派がくは経済けいざいがく学会がっかい年報ねんぽう29 かん (1991) 29 ごう,p. 27-31.
  2. ^ a b たちばな (2012)、71ぺーじ
  3. ^ "The Pure Theory of Foreign Trade: The Pure Theory of Domestic Values"
  4. ^ たちばな (2012)、73ぺーじ
  5. ^ ドーンブッシュ、フィッシャー
  6. ^ a b c d 『マーシャル クールヘッド&ウォームハート』(2014)、p129-131
  7. ^ a b c d e 『マーシャル クールヘッド&ウォームハート』(2014)、p135-139
  8. ^ a b c d e f g 『マーシャル クールヘッド&ウォームハート』(2014)、p125-128
  9. ^ a b c d e 『マーシャル クールヘッド&ウォームハート』(2014)、p145-147
  10. ^ 『マーシャル クールヘッド&ウォームハート』(2014)、p149-155
  11. ^ a b c まちにんせつ』 - コトバンク
  12. ^ 中野なかの剛志たけし国力こくりょくろん』以文しゃ2008ねん、pp.143-149
  13. ^ 中野なかの剛志たけし国力こくりょくろん』以文しゃ2008ねん、pp.147-149
  14. ^ Marshall (1885), p. 57.
  15. ^ 日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃへん世界せかいえた経済けいざいがく名著めいちょ日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ日経にっけいビジネス人文じんぶん〉、2013ねん、201ぺーじ

参考さんこう資料しりょう[編集へんしゅう]

  • ルディガー・ドーンブッシュ、スタンリー・フィッシャー ちょ廣松ひろまつあつし やく『マクロ経済けいざいがく』シーエーピー出版しゅっぱん 
  • Alfred Marshall (1885). The present position of economics : an inaugural lecture given in the Senate House at Cambridge, 24 February, 1885. Macmillan and Co. 
  • たちばなしゅんみことのり (2012). 朝日あさひおとなのまなびなおし 経済けいざいがく 課題かだい解明かいめい経済けいざいがく. 朝日新聞あさひしんぶん出版しゅっぱん 
  • 橋本はしもと昭一しょういち『マーシャル経済けいざいがくミネルみねるァ書房ぁしょぼうISBN 4623020452 
  • Alfred Marshall, Social Possibilities of Economic Chivalry, The Economic Journal, Volume 17, Issue 65, 1 March 1907;伊藤いとうせんこうわけ、アルフレッド・マーシャル「経済けいざい騎士きしどう社会しゃかいてき可能かのうせい」、『マーシャル クールヘッド&ウォームハート』、ミネルみねるァ書房ぁしょぼう、2014ねん、p119-158.

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]