アルフレッド・マーシャル (英語 えいご : Alfred Marshall 、1842年 ねん 7月 がつ 26日 にち - 1924年 ねん 7月 がつ 13日 にち )は、イギリス の経済 けいざい 学者 がくしゃ 。新 しん 古典 こてん 派 は 経済 けいざい 学 がく を代表 だいひょう する研究 けんきゅう 者 しゃ 。ケンブリッジ大学 けんぶりっじだいがく 教授 きょうじゅ を務 つと め、ケインズ やピグー を育 そだ て、ケンブリッジ学派 がくは (新 しん 古典 こてん 派 は ) を形成 けいせい し、同 どう 大学 だいがく の経済 けいざい 学科 がっか の独立 どくりつ にも尽力 じんりょく した。
主著 しゅちょ 『経済 けいざい 学 がく 原理 げんり 』("Principles of Economics" , 1890年 ねん )では需要 じゅよう と供給 きょうきゅう の理論 りろん 、すなわち限界 げんかい 効用 こうよう と生産 せいさん 費用 ひよう の首尾 しゅび 一貫 いっかん した理論 りろん を束 たば ね合 あ わせた。この本 ほん は長 なが い間 あいだ 、イギリスで最 もっと も良 よ く使 つか われる経済 けいざい 学 がく の教科書 きょうかしょ となった。マーシャルの『経済 けいざい 学 がく 原理 げんり 』は、スミスの『国富 こくふ 論 ろん 』、リカードの『経済 けいざい 学 がく および課税 かぜい の原理 げんり 』、マルクスの『資本 しほん 論 ろん 』、ケインズの『雇用 こよう ・利子 りし および貨幣 かへい の一般 いっぱん 理論 りろん 』とともに経済 けいざい 学 がく の五大 ごだい 古典 こてん とされる[1] 。
マーシャルは、1842年 ねん ロンドン のベルモンジー (Bermondsey ) で生 う まれた。ロンドン郊外 こうがい のクラパン (Clapham ) で成長 せいちょう し Merchant Taylor's School で教育 きょういく を受 う け、そこで数学 すうがく に対 たい する素質 そしつ を現 あらわ した。父 ちち は息子 むすこ に聖職 せいしょく 者 しゃ となることを望 のぞ んでいたものの、マーシャル自身 じしん は数学 すうがく 研究 けんきゅう を志 こころざ し、ケンブリッジ大学 けんぶりっじだいがく への合格 ごうかく で彼 かれ に学問 がくもん の道 みち を取 と らせた。
ジョン・スチュアート・ミル の著作 ちょさく を読 よ むことによって、社会 しゃかい 正義 せいぎ を主張 しゅちょう したミルに共鳴 きょうめい し、人間 にんげん の内面 ないめん 的 てき な幸福 こうふく ・豊 ゆた かな生活 せいかつ を得 え るためどうすればよいかということを考 かんが えるようになった[2] 。また、ロンドンの貧民 ひんみん 街 がい を自分 じぶん の目 め で見 み たことにより、人々 ひとびと を貧困 ひんこん から救済 きゅうさい したいという使命 しめい 感 かん から、経済 けいざい 学 がく の研究 けんきゅう へ転向 てんこう した[2] 。
1868年 ねん に道徳 どうとく 科学 かがく 担当 たんとう の講師 こうし に任命 にんめい され、更 さら にケンブリッジに創設 そうせつ された w:Newnham College, Cambridge (女性 じょせい 向 む けカレッジ)において経済 けいざい 学 がく の講師 こうし となった。その傍 かたわ ら、経済 けいざい 学 がく の数学 すうがく 的 てき 厳密 げんみつ さについての研究 けんきゅう を進 すす め経済 けいざい 学 がく をより科学 かがく 的 てき なものにする様 よう 努 つと める。
1877年 ねん にカレッジでの教 おし え子 ご だったメアリ・ ペイリーと結婚 けっこん するが、フェローの独身 どくしん 規定 きてい によって退職 たいしょく を余儀 よぎ なくされ、ブリストルに新設 しんせつ された University College で校長 こうちょう となって、そこで再 ふたた び経済 けいざい 学 がく の講義 こうぎ を行 おこな った。
1870年代 ねんだい にマーシャルは国際 こくさい 貿易 ぼうえき と保護 ほご 主義 しゅぎ の問題 もんだい 点 てん に関 かん して何 なん 冊 さつ かリーフレット を著 あらわ したが、1879年 ねん にこれらの著作 ちょさく の多 おお くをまとめて『外国 がいこく 貿易 ぼうえき の純粋 じゅんすい 理論 りろん : 国内 こくない 価値 かち の純粋 じゅんすい 理論 りろん 』[3] を公刊 こうかん 。
同 おな じく1879年 ねん 、妻 つま と共 とも に『産業 さんぎょう 経済 けいざい 学 がく 』("The Economics of Industry" ) を公刊 こうかん 、洗練 せんれん された理論 りろん 的 てき 基礎 きそ に立脚 りっきゃく していたこの本 ほん はそれまで支配 しはい 的 てき であったジョン・スチュアート・ミル の『経済 けいざい 学 がく 原理 げんり 』に代 か わる地位 ちい を得 え 、毎年 まいとし のごとく増刷 ぞうさつ された。
マーシャルはこの著作 ちょさく によって大 おお きな名声 めいせい を得 え 、1882年 ねん にウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ が死去 しきょ すると、彼 かれ の時代 じだい において英国 えいこく を代表 だいひょう する経済 けいざい 学者 がくしゃ となった。
マーシャルはヘンリー・フォーセット (英語 えいご 版 ばん ) が死去 しきょ すると、1884年 ねん 12月にケンブリッジ大学 けんぶりっじだいがく の政治 せいじ 経済 けいざい 学 がく 教授 きょうじゅ に選出 せんしゅつ され翌年 よくねん の1885年 ねん 1月 がつ にケンブリッジへ戻 もど り、2月 がつ には教授 きょうじゅ 就任 しゅうにん 講演 こうえん を行 おこな った。 ケンブリッジでは、経済 けいざい 学 がく のための新 あたら しい学科 がっか の創設 そうせつ に努力 どりょく し、1903年 ねん にようやく実現 じつげん した。この時 とき まで、経済 けいざい 学 がく は歴史 れきし と道徳 どうとく 科学 かがく の学士 がくし 課程 かてい の下 した で教 おし えられており、経済 けいざい 学 がく に精力 せいりょく 的 てき で専門 せんもん 化 か された学生 がくせい 達 たち がマーシャルが望 のぞ むようには育 そだ ちにくかった。
マーシャルは1881年 ねん 、彼 かれ の畢生 ひっせい の著作 ちょさく 、『経済 けいざい 学 がく 原理 げんり 』の著作 ちょさく に取 と り掛 か かり、それからの10年 ねん の多 おお くをこの著作 ちょさく の完成 かんせい のために費 つい やした。その著作 ちょさく についての計画 けいかく は徐々 じょじょ に拡張 かくちょう され、経済 けいざい 学 がく の全 ぜん 体系 たいけい を含 ふく む別 べつ の二 に 巻 かん 本 ほん として公刊 こうかん されることになる。
第 だい 一 いち 巻 かん は1890年 ねん に出版 しゅっぱん され、世界 せかい 的 てき な喝采 かっさい を受 う けて、彼 かれ の時代 じだい における主要 しゅよう な経済 けいざい 学者 がくしゃ の一人 ひとり としての地位 ちい を確立 かくりつ した。
第 だい 二 に 巻 かん では外国 がいこく 貿易 ぼうえき 、貨幣 かへい 、貿易 ぼうえき 変動 へんどう 、課税 かぜい 、および集 あつまり 産 さん 主義 しゅぎ が取 と り上 あ げられる予定 よてい で、第 だい 一 いち 巻 かん を刊行 かんこう してから20年 ねん 以上 いじょう 、彼 かれ は『経済 けいざい 学 がく 原理 げんり 』の第 だい 二 に 巻 かん の完成 かんせい に精力 せいりょく を傾 かたむ けた。だが、細部 さいぶ に対 たい しても妥協 だきょう なく注意 ちゅうい を払 はら う完全 かんぜん 主義 しゅぎ 的 てき 性格 せいかく が災 わざわ いし[注釈 ちゅうしゃく 1] 、未完 みかん に終 お わった。
彼 かれ の健康 けんこう 問題 もんだい は1880年代 ねんだい から徐々 じょじょ に悪化 あっか し、1908年 ねん には彼 かれ は教授 きょうじゅ 職 しょく を自発 じはつ 的 てき に退 しりぞ き、後任 こうにん 教授 きょうじゅ にピグーが選出 せんしゅつ されるように奔走 ほんそう した。彼 かれ は『経済 けいざい 学 がく 原理 げんり 』の著作 ちょさく を続 つづ けることを望 のぞ んだが、彼 かれ の健康 けんこう は悪化 あっか し続 つづ け、計画 けいかく は個々 ここ の更 さら なる研究 けんきゅう によって増大 ぞうだい し続 つづ けた。
1914年 ねん の第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の勃発 ぼっぱつ は彼 かれ に国際 こくさい 経済 けいざい の診断 しんだん を改訂 かいてい するよう促 うなが し、1919年 ねん に彼 かれ は『産業 さんぎょう 貿易 ぼうえき 論 ろん 』[注釈 ちゅうしゃく 2] を77歳 さい にして出版 しゅっぱん した。この著作 ちょさく はより理論 りろん 的 てき な『経済 けいざい 学 がく 原理 げんり 』に比 くら べてより実証 じっしょう 的 てき なものであり、そのため理論 りろん 経済 けいざい 学者 がくしゃ 達 たち から同様 どうよう の喝采 かっさい を引 ひ き付 つ けることはできなかった。
死去 しきょ する前年 ぜんねん の1923年 ねん には『貨幣 かへい ・信用 しんよう 及 およ び商業 しょうぎょう 』("Money, Credit, and Commerce" ) を出版 しゅっぱん した。これは、過去 かこ 半 はん 世紀 せいき に亘 わた って出版 しゅっぱん したものと、出版 しゅっぱん しなかった経済 けいざい 学 がく 的 てき 着想 ちゃくそう を含 ふく んだものである。
マーシャルはケンブリッジの自宅 じたく である Balliol Croft で、1924年 ねん 7月 がつ 13日 にち に81歳 さい で死去 しきょ した。
マーシャルの経済 けいざい 学 がく では、ミクロの価格 かかく 理論 りろん などの分析 ぶんせき 手法 しゅほう を用 もち いて、労働 ろうどう 者 しゃ の低 てい 賃金 ちんぎん を高 たか くする、或 ある いは過酷 かこく な労働 ろうどう を和 やわ らげることを目標 もくひょう とした[4] 。
マーシャルの経済 けいざい 学 がく はジョン・スチュアート・ミル 、アダム・スミス 、およびデヴィッド・リカード の著作 ちょさく の拡張 かくちょう だった。彼 かれ はヴィルフレド・パレート やジュール・デュプイ のような、他 た の経済 けいざい 学者 がくしゃ の彼 かれ の著作 ちょさく への寄与 きよ を軽視 けいし し、彼 かれ 自身 じしん に対 たい するウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ の影響 えいきょう を渋々 しぶしぶ 認 みと めただけだった。
経済 けいざい 思想 しそう の歴史 れきし におけるマーシャルの影響 えいきょう は否定 ひてい し難 がた い。彼 かれ は、供給 きょうきゅう と需要 じゅよう の関数 かんすう に対 たい する価格 かかく 決定 けってい について厳格 げんかく に取 と り組 く んだ最初 さいしょ の経済 けいざい 学者 がくしゃ であり、近代 きんだい 経済 けいざい 学者 がくしゃ は価格 かかく のシフトと需給 じゅきゅう 曲線 きょくせん のシフトの間 あいだ の関係 かんけい の解明 かいめい をマーシャルに負 お っている。マーシャルは「限界 げんかい 革命 かくめい 」の重要 じゅうよう な参与 さんよ 者 しゃ であり、「消費 しょうひ 者 しゃ が各々 おのおの の限界 げんかい 効用 こうよう に対 たい して同 おな じ価格 かかく となるように試 こころ みる」という着想 ちゃくそう は、彼 かれ のもう一 ひと つの貢献 こうけん である。
生産 せいさん 者 しゃ 余剰 よじょう と消費 しょうひ 者 しゃ 余剰 よじょう [ 編集 へんしゅう ]
需要 じゅよう の価格 かかく 弾力 だんりょく 性 せい は、これらの着想 ちゃくそう の拡張 かくちょう として、マーシャルによって初 はじ めて明瞭 めいりょう に概念 がいねん 化 か されたものである。生産 せいさん 者 しゃ 余剰 よじょう と消費 しょうひ 者 しゃ 余剰 よじょう に分配 ぶんぱい された経済 けいざい 福利 ふくり は、マーシャルによる貢献 こうけん であり、実際 じっさい 、2つは時折 ときおり 「マーシャルの余剰 よじょう 」と評 ひょう される。彼 かれ はこの余剰 よじょう の着想 ちゃくそう を、課税 かぜい と価格 かかく シフトが市場 いちば 福利 ふくり に与 あた える影響 えいきょう の厳格 げんかく な分析 ぶんせき に用 もち いた。
ただし晩年 ばんねん のマーシャルは、効用 こうよう の加 か 測 はか 性 せい を前提 ぜんてい としたこの概念 がいねん の現実 げんじつ 適用 てきよう 性 せい には消極 しょうきょく 的 てき な態度 たいど をとった。彼 かれ はまた、準 じゅん 地代 じだい を識別 しきべつ した。
マーシャルのkと所得 しょとく 流通 りゅうつう 速度 そくど [ 編集 へんしゅう ]
Elements of economics of industry , 1892
貨幣 かへい 数量 すうりょう 説 せつ におけるフィッシャーの交換 こうかん 方程式 ほうていしき :
M
V
=
P
T
{\displaystyle MV=PT}
を V について解 と くと、
V
=
P
T
M
{\displaystyle V={\frac {PT}{M}}}
より V とは、財 ざい の取引 とりひき 額 がく PT とマネーサプライ M の比 ひ として捉 とら えることができる。ここで P は価格 かかく 水準 すいじゅん 、T は取引 とりひき 量 りょう である。
この V は貨幣 かへい の取引 とりひき 流通 りゅうつう 速度 そくど (Velocity of circulation of money ) と呼 よ ばれる[注釈 ちゅうしゃく 3] 。
一般 いっぱん 的 てき には GDP と関連 かんれん させ、財 ざい の取引 とりひき 量 りょう T を実質 じっしつ GDP Y に置 お き換 か え以下 いか のように表 あらわ すことが多 おお い。
M
V
=
P
Y
.
{\displaystyle MV=PY\,.}
同様 どうよう に流通 りゅうつう 速度 そくど V について解 と くと、
V
=
P
Y
M
{\displaystyle V={\frac {PY}{M}}}
V は名目 めいもく GDP PY とマネーサプライ M の比 ひ として表 あらわ せる。この V は貨幣 かへい の所得 しょとく 流通 りゅうつう 速度 そくど (Income velocity of money ) と呼 よ ばれる。
ここで流通 りゅうつう 速度 そくど の逆数 ぎゃくすう 1/V を k とすると、交換 こうかん 方程式 ほうていしき より、名目 めいもく GDPおよびマネーサプライとの関係 かんけい は次 つぎ のようになる。
k
=
M
P
Y
{\displaystyle k={\frac {M}{PY}}}
この k はマーシャルの k と呼 よ ばれる。名目 めいもく GDP に対 たい するマネーの割合 わりあい であり、この値 ね が 1 であればマネーサプライと名目 めいもく GDP が等 ひと しくなる。
また GDP に含 ふく まれない取引 とりひき があるため、所得 しょとく 流通 りゅうつう 速度 そくど は取引 とりひき 流通 りゅうつう 速度 そくど より小 ちい さい[5] 。
ただし、GDPに含 ふく まれない取引 とりひき を除外 じょがい する場合 ばあい 、T = aY (T :財 ざい の取引 とりひき 量 りょう a :定数 ていすう , Y :実質 じっしつ GDP) と表 あらわ すとき、定数 ていすう a は 1 と仮定 かてい する (T = Y )。
マーシャルの k の推移 すいい から、現在 げんざい の経済 けいざい でマネーが過剰 かじょう なのか不足 ふそく しているのかを調 しら べる際 さい の指標 しひょう となる。
尚 なお 、マーシャルにおける元々 もともと の式 しき
M
d
=
k
p
Y
+
k
A
{\displaystyle M\!d=kpY+kA}
は(Md : 貨幣 かへい 需要 じゅよう 、A : 資産 しさん 総額 そうがく )、のちのケインズ における貨幣 かへい 需要 じゅよう 関数 かんすう (貨幣 かへい 需要 じゅよう = 取引 とりひき 需要 じゅよう + 投機 とうき 的 てき (資産 しさん )需要 じゅよう )の原形 げんけい といわれる。
経済 けいざい 騎士 きし 道 どう と集 あつまり 産 さん 主義 しゅぎ 批判 ひはん [ 編集 へんしゅう ]
マーシャルは1907年 ねん の論文 ろんぶん 「経済 けいざい 騎士 きし 道 どう の社会 しゃかい 的 てき 可能 かのう 性 せい 」で、戦争 せんそう における騎士 きし 道 どう が、無私 むし の忠誠 ちゅうせい 心 しん を含 ふく むように、ビジネスにおける騎士 きし 道 どう も公共 こうきょう 的 てき 精神 せいしん を含 ふく み、それは高貴 こうき で困難 こんなん な事柄 ことがら を、それがゆえに行 おこな うという喜 よろこ びをも含 ふく んでいるとし、「産業 さんぎょう において、最高 さいこう に建設 けんせつ 的 てき な仕事 しごと に対 たい する主 おも な動機 どうき は、困難 こんなん を克服 こくふく し、誰 だれ もが認 みと める指導 しどう 者 しゃ の地位 ちい を獲得 かくとく しようとする騎士 きし 道 どう 的 てき な願望 がんぼう である。」と経済 けいざい 騎士 きし 道 どう を提唱 ていしょう した[6] 。
その一方 いっぽう で、生産 せいさん 手段 しゅだん の所有 しょゆう と管理 かんり を国家 こっか に移転 いてん させようとする集 あつまり 産 さん 主義 しゅぎ (コレクティビスト、社会 しゃかい 主義 しゅぎ 、共産 きょうさん 主義 しゅぎ を含 ふく む)については、「集 あつまり 産 さん 主義 しゅぎ 者 しゃ の支配 しはい が著 いちじる しく拡大 かくだい され、自由 じゆう 企業 きぎょう に残 のこ された領域 りょういき があまりにも制限 せいげん されるならば、官僚 かんりょう 的 てき 手法 しゅほう の圧 あつ 力 りょく によって、物質 ぶっしつ 的 てき 富 とみ の源泉 げんせん だけでなく、人間 にんげん 性 せい のより高 たか い資質 ししつ の多 おお くもまた損 そこ なわれるに違 ちが いないと確信 かくしん している。」と集 あつまり 産 さん 主義 しゅぎ の危険 きけん を説 と いた[7] 。
また、現在 げんざい の社会 しゃかい 状態 じょうたい を激 はげ しく非難 ひなん することに喜 よろこ びを感 かん じる人々 ひとびと の努力 どりょく は、一時 いちじ 的 てき な熱狂 ねっきょう を引 ひ き起 お こすかもしれないが、しかし、それらは公共 こうきょう の利益 りえき のための地道 じみち な仕事 しごと から活力 かつりょく をそらすことになるので有害 ゆうがい であるとし、「現在 げんざい の経済 けいざい 状態 じょうたい に固有 こゆう の弊害 へいがい を誇張 こちょう することは、長 なが い目 め で見 み れば進歩 しんぽ を遅 おく らせることになる。」と批判 ひはん する[8] 。
マーシャルは、「現代 げんだい は、しばしば言 い われているほどには浪費 ろうひ 的 てき でも過酷 かこく でもない。国民 こくみん の総 そう 所得 しょとく の半分 はんぶん よりもずっと多 おお く、おそらくは四 よん 分 ぶん の三 さん 程度 ていど は、生活 せいかつ の方法 ほうほう に関 かん して現在 げんざい の限 かぎ られた理解 りかい の範囲 はんい 内 ない で可能 かのう な限 かぎ り効率 こうりつ 的 てき に、幸福 こうふく と生活 せいかつ の向上 こうじょう に役立 やくだ つように用 もち いられている。」[6] と述 の べて、現代 げんだい において増大 ぞうだい しつつある富 とみ の用途 ようと の大 だい 部分 ぶぶん は、下劣 げれつ でも身勝手 みがって でもなく、人々 ひとびと が利潤 りじゅん 、俸給 ほうきゅう 、賃金 ちんぎん を得 え るための労働 ろうどう での分配 ぶんぱい 状 じょう 況 きょう の変化 へんか をみると、物質 ぶっしつ 的 てき な快楽 かいらく や贅沢 ぜいたく 品 ひん を供給 きょうきゅう する人々 ひとびと が著 いちじる しく増 ふ えているわけでもないし、一方 いっぽう で人々 ひとびと の病気 びょうき を治療 ちりょう したり、知的 ちてき 芸術 げいじゅつ 的 てき 能力 のうりょく を発展 はってん させる職業 しょくぎょう で働 はたら く人々 ひとびと は著 いちじる しく増 ふ えていると指摘 してき する[8] 。また、公的 こうてき 資金 しきん は、選挙 せんきょ で自分 じぶん の意思 いし を押 お し通 とお す人々 ひとびと の利益 りえき を増 ふ やすために支出 ししゅつ されているわけではなく、主 おも に女性 じょせい や子供 こども の利益 りえき のために費 つい やされているし、現代 げんだい では、貧困 ひんこん 者 しゃ が富裕 ふゆう 者 しゃ よりも税金 ぜいきん を多 おお く支 ささえ 払 はら わされたりすることや、貧困 ひんこん 者 しゃ の病気 びょうき や苦 くる しみを減 へ らすよりも富裕 ふゆう 者 しゃ の閑職 かんしょく を与 あた えるような古 ふる いしきたりも廃止 はいし された[8] 。たとえば、チャールス・ブース は、イギリスの人口 じんこう の3分 ぶん の1が飢餓 きが の瀬戸 せと 側 がわ にあると主張 しゅちょう するが、現代 げんだい の労働 ろうどう 者 しゃ の賃金 ちんぎん は、かつての賃金 ちんぎん の4倍 ばい に上昇 じょうしょう している[注釈 ちゅうしゃく 4] と批判 ひはん する[8] 。ユートピアの計画 けいかく 者 しゃ (集 あつまり 産 さん 主義 しゅぎ 者 しゃ 、社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ )たちは、富 とみ が平等 びょうどう に分配 ぶんぱい されれば、すべての人 ひと が現在 げんざい の労働 ろうどう 者 しゃ の手 て が届 とど かないような安楽 あんらく 、洗練 せんれん 、贅沢 ぜいたく 品 ひん が手 て に入 はい るようになると考 かんが えるが、しかし、多 おお くの裕福 ゆうふく な熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ の所得 しょとく は、イギリスの国民 こくみん 所得 しょとく 17億 おく ポンドを4300万 まん 人 にん の全 ぜん 人口 じんこう で平等 びょうどう に分配 ぶんぱい するよりも多 おお くの所得 しょとく をすでに得 え ており、もし所得 しょとく の平等 びょうどう な分配 ぶんぱい が実施 じっし されれば、彼 かれ らの所得 しょとく は減 へ るのである[8] 。
トマス・モア やウィリアム・モリス のユートピアは実行 じっこう 可能 かのう なものとして主張 しゅちょう されているわけではないが、近年 きんねん (20世紀 せいき 初頭 しょとう )ではそれが実行 じっこう 可能 かのう であると主張 しゅちょう しながら、経済 けいざい の現実 げんじつ についての十分 じゅうぶん な研究 けんきゅう に基 もと づかないまま計画 けいかく がなされ、われわれは多 おお くの被害 ひがい を受 う けているとマーシャルはいう[8] 。
アダム・スミス は福祉 ふくし 事業 じぎょう に関 かか わったが、公共 こうきょう の福祉 ふくし 事業 じぎょう に政府 せいふ を参加 さんか させるよう勧 すす める人々 ひとびと の本当 ほんとう の動機 どうき が、自分 じぶん の利益 りえき の増大 ぞうだい か、縁故 えんこ 者 しゃ に報酬 ほうしゅう のよい地位 ちい を与 あた えることであったことを経験 けいけん した[7] 。マーシャルは、普通 ふつう 教育 きょういく があり、統治 とうち 者 しゃ を統治 とうち し、権力 けんりょく の乱用 らんよう を阻止 そし することができる現代 げんだい では、公共 こうきょう 事業 じぎょう を安全 あんぜん に企画 きかく できるが、政府 せいふ を牛耳 ぎゅうじ っている者 もの たちの利己 りこ 的 てき で腐敗 ふはい した目的 もくてき に悪用 あくよう される危険 きけん もあるという[7] 。
マーシャルによれば、19世紀 せいき から20世紀 せいき 初頭 しょとう にかけての社会 しゃかい 主義 しゅぎ 、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 、集 あつまり 産 さん 主義 しゅぎ の実験 じっけん では、機械 きかい を使用 しよう することを軽蔑 けいべつ し、住居 じゅうきょ や家具 かぐ についてさえも私有 しゆう 財産 ざいさん を認 みと めず、趣味 しゅみ や生活 せいかつ 上 じょう の事柄 ことがら についても個性 こせい を発揮 はっき する余地 よち を認 みと めず、全員 ぜんいん の労働 ろうどう による共同 きょうどう 生産 せいさん 物 ぶつ を平等 びょうどう に分配 ぶんぱい した[9] 。差別 さべつ があるとすれば、力強 ちからづよ いメンバーには厳 きび しい仕事 しごと を割 わ り当 あて て、病人 びょうにん にはよい食事 しょくじ を与 あた える程度 ていど であり、労働 ろうどう 者 しゃ を能力 のうりょく に応 おう じて分類 ぶんるい し、困難 こんなん または不快 ふかい な仕事 しごと をした人 ひと には労働 ろうどう 時間 じかん の短縮 たんしゅく などで埋 う め合 あ わせをすることもなかった[9] 。こうした社会 しゃかい 主義 しゅぎ の実験 じっけん の結果 けっか 、普通 ふつう の人間 にんげん にとっては、騎士 きし 道 どう よりも嫉妬 しっと 心 しん の方 ほう がはるかに強力 きょうりょく であるということが決定的 けっていてき に証明 しょうめい された[9] 。マーシャルは、「これらのユートピアの失敗 しっぱい の直接的 ちょくせつてき な原因 げんいん が、その技術 ぎじゅつ 的 てき な欠陥 けっかん にあったということは稀 まれ である。失敗 しっぱい の原因 げんいん はむしろ、一部 いちぶ のメンバーが、他 た の者 もの は困難 こんなん で不快 ふかい な仕事 しごと を割 わ り当 あ て分 ぶん より少 すこ ししかやっていないとか、生活 せいかつ 上 じょう の安楽 あんらく や娯楽 ごらく をこっそりと割 わ り当 あ て分 ぶん 以上 いじょう に享受 きょうじゅ している者 もの がいる、と思 おも い込 こ んだりするところにある。しかし、こうした不満 ふまん を抱 だ いている人々 ひとびと も、近隣 きんりん の企業 きぎょう に移 うつ ってそこで相応 そうおう の待遇 たいぐう を見 み つけるのは容易 ようい ではなかった。なぜなら、そうすれば、彼 かれ らをこの運動 うんどう に惹 ひ きつけ、また彼 かれ らのうちある者 もの がそのために犠牲 ぎせい を払 はら ってきた希望 きぼう や理想 りそう を放棄 ほうき することになるからである。現代 げんだい 世界 せかい においては、ほとんどの人 ひと には移動 いどう の自由 じゆう という形 かたち で健全 けんぜん な感情 かんじょう のはけ口 ぐち が与 あた えられているが、彼 かれ らの俯瞰 ふかん にはそのはけ口 ぐち がない。そのため、不満 ふまん は表面 ひょうめん 化 か に潜伏 せんぷく し、鬱積 うっせき していき、ついには社会 しゃかい 全体 ぜんたい が怨恨 えんこん に満 み ち、破局 はきょく を迎 むか えたのである」とし、このことは、ほとんどすべての計画 けいかく が経験 けいけん したところであるという[9] 。
マーシャルは、「人々 ひとびと の心 しん に経済 けいざい 騎士 きし 道 どう の精神 せいしん が浸透 しんとう するのでない限 かぎ り、集 あつまり 産 さん 主義 しゅぎ の計画 けいかく が完全 かんぜん に実行 じっこう されれば、社会 しゃかい 的 てき な災厄 さいやく が生 う まれるであろう。」という[9] 。絶 た えざる自由 じゆう な創意 そうい が必要 ひつよう とされる産業 さんぎょう に、集 あつまり 産 さん 主義 しゅぎ 的 てき 管理 かんり を不 ふ 必要 ひつよう に導入 どうにゅう することによって、創造 そうぞう 的 てき な企業 きぎょう の活動 かつどう 範囲 はんい を狭 せば めてしまう前 まえ に、集 あつまり 産 さん 主義 しゅぎ の持 も つ諸 しょ 困難 こんなん を研究 けんきゅう することが必要 ひつよう であるとしたうえでマーシャルは、経済 けいざい における騎士 きし 道 どう は、ただちに成果 せいか を生 う み出 だ すわけでもない公共 こうきょう 事業 じぎょう 、オクタヴィア・ヒル が行 おこな った緑地 りょくち 帯 たい の設置 せっち 、芸術 げいじゅつ 、公園 こうえん 、交通 こうつう 、病院 びょういん などへ富裕 ふゆう 層 そう を関与 かんよ させることとなり、富 とみ が公共 こうきょう の用途 ようと に供 きょう せられるならば、公共 こうきょう 目的 もくてき のために重税 じゅうぜい が課 か せられても、資本 しほん が流出 りゅうしゅつ する心配 しんぱい もなく、こうして生 う まれる騎士 きし 道 どう に基 もと づく国民 こくみん 的 てき 社会 しゃかい 主義 しゅぎ では、民間 みんかん 企業 きぎょう のもとで繁栄 はんえい するだろうと主張 しゅちょう する[10] 。
待 まち 忍 にん 説 せつ (waiting theory)[ 編集 へんしゅう ]
マーシャルは、資本 しほん サービスの価格 かかく としての利子 りし 率 りつ も需要 じゅよう と供給 きょうきゅう によって決定 けってい されるとし、資本 しほん の限界 げんかい 生産 せいさん 力 りょく によって需要 じゅよう が、貯蓄 ちょちく にともなう待 まち 忍 にん (waiting、待 ま つこと)によって供給 きょうきゅう が左右 さゆう されるとした[11] 。ある財 ざい の現在 げんざい 用途 ようと と将来 しょうらい 用途 ようと との間 あいだ への配分 はいぶん を計画 けいかく する消費 しょうひ 者 しゃ は,それぞれの用途 ようと からの限界 げんかい 効用 こうよう が等 ひと しくなるよう配分 はいぶん を行 おこな うが、通常 つうじょう 、現在 げんざい の消費 しょうひ を将来 しょうらい の同 どう 量 りょう の消費 しょうひ よりも選好 せんこう する[11] 。マーシャルの利子 りし 論 ろん では、現在 げんざい の消費 しょうひ を差 さ し控 ひか え、将来 しょうらい に引 ひ き延 の ばすという時間 じかん 要素 ようそ が重視 じゅうし され、これを待 まて 忍 にん 説 せつ (waiting theory)という[11] 。
1890年 ねん から彼 かれ が死去 しきょ する1924年 ねん まで、彼 かれ は経済 けいざい 学 がく の専門 せんもん 職 しょく の尊敬 そんけい される父 ちち であり、彼 かれ の死後 しご も半 はん 世紀 せいき に亘 わた り、ほとんどの経済 けいざい 学者 がくしゃ にとって尊敬 そんけい すべき祖父 そふ であった。彼 かれ はその生涯 しょうがい を通 つう じて、彼 かれ 以前 いぜん の経済 けいざい 学 がく の指導 しどう 者 しゃ 達 たち がためらわなかったような論争 ろんそう を、ある意味 いみ で避 さ けた。彼 かれ の公平 こうへい さが経済 けいざい 学者 がくしゃ 仲間 なかま からの大 おお きな尊敬 そんけい と公平 こうへい な崇敬 すうけい を作 つく り上 あ げ、Balliol Croftと名付 なづ けられた彼 かれ の自宅 じたく は来賓 らいひん で絶 た えることがなかった。
ケンブリッジでの彼 かれ の学生 がくせい 達 たち は、ジョン・メイナード・ケインズ やアーサー・セシル・ピグー を含 ふく む、経済 けいざい 学 がく 史上 しじょう の大物 おおもの となった。彼 かれ の最 もっと も重要 じゅうよう な遺産 いさん は、20世紀 せいき の残 のこ りの期間 きかん に亘 わた って経済 けいざい 学 がく の分野 ぶんや の気風 きふう を作 つく る、尊敬 そんけい され、学術 がくじゅつ 的 てき で、科学 かがく 的 てき 根拠 こんきょ に基 もとづ いた経済 けいざい 学者 がくしゃ 達 たち のための専門 せんもん 職 しょく を創設 そうせつ したことである。マーシャルに可愛 かわい がられたケインズは、後 のち に彼 かれ のことをこう評 ひょう した。
説教 せっきょう 者 しゃ としてまた人間 にんげん の牧師 ぼくし として、彼 かれ はほかの同様 どうよう な人物 じんぶつ よりも格別 かくべつ 優 すぐ れていた訳 わけ ではない。しかし科学 かがく 者 しゃ としては、彼 かれ はその専 せん 門 もん の分野 ぶんや において、百 ひゃく 年間 ねんかん を通 つう じて世界中 せかいじゅう で最 もっと も偉大 いだい な学者 がくしゃ であった。にもかかわらず、彼 かれ 自身 じしん 好 この んで優位 ゆうい を与 あた えようとしたのは彼 かれ の本性 ほんしょう の第 だい 一 いち の側面 そくめん であった。…鷲 わし のような鋭 するど い眼 め と天 てん 翔 か ける翼 つばさ とは、道 みち を説 と く人 ひと のい付 いつ けに従 したが うためにしばしば地上 ちじょう に呼 よ び返 かえ された — ケインズ『人物 じんぶつ 評伝 ひょうでん 』東洋経済新報社 とうようけいざいしんぽうしゃ
中野 なかの 剛志 たけし は、マーシャルの理論 りろん はヘーゲル やドイツ歴史 れきし 学派 がくは の多大 ただい な影響 えいきょう を受 う け、むしろ経済 けいざい ナショナリズム であり、新 しん 古典 こてん 派 は と激 はげ しく対立 たいりつ していたドイツ歴史 れきし 学派 がくは に近 ちか かったと指摘 してき する[12] 。ドイツ語 ご が堪能 かんのう で、若 わか い頃 ころ ドイツ に留学 りゅうがく して、ドイツ哲学 てつがく やドイツ歴史 れきし 学派 がくは の影響 えいきょう を受 う けたマーシャルは、リカード やマルサス のような古典 こてん 派 は 経済 けいざい 学 がく 者 もの の時代 じだい とは異 こと なり、近代 きんだい 産業 さんぎょう 社会 しゃかい は、静 せい 学 がく 的 てき ・機械 きかい 的 てき な均衡 きんこう 状態 じょうたい にはならないのが通例 つうれい であると指摘 してき した。また新 しん 古典 こてん 派 は 経済 けいざい 学 がく とは異 こと なり、人間 にんげん を、利己 りこ 的 てき で孤立 こりつ した合理 ごうり 的 てき な個人 こじん と仮定 かてい して理論 りろん を構築 こうちく することを拒絶 きょぜつ した。さらに新 しん 古典 こてん 派 は 経済 けいざい 学 がく の理論 りろん 的 てき 前提 ぜんてい である方法 ほうほう 論 ろん 的 てき 個人 こじん 主義 しゅぎ を放棄 ほうき し、その対局 たいきょく にある方法 ほうほう 論 ろん 的 てき 全体 ぜんたい 主義 しゅぎ を採用 さいよう した[13] 。
「経済 けいざい 学者 がくしゃ は、cool head, but warm heart 冷静 れいせい な頭脳 ずのう と温 あたた かい心 しん を持 も たねばならない」(1885年 ねん ケンブリッジ大学 けんぶりっじだいがく 経済 けいざい 学 がく 教授 きょうじゅ の就任 しゅうにん 講演 こうえん )[14]
マーシャルは、理論 りろん が現実 げんじつ から乖離 かいり すれば「単 たん なる暇 ひま つぶし」に過 す ぎないとしており、現実 げんじつ の課題 かだい と理論 りろん 上 じょう の問題 もんだい を混同 こんどう しないように警告 けいこく していた[15] 。
「もし人々 ひとびと が富 とみ を誇 ほこ りとしないならば、人間 にんげん は自 みずか らを尊敬 そんけい することはできない。世界 せかい の真 しん の栄光 えいこう に役立 やくだ とうとして、富 とみ を得 え るために大 おお いに努力 どりょく することは、確 たし かに有意義 ゆういぎ である。」と語 かた った[6] 。マーシャルは、19世紀 せいき 末 まつ から20世紀 せいき 初頭 しょとう にかけては、富 とみ を軽蔑 けいべつ するような振 ふ る舞 ま いが増 ふ えているが、それはその方 ほう が容易 ようい だからであるとも語 かた った[6] 。
「現在 げんざい の経済 けいざい 状態 じょうたい に固有 こゆう の弊害 へいがい を誇張 こちょう することは、長 なが い目 め で見 み れば進歩 しんぽ を遅 おく らせることになる。」[8]
「経済 けいざい 学者 がくしゃ は一般 いっぱん に、民間 みんかん の努力 どりょく の範囲 はんい 内 ない ではカバーできない社会 しゃかい 改良 かいりょう のための国家 こっか 活動 かつどう が活発 かっぱつ になることを望 のぞ んでいる。しかし、集 あつまり 産 さん 主義 しゅぎ 者 しゃ が望 のぞ むような国家 こっか 活動 かつどう の著 いちじる しい拡大 かくだい には反対 はんたい である。」[7] 。民衆 みんしゅう の社会 しゃかい 的 てき 改善 かいぜん を促進 そくしん するために熱心 ねっしん に努力 どりょく する者 もの は、社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ であるといわれるが、その意味 いみ では自分 じぶん も、ほとんどすべての経済 けいざい 学者 がくしゃ も、社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ であるとマーシャルはいう[7] 。
1879年 ねん - The Economics of Industry (メアリ・ペイリーとの共著 きょうちょ )
1879年 ねん - The Pure Theory of Foreign Trade: The Pure Theory of Domestic Values
1890年 ねん - Principles of Economics
1919年 ねん - Industry and Trade
『産業 さんぎょう 貿易 ぼうえき 論 ろん 』佐原 さはら 貴 たか 臣 しん 訳 わけ 、東京 とうきょう 寶 たから 文 ぶん 館 かん 、1923年 ねん 。
『産業 さんぎょう と商業 しょうぎょう : 産業 さんぎょう 技術 ぎじゅつ と企業 きぎょう 組織 そしき 、およびそれらが諸 しょ 階級 かいきゅう 、諸 しょ 国民 こくみん に与 あた える影響 えいきょう の研究 けんきゅう 』永沢 ながさわ 越郎 えつろう 訳 やく 、岩波 いわなみ ブックセンター信 しん 山 やま 社 しゃ 、1986年 ねん 。
1923年 ねん - Money, Credit and Commerce .
1925年 ねん - Memorials of Alfred Marshall (ピグー 編集 へんしゅう による遺稿 いこう 集 しゅう )
^ この様 よう な性格 せいかく から、1890年代 ねんだい の大蔵 おおくら 大臣 だいじん のための貿易 ぼうえき 政策 せいさく に関 かん するメモなど、マーシャルの著作 ちょさく には未完 みかん で終 お わったものが多 おお い
^ 原題 げんだい 『産業 さんぎょう と貿易 ぼうえき :産業 さんぎょう 技術 ぎじゅつ とビジネス機構 きこう 、及 およ び様々 さまざま な階級 かいきゅう と国民 こくみん の状態 じょうたい に関 かん するその影響 えいきょう 』, "Industry and Trade : A Study of Industrial Technique and Business Organization, and their Influences on the Conditions of Various Classes and Nations"
^ 貨幣 かへい を回転 かいてん させた、使 つか った回数 かいすう と考 かんが えても良 よ い
^ 現代 げんだい の労働 ろうどう 者 しゃ の賃金 ちんぎん 週 しゅう 21シリング では小麦 こむぎ 24ペック が購入 こうにゅう できるが、これは中世 ちゅうせい から近代 きんだい までの平均 へいきん 的 てき 労働 ろうどう 者 しゃ が購入 こうにゅう できた小麦 こむぎ 6ペックの4倍 ばい である。また、イギリスの所得 しょとく はドイツの所得 しょとく よりも多 おお い。
^ N.Kaldor, Limitations of the General Theory,1983,p1:根井 ねい 雅弘 まさひろ 「マーシャル 『原理 げんり 』とケンブリッジ学派 がくは 」経済 けいざい 学 がく 史 し 学会 がっかい 年報 ねんぽう 29 巻 かん (1991) 29 号 ごう ,p. 27-31.
^ a b 橘 たちばな 木 き (2012) 、71頁 ぺーじ 。
^ "The Pure Theory of Foreign Trade: The Pure Theory of Domestic Values"
^ 橘 たちばな 木 き (2012) 、73頁 ぺーじ 。
^ ドーンブッシュ、フィッシャー 。
^ a b c d 『マーシャル クールヘッド&ウォームハート』(2014)、p129-131
^ a b c d e 『マーシャル クールヘッド&ウォームハート』(2014)、p135-139
^ a b c d e f g 『マーシャル クールヘッド&ウォームハート』(2014)、p125-128
^ a b c d e 『マーシャル クールヘッド&ウォームハート』(2014)、p145-147
^ 『マーシャル クールヘッド&ウォームハート』(2014)、p149-155
^ a b c 『待 まち 忍 にん 説 せつ 』 - コトバンク
^ 中野 なかの 剛志 たけし 『国力 こくりょく 論 ろん 』以文社 しゃ 2008年 ねん 、pp.143-149
^ 中野 なかの 剛志 たけし 『国力 こくりょく 論 ろん 』以文社 しゃ 2008年 ねん 、pp.147-149
^ Marshall (1885) , p. 57.
^ 日本経済新聞社 にほんけいざいしんぶんしゃ 編 へん 『世界 せかい を変 か えた経済 けいざい 学 がく の名著 めいちょ 』 日本経済新聞社 にほんけいざいしんぶんしゃ 〈日経 にっけい ビジネス人文 じんぶん 庫 こ 〉、2013年 ねん 、201頁 ぺーじ 。
ルディガー・ドーンブッシュ、スタンリー・フィッシャー 著 ちょ 、廣松 ひろまつ 毅 あつし 訳 やく 『マクロ経済 けいざい 学 がく 』シーエーピー出版 しゅっぱん 。
Alfred Marshall (1885). The present position of economics : an inaugural lecture given in the Senate House at Cambridge, 24 February, 1885 . Macmillan and Co.
橘 たちばな 木 き 俊 しゅん 詔 みことのり (2012). 朝日 あさひ おとなの学 まな びなおし 経済 けいざい 学 がく 課題 かだい 解明 かいめい の経済 けいざい 学 がく 史 し . 朝日新聞 あさひしんぶん 出版 しゅっぱん
橋本 はしもと 昭一 しょういち 『マーシャル経済 けいざい 学 がく 』ミネル みねる ヴァ書房 ぁしょぼう 。ISBN 4623020452 。
Alfred Marshall, Social Possibilities of Economic Chivalry, The Economic Journal, Volume 17, Issue 65, 1 March 1907;伊藤 いとう 宣 せん 広 こう 訳 わけ 、アルフレッド・マーシャル「経済 けいざい 騎士 きし 道 どう の社会 しゃかい 的 てき 可能 かのう 性 せい 」、『マーシャル クールヘッド&ウォームハート』、ミネル みねる ヴァ書房 ぁしょぼう 、2014年 ねん 、p119-158.
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