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マーティン・フロビッシャー

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
1577ねんごろえがかれたサー・マーティン・フロビッシャーの肖像しょうぞうコルネリス・ケテル Cornelis Ketel

サー・マーティン・フロビッシャーSir Martin Frobisher1535ねんまたは1539ねんごろ - 1594ねん11月15にち)は、イギリス航海こうかいしゃわたしかすめせん船長せんちょう探検たんけん

わたしかすめせんってフランスせんなどをおそおおくのとみイングランドにもたらした。北西ほくせい航路こうろ探検たんけんはじめたのちは、3にわたり現在げんざいカナダバフィンとう(レゾリューションとうおよびフロビッシャーわん)をおとず[1][2]航路こうろよりもきむ採取さいしゅ熱中ねっちゅうしたが、結局けっきょく採取さいしゅした鉱石こうせきかねではなくただの黄鉄鉱おうてっこうだったことがわかった。1588ねんアルマダの海戦かいせんでは、スペイン艦隊かんたい撃退げきたいたいする貢献こうけんから爵位しゃくいおくられている。

わたしかすめせん船長せんちょう

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フロビッシャーはヨークシャー西部せいぶのノーマントン(Normanton)にあった14世紀せいき以来いらい旧家きゅうかで、ちちバーナード・フロビッシャーとナイトの家系かけい出身しゅっしんははのもとにまれた。ちちはやくにくなったため、ははロンドンおとうとのサー・ジョン・ヨークのもとに息子むすこおく教育きょういくさせた。フロビッシャーは学問がくもんはほとんどしなかったが、勇敢ゆうかんさを叔父おじヨークからもみとめられていた[3]1550ねん、ヨークはフロビッシャーを船乗ふなのりとしてそだてることとし、1553ねんにはヨークが出資しゅっしするギニアへの航海こうかいにフロビッシャーをおくし、フロビッシャーは生還せいかんした[3]よく1554ねんにもギニアに交易こうえき航海こうかいたが、かれはここでポルトガルじんつかまり数カ月すうかげつあいだしゅうえられている。1559ねんには結婚けっこんしている。

フロビッシャーはギニアからの帰国きこくわたしかすめせん世界せかいとうじた。やがてすうねんにはイングランドでももっと大胆だいたん不届ふとどきな海賊かいぞく一人ひとりとしてられるようになる。1564ねん海事かいじ裁判所さいばんしょ記録きろくでは、「かれはスペインのフェリペおうにもられており、ジョン・ホーキンスおなじくらいにくまれている」とある[3]。やがてかれイングランド女王じょおうエリザベス1せい宮廷きゅうてい接近せっきんし、女王じょおうのための任務にんむにつくようになる。1571ねんにはアイリッシュうみ合法ごうほうてき警備けいび活動かつどうまかされ、フランスせんやポルトガルせんおそ一方いっぽう女王じょおうすすめていたアイルランド征服せいふく軍事ぐんじ活動かつどう支援しえんした。

最初さいしょ北西ほくせい航路こうろ航海こうかい

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フロビッシャーは1560ねんころから北西ほくせい航路こうろ探検たんけん航海こうかいけおうという決意けついをもっており、友人ゆうじんらのまえ地図ちずひろげてアジアにあるとみとそこに最短さいたん航路こうろいていた。サー・ハンフリー・ギルバート英語えいごばん航海こうかい記録きろくでは、きたアメリカ大陸あめりかたいりく北端ほくたんまわって中国ちゅうごくキャセイ)やインドかう最短さいたん距離きょり航路こうろがあるはずだとされており、フロビッシャーもおおきく影響えいきょうけている。このため、フロビッシャーは1575ねんころからロンドンの有力ゆうりょくしゃたちをまわって探検たんけん航海こうかい後援こうえんおこなってくれるようはたらきかけている。フロビッシャーは、イングランド商人しょうにん出資しゅっしあつめた勅許ちょっきょ会社かいしゃで、ロシアのきたまわって中国ちゅうごくかう北東ほくとう航路こうろ多数たすう探検たんけんおくしていたモスクワ会社かいしゃ説得せっとくし、その免許めんきょけることに成功せいこうした。かれはモスクワ会社かいしゃのマイケル・ロック(Michael Lok)の支援しえんけて、3せきバークによる船団せんだんむための資金しきんあつめた。この3せきは、20トンから25トンのおおきさの「ガブリエル」ごう乗組のりくみいん18にん)と「マイケル」ごう乗組のりくみいん17にん)、および10トンほどのピンネース1せき乗組のりくみいん4にん)であり[4]総数そうすう39にんという規模きぼであった。

フロビッシャーいちぎょうはロンドン東部とうぶにあるテムズがわ河港かこうブラックウォール(Blackwall)でいかりげ、エリザベス1せい直々じきじき見送みおくりをグリニッジけ、1576ねん6月7にち出帆しゅっぱんし、シェトランド諸島しょとう西方せいほううみかった。あらしなかでピンネースはうしなわれ、7がつ11にちグリーンランド付近ふきんでガブリエルごうとマイケルごうもはぐれてしまった。こおりあらしおそれをなしたマイケルごう結局けっきょくもどり、ロンドンに9がつ初頭しょとう帰港きこうしている。ガブリエルごうはそのまま航海こうかいすすめ、7がつ20日はつかレゾリューションとう発見はっけんし「クイーン・エリザベスズ・フォアランド(Queen Elizabeth’s Foreland)」と名付なづ上陸じょうりくした。数日すうじつ、ガブリエルごうバフィンとうフロビッシャーわん湾口わんこう到達とうたつしたが、こおりふうによりこれ以上いじょうきたへの航海こうかいができないとかんじたフロビッシャーは西にしのフロビッシャー湾内わんないへとふねすすめることにした。かれはこれを海峡かいきょうだとしんみずからのかんして「フロビッシャー海峡かいきょう」と名付なづけ、その反対はんたいがわうみようとかんがえていた。これが海峡かいきょうでなくわんだとはっきりしたのは、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく北極ほっきょく探検たんけんチャールズ・フランシス・ホールによる1861ねん航海こうかいときである[5]

しかしわんまりとなり、8がつ18にちいちぎょうはバフィンとう上陸じょうりくする。ここでかれらはイヌイットらと遭遇そうぐうした。フロビッシャーはそのうち一人ひとり案内あんないじんとして周囲しゅうい探索たんさくし、案内あんないじん海岸かいがんおくかえさい部下ぶか5にんをボートにせておくした。部下ぶかには現地げんちじんにあまり接近せっきんしないよう指示しじしていたが、かれらは指示しじやぶり、おそらくイヌイットにつかまったとみられる。数日すうじつあいだ捜索そうさく部下ぶかつけられなかったフロビッシャーは、案内あんないじんであったイヌイットを捕虜ほりょとして行方ゆくえ不明ふめいになった部下ぶかかえさないかぎ解放かいほうしないとイヌイットたちをおどした。しかし結局けっきょく部下ぶかもどらなかった。イヌイットの伝説でんせつでは、行方ゆくえ不明ふめいになった部下ぶかたちはイヌイットの一員いちいんとなっており、すう年間ねんかんらしたが、手製てせいのボートをつくってバフィンとうようとしてんでしまったという。バフィンとうたフロビッシャーのるガブリエルごうは、10月9にちにロンドンに帰港きこうした。マイケルごう帰港きこう、ガブリエルごうもフロビッシャーも行方ゆくえ不明ふめいになったとされており、かれらの帰港きこうはロンドンを熱狂ねっきょうさせた。

かれらがいそいでかえったものなかには「くろいしのかけら」があった。金属きんぞく分析ぶんせきたちはこの鉱石こうせき興味きょうみしめさなかったが、フロビッシャーの相談そうだんけた4にん専門せんもんのうちの1人ひとりがこれにはきむふくまれているとおだててよろこばせた。フロビッシャーの支援しえんしゃであるマイケル・ロックやモスクワ会社かいしゃは、この相談そうだん結果けっかさらなる航海こうかい投資とうしあつめに利用りようした[6]

2度目どめ北西ほくせい航路こうろ航海こうかい

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よく1577ねん、1かい航海こうかいよりおおきな船団せんだん組織そしきされた。女王じょおう海軍かいぐん艦船かんせんエイドごう(Ayde)を新設しんせつされた「キャセイ会社かいしゃ」(Company of Cathay)にり、さらに1000ポンドを探検たんけん費用ひようとして支出ししゅつした。キャセイ会社かいしゃ女王じょおうからの勅許ちょっきょをうけた勅許ちょっきょ会社かいしゃで、東方とうほう以外いがいぜん方位ほういへの航海こうかい独占どくせんけんあたえられた。フロビッシャーは、この航海こうかい発見はっけんするすべての土地とち水面すいめん司令しれいかんとなることがみとめられていた。

バフィンとうフロビッシャーわんわんくちひだりレゾリューションとうがある。わん南岸なんがん半島はんとうは、エリザベス1せい名付なづけた地名ちめいにちなみ「メタ・インコグニータ半島はんとう」とばれている。そのみなみハドソン海峡かいきょう

1577ねん5月27にち、ガブリエルごうとマイケルごうくわえておおきさ200トンのエイドごうくわわった150にん艦隊かんたいは、ロンドンのブラックウォールを出航しゅっこうし、スコットランドからきたかい7がつ17にちにフロビッシャーわん湾口わんこう到達とうたつした。数日すうじつわん南岸なんがん一帯いったい女王じょおうのもとイングランドによる領有りょうゆう宣言せんげんされた。

そのすう週間しゅうかんいちぎょう鉱石こうせきあつめをしてごした。フロビッシャーがけた指示しじは、だいいち金鉱きんこうせきあつめること、鉱石こうせきつからなかった場合ばあいふね一部いちぶ本国ほんごくかえしてのこりのふね北西ほくせい航路こうろ探索たんさくることであり、最初さいしょ航海こうかい目的もくてきであった北西ほくせい航路こうろ発見はっけん後回あとまわしであった。イヌイットらとの交渉こうしょう軋轢あつれき前回ぜんかい以上いじょう発生はっせいし、かれらはイヌイットの男女だんじょ3にん人質ひとじちにとってそのままイングランドへと連行れんこうした。前年ぜんねん行方ゆくえ不明ふめいになった部下ぶか捜索そうさくおこなわれたが、成果せいかはなかった。

かれらは8がつ23にち出航しゅっこうしたが、途中とちゅうあらしにあい船団せんだんはばらばらになった。船足ふなあしはやいエイドごう9月23にちにウェールズ南部なんぶのミルフォード・ヘイブンに到着とうちゃくし、ガブリエルとマイケルはブリストルおよびワイトとう北部ほくぶのヤーマスへとおくれて到着とうちゃくした。

フロビッシャーはウィンザーじょう女王じょおう謁見えっけん感謝かんしゃ言葉ことばけた。かれらがかえった200トンもの「金鉱きんこうせき」を分析ぶんせきするのに、多大ただい準備じゅんび費用ひようがかけられた。その分析ぶんせきには時間じかんがかかり、そのあいだにこの鉱石こうせきをめぐって様々さまざまあらそいががった。せい技術ぎじゅつしゃはこの鉱石こうせき価値かちひくいものとだんじ、キャセイ会社かいしゃ出資しゅっししゃはそんなことはないはずだと反論はんろんし、3度目どめ航海こうかいくわだてた。

3度目どめ北西ほくせい航路こうろ航海こうかい

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鉱石こうせき正体しょうたいをめぐるあらそいにもかかわらず、しん発見はっけん土地とちとみ生産せいさんせいたいするエリザベス1せい出資しゅっししゃ信頼しんらいあつかった。エリザベス1せいはこの土地とちに「メタ・インコグニータ」(Meta Incognita)とづけ、100にん規模きぼ恒久こうきゅうてき植民しょくみん建設けんせつのために必要ひつよう人員じんいん資材しざいはこぶため、より巨大きょだい船団せんだん用意よういしようとした。フロビッシャーは再度さいど女王じょおういのちけ、女王じょおうくびからかねのネックレスをほどいてかれあたえた。

1578ねん6月3にち旗艦きかんエイドごうはじめとするけい15せき大船おおぶねだんプリマスて、英仏海峡えいふつかいきょうきたかった。今回こんかい目的もくてき北西ほくせい航路こうろではなく、完全かんぜんかね採集さいしゅう植民しょくみん建設けんせつであった。かれらは6がつ20日はつかにグリーンランド南部なんぶいた。フロビッシャーは最初さいしょ航海こうかいさいからこれをグリーンランドではなく大西洋たいせいよう地図ちずかれていた実在じつざいしないしまフリーズランド(Friesland)だとしんじており、これに「ウエスト・イングランド」と名付なづけて女王じょおうした領有りょうゆう主張しゅちょう上陸じょうりくした[3]

7がつ2にち、フロビッシャーわんくち陸地りくちえてきた。しかし危険きけんうみごおりくる天候てんこうのために上陸じょうりくできず、しかも100トンきゅうのバークせんデニスごう難破なんぱしてしまった。乗組のりくみいん救助きゅうじょされたが、入植にゅうしょく建設けんせつ資材しざいである材木ざいもくうしなわれたことがおおきな痛手いたでとなった。船団せんだんはそのままみなみへとながされた。かれらは西にしかって海峡かいきょうを60リーグもすすんだものの、いちぎょうはやがてこれが「フロビッシャー海峡かいきょう」ではなく、そのみなみにある「あいだちがった海峡かいきょう」(Mistaken strait)だとづいた。フロビッシャーはなおもこれがフロビッシャー海峡かいきょうだと主張しゅちょうしたが、最後さいごにはいやいや間違まちがいをみとめてかえした。この「間違まちがえた海峡かいきょう」が現在げんざいハドソン海峡かいきょうであり、フロビッシャーはのちにこれが北西ほくせい航路こうろにつながっているのではないかとべている。

さらに1せき意見いけん相違そういのうえイングランドへとかえってしまい、7がつまついちぎょうはようやくフロビッシャーわん南部なんぶのカウンテス・オブ・ウォリックわん(Countess of Warwick Sound)に集結しゅうけつしていかりろした。入植にゅうしょく建設けんせつはじまり、前回ぜんかい以上いじょうりょう鉱石こうせきあつめられた。しかし資材しざい不足ふそくから越冬えっとうよう建物たてもの十分じゅうぶんてられず、いちぎょうなか不満ふまん反対はんたいこえ渦巻うずまいた。結局けっきょく、フロビッシャーは恒久こうきゅう植民しょくみん建設けんせつをあきらめ、8がつまつに13せきふね鉱石こうせき満載まんさいして10がつはじめにイングランドに帰国きこくした。

この1000トンもの鉱石こうせきせいのために、ダートフォードに建設けんせつされた精錬せいれん工場こうじょうせいはじまり、かね作業さぎょうすくなくとも1583ねんまでつづいた[3]。しかし、結局けっきょくこの鉱石こうせきが、かけがかねていることから「愚者ぐしゃ黄金おうごん」(フールズ・ゴールド)とよばれる価値かち黄鉄鉱おうてっこうであることを出資しゅっししゃみとめざるをなくなった[7]鉱石こうせき道路どうろ舗装ほそうざい使つかわれ、キャセイ会社かいしゃ破綻はたんした。

海軍かいぐん生活せいかつ

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だい失敗しっぱいわった1578ねん航海こうかいのち出資しゅっししゃらからげをらったフロビッシャーは、1580ねんにイングランド海軍かいぐんのキャプテンとなり、アイルランドを支援しえんするスペインせんたたかった。フロビッシャーは1581ねん以後いごもちほうまわってアジアにかい、さらに北西ほくせい航路こうろ反対はんたいがわ太平洋たいへいようがわからまわってヨーロッパにかえるという4度目どめ航海こうかい計画けいかくてたが、結局けっきょく計画けいかくだけでわってしまった。しかしかれ当時とうじのイングランドでは北極ほっきょく探検たんけん権威けんいとみなされ、その探検たんけん記録きろくはスペインにも翻訳ほんやくされたほどだった。

1585ねん、イングランドとスペインは実質じっしつてき戦争せんそう状態じょうたいえい西にし戦争せんそう)に突入とつにゅうした。フロビッシャーはサー・フランシス・ドレーク西にしインド諸島しょとう遠征えんせい副官ふっかんとしてくわわった。25せきわたしかすめせんからなる船団せんだん西にしインド諸島しょとうのスペイン植民しょくみんらしまわり、要塞ようさいなどに打撃だげきあたえ、1586ねんなつ大量たいりょう財宝ざいほうとも帰国きこくした。1588ねんにはスペインのだい艦隊かんたいとのアルマダの海戦かいせん司令しれいかん一人ひとりとして参戦さんせんした。かれはイングランド最大さいだいガレオンせん・トライアンフごうってスペインのガレオンせん4せき撃沈げきちんし、この活躍かつやくナイト爵位しゃくいた。

1591ねんには故郷こきょうもどり、だい1だいウェントワース男爵だんしゃくトーマス・ウェントワースのむすめ、ドロシー・ウェントワースと2度目どめ結婚けっこんをしヨークシャーおよびノッティンガムシャーだい地主じぬしとなった。しかし田舎いなからしによろこびをいだせないフロビッシャーは翌年よくねんにはふたたえい西にし戦争せんそうとうじた。サー・ウォルター・ローリーによるスペイン海岸かいがん遠征えんせい船団せんだん参加さんかし、財宝ざいほうとも帰国きこくした。このたたかいでかれ片目かため事故じこうしなっている。

1594ねん11月、フランスブルターニュ半島はんとうにあるブレストをスペインぐんおそい、イングランドはフランスを支援しえんするためぐんおくった。フロビッシャーもブレスト攻略こうりゃく参加さんかしたが、ちかくのクロゾン半島はんとうにあるスペインぐんクロゾン要塞ようさいたいするおさむしろせん(Siege of Fort Crozon)で銃傷じゅうしょうけた。かれはプリマスに後送こうそうされたが、きず手当てあてがわるく、1594ねん11月15にち死亡しぼうした。遺体いたいのうちいたみやすい部分ぶぶんはプリマスのセント・アンドリューズ教会きょうかい11月22にち埋葬まいそうされ、そのほかはロンドンにはこばれ、セント・ジャイルズ=ウィズアウト=クリップルゲート埋葬まいそうされた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Canadian Encyclopedia, Historica Foundation, Toronto, (2011), http://www.thecanadianencyclopedia.com/index.cfm?PgNm=TCE&Params=A1ARTA0003077< Retrieved 31 Jan 2011> 
  2. ^ Maxine Snowden『北極ほっきょく南極なんきょく探検たんけん歴史れきし 極限きょくげん世界せかい体感たいかんする19のアクティビティ』丸善まるぜん出版しゅっぱん、2016ねん、17ぺーじISBN 978-4-621-30068-8 
  3. ^ a b c d e Biography at the Dictionary of Canadian Biography Online
  4. ^ Bumsted, John M, The Peoples of Canada: A Pre-Confederation History, Oxford University Press, p. 55  Rogozifiski, Jan, The Wordsworth: Dictionary of Pirates, Wordsworth Reference., p. 130 
  5. ^ "Frobisher Bay". Encyclopedia Americana. 1920.
  6. ^ Bumsted, J.M, The Peoples of Canada: A Pre-Confederation History, Oxford University Press. pg 56 
  7. ^ e.g. Bill Bryson: Made in America: an Informal History of the English Language in the United States, Black Swan, 1998, ISBN 0-552-99805-2, p.11.

外部がいぶリンク

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