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ミハウ・ロラ=ジミェルスキ
ニサ・ウジツカ川 がわ に立 た つ3将軍 しょうぐん 。(右 みぎ から)カロル・スヴェルチェフスキ 、マリアン・スピハルスキ 、ミハウ・ロラ=ジミェルスキ。
ポツダム会談 かいだん におけるロラ=ジミェルスキ元帥 げんすい (1945年 ねん 7月 がつ 24日 にち )ミハウ・ロラ=ジミェルスキ (ポーランド語 ご : Michał Rola-Żymierski , 1890年 ねん 9月4日 にち - 1989年 ねん 10月15日 にち )は、ポーランド の共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ ・軍人 ぐんじん 。ポーランド元帥 げんすい (1945年 ねん )。
クラクフ 生 う まれ。誕生 たんじょう 時 じ の名 な は「ミハウ・ジミェルスキ」。1910年 ねん 、ヤギェウォ大学 だいがく 法学部 ほうがくぶ において勉学 べんがく を開始 かいし 。1914年 ねん 、ポーランド軍団 ぐんだん に入団 にゅうだん し、オーストリア=ハンガリー の東部 とうぶ 戦線 せんせん における最 さい 重要 じゅうよう な戦場 せんじょう の多 おお くで、卓越 たくえつ した戦 たたか いをした。1917年 ねん の宣誓 せんせい 危機 きき 後 ご 、彼 かれ はオーストリア=ハンガリー軍 ぐん を退役 たいえき し、クラクフに戻 もど った。ここで彼 かれ は法学 ほうがく を修得 しゅうとく し、クラクフ貿易 ぼうえき 学校 がっこう を卒業 そつぎょう した。
1918年 ねん 、彼 かれ は再建 さいけん されたポーランド軍 ぐん に入隊 にゅうたい し、ポーランド・ソビエト戦争 せんそう に参加 さんか した。彼 かれ は初 はじ め、第 だい 2歩兵 ほへい 連隊 れんたい を指揮 しき し、その後 ご 、有名 ゆうめい なポーランド軍団 ぐんだん 第 だい 2歩兵 ほへい 師団 しだん の師団 しだん 長 ちょう に任命 にんめい された。戦後 せんご 、彼 かれ はパリ に派遣 はけん され、ここでサン・シール陸軍 りくぐん 士官 しかん 学校 がっこう を卒業 そつぎょう した。帰国 きこく 後 ご 、彼 かれ は将官 しょうかん に任 にん ぜられた。ジミェルスキは、ワルシャワ において、ポーランド陸軍 りくぐん 軍政 ぐんせい 部 ぶ 副 ふく 部長 ぶちょう を務 つと めた。1926年 ねん クーデター時 じ 、彼 かれ は敗北 はいぼく した政府 せいふ 側 がわ で戦 たたか った。1927年 ねん 、彼 かれ は議論 ぎろん ある贈賄 ぞうわい ・着服 ちゃくふく 容疑 ようぎ で軍法 ぐんぽう 会議 かいぎ にかけられ、有罪 ゆうざい とされた。一 いち 兵卒 へいそつ に格下 かくさ げされ、軍 ぐん から追放 ついほう され、そして禁固 きんこ 5年 ねん の判決 はんけつ を下 くだ された。
1931年 ねん の釈放 しゃくほう 後 ご 、彼 かれ はソビエト情報 じょうほう 機関 きかん に勧誘 かんゆう され、ポーランド共産党 きょうさんとう (KPP) の秘密 ひみつ 党員 とういん となった。1938年 ねん のスターリン によるポーランド共産党 きょうさんとう の解散 かいさん 命令 めいれい の後 のち 、ジミェルスキはフランス に亡命 ぼうめい した。しかしながら、間 ま もなく第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ し、彼 かれ はポーランドに帰国 きこく した。1943年 ねん 、彼 かれ は人民 じんみん 防衛 ぼうえい 隊 たい (Gwardia Ludowa , PL) の副 ふく 司令 しれい 官 かん となり、その後 ご (1944年 ねん より)人民 じんみん 軍 ぐん (Armia Ludowa, AL) の司令 しれい 官 かん となった。こうして、彼 かれ は共産 きょうさん 系 けい のルプリン委員 いいん 会 かい により、元 もと の将官 しょうかん 位 い に復 ふく され、そしてソ連 それん 側 がわ で戦 たたか うポーランド軍 ぐん (東部 とうぶ ポーランド軍 ぐん )の総 そう 司令 しれい 官 かん となった。1944年 ねん 7月 がつ -45年 ねん 1月 がつ 、ルプリン委員 いいん 会 かい 国防 こくぼう 部長 ぶちょう 。1945年 ねん 1月 がつ -7月 がつ 、ポーランド共和 きょうわ 国 こく 臨時 りんじ 政府 せいふ 国防 こくぼう 相 しょう 。1945年 ねん 5月 がつ 3日 にち 、スターリンの命令 めいれい により、彼 かれ はポーランド元帥 げんすい 位 くらい に任 にん ぜられた。
1946年 ねん より、ジミェルスキは国家 こっか 安全 あんぜん 保障 ほしょう 委員 いいん 会 かい (Państwowa Komisja Bezpieczeństwa ) 議長 ぎちょう を務 つと めた。彼 かれ は、かつてのレジスタンス闘士 とうし 、ポーランド第 だい 2軍団 ぐんだん 団 だん 員 いん 、非 ひ 共産 きょうさん 系 けい 政治 せいじ 家 か に対 たい する迫害 はくがい に反対 はんたい した。同様 どうよう に、悪名 あくめい の高 たか いヴィスワ作戦 さくせん における、ポーランド市民 しみん に対 たい する軍 ぐん の投入 とうにゅう にも反対 はんたい した。1949まで、彼 かれ は国防 こくぼう 相 しょう の地位 ちい に留 とど まっていた。この年 とし 、彼 かれ はポーランド生 う まれのソ連邦 それんぽう 元帥 げんすい 、コンスタンティ・ロコソフスキ と交代 こうたい した。ロコソフスキはポーランド元帥 げんすい に任 にん ぜられ、1956年 ねん まで国防 こくぼう 相 しょう の地位 ちい にあった。ボレスワフ・ビェルトによりポーランド国内 こくない で組織 そしき されたスターリン主義 しゅぎ 的 てき 粛清 しゅくせい の影響 えいきょう で、1952年 ねん ジミェルスキは逮捕 たいほ された。しかしながら、1955年 ねん に何 なん の罪 ざい にも問 と われずに釈放 しゃくほう された。1956年 ねん 、彼 かれ はポーランド政府 せいふ により名誉 めいよ 回復 かいふく された。
ポーランドにおけるスターリニズムの終結 しゅうけつ 後 ご 、彼 かれ はポーランド国立 こくりつ 銀行 ぎんこう 総裁 そうさい (1956年 ねん -1967年 ねん )、自由 じゆう と民主 みんしゅ 主義 しゅぎ の闘士 とうし 協会 きょうかい (ZBoWiD 、ポーランド退役 たいえき 軍人 ぐんじん の組織 そしき )名誉 めいよ 会長 かいちょう 、等 ひとし を含 ふく め、様々 さまざま な地位 ちい に就 つ いた。彼 かれ はまた、ポーランド統一 とういつ 労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう の党員 とういん であり、ヤルゼルスキ が導入 どうにゅう した戒厳 かいげん 令 れい 後 ご 、ジミェルスキは「国民 こくみん 統一 とういつ 戦線 せんせん 」(Front Jedności Narodu ) 中央 ちゅうおう 委員 いいん となった。
1989年 ねん 10月 がつ 、彼 かれ はワルシャワで死去 しきょ した。彼 かれ は当時 とうじ 、ポーランド元帥 げんすい の階級 かいきゅう を持 も つ最後 さいご の軍人 ぐんじん であった。
ヴィルトゥティ・ミリターリ大 だい 十字 じゅうじ 勲章 くんしょう
ヴィルトゥティ・ミリターリ銀 ぎん 十 じゅう 字 じ 勲章 くんしょう
ポーランド復興 ふっこう 勲章 くんしょう 大 だい 十 じゅう 字 じ 章 あきら
ポーランド復興 ふっこう 勲章 くんしょう コマンド十 じゅう 字 じ 章 あきら
人民 じんみん ポーランド建国 けんこく 勲章 くんしょう (1970年 ねん )
一等 いっとう グリュンワルド十 じゅう 字 じ 勲章 くんしょう
一等 いっとう 労働 ろうどう 旗 き 勲章 くんしょう
勇敢 ゆうかん 十 じゅう 字 じ 章 あきら (4回 かい )
パルチザン十 じゅう 字 じ 章 あきら (1946年 ねん 6月 がつ 12日 にち )
チーフコマンダー勲功 くんこう 章 あきら (ドワイト・アイゼンハワー 将軍 しょうぐん より、フランクフルト、1945年 ねん )
レジオンドヌール勲章 くんしょう (フランス)
勝利 しょうり 勲章 くんしょう (ソ連 それん 、1945年 ねん )
レーニン勲章 くんしょう (ソ連 それん )
人民 じんみん 友好 ゆうこう 勲章 くんしょう (ソ連 それん 、1973年 ねん )
一級 いっきゅう 白 しろ 獅子 じし 勲章 くんしょう (チェコスロバキア )
ユーゴスラビア人民 じんみん 英雄 えいゆう 勲章 くんしょう
クラクフ 、ルブリン 、ヘルムノ、その他 た 17都市 とし の名誉 めいよ 市民 しみん
先代 せんだい -
ポーランド国防 こくぼう 相 しょう 1947年 ねん 2月 がつ - 1949年 ねん 11月6日 にち
次代 じだい コンスタンティ・ロコソフスキ
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