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メアリー・カリロ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
メアリー・カリロ
Mary Carillo
基本きほん情報じょうほう
フルネーム Mary Jean Carillo
国籍こくせき アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
出身しゅっしん どう・ニューヨーククイーンズ
生年月日せいねんがっぴ (1957-03-09) 1957ねん3月9にち(67さい
きて ひだり
ツアー経歴けいれき
デビューねん 1977ねん
引退いんたいねん 1980ねん
ツアー通算つうさん 0しょう
シングルス 0しょう
ダブルス 0しょう
4だい大会たいかい最高さいこう成績せいせき・シングルス
ぜんふつ 2回戦かいせん(1977)
ちょんすぐる 3回戦かいせん(1979)
全米ぜんべい 1回戦かいせん(1977・79)
4だい大会たいかい最高さいこう成績せいせき・ダブルス
ぜんふつ ベスト8(1977)
ちょんすぐる 3回戦かいせん(1977)
全米ぜんべい ベスト8(1977)
4だい大会たいかい最高さいこう成績せいせき混合こんごうダブルス
ぜんふつ 優勝ゆうしょう(1977)
ちょんすぐる ベスト8(1977)
優勝ゆうしょう回数かいすう 1(ほとけ1)

メアリー・カリロMary Carillo, 1957ねん3月15にち - )は、アメリカニューヨーククイーンズ出身しゅっしんもと女子じょしプロテニス選手せんしゅ1977ねんぜんふつオープン混合こんごうダブルス部門ぶもんで、ジョン・マッケンローとペアをんで優勝ゆうしょうした選手せんしゅである。左利ひだりきき。フルネームは Mary Jean Carillo(メアリー・ジーン・カリロ)という。

来歴らいれき

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メアリー・カリロとジョン・マッケンローは、幼少ようしょう時代じだいからテニスのあそ友達ともだちだった。カリロは成長せいちょうに、往年おうねんオーストラリアめい選手せんしゅだったハリー・ホップマンのテニス・スクールでまなび、ビタス・ゲルレイティスいもうとのルタからもおおきな刺激しげきけた。1977ねんにカリロはプロテニス選手せんしゅになり、そのとしぜんふつオープン混合こんごうダブルスで、おさななじみのマッケンローとペアをんだ。2人ふたり決勝けっしょうイワン・モリナコロンビア)&フロレンツァ・ミハイルーマニアぐみを 7-6, 6-3 でやぶり、4だい大会たいかいタイトルをここで獲得かくとくした。その、カリロはウィンブルドン混合こんごうダブルスでマッケンローとんでベスト8にはいり、全米ぜんべいオープンでは女子じょしダブルスのベスト8にはいった。ところが、カリロはひざ故障こしょうのため、わずか3ねん1980ねんにプロテニスからの引退いんたい余儀よぎなくされた。(パートナーのマッケンローは、2ねん1979ねん全米ぜんべいオープンで4だい大会たいかい男子だんしシングルスはつ優勝ゆうしょうかざり、以後いご男子だんしシングルス7しょう男子だんしダブルス9しょう獲得かくとくした。)

カリロはみじか選手せんしゅ生活せいかつからの引退いんたいすぐれたスポーツ・キャスターとして名声めいせいきずき、テレビ解説かいせつしゃとしてすうおおくのしょう受賞じゅしょうしてきた。1983ねんに、カリロはマルチナ・ナブラチロワはじめての自伝じでんてき著書ちょしょ『テニス・わたし人生じんせい』“Tennis My Way”の共著きょうちょしゃになった。彼女かのじょ代表だいひょうさくなかには、ビリー・ジーン・キング夫人ふじん半生はんせいえがいた『ビリー・ジーン・キング:開拓かいたくしゃ肖像しょうぞう』(Billie Jean King: Portrait of a Pioneer)というドキュメンタリー・フィルムのプロデュースなどがある。最近さいきんNBCテレビで2006ねんトリノオリンピックのスケート・ショー“Olympic Ice”(オリンピック・アイス)の製作せいさく司会しかいつとめた。

外部がいぶリンク

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