アランチャ・サンチェス・ビカリオ

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アランチャ・サンチェス・ビカリオ
Arantxa Sánchez Vicario
基本きほん情報じょうほう
フルネーム Aránzazu Isabel María Sánchez Vicario
愛称あいしょう アランチャ
国籍こくせき スペインの旗 スペイン
出身しゅっしん バルセロナ
生年月日せいねんがっぴ (1971-12-18) 1971ねん12月18にち(52さい
身長しんちょう 169cm
体重たいじゅう 56kg
きて みぎ
バックハンド りょう手打てう
殿堂でんどう 2007ねん
ツアー経歴けいれき
デビューねん 1985ねん
引退いんたいねん 2002ねん
ツアー通算つうさん 98しょう
シングルス 29しょう
ダブルス 69しょう
生涯しょうがい通算つうさん成績せいせき 1435しょう519はい
シングルス 759しょう295はい
ダブルス 676しょう224はい
生涯しょうがい獲得かくとく賞金しょうきん $16,942,640
4だい大会たいかい最高さいこう成績せいせき・シングルス
ちょんつよし じゅん優勝ゆうしょう(1994・95)
ぜんふつ 優勝ゆうしょう(1989・94・98)
ちょんすぐる じゅん優勝ゆうしょう(1995・96)
全米ぜんべい 優勝ゆうしょう(1994)
優勝ゆうしょう回数かいすう 4(ぜんほとけ3・全米ぜんべい1)
4だい大会たいかい最高さいこう成績せいせき・ダブルス
ちょんつよし 優勝ゆうしょう(1992・95・96)
ぜんふつ じゅん優勝ゆうしょう(1992・95)
ちょんすぐる 優勝ゆうしょう(1995)
全米ぜんべい 優勝ゆうしょう(1993・94)
優勝ゆうしょう回数かいすう 6(ごう3・えい1・まい2)
4だい大会たいかい最高さいこう成績せいせき混合こんごうダブルス
ちょんつよし 優勝ゆうしょう(1993)
ぜんふつ 優勝ゆうしょう(1990・92)
全米ぜんべい 優勝ゆうしょう(2000)
優勝ゆうしょう回数かいすう 4(ごう1・ふつ2・まい1)
くにべつ対抗たいこうせん最高さいこう成績せいせき
BJKはい 優勝ゆうしょう(1991・93-95・98)
ホップマンはい 優勝ゆうしょう(1990・2002)
キャリア自己じこ最高さいこうランキング
シングルス 1(1995ねん2がつ6にち
ダブルス 1(1992ねん10がつ19にち
獲得かくとくメダル
女子じょし テニス
オリンピック
どう 1992 バルセロナ シングルス
ぎん 1996 アトランタ シングルス
ぎん 1992 バルセロナ ダブルス
どう 1996 アトランタ ダブルス

アランチャ・サンチェス・ビカリオ(Arantxa Sánchez Vicario、1971ねん12月18にち - )は、スペインバルセロナ出身しゅっしんもと女子じょしプロテニス選手せんしゅ

ぜんふつオープン3しょう全米ぜんべいオープン1しょうげ、4だい大会たいかい「4しょう」を記録きろくした。

2人ふたりあにエミリオ・サンチェスハビエル・サンチェスもプロテニス選手せんしゅで、アランチャは4にん兄妹きょうだいすえである。1さい年下とししたコンチタ・マルティネスとともに、長年ながねんにわたりスペインの女子じょしテニスかいをリードしてきた2強豪きょうごうであった。

彼女かのじょ選手せんしゅ登録とうろくめいせい本名ほんみょうの「アランチャ・サンチェス・ビカリオ」にしたが、日本語にほんごメディアの報道ほうどうでは簡略かんりゃくがたの「アランチャ・サンチェス」で記載きさいされることがおおかった。

来歴らいれき[編集へんしゅう]

アランチャ・サンチェス・ビカリオはテニス一家いっかの4にん兄妹きょうだいすえとして、バルセロナまれた。長兄ちょうけいのエミリオがマドリード次兄じけいハビエルはパンプローナまれたため、サンチェス一家かずや子供こどもたちは移転いてんおお幼少ようしょう時代じだいおくったことになる。1985ねんに13さいでプロ転向てんこう1989ねんぜんふつオープンにて、「17さい5ヶ月かげつ」で大会たいかいはつ優勝ゆうしょう達成たっせいした。決勝けっしょうせん当時とうじグランドスラム大会たいかい5連勝れんしょうちゅうだった女王じょおうシュテフィ・グラフを 7-6, 3-6, 7-5 のフルセットでやぶだい金星きんぼしげた。それ以後いご、サンチェスはガブリエラ・サバティーニモニカ・セレシュならんで「打倒だとうグラフ」にもっとちか選手せんしゅ位置いちづけられるようになる。2ねん1991ねんおなじくぜんふつオープンで2度目どめ決勝けっしょう進出しんしゅつたしたが、このとき当時とうじ17さいのセレシュにストレートで完敗かんぱいした。1992ねん全米ぜんべいオープンでもはじめての決勝けっしょう進出しんしゅつめたが、この決勝けっしょうでもセレシュにやぶれた。

1994ねんからサンチェスはキャリアの黄金おうごんはいり、苦手にがてウィンブルドンのぞく3つの4だい大会たいかい決勝けっしょうのこった。はつ進出しんしゅつ全豪ぜんごうオープン決勝けっしょうでこそグラフに完敗かんぱいしたが、3ねんぶり3度目どめ進出しんしゅつとなったぜんふつオープン決勝けっしょう地元じもと期待きたいマリー・ピエルスを 6-4, 6-4 でやぶり、5ねんぶり2度目どめ優勝ゆうしょうかざった。全米ぜんべいオープンでも2ねんぶり2度目どめ決勝けっしょう進出しんしゅつで、グラフを 1-6, 7-6, 6-4 の逆転ぎゃくてんやぶり、どう大会たいかい宿願しゅくがんはつ優勝ゆうしょうたす。こうしてサンチェスは4だい大会たいかい年間ねんかん2かん獲得かくとくし、通算つうさん3しょうげた。

1995ねん2がつ、シングルスとダブルスの両方りょうほう世界せかいランキング1になる。ところが、このとしから4だい大会たいかいじゅん優勝ゆうしょう惜敗せきはいつづく。全豪ぜんごうオープン決勝けっしょうではピエルスにやぶれて2ねん連続れんぞくじゅん優勝ゆうしょうになり、大会たいかい連覇れんぱ目指めざしたぜんふつオープンでも決勝けっしょうでグラフにやぶれてしまう。この1995ねんぜんふつオープンの準決勝じゅんけっしょうで、サンチェスは日本人にっぽんじん女子じょし選手せんしゅとしてはつぜんふつベスト4進出しんしゅつ達成たっせいした伊達だて公子きみこを 7-5, 6-3 のストレートで退しりぞけている(この大会たいかい日本にっぽん女子じょしテニスが最盛さいせいむかえた出来事できごととなり、4回戦かいせんには伊達だてふくめて杉山すぎやまあい長塚ながつか京子きょうこの3にん日本人にっぽんじん女子じょし選手せんしゅのこった)。同年どうねんウィンブルドンはつ決勝けっしょう進出しんしゅつたす。大会たいかい前年ぜんねん優勝ゆうしょうしゃであった同僚どうりょうのマルティネスを準決勝じゅんけっしょうやぶったが、はじめての決勝けっしょうでまたもやグラフとのだい接戦せっせんる。とりわけだい3セット・だい11ゲームはデュースを13かいかえし、じつに20ふんようしたながいゲームとなった。これをグラフにられたサンチェスは、最後さいごだい12ゲームであっさりと自滅じめつしてウィンブルドンはつ優勝ゆうしょうのがした。

1996ねんもサンチェスはぜんふつオープンウィンブルドン決勝けっしょうでグラフに連敗れんぱいし、りょう大会たいかいで2ねん連続れんぞくじゅん優勝ゆうしょうわる。このとしぜんふつオープン決勝けっしょうせんは、大会たいかい史上しじょう最長さいちょうの「3あいだ4ふん」をようする死闘しとうとなった。この2連戦れんせんせいしたグラフは、4だい大会たいかいで「19しょう」と「20しょう」の記念きねん樹立じゅりつし、単独たんどく歴代れきだい2躍進やくしんする。アトランタ五輪ごりん決勝けっしょうでは地元じもとの20さいリンゼイ・ダベンポートやぶれてぎんメダルにわる。このアトランタ五輪ごりんでは準々じゅんじゅん決勝けっしょう伊達だて公子きみこ対戦たいせんし、サンチェスが 4-6, 6-3, 10-8 で伊達だて挑戦ちょうせんった。全米ぜんべいオープン前哨ぜんしょうせんトーシバ・クラシック」の決勝けっしょうが、サンチェスと伊達だて最後さいご対戦たいせんとなった。10度目どめ対戦たいせんとなったこの試合しあいでは伊達だてが 3-6, 6-3, 6-0 でサンチェスに快勝かいしょうし、最後さいごWTAツアー優勝ゆうしょう「7しょう」を記録きろくする。両者りょうしゃ対戦たいせん成績せいせきはサンチェスの「8しょう2はい」でわった。これら一連いちれんじゅん優勝ゆうしょう落胆らくたんしたのか、最後さいご全米ぜんべいオープンでは4回戦かいせん当時とうじ15さいマルチナ・ヒンギスやぶれてしまう。これ以後いご、サンチェスはわかきヒンギスにぶんわるくなり、テニスの成績せいせき下降かこうせんをたどりはじめる。

1998ねんぜんふつオープンで4ねんぶり3度目どめ優勝ゆうしょう。2ねんぶり6度目どめ決勝けっしょうせんではセレシュを 7-6, 0-6, 6-2 のフルセットでやぶった。セレシュが4だい大会たいかい決勝けっしょうせんでグラフ以外いがい選手せんしゅやぶれたのは、これが唯一ゆいいつのケースである。結果けっかてきにこの1998ねんぜんふつオープン決勝けっしょうが、サンチェスとセレシュのりょう選手せんしゅにとって最後さいごの4だい大会たいかい女子じょしシングルス決勝けっしょう進出しんしゅつとなった。

サンチェスとマルティネスのコンビは、女子じょしこくべつ対抗たいこうせんフェドカップにて無敵むてきつよさを発揮はっきした。1991ねん1993ねん - 1995ねんの3連覇れんぱ1998ねんの5優勝ゆうしょうかざっている。3連覇れんぱ達成たっせいした時期じきは、2人ふたり選手せんしゅ生活せいかつ全盛期ぜんせいきでもあった。最後さいご1998ねんには決勝けっしょうスイスジュネーヴき、てきでヒンギスとパティ・シュナイダーのコンビをやぶって優勝ゆうしょうした。

サンチェスは2002ねん11月、フェドカップ決勝けっしょうスロバキアせん最後さいごにシングルスから引退いんたいした。最後さいご試合しあいは、だい4試合しあいのシングルスでヤネッテ・フサロワに 0-6, 2-6 でやぶれた。最後さいごの4だい大会たいかい出場しゅつじょうとなった同年どうねん全米ぜんべいオープンでは、1回戦かいせんフランス予選よせん勝者しょうしゃマリオン・バルトリに 3-6, 1-6 でやぶれている。2004ねんにダブルスで1シーズンをこなし、アテネ五輪ごりん女子じょしダブルスにも出場しゅつじょうした。

2007ねん7がつ14にち、アランチャ・サンチェス・ビカリオはスペインの女子じょし選手せんしゅとして史上しじょうはつ国際こくさいテニス殿堂でんどうりをたした。

スペインのテニスかいは、男子だんし綿々めんめん強豪きょうごう選手せんしゅ輩出はいしゅつしてきた歴史れきしほこるが、女子じょし男子だんしくらべると選手せんしゅそううすい。サンチェスとマルティネスが“スペイン女子じょし2強豪きょうごう”として活躍かつやくした時期じきは、まさしく当地とうち黄金おうごんであった。

プレースタイル[編集へんしゅう]

サンチェスはどんなたまにもねばづよらいつく強靭きょうじんなフットワークを最大さいだいあじにしたベースライン・プレーヤーで、クレーコート(赤土あかつち)のおおいスペインでそだった選手せんしゅらしく、ぜんふつオープンをもっと得意とくいにした。WTAツアーでシングルス29しょう、ダブルスで69しょうげ、シングルス・ダブルスの両方りょうほう世界せかいランキング1になった数少かずすくない選手せんしゅのひとりである。

4だい大会たいかい優勝ゆうしょう[編集へんしゅう]

  • 全豪ぜんごうオープン 女子じょしダブルス:3しょう(1992ねん・1995ねん・1996ねん)/混合こんごうダブルス:1しょう(1993ねん) [女子じょしシングルスじゅん優勝ゆうしょう2:1994ねん&1995ねん
  • ぜんふつオープン 女子じょしシングルス:3しょう(1989ねん・1994ねん・1998ねん)/混合こんごうダブルス:2しょう(1990ねん・1992ねん
  • ウィンブルドン 女子じょしダブルス:1しょう(1995ねん) [女子じょしシングルスじゅん優勝ゆうしょう2:1995ねん&1996ねん
  • 全米ぜんべいオープン 女子じょしシングルス:1しょう(1994ねん)/女子じょしダブルス:2しょう(1993ねん&1994ねん)/混合こんごうダブルス:1しょう(2000ねん


とし 大会たいかい 対戦たいせん相手あいて 試合しあい結果けっか
1989ねん ぜんふつオープン ドイツの旗 シュテフィ・グラフ 7-6, 3-6, 7-5
1994ねん ぜんふつオープン フランスの旗 マリー・ピエルス 6-4, 6-4
1994ねん 全米ぜんべいオープン ドイツの旗 シュテフィ・グラフ 1-6, 7-6, 6-4
1998ねん ぜんふつオープン アメリカ合衆国の旗 モニカ・セレシュ 7-6, 0-6, 6-2

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]