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モレネ

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中立ちゅうりつモレネ
Moresnet Neutre
Neutral-Moresnet
Neutraal Moresnet
フランス復古王政 1816ねん - 1920ねん ベルギー
モレネの国旗 モレネの国章
国旗こっきくにあきら
国歌こっか: The Amikejo-March
モレネの位置
公用こうよう フランス語ふらんすご
ドイツ
オランダ
エスペラント(1908ねん以降いこう
首都しゅと ケルミス
市長しちょう(Mayor)
1817ねん - 1859ねん Arnold de Lasaulx
面積めんせき
1900ねん3.5km²
人口じんこう
1900ねん3,000にん
1914ねん3,500にん
変遷へんせん
アーヘン協定きょうてい 1816ねん6がつ26にち
ヴェルサイユ条約じょうやく1919ねん6がつ28にち
ベルギー編入へんにゅう1920ねん1がつ10日とおか
現在げんざいベルギーの旗 ベルギー
ベルギー歴史れきし
ベルギーの国章
この記事きじシリーズ一部いちぶです。

ベルギー ポータル

中立ちゅうりつモレネ(ちゅうりつモレネ)は、ドイツベルギー国境こっきょう1816ねんから1920ねんにかけて存続そんぞくした共同きょうどう主権しゅけん地域ちいきである。面積めんせき3.5平方へいほうキロメートルちいさな領域りょういきで、アーヘン南西なんせい7キロメートルに位置いちした。

モレネが存続そんぞくしたのは、ドイツ帝国ていこく当初とうしょプロイセン王国おうこく)とベルギー当初とうしょオランダ)が、たがいに他方たほう主張しゅちょうする領有りょうゆうけんみとめなかったことによる。この地帯ちたい両国りょうこくひとしく統治とうちけんをもち、中立ちゅうりつ地帯ちたいとされた。

歴史れきし

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中立ちゅうりつ地帯ちたい設定せってい

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ナポレオン戦争せんそう終結しゅうけつ1814ねんから1815ねんにかけて開催かいさいされたウィーン会議かいぎは、ヨーロッパの秩序ちつじょ回復かいふく諸国しょこくあいだ勢力せいりょく均衡きんこうかかげて領土りょうどさい配分はいぶんおこなった。

ウィーン会議かいぎあらたに設立せつりつされたネーデルラント連合れんごう王国おうこく(オランダ)とプロイセン王国おうこくとの国境こっきょうせんも、このとき画定かくていされることになった。両者りょうしゃはほぼ従来じゅうらい境界きょうかいせん踏襲とうしゅうすることで合意ごういしたが、アーヘンの南西なんせい位置いちするモレネ一帯いったいをめぐってあらそいがしょうじた。この地域ちいきには、亜鉛あえん真鍮しんちゅう加工かこうのために必要ひつようひし亜鉛あえんこう鉱山こうざんがあったためである(当時とうじのヨーロッパで亜鉛あえん生産せいさんできたのは、モレネのほかにはイギリスブリストルだけであった)。フランス語ふらんすごでヴィエイユ・モンターニュ(Vieille Montagne)、ドイツでアルテンベルク(Altenberg)とばれたこの鉱山こうざん意味いみはともに「ふるやま」)は、もともとのモレネむら (fr:Moresnetひがし位置いちした。

  (3) 中立ちゅうりつモレネ
a: オランダ・ベルギー国境こっきょう(1830ねん
b: リエージュ・アーヘン街道かいどう
c: ベルギー・ドイツ国境こっきょう(1919ねん

1815ねん12がつ以降いこう、プロイセンとオランダの代表だいひょうアーヘン近郊きんこう会合かいごうおこない、1816ねん6月26にちにモレネを3分割ぶんかつすることで合意ごういたっした。

  • 東部とうぶ - プロイセンに帰属きぞく。「プロイセンのモレネ」プロイシッシュ・モーレスネットむらPreußisch-Moresnet)とばれた。現在げんざいはノイ・モーレスネット (fr:Neu-Moresnet (de:Neu-Moresnetあらため、ケルミス一部いちぶとなっている。
  • 中部ちゅうぶ亜鉛あえん鉱山こうざんとそれに附属ふぞくする集落しゅうらく現在げんざいケルミス)をふくむ。将来しょうらいあらためて合意ごういむすばれるまで当面とうめんのあいだ両国りょうこく共同きょうどう統治とうち区域くいきとした。双方そうほう軍隊ぐんたいをこの区域くいき進駐しんちゅうさせることはきんじられ、中立ちゅうりつ地帯ちたいにとして共同きょうどう管理かんりおこなわれることとなった。
  • 西部せいぶ - オランダに帰属きぞく。もともとのモレネむらはここにふくまれる。モレネむらは、現在げんざいプロンビエール (Plombières一部いちぶとなっている。

共同きょうどう統治とうち

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ファールゼルベルクにある、現在げんざいさんこく国境こっきょう交差点こうさてん中立ちゅうりつモレネの国境こっきょうせんもここを頂点ちょうてんとしていた。

境界きょうかいせき正式せいしき設置せっちは、1818ねん9がつ23にちおこなわれた。中立ちゅうりつモレネの領域りょういきは、アーヘンとリエージュとをむす幹線かんせん道路どうろ底辺ていへんとし、きたファールゼルベルク頂点ちょうてんとするするど三角さんかくのようなかたちとなった。亜鉛あえん鉱山こうざん鉱山こうざん集落しゅうらくは、幹線かんせん道路どうろのすぐ北側きたがわにあった。

1830ねんベルギー独立どくりつ革命かくめいによって、ベルギーがオランダから独立どくりつした。中立ちゅうりつモレネ西側にしがわのオランダりょう部分ぶぶんはベルギーの領土りょうどとなり、中立ちゅうりつモレネにおけるオランダの役割やくわりもベルギーがいだ。しかし、オランダは公的こうてきにはモレネの統治とうちけんゆずらなかった。

1859ねんには評議ひょうぎかい設置せっちされ、大幅おおはば自治じちけんみとめられた。

廃鉱はいこう模索もさく

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1885ねん亜鉛あえん鉱山こうざん廃鉱はいこうになると、「中立ちゅうりつモレネ」をつづ存続そんぞくさせるかについて議論ぎろんこった。いくつかのあんは、この領域りょういきをより独立どくりつした国家こっか主体しゅたいとなることを提起ていきしていた。

1886ねんに、鉱山こうざん病院びょういん主任しゅにん医師いしであり、切手きって収集しゅうしゅうでもあったウィルヘルム・モリー博士はかせ(1838ねん - 1919ねん)は、自前じまえ郵便ゆうびん機関きかんつくり、切手きって発行はっこうすることを提案ていあんしている。しかし、この企画きかくはベルギーの干渉かんしょうによって断念だんねん余儀よぎなくされた。

1903ねん8がつには中立ちゅうりつモレネにカジノ開設かいせつされた。これは、ベルギーがカジノを禁止きんししたのをんだものであったが、中立ちゅうりつモレネの地元じもと住民じゅうみん賭博とばくくわわったり、20にん以上いじょう同時どうじあつまったりすることが禁止きんしされるなど、きびしい制限せいげんくわえられた。しかしこの企画きかくも、プロイセンおう賭博とばくおこなうならばベルギーと領土りょうど分割ぶんかつをするとしたことで挫折ざせつさせられた。またこのころ、中立ちゅうりつモレネではジン製造せいぞうのため3つの蒸留じょうりゅうしょつくられている。

エスペラント国家こっか提案ていあん

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モリー博士はかせ提案ていあんから100ねんにあたる2008ねん、ケルミスでひらかれたザメンホフまつり

1908ねん、モリー博士はかせは、中立ちゅうりつモレネをエスペラント公用こうようとした国家こっかとし、国名こくめいをアミケーヨ(Amikejo:友情ゆうじょう)にしようと提案ていあんした。実現じつげんすれば世界せかいはつのエスペラント国家こっかである。エスペラントによる国歌こっか提唱ていしょうされた。住人じゅうにんなかにはエスペラントを習得しゅうとくするひともあり、1908ねん8がつ13にち、ケルミスでひらかれた集会しゅうかいでは「アミケーヨ」建国けんこくのアイデアが支持しじされた。このとしドレスデンひらかれていた世界せかいエスペラント大会たいかいでは、中立ちゅうりつモレネを世界せかいのエスペラント・コミュニティの首都しゅととまで宣言せんげんした。

しかし、このちいさな土地とちのこされた時間じかんすくなかった。プロイセン(ドイツ帝国ていこく一部いちぶ)もベルギーもこの土地とちたいする領有りょうゆうけん主張しゅちょうげなかった。とくに1900ねん前後ぜんこうのドイツは領土りょうど問題もんだいかんして積極せっきょくてき姿勢しせいしめしていた。プロイセンは領土りょうど問題もんだい解決かいけつのためにサボタージュや行政ぎょうせいプロセスの妨害ぼうがいといった手段しゅだんをとり、しばしば非難ひなんまととなった。

だいいち世界せかい大戦たいせん終焉しゅうえん

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だいいち世界せかい大戦たいせんによって、このの「中立ちゅうりつ」は終焉しゅうえんむかえた。

1914ねん8がつ4にち、ドイツはベルギーに侵攻しんこうした。中立ちゅうりつモレネは1915ねんにプロイセン王国おうこく併合へいごうされたが、国際こくさいてき承認しょうにんはなかった。

1918ねん11月、フランスとドイツのあいだ休戦きゅうせん成立せいりつ。ドイツぐんはベルギーとモレネからの撤退てったいせまられた。1919ねん6月28にちヴェルサイユ条約じょうやくによってベルギーはプロイシッシュ・モーレスネット、オイペンマルメディといったドイツりょうまち獲得かくとくした。このとき、中立ちゅうりつモレネもまたベルギーに帰属きぞくすることが決定けっていされ、100ねんにわたる「一時いちじてき中立ちゅうりつ地帯ちたい」の問題もんだい解消かいしょうされた。1920ねん1がつ10日とおか、「中立ちゅうりつモレネ」は正式せいしきにベルギーりょう編入へんにゅうされた。もともとのモレネのまち区別くべつするために、「中立ちゅうりつモレネ」はケルミスと名称めいしょうあらためた。これは、ひし亜鉛あえんこう意味いみする方言ほうげん kelme由来ゆらいする。また、「プロイセンのモレネ」を意味いみするプロイシッシュ・モーレスネットは、「しんモレネ」ノイ・モーレスネット(Neu-Moresnet)にあらためられた。

その歴史れきし

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ノイ・モーレスネットのちいさな博物館はくぶつかんは、「中立ちゅうりつモレネ」の歴史れきし展示てんじしている。ただし2019ねん現在げんざい開館かいかんしていない。

1920ねん以後いご、モレネはオイペンマルメディおなじような歴史れきしあゆんでいる。だい世界せかい大戦たいせんどきのドイツによるさい占領せんりょうと、1944ねんのベルギーへの復帰ふっき、1973ねんドイツ共同きょうどうたい編成へんせいである。1977ねんおこなわれた自治体じちたい統廃合とうはいごうにより、ケルミスは隣接りんせつする自治体じちたいであるノイ・モーレスネットとヘルゲンラートを編入へんにゅうした。

ノイ・モーレスネットにあるちいさな博物館はくぶつかん Göhltal Museum は「中立ちゅうりつモレネ」の歴史れきしかんする展示てんじおこなっている。「中立ちゅうりつモレネ」の国境こっきょうには60ほん境界きょうかい標識ひょうしきてられたが、現在げんざいも50ほん以上いじょうのこっている。

ヴィエイユ・モンターニュしゃ鉱山こうざん閉鎖へいさされたが、会社かいしゃとしては中立ちゅうりつモレネでのこり、いくつかの枝分えだわかれをしながら21世紀せいき現在げんざい系譜けいふをつないでいる。世界せかいてき金属きんぞく会社かいしゃであるユミコアもそのひとつである。

政治せいじ

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行政ぎょうせい司法しほう

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中立ちゅうりつモレネは、2つの王国おうこく理事りじかんによって統治とうちされた。これらの理事りじかん近隣きんりん地方ちほう官庁かんちょうから派遣はけんされたもので、プロイセンがわオイペン、ベルギーがわヴェルヴィエ官吏かんりであった。地域ちいき行政ぎょうせいちょうは、2人ふたり理事りじかんによって任命にんめいされる市長しちょうになった。

中立ちゅうりつモレネで施行しこうされていた民法みんぽう刑法けいほうは、ナポレオン時代じだいまれたナポレオン法典ほうてんフランス民法みんぽうてん刑法けいほうてん)であった。しかし、地区ちくない裁判所さいばんしょがなかったため、裁判さいばんさいにはベルギーとプロイセンの裁判官さいばんかん地区ちくはいり、ナポレオン法典ほうてんしたがって審理しんりしなければならなかった。また、行政ぎょうせい裁判所さいばんしょもなかったため、市長しちょう決定けってい上訴じょうそすることもできなかった。

1859ねんには、10にんのメンバーから構成こうせいされる評議ひょうぎかい設置せっちされ、大幅おおはば自治じちけんみとめられた。評議ひょうぎいん福祉ふくし委員いいんかい教育きょういく委員いいんかい同様どうよう市長しちょうによる任命にんめいせいであり、諮問しもん機関きかんとしての機能きのうのみをゆうした。住民じゅうみんには投票とうひょうけんはなかった。

国籍こくせき軍事ぐんじ

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中立ちゅうりつモレネ出身しゅっしんしゃは、国籍こくせき状態じょうたいであるとかんがえられていた。また、中立ちゅうりつモレネが独自どくじ軍事ぐんじりょくつことはみとめられていなかった。中立ちゅうりつモレネに移住いじゅうした人々ひとびと兵役へいえき義務ぎむ免除めんじょされていた。しかし、ベルギーは1854ねんに、プロイセンは1874ねんに、中立ちゅうりつモレネに移住いじゅうした国民こくみん徴兵ちょうへい開始かいしするようになった。これ以降いこう兵役へいえき義務ぎむからまぬかれたのは、もともとの住民じゅうみん子孫しそんかぎられることになった。

国旗こっき

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1883ねん以降いこう中立ちゅうりつモレネはくろしろあおよこさんしょくはた領域りょういきはたとして使用しようするようになった。ただし、由来ゆらい不明ふめいであり、以下いかの2つのせつとなえられている。

  • プロイセンの国旗こっきくろしろあか)とオランダの国旗こっきあおしろあか)のいろからったとするせつ
  • ヴィエイユ・モンターニュ鉱業こうぎょう会社かいしゃのロゴにもちいられたいろからったとするせつ

経済けいざい社会しゃかい

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通貨つうか財政ざいせい

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中立ちゅうりつモレネは、その100ねんおよ歴史れきしなかみずからの通貨つうか発行はっこうしたことはなかった。実質じっしつてき通貨つうかとなっていたのはフランス・フランである。このほか、プロイセン、ベルギー、オランダの貨幣かへい流通りゅうつうしていた。

国家こっか予算よさん」の規模きぼは、その歴史れきしつうじてほぼ2,735フランで固定こていされており、住民じゅうみんぜい負担ふたんかるかった。中立ちゅうりつモレネの国境こっきょう通過つうかするさい輸入ゆにゅう関税かんぜいからなかったため、国境こっきょうこうがわくらべれば物価ぶっか比較的ひかくてきやすかった。

産業さんぎょう

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中立ちゅうりつモレネの生活せいかつは、ヴィエイユ・モンターニュ鉱業こうぎょう会社かいしゃ (Vieille Montagneによってにぎられていた。亜鉛あえん鉱山こうざん経営けいえいする同社どうしゃたん主要しゅよう就業しゅうぎょうさきであるばかりでなく、住宅じゅうたく銀行ぎんこう病院びょういん経営けいえいにもあたっていた。

鉱山こうざん近隣きんりん諸国しょこくからおおくの労働ろうどうしゃをひきつけた。1815ねんに256にんであった中立ちゅうりつモレネの人口じんこうは、1858ねんには2,275にんに、1914ねんには4,668にん増加ぞうかした。

公共こうきょうサービス・教育きょういく

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郵便ゆうびんをはじめとするほとんどの公共こうきょうサービスは、ベルギーとプロイセンによって共同きょうどうしておこなわれた。これは、今日きょうアンドラ想像そうぞうすればちかいだろう。

中立ちゅうりつモレネには5つの学校がっこうがあった。プロイセン国民こくみんは、プロイセンがわモレネの学校がっこうかようこともできた。

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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座標ざひょう: 北緯ほくい5043ふん49びょう 東経とうけい600ふん48びょう / 北緯ほくい50.730277777778 東経とうけい6.0133333333333 / 50.730277777778; 6.0133333333333