ヨハネス16せい (対立たいりつ教皇きょうこう)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヨハネス16せい
だい16だい ローマ対立たいりつ教皇きょうこう
教皇きょうこう就任しゅうにん 997ねん
教皇きょうこう離任りにん 998ねん
先代せんだい ボニファティウス7せい
次代じだい グレゴリウス6せい
個人こじん情報じょうほう
そののヨハネス
テンプレートを表示ひょうじ

ヨハネス16せいIoannes XVI (antipapa)、? - 1001ねんころないし1013ねん)は、対立たいりつ教皇きょうこう在位ざいい997ねん - 998ねん)。本名ほんみょうヨハネス・フィラガトスJohannes Philagathos年代ねんだい作家さっかはピラガートPiligato、フィラガットFilagattoとも記述きじゅつする。

ヨハネス・フィラガトスはひがしマ帝国まていこく領土りょうどであったみなみイタリアカラブリア地方ちほうロッサーノ(Rossano)の出身しゅっしんギリシアけい出自しゅつじであった。修道しゅうどうであったかれは、かみきよしマ帝国まていこく皇帝こうていオットー2せいテオファヌひがしローマ皇帝こうていヨハネス1せいツィミスケスめいとされる)の側近そっきんとなり、980ねんから982ねんまで神聖しんせいマ帝国まていこくのイタリアでの文書ぶんしょ局長きょくちょうつとめ、またオットー2せい幼子おさなご(のちのオットー3せい)の名付なづおやにして養育よういくがかりであった。

983ねん12月7にちにオットー2せい死去しきょしてのちもテオファヌの側近そっきんとして助言じょげんおこなう。988ねんにはピアチェンツァ司教しきょうとなり、ピアチェンツァを司教しきょう教会きょうかいから大司教だいしきょう教会きょうかい昇格しょうかくさせた。991ねんから992ねんまではノナントゥラNonantula修道院しゅうどういんちょうとなる。995ねんすえにはひがしマ帝国まていこく皇女おうじょをオットー3せいむかえるための調整ちょうせいやくとしてコンスタンティノポリス派遣はけんされる。

貴族きぞくクレッシェンティウス2せいによるローマでの反乱はんらん鎮圧ちんあつしたオットー3せいは、血縁けつえんのブルーノをグレゴリウス5せいとして教皇きょうこうけ、そして996ねん5月21にち戴冠たいかんおこなわせた。オットー3せいがローマをると、クレッシェンティウス2せいらローマ貴族きぞくひがしローマ皇帝こうていバシレイオス2せい援助えんじょけて蜂起ほうきドイツじんはつ教皇きょうこうであったグレゴリウス5せいを996ねん9がつにローマから追放ついほうした。そしてよく997ねん5月、コンスタンティノポリスから帰還きかんしてあいだもないヨハネス・フィラガトスをヨハネス16せいとして教皇きょうこう就任しゅうにんさせた。そのさい、ヨハネスと親交しんこうのあったロッサーノのひじりニルスは、この教皇きょうこう簒奪さんだつおもまるよう説得せっとくしている。

ヨハネス16せい即位そくいたいし、グレゴリウス5せい神聖しんせいローマ皇帝こうていりょうパヴィアにて997ねん聖霊せいれい降臨こうりんさい教会きょうかい会議かいぎ開催かいさい。グレゴリウス5せい地位ちい確認かくにんと、クレッシェンティウス2せいとヨハネス16せい破門はもん宣言せんげんした。6月にはピアチェンツァをラヴェンナ大司教だいしきょう管区かんく司教しきょう教会きょうかいもどした。ふゆにオットー3せいはイタリアに進軍しんぐん998ねん2がつにローマに入城にゅうじょうしクレッシェンティウス2せい反乱はんらん鎮圧ちんあつした。そのときヨハネス16せいはローマから逃走とうそうしたがおいされ、はなみみがれ、したかれ、ゆびられ、つぶされ、ローマへと連行れんこうされた。そしてラテラノで開催かいさいされた教会きょうかい会議かいぎにてオットー3せいとグレゴリウス5せい面前めんぜん退位たいいさせられた。ひじりニルスのしによって一命いちめいめたものの、ローマ市内しない修道院しゅうどういん収監しゅうかんされることとなった。反乱はんらん首領しゅりょうクレッシェンティウス2せいサンタンジェロじょう篭城ろうじょうしたが、998ねん復活ふっかつさい陥落かんらく4がつ29にち斬首ざんしゅされ、遺体いたい城壁じょうへきるされた。

ヨハネスはそののちいち司教しきょう衣服いふくまつわってグレゴリウス5せいまえ姿すがたあらわしたが、そのときグレゴリウス5せいによってふくかれ、ロバにせられてローマ民衆みんしゅう見世物みせものにされ、修道院しゅうどういんふたた収監しゅうかんされた。これらはひじりニルスについての信憑しんぴょうせいとぼしい『聖者せいじゃでん』(Vita)にしるされており、それにはまたさい収監しゅうかん1001ねんころ死亡しぼうしたとある。また退位たいい修道院しゅうどういん収監しゅうかんされてのちにドイツのフルダ修道院しゅうどういん移送いそうされたともつたえられており、『フルダ年代ねんだい』(Annales Fuldenses)には1013ねん4がつ2にち日付ひづけでヨハネスの記載きさいされている。

ヨハネス16せいみずからを「16せい」と名乗なのった。16せい正当せいとう教皇きょうこうではなかったものの、つぎの「教皇きょうこうヨハネス」(在位ざいい1003ねん)は17せい襲名しゅうめいしている。しかし後世こうせい歴史れきしは、おそらく22せい番号ばんごう理由りゆうけのため、16せいを「ヨハネス17せい」ないし「ヨハネス16せい(17せい)」とんだ。というのも伝説でんせつでは14せい15せいあいだにもう1人ひとりの「教皇きょうこうヨハネス」が存在そんざいしたとされているからで、その伝説でんせつ教皇きょうこう歴史れきしがしばしば「16せい」とんだからである。この混乱こんらん対立たいりつ教皇きょうこうボニファティウス7せい存在そんざい起因きいんするとかんがえられる。なお、教皇きょうこうヨハネス23せい在位ざいい1958ねん-1963ねん)は実際じっさいには21番目ばんめの「教皇きょうこうヨハネス」である。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]