ヨハン・ヴァン・ベートーヴェン

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ヨハン・ヴァン・ベートーヴェン
Johann van Beethoven
基本きほん情報じょうほう
生誕せいたん 1740ねん11月14にち
神聖ローマ帝国の旗 ドイツ国民こくみん神聖しんせいマ帝国まていこく
ケルン大司教だいしきょうりょうボン
死没しぼつ 1792ねん12月18にち
神聖ローマ帝国の旗 ドイツ国民こくみん神聖しんせいマ帝国まていこく
ケルン大司教だいしきょうりょう、ボン
ジャンル クラシック
職業しょくぎょう 声楽せいがく

ヨハン・ヴァン・ベートーヴェン(Johann van Beethoven[1][2] 1740ねん11月14にち[3][4] - 1792ねん12月18にち)は、ドイツ音楽家おんがくか教育きょういくしゃ。また声楽せいがくとしてボン邸宅ていたくっていたケルン大司教だいしきょう教会きょうかいうたっていた。作曲さっきょくルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン父親ちちおや

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

ベートーヴェンはボンにまれた。両親りょうしんはマリア・ヨーゼファ・バール(1733ねん結婚けっこん)とローデヴィック(Lodewyck)またはルートヴィヒ(Ludwig)・ヴァン・ベートーヴェンであった[5][6][ちゅう 1]。ルートヴィヒはおそらく現在げんざいベルギーフランドル位置いちするメヘレン出身しゅっしんであるとおもわれ、メヘレン内外ないがい複数ふくすう地域ちいき音楽家おんがくかとしてはたらいていた。その1733ねんケルンせんみかどこうクレメンス・アウグスト・フォン・バイエルンつかえる音楽家おんがくかとしてボンにき、1761ねんにはカペルマイスターのぼめている。おなじく音楽おんがく才能さいのうしめしたヨハンも1764ねんにまず声楽せいがくとして宮廷きゅうていりした。かれ歌唱かしょうのみならず[ちゅう 2]ヴァイオリンツィターきこなし、さらにハープシコードクラヴィコードなどの当時とうじ鍵盤けんばん楽器がっきにも精通せいつう指導しどうおこなった。

つまとなるマリア・マグダレーナ・ケフェリヒ(1746ねん - 1787ねん)とは、エーレンブライトシュタイン要塞ようさい英語えいごばんへの旅行りょこうちゅう出会であったものとおもわれる。マリアはそのトリーア大司教だいしきょう料理りょうりちょうつとめた人物じんぶつむすめであり、彼女かのじょ一家いっかはボンの宮廷きゅうてい管弦楽かんげんがくだんともつながりをっていた。19さいにしてすで未亡人みぼうじんとなっていたマリアは、1767ねん11月12にちにボンのせいレミギウス・カトリック教会きょうかいでヨハンと結婚けっこんする。2人ふたりあいだ最初さいしょどもであるルートヴィヒ・マリアは1769ねん4がつのはじめにまれたが、数日すうじつのうちにこのった。おそらく1770ねん12月16にち2人ふたりどもが誕生たんじょう翌日よくじつルートヴィヒとして受洗じゅせんした。かれらのどもで成人せいじんしたのはカール英語えいごばん(1774ねん-1815ねん)とヨハン(1776ねん - 1848ねん)の2人ふたりであった。

ルートヴィヒの才能さいのう気付きづいたヨハンは、息子むすこ最初さいしょ指導しどうしゃとなった。息子むすこ演奏えんそうのこととなると、ヨハンはきわめて粗暴そぼう性格せいかくになったとされる。ルートヴィヒがすこしでも不出来ふでき演奏えんそうをしようものなら、ヨハンは一家いっかはじだとはげしくののしった。1787ねんにマリアが死去しきょして、家族かぞくがますますわかいルートヴィヒたのみになるころには、以前いぜんからアルコール依存いぞんしょうおちいっていたヨハンの状態じょうたい一層いっそう悪化あっかしていた。1789ねん、18さいのルートヴィヒには、家族かぞくささえとするために、ヨハンの給料きゅうりょう半額はんがくかれわたされるという決定けっていくだされた。

ヨハンはルートヴィヒがハイドンまなぶためにウィーンへとってもなくの1792ねん、ボンでぼっした。享年きょうねん52か53。せんみかどこうマクシミリアン・フランツ友人ゆうじんててつぎのような皮肉ひにくおくっている。「ベートーヴェンがんだことで酒税しゅぜいからの歳入さいにゅうげんなやまされている[7]

家系かけい[編集へんしゅう]

ヨハンはフランドルけいで、ははドイツじんであり[8][9][10]、そのちちのルートヴィヒがベートーヴェン最後さいご純血じゅんけつフランドルじんであった。かれちか先祖せんぞ大半たいはんドイツ語どいつごけんラインラントかみきよしマ帝国まていこくプファルツせんみかどほうりょう出身しゅっしんである。

ナチスはベートーヴェン出自しゅつじにとりわけ関心かんしんしめした。「ベートーヴェンの出自しゅつじ人種じんしゅてき国籍こくせきてきドイツてき色合いろあいをびたうたがいのないことを確認かくにんすると(かれ祖先そせんがフランドルじんであったという証拠しょうこ数々かずかず論文ろんぶんによって否定ひていされた)、ナチスのプロパガンダ文化ぶんか機関きかん重役じゅうやくたちはかれ作品さくひんドイツアーリアじん強靭きょうじんさの神髄しんずいとして奨励しょうれいするようになったのである[11]。」

ヨハンの息子むすこのうち、有名ゆうめいなルートヴィヒは生涯しょうがい未婚みこんのままであったが、次男じなんのカスパール・アントン・カールはどもをもうけ、その子孫しそん健在けんざいである(カール・ヴァン・ベートーヴェン)。しかし、現在げんざい存命ぞんめいであるカールの子孫しそんのなかで、ベートーヴェンの名前なまえものはいない。最後さいごはカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(1870ねん5月8にちまれ)で、かれ息子むすこめぐまれぬまま1917ねん12月10にち他界たかいした。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

  1. ^ ヨハンの息子むすこ作曲さっきょくのルートヴィヒとの混同こんどう注意ちゅうい
  2. ^ かれ声域せいいき通常つうじょうテノールばれるものであったが、アルトまたはそれ以上いじょう音域おんいきにまでたっするものであった可能かのうせいがある。

出典しゅってん

  1. ^ Johann van BEETHOVEN, Tenorist an der kurfürstlichen Hofkapelle zu Bonn, geboren um 1740 in Bonn? (Religion: rk), gestorben am 18 December 1792 in Bonn, Sohn von Ludwig van BEETHOVEN (siehe IIb) und Maria Josepha BALL. Kirchliche Trauung am 12.11.1767 in Bonn, St.Remigius mit Maria Magdalena KEVERICH, 20 Jahre alt, geboren am 19 December 1746 in Ehrenbreitstein (Religion: rk), gestorben am 17 July 1787 in Bonn mit 40 Jahren. Schwindsucht, Tochter von Johann Heinrich KEVERICH, Kurfürstlich Trierscher Oberhofkoch, und Anna Clara WESTORFF. [1]
  2. ^ Johan Van Beethoven, dus vermoedelijk geboren te Bonn omstreeks 1739. Hij werd opgeleid om zijn vader op te volgen, en werd tenslotte als hofmusicus aangesteld. Hij huwde te Bonn in de St.-Remigiuskerk op 12 November 1767 met Maria-Magdalena Keverich, geboren te Ehrenbreitstein bij Koblenz op 19 December 1746 en overleden te Bonn op 17 juli 1787. Johan stierf 4 jaar later op 18 December 1792. [2]
  3. ^ "The Fathers of Great Musicians (Continued)." The Musical Times , Vol. 46, No. 751 (1 Sep. 1905), pp. 587–590
  4. ^ Joseph Kerman, et al. "Beethoven, Ludwig van." Grove Music Online. Oxford Music Online. Oxford University Press, accessed 14 November 2013. [3]
  5. ^ Ludwig van BEETHOVEN, Kapellmeister der kurfürstlichen Hofkapelle zu Bonn, getauft (rk) am 05.01.1712 in Mecheln, St.Katharina, gestorben am 24 December 1773 in Bonn mit 61 Jahren, Sohn von Michael van BEETHOVEN (siehe I) und Marie Louise STUYCKERS. Aufgebot am 26 August 1733, kirchliche Trauung mit 21 Jahren am 07.09.1733 in Bonn , St. Remigius mit Maria Josepha BALL, geboren um 1714 in ? Gestorben am 30 September 1775 in Bonn. [4]
  6. ^ Lodewijk Van Beethoven, gedoopt te Mechelen op 5 januari 1712. Na 12 jaar koraalschool en twee jaar bij meester Colfs was hij in 1727 haast 16 jaar oud : een degelijk gevormd koorzanger en organist. Op 2 November werd hij aangesteld tot plaatsvervangend tenor en enkele dagen later als plaatsvervangend dirigent van het koor van de Luikse St. Lambertuskathedraal. Daar, te Luik , moet de Keulse aartsbisschop hem gehoord hebben en troonde hem mee naar Bonn. In deze residentiestad der Keulse keurvorsten werd Lodewijk vanaf 1733 aangesteld tot bassist van het hofkoor met een jaarwedde van 400 gulden. Hij huwde te Bonn in de St.-Remigiuskerk op 17 September 1733 op 21-jarige leeftijd met Maria-Jozef Poll, een meisje uit Bonn. Lodewijk stierf te Bonn op 24 December 1773 in de ouderdom van 62 jaar. Maria-Jozef overleed op 30 September 1775. [5]
  7. ^ MacArdle (1949, 537)
  8. ^ R. Capell, Beethoven, in Music & Letters, Vol. 19, No. 4 (Oct. 1938), pp. 375–390
  9. ^ Ernest Closson and Gustave Reese, Grandfather Beethoven, in The Musical Quarterly, Vol. 19, No. 4 (Oct. 1933), pp. 367–373
  10. ^ TF Howell, Beethoven's nationality, in The Musical Times, 1915. "The chief hereditary character of Beethoven was Flemish, and all else was what we now label German."
  11. ^ Lewis Lockwood: Beethoven: the Music and the Life (W. W. Norton, 2005) p. 419

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • MacArdle, Donald W. (1949) The Family van Beethoven. The Musical Quarterly 35:528–550.

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

  • "The 'Van' of Beethoven" by Herbert Antcliffe in The Musical Times, Vol. 77, No. 1117 (Mar. 1936), pp. 254–255 – Article explains how "A certain Ludwig (Lodewijk) van Beethoven was born at Mechelen as the son of Michiel and the grandson of Cornelius and of Catherina Leempoels..."