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ラドゥ・ルプ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ラドゥ・ルプ
2012ねん
基本きほん情報じょうほう
生誕せいたん (1945-11-30) 1945ねん11月30にち
出身しゅっしん  ルーマニア
死没しぼつ (2022-04-17) 2022ねん4がつ17にち(76さいぼつ
学歴がくれき ブカレスト音楽おんがくいんモスクワ音楽おんがくいん
ジャンル クラシック音楽おんがく
職業しょくぎょう ピアニスト
担当たんとう楽器がっき ピアノ
公式こうしきサイト official facebook

ラドゥ・ルプルーマニア: Radu Lupu [ˈradu ˈlupu]、1945ねん11月30にち - 2022ねん4がつ17にち[1])は、ルーマニア出身しゅっしんのピアニスト。日本にっぽんではラドゥ・ルプー[2]という表記ひょうきおおられ、招聘しょうへい会社かいしゃKAJIMOTOによる表記ひょうきおなじ。ただし、本来ほんらい Lúpu の末尾まつび音節おんせつみはみじかく「プ」である。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

ガラツにまれる[3]少年しょうねんにピアノをまなはじめ、1959ねんブカレスト音楽おんがくいんフロリカ・ムジチェスク入門にゅうもんリパッティ同門どうもんになる。1960ねんより1968ねんまでモスクワ音楽おんがくいん留学りゅうがくしてスタニスラフ・ネイガウスらに師事しじする。1966ねんだい2かいヴァン・クライバーン国際こくさいコンクール1967ねんジョルジュ・エネスク国際こくさいコンクール1969ねんリーズ国際こくさいピアノ・コンクールにおいてそれぞれ優勝ゆうしょうしゃとなった。

ルプの有名ゆうめいにしたのは、「ヴァン・クライバーン国際こくさいコンクールの副賞ふくしょうであるコンサート契約けいやく全部ぜんぶことわって帰国きこくした」ことである。これがソ連それん当局とうきょく要請ようせいなのかどうかは不明ふめいであるが、この行動こうどうはかなり話題わだいとなった。もちろん、これでアメリカへの演奏えんそうはしばらくはかなわなくなったものの、リーズ優勝ゆうしょうデッカ契約けいやくし、そのディスクの名声めいせいによってアメリカにデビューするというじゅう手間てまをかけた活動かつどうでもられる。

1969ねん11月のリサイタルでロンドン・デビューを成功せいこうさせたのをに、以降いこうはイギリスを本拠ほんきょ国際こくさいてき演奏えんそう活動かつどうおこなう。1972ねん米国べいこくデビューし、1978ねんにはザルツブルク音楽おんがくさいにも出演しゅつえんする。1973ねん皮切かわきりにたびたび来日らいにちしている。しかし、体調たいちょう不良ふりょうおおく、2010年代ねんだい来日らいにちはドクターストップがかかり1にち帰国きこくした。ロンドン・デビュー当時とうじには地元じもとにより「せんにん一人ひとりのリリシスト」とばれ、以降いこう、ルプを形容けいようする表現ひょうげんとして使用しようされている。

録音ろくおん[編集へんしゅう]

CDはデッカ・レーベルを中心ちゅうしんにリリースされている。ベートーヴェン(ピアノ・ソナタ、協奏曲きょうそうきょく)、シューベルト(ピアノ・ソナタと即興そっきょうきょく小品しょうひんしゅう)、ブラームスピアノ・ソナタだい3ばん後期こうき小品しょうひんしゅう)、シューマン(クライスレリアーナ子供こども情景じょうけいほか)などがある。シモン・ゴールドベルクとの共演きょうえんによるモーツァルトシューベルトヴァイオリン・ソナタ録音ろくおんは、定番ていばんとしてられている。また、マレイ・ペライアとはピアノ・デュオでモーツァルトを、ダニエル・バレンボイムとはシューベルトの作品さくひんしゅう録音ろくおんしている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ せんにん一人ひとりのリリシスト」ラドゥ・ルプーさん死去しきょ…ルーマニア出身しゅっしんのピアニスト”. 読売新聞よみうりしんぶん (2022ねん4がつ20日はつか). 2022ねん4がつ20日はつか閲覧えつらん
  2. ^ アーカイブ 2018ねん11がつ20日はつか - ウェイバックマシン
  3. ^ 吉澤よしざわヴィルヘルム『ピアニストガイド』あおゆみしゃ印刷所いんさつしょ製本せいほんしょあつとくしょ、2006ねん2がつ10日とおか、143ページ、ISBN 4-7872-7208-X

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]