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三浦みうら得一とくいちろう

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三浦みうら得一とくいちろう

三浦みうら 得一とくいちろう(みうら とくいちろう、安政あんせい3ねん3がつ10日とおか[1]1856ねん4がつ14にち〉 - 1934ねん昭和しょうわ9ねん3月14にち[2])は、日本にっぽん衆議院しゅうぎいん議員ぎいん憲政けんせいかい)、陸軍りくぐんふく参政さんせいかん陸軍りくぐん軍医ぐんいかん少将しょうしょう相当そうとうかん)。

経歴けいれき

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日向ひなたこく臼杵きゅうしょぐん恒富つねとみむら現在げんざい宮崎みやざきけん延岡のべおか出身しゅっしん[2]延岡のべおか藩校はんこう医学いがくかん[3]鹿児島かごしま学校がっこう長崎ながさき学校がっこうて、陸軍りくぐん軍医ぐんい学校がっこう卒業そつぎょう1883ねん明治めいじ15ねん)、陸軍りくぐん軍医ぐんい試補しほ任官にんかんし、陸軍りくぐん軍医ぐんいおぎなえ陸軍りくぐんとう軍医ぐんい陸軍りくぐん一等いっとう軍医ぐんい昇進しょうしんしていった。1894ねん明治めいじ27ねん)、にちしん戦争せんそうにあたって病院びょういんせん神祐しんゆうまる院長いんちょうつとめた。1907ねん明治めいじ40ねん)12月8にち軍医ぐんいかん任命にんめいされた[4]。そのあいだ福岡ふくおか衛戍えいじゅ病院びょういん院長いんちょう丸亀まるがめ衛戍えいじゅ病院びょういん院長いんちょう医務いむきょく衛生えいせい課長かちょう関東かんとうとく陸軍りくぐん軍医ぐんい部長ぶちょうだいさん師団しだん軍医ぐんい部長ぶちょう歴任れきにんした。1912ねん大正たいしょう元年がんねん)9がつ29にち予備よびやく編入へんにゅう[4]

1915ねん大正たいしょう4ねん)、だい12かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ出馬しゅつばし、当選とうせんだい2大隈おおくま内閣ないかく陸軍りくぐんふく参政さんせいかん任命にんめいされた。だい14かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょでも再選さいせんされた。

衆議院しゅうぎいん議員ぎいん延岡のべおか市長しちょう三浦みうら虎雄とらお長男ちょうなん

栄典えいてん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 人物じんぶつと其勢力せいりょく宮崎みやざきけんこれp.4
  2. ^ a b そう選挙せんきょ衆議院しゅうぎいん議員ぎいん略歴りゃくれき だいいちかい乃至ないしだいじゅうかい衆議院しゅうぎいん事務じむきょく、1940ねん
  3. ^ 議会ぎかい制度せいどひゃくねん - 衆議院しゅうぎいん議員ぎいん名鑑めいかん』614ぺーじ
  4. ^ a b 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』531-532ぺーじ
  5. ^ 官報かんぽう号外ごうがい叙任じょにん及辞れい」1906ねん12月11にち
  6. ^ 官報かんぽうだい8679ごう叙任じょにん及辞れい」1912ねん5がつ27にち
  7. ^ 官報かんぽうだい1218ごう叙任じょにん及辞れい」1916ねん8がつ21にち

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 人物じんぶつと其勢力せいりょく毎日まいにち通信つうしんしゃ、1915ねん 
  • 衆議院しゅうぎいん参議院さんぎいん議会ぎかい制度せいどひゃくねん - 衆議院しゅうぎいん議員ぎいん名鑑めいかん大蔵省おおくらしょう印刷いんさつきょく、1990ねん
  • 外山とやまみさおへん陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん、1981ねん