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丹野たんのセツ

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丹野たんのセツ(1924ねんごろ

丹野たんの セツ(たんの せつ、1902ねん11月3にち1987ねん5月29にち)は、日本にっぽん社会しゃかい運動うんどう日本にっぽん共産党きょうさんとう婦人ふじん部長ぶちょう渡辺わたなべ政之まさゆきつま

経歴けいれき[編集へんしゅう]

福島ふくしまけんまれ。日立ひたち鉱山こうざん長屋ながやそだち、小学校しょうがっこう卒業そつぎょう日立ひたち本山ほんざん病院びょういんげん日鉱にっこう記念きねん病院びょういん)に見習みならい看護かんごとして勤務きんむ

労働ろうどうしゃ解放かいほう思想しそう目覚めざめ、1921ねん以来いらい3かい家出いえでをして上京じょうきょうあかつきみんかいあか瀾会参加さんか渡辺わたなべ政之まさゆきらの組織そしきしたみなみかずら労働ろうどう協会きょうかいくわわる。1923ねん亀戸かめいど事件じけんあやうくまぬかれ、東洋とうようモスリン女工じょこうとなる。1924ねん渡辺わたなべ結婚けっこん日清紡にっしんぼう亀戸かめいど工場こうじょう女工じょこうとなり、渡辺わたなべとともに日本にっぽん労働ろうどう組合くみあい評議ひょうぎかい加盟かめいして労働ろうどうしゃ解放かいほうをめざした。

1926ねん日本にっぽん共産党きょうさんとう再建さいけんさい入党にゅうとうとう婦人ふじん部長ぶちょうつとめる。1927ねん関東かんとう婦人ふじん同盟どうめい加入かにゅう常任じょうにん委員いいん1928ねん8がつ非合法ひごうほう活動かつどうちゅう検挙けんきょされ、1932ねん懲役ちょうえき7ねん判決はんけつける。転向てんこうつらぬき、1938ねん宮城みやぎ刑務所けいむしょ満期まんき出獄しゅつごく中国ちゅうごくへの脱出だっしゅつこころみたが失敗しっぱいし、保健ほけん資格しかく取得しゅとく工場こうじょう勤務きんむ

戦後せんご日本にっぽん共産党きょうさんとう再建さいけんさいしてはこれに参加さんかするが、1955ねん除名じょめい処分しょぶん1956ねん東京とうきょう葛飾かつしか四ツ木よつぎ診療しんりょうしょ開設かいせつし、労働ろうどうしゃ医療いりょう活動かつどうにつくした。のち四ツ木よつぎ病院びょういん理事りじ[1][2][3]

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 吉見よしみ周子かねこ丹野たんのセツ」日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ小学館しょうがくかん)、Yahoo!百科ひゃっか事典じてん
  2. ^ 丹野たんのセツ」、デジタルばん 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plus
  3. ^ 江刺えさし昭子あきこ丹野たんのセツ」平凡社へいぼんしゃ世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん