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伊部いべさと

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伊部いべさと(いべごう、いべのさと)は、越前えちぜんこく敦賀つるがぐん角鹿つのがぐん六郷ろくごうの1つ。 高山たかやま寺本てらもと東急とうきゅうほんともにくんく。 登志とし和気わきおうだい伊部いべ(『古事記こじきたれじん天皇てんのうだん)に由来ゆらいする地名ちめいである。由来ゆらいするせつもある。伊部いんべきょう織田おだそうになり、現在げんざいでは織田おだまちから越前えちぜんまちになっている。

とうさと奈良なら時代じだいにはその確認かくにんされる。天平てんぺい神護かんご2ねん766ねん10月21にち越前えちぜん国司くにじかい(『東南とうなんいん文書ぶんしょ』)によれば、坂井さかいぐん田宮たみやむら西北せいほく2じょう6粟生田あおうださと12つぼ口分田くもで農民のうみんとして「敦賀つるがぐん伊部いんべきょう戸主こしゅ」である間人はしひとせきしょうはたにち佐山さやまえる。養老ようろう元年がんねん721ねん1がつ7にち伊部いべおう(いべのおおきみ)、位階いかい 授无したがえ下賜かし養老ようろう5ねん721ねん1がつ23にち伊部いべおう退すさあさこれれいさむらい東宮とうぐう焉とある。このくび皇子おうじ聖武天皇しょうむてんのう)の教育きょういくのためためおうたちばなたすくため14にんとう東宮とうぐう皇子おうじ御所ごしょ)に伺候しこうめいぜられている(『ぞく日本にっぽん』)。ほかにも、おう東大寺とうだいじけいほん書写しょしゃ(11かん)などにもたずさわっている。天平てんぴょうたから3ねん759ねん8がつ5にち筑紫つくしの『観世音寺かんぜおんじ文書ぶんしょ』(国政こくせいしょ牒)にせい六位上行大典伊部造禰麻呂とあり、したがえはちじょう 額田ぬかた部連ぶれんせいろくじょう ちゅうしん朝臣あそんつらねているのがえる。さだかん15ねん873ねん)「越前えちぜんこく敦賀つるがぐんじん伊部いべづくりゆたかもち飯高いいたか朝臣あそん氏姓しせいたまわり、孝昭たかあき天皇てんのうだい1皇子おうじてんあし彦国押人いのち後裔こうえいしょうしている(『日本にっぽんさんだい実録じつろくさだかん15ねん12月2にちじょう)。 『延喜えんぎしきかみめいちょう』(『延喜えんぎしきまき10)にえる敦賀つるがぐん43の1つ「伊部いべいわお神社じんじゃ」がある。当社とうしゃ鎮座ちんざは、現在げんざい福井ふくいけん丹生にゅうぐん越前えちぜんまちきゅう織田おだまち)の岩倉いわくら推定すいていされ、当郷とうごう織田おだ盆地ぼんち一帯いったい比定ひていできる。

伊部いべ忌部いむべどうじ、織田おだ社司しゃし忌部いむべとしていた。当郷とうごうつるぎ神社じんじゃがあり、その末社まっしゃ織田おだ神社じんじゃ神主かんぬし伊部いんべまつるとされる。ちょういさお4ねん998ねん3月21にち)「越前えちぜんつるぎ大神宮だいじんぐう神主かんぬし伊部いべまもるただし」という藤原ふじわらこうなりの「けん」にえる。鎌倉かまくら初期しょきたてたもつ6ねん1218ねん)の古文書こもんじょには越前えちぜん留守るすしょかんじん伊部いべ宿やど」のえる。 朝倉あさくら時代じだい伊部いべという武士ぶし武家ぶけ屋敷やしきなからしていた。近年きんねん越前えちぜんいちじょうたにじょうあとにある朝倉あさくら義景よしかげたて対岸たいがん武家ぶけ屋敷やしきからは大量たいりょう遺物いぶつと「いへ」としるされた木簡もっかん出土しゅつどした。とう地方ちほうにはいまでも伊部いんべせい忌部いむべせいひと数多かずおおらしている。 近江おうみこく現在げんざい長浜ながはま湖北こほくまち伊部いべ東浅井ひがしあざいぐん伊部いんべむら)にも伊部いべきょうというがあった。『東浅井ひがしあざいぐんこころざし所収しょしゅう大浦おおうら共有きょうゆうだい般若はんにゃけい奥書おくがきもと3ねん1158ねん)3がつ12にちに「於浅井あさいぐん法勝寺ほっしょうじ御庄みしょう伊部いべさともも津寺つでら書写しょしゃ如件」との記述きじゅつがある。きた近江おうみ浅井あさい家臣かしんにも伊部いべがいた。おそらく古代こだいから連綿れんめんつながっていたのだとおもわれる。

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