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佐藤さとう義亮ぎりょう

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さとう よしすけ

佐藤さとう 義亮ぎりょう
生誕せいたん 1878ねん2がつ18にち
秋田あきたけん仙北せんぼくぐん角館かくのだてまち
死没しぼつ (1951-08-18) 1951ねん8がつ18にち(73さいぼつ
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしんこう 哲学てつがくかん
職業しょくぎょう 実業じつぎょう
肩書かたが 新潮社しんちょうしゃ代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょう
任期にんき 1896ねん - 1946ねん
後任こうにんしゃ 佐藤さとう義夫よしお
取締役とりしまりやくかい 新潮社しんちょうしゃ
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佐藤さとう 義亮ぎりょう(さとう よしすけ(ぎりょう)、1878ねん明治めいじ11ねん2がつ18にち - 1951ねん昭和しょうわ26ねん8がつ18にち)は、新潮社しんちょうしゃ創立そうりつしゃ雑誌ざっし新潮しんちょう」を発行はっこうした。哲学てつがくかん現在げんざい東洋大学とうようだいがく)を卒業そつぎょう筆名ひつめいたちばなかおり、妖堂、ひろしどうなど[1][2]

来歴らいれき人物じんぶつ

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1878ねん明治めいじ11ねん)に秋田あきたけん仙北せんぼくぐん角館かくのだてまちげん仙北せんぼく)に佐藤さとうためきち、とく夫妻ふさいよんおとことしてまれる。両親りょうしん荒物屋あらものやいとなみ、かれ幼名ようみょうすけであった。父親ちちおやためきち商人しょうにんにはめずらしく読書どくしょきな人物じんぶつで、熱心ねっしん仏教徒ぶっきょうとだった。義亮ぎりょう1883ねん明治めいじ16ねん小学校しょうがっこう入学にゅうがく優等生ゆうとうせいだん進級しんきゅうゆるされたとしもあった。14さい角館かくのだて高等こうとう小学校しょうがっこう卒業そつぎょうすると奉公ほうこうされることになっていたが、向学心こうがくしんえる義亮ぎりょう進学しんがくゆるしをちち幾度いくどい、ためきち仕方しかたなく官費かんぴ師範しはん学校がっこうならばと進学しんがく許可きょかした。師範しはん学校がっこうは18さいでなければ入学にゅうがくできないので大曲おおまがり小学しょうがく校長こうちょう浅沼あさぬま正毅まさきいえ書生しょせいとしてみ、つづいて秋田あきた積善せきぜん学舎がくしゃ(神沢かみさわしげる私塾しじゅく)に入学にゅうがくした。つき5えん50ぜに学費がくひそのちちまかなえず、一部いちぶあねとつさきから支援しえんしてもらった。

にちしん戦争せんそう前夜ぜんやのそのころ学問がくもんこころざしていた義亮ぎりょう文学ぶんがく夢中むちゅうになり、博文ひろぶみかん投書とうしょ雑誌ざっし学生がくせいひつ戦場せんじょう』に投稿とうこうかえした。同誌どうし投稿とうこう仲間なかまには仙台せんだい中学生ちゅうがくせいだった吉野よしの作造さくぞうがいた[3]当時とうじ高山樗牛たかやまちょぎゅう赤門あかもん帝国ていこく大学だいがく関係かんけい)の新人しんじん作家さっかいずみ鏡花きょうか尾崎おざき紅葉こうよう門下もんか文壇ぶんだん登場とうじょうし、百花繚乱ひゃっかりょうらん文学ぶんがく時代じだい現出げんしゅつしており[3]文学ぶんがくねつがますますこうじた義亮ぎりょうは、1895ねん明治めいじ28ねん)3がつ積善せきぜん学舎がくしゃ上京じょうきょうする。友人ゆうじんにん秋田あきたから鉄道てつどうのある黒沢尻くろさわじりえきげん北上ほくじょうえき)までやく150kmのゆきどうあるき、東京とうきょうきの列車れっしゃった[3]

上京じょうきょうした義亮ぎりょう新聞しんぶん配達はいたつ運送うんそう荷車にぐるまきなどを[3]しげるえいしゃげん大日本印刷だいにほんいんさつ)の職工しょっこう仕事しごとき、よる勉学べんがくはげんだ。ある義亮ぎりょう投稿とうこうぶん文学ぶんがくしょうかん」のった雑誌ざっし青年せいねんぶん』が工場こうじょう支配人しはいにんにとまり、かれ校正こうせいかかり抜擢ばってきされる。『青年せいねんぶん』(1896ねん創刊そうかん少年しょうねんえん)は投稿とうこう歓迎かんげい月刊げっかんで、もり鷗外らの文章ぶんしょうとともに義亮ぎりょう文章ぶんしょう掲載けいさいされたのだった[3]肉体にくたい労働ろうどうからきな文字もじ文章ぶんしょうあつか仕事しごとうつかれしんにはいつしか出版しゅっぱん事業じぎょうおこなおうというゆめ芽生めばえていった。出版しゅっぱん業界ぎょうかいるにつれ、文壇ぶんだんあか門出かどで硯友社けんゆうしゃ専有せんゆうされており、このぶんばつ以外いがい作家さっかはなかなかられないことをり、みずか出版しゅっぱん事業じぎょうおこすことを決心けっしんする[3]

出版しゅっぱん資金しきん捻出ねんしゅつするための耐乏たいぼう生活せいかつ貯金ちょきんをおこなったが、その様子ようすかねたしげるえいしゃ印刷いんさつ部長ぶちょうつまである荻原おぎわらゆき資金しきん援助えんじょする。そうして1896ねん明治めいじ29ねん新声社しんせいしや設立せつりつし、7がつ10日とおか作品さくひん投稿とうこう雑誌ざっししんこえ』を創刊そうかんする。菊判きくばん41ページ、定価ていか5ぜに。800印刷いんさつだったが完売かんばいした。同誌どうしの3ごうからは「ぶんかいしょうかん」という批評ひひょうらん硯友社けんゆうしゃたいする批判ひはんおこない、尾崎おざき紅葉こうよういかりをい、紅葉こうよう新声社しんせいしやいんうことはなかったという。ぶんばつ打破だは標榜ひょうぼうし、前年ぜんねん山縣やまがた五十雄いそお創刊そうかんした青年せいねん投稿とうこう文庫ぶんこ』とならんで一時いちじ天下てんかものとなった[4]

1903ねん明治めいじ36ねん経営けいえい不振ふしんのため、『しんこえ』を同人どうじんだった正岡まさおか芸陽げいよう譲渡じょうとして[4]義弟ぎていつま龍子りゅうこおとうと)の中根なかねこまじゅうろうらのちからをかりて1904ねんあらたに新潮社しんちょうしゃ創立そうりつ文芸ぶんげい雑誌ざっし新潮しんちょう』を創刊そうかん[1]中村なかむら武羅夫むらお編集へんしゅうしゃ人材じんざいて、同誌どうし明治めいじまつ以降いこう今日きょうまで日本にっぽん代表だいひょうてき文芸ぶんげい雑誌ざっしとされている[1]社是しゃぜに「良心りょうしんそむ出版しゅっぱんころされてもせぬこと」「どんな場合ばあいでも借金しゃっきんをしないこと」「けっして約束やくそく手形てがたかぬこと」の3かじょうかか[5]自然しぜん主義しゅぎ文学ぶんがく運動うんどうむすんでおおくの文学ぶんがく作品さくひん雑誌ざっし出版しゅっぱん新潮しんちょう文庫ぶんこ(1914ねん),「世界せかい文学ぶんがく全集ぜんしゅう」(1927ねん)などで文芸ぶんげい出版しゅっぱんしゃとしての地位ちい確立かくりつした[1]1922ねん大正たいしょう11ねん)より、同社どうしゃぜん出版しゅっぱんぶつ角館かくのだて図書館としょかん寄贈きぞうはじめる[6]。1934ねん富士ふじ印刷いんさつ社長しゃちょう就任しゅうにん(1946ねん退任たいにん)[2]

1935ねん昭和しょうわ10ねん)ごろ、PL教団きょうだん前身ぜんしんである「ひとのみち」教団きょうだん入信にゅうしんし、社員しゃいん取引とりひきさきなども強制きょうせいてき入信にゅうしんさせた[7]むすめ病気びょうき回復かいふくねがって一家いっか入信にゅうしんした義亮ぎりょう[8]教団きょうだんのパトロンでもあり、新潮社しんちょうしゃ雑誌ざっし』でも、三角みすみひろしら「ひとのみち文士ぶんし」とばれるおお起用きようした[9]新潮社しんちょうしゃ名物めいぶつ編集へんしゅうしゃとしてられた斎藤さいとう十一といちどう教団きょうだん信仰しんこうつうじて義亮ぎりょうよんなん哲夫てつおい、義亮ぎりょうまご亮一りょういち家庭かてい教師きょうしとなり、それがえん新潮社しんちょうしゃ入社にゅうしゃした[8]

佐藤さとう義亮ぎりょう生地きじ角館かくのだて建設けんせつされた新潮社しんちょうしゃ記念きねん文学ぶんがくかん

戦後せんご公職こうしょく追放ついほうとなり[10]、1951ねん昭和しょうわ26ねん)8がつ18にち、73さい死去しきょ墓所はかしょ青山あおやま霊園れいえん(1イ5-22)。没後ぼつご、1953ねん角館かくのだてまち有志ゆうしからなる佐藤さとう義亮ぎりょう先生せんせい顕彰けんしょうかい銅像どうぞう朝倉あさくら文夫ふみお制作せいさく)を火除ひよ広場ひろば建立こんりゅう[11]。2000ねんには義亮ぎりょう顕彰けんしょう目的もくてきに「新潮社しんちょうしゃ記念きねん文学ぶんがくかん」が仙北せんぼく公共こうきょう文化ぶんか施設しせつとして建設けんせつされた[11]

家族かぞく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d 佐藤さとう義亮ぎりょうみ)サトウギリョウコトバンク
  2. ^ a b 佐藤さとう 義亮ぎりょうみ)サトウ ギリョウコトバンク
  3. ^ a b c d e f 佐藤さとう義亮ぎりょうしん東亜とうあ建設けんせつ誘導ゆうどうする人々ひとびと日本にっぽん教育きょういく資料しりょう刊行かんこうかい、1939ねん[ようページ番号ばんごう](リンクさき国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)
  4. ^ a b 蛯原えびはら八郎はちろう明治めいじ文学ぶんがく雑記ざっきがく而書いん、1935ねん、pp.115 - 116
  5. ^ 横田よこた好太郎こうたろう理系りけい企業きぎょう文系ぶんけい企業きぎょう: なにがどうちがうのか?』PHP研究所けんきゅうじょ、 2014ねん11月7にち、pp.175 - 176
  6. ^ 郷土きょうど偉人いじん佐藤さとう義亮ぎりょう生誕せいたん130ねん (PDF) - 新潮社しんちょうしゃ記念きねん文学ぶんがくかん仙北せんぼく総合そうごう情報じょうほうセンター、2008ねん8がつ
  7. ^ 大宅おおたく壮一そういち「ひとのみちとジャーナリズム」『大宅おおたく壮一そういち全集ぜんしゅう4』、p.92
  8. ^ a b 花田はなたおさむ門田かどたたかししょう編集へんしゅうおに斎藤さいとう十一といちというおとこ週刊文春しゅうかんぶんしゅん」と「週刊しゅうかん新潮しんちょうたたかうメディアのぜん内幕うちまく』PHP研究所けんきゅうじょ、2017ねん12月15にち[ようページ番号ばんごう]
  9. ^ 佐伯さえきおさむ解説かいせつ」『山窩さんかきている』(ちょ三角みすみひろし河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2014ねん7がつ4にち[ようページ番号ばんごう]
  10. ^ 公職こうしょく追放ついほう該当がいとう事項じこうは「新潮社しんちょうしゃちょうけんそう編輯へんしゅう」。(総理そうりちょう官房かんぼう監査かんさ へん公職こうしょく追放ついほうかんする覚書おぼえがき該当がいとうしゃ名簿めいぼ日比谷ひびや政経せいけいかい、1949ねん548ぺーじNDLJP:1276156 
  11. ^ a b 公共こうきょう文化ぶんか施設しせつ新潮社しんちょうしゃ記念きねん文学ぶんがくかん - 仙北せんぼく

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 高橋たかはし秀晴ひではる出版しゅっぱんたましい 新潮社しんちょうしゃをつくったおとこ佐藤さとう義亮ぎりょう牧野まきの出版しゅっぱん、2010ねん

関連かんれんしょ

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  • 栗田くりたかく也編『出版しゅっぱんじん遺文いぶん 新潮社しんちょうしゃ 佐藤さとう義亮ぎりょう栗田くりた書店しょてん 1968ねん
  • 佐藤さとう義亮ぎりょうきるちから新潮社しんちょうしゃ創業そうぎょうしゃいまも、将来しょうらいにもつうじる処世しょせい訓話くんわ広瀬ひろせ書院しょいん 2014ねん

関連かんれん人物じんぶつ

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外部がいぶリンク

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