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信夫しのぶきょう

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福島県道148号標識
信夫しのぶきょう歩道橋ほどうきょうから信夫山しのぶやまのぞ
地図
地図ちず

信夫しのぶきょう(しのぶばし)は、福島ふくしまけん福島ふくしまにある道路どうろきょうである。

概要がいよう

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福島ふくしま市街地しがいち南部なんぶながれる一級いっきゅう河川かせん荒川あらかわさい下流かりゅうかり、福島ふくしまけんどう148ごう水原みずはら福島ふくしません奥州おうしゅう街道かいどう)をとおす。北岸ほくがんやなぎまち南岸なんがん南町みなみまち位置いちし、はしのすぐ東側ひがしがわ阿武隈川あぶくまがわとの合流ごうりゅうてんがある。古今ここんつうじて福島ふくしま象徴しょうちょうするきょうであり、江戸えど時代じだいには福島ふくしま城下町じょうかまち玄関げんかんこうとして、現在げんざい福島ふくしま市街地しがいち玄関げんかんこうとして機能きのうしている。現在げんざいかかっているはし記録きろくのこ名前なまえけられた架橋かきょうとしては6代目だいめ、『信夫しのぶきょう』を名乗なのった橋梁きょうりょうしては現在げんざい4代目だいめにあたる1932ねん完成かんせいした全長ぜんちょう185.01 mのアーチきょうである。日本にっぽんひゃくめいきょうひとつに指定していされている。

歴史れきし

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北岸ほくがん福島ふくしま城下じょうかがわには水運すいうん拠点きょてん福島ふくしま河岸かわぎし奥州おうしゅう街道かいどうくだり)米沢よねざわ街道かいどう板谷いたや街道かいどうがあり、南岸なんがん方木田ほうきだむらがわには奥州おうしゅう街道かいどうのぼり)会津あいづはんりょうつうづる山王さんのうどう街道かいどう)が整備せいびされていたため当地とうち旧来きゅうらいより重要じゅうよう交通こうつう拠点きょてんであり、架橋かきょう以前いぜん須川すがわわたしというわたぶねにより須川すがわ荒川あらかわ旧称きゅうしょう)をわた往来おうらいがされてきた。

1688ねん貞享ていきょう5ねん)に現在地げんざいち記録きろくのこ名前なまえけられた架橋かきょうとしては初代しょだいはしである須川すがわきょう1704ねん元禄げんろく17ねんまで期間きかんけられた。木造もくぞうはしながさおよそ80メートル(43あいだ)であったとされる。

その1700年代ねんだいふたた木橋きばし架橋かきょうおこなわれ、わたたびに「ガンタラ、ガンタラ」とおとがすることからガンタラきょうばれていた。洪水こうずいにはゆかばんはず仕組しくみになっていた。

1873ねん明治めいじ6ねん)、初代しょだい信夫しのぶきょうにあたる全長ぜんちょう72 m、幅員ふくいん5.4 mのきょう建設けんせつされ、1874ねん明治めいじ7ねん8がつ竣工しゅんこうした[2]はし形状けいじょう当時とうじ江戸えど日本橋にほんばしていたことから信夫しのぶきょう福島ふくしま日本橋にほんばししょうされていた。しかし老朽ろうきゅうすすみ、1883ねん明治めいじ16ねん10月豪雨ごううにより落橋した。

ただちに県令けんれい三島みしま通庸みちつねけん土木どぼくはちとう出仕しゅっし原口はらぐち祐之ひろゆきえをめいじ、1885ねん明治めいじ18ねん7がつ15にち2代目だいめ信夫しのぶきょう竣工しゅんこうした。落橋の危険きけんすくないとされた石橋いしばしとして建設けんせつされ、ながやく191メートル(106あいだ)、幅員ふくいんやく7メートル(4あいだ)の13みちあいだ上路あげろしきたかしはらアーチきょうで、じゅうさん眼鏡橋めがねばしともばれしたしまれた[3]信夫しのぶぐん金谷かなや川村かわむらからした御影石みかげいし使つかい、うつくしい意匠いしょうから錦絵にしきえとして全国ぜんこく紹介しょうかいされた。予算よさんは5まんえん1884ねんから1886ねんまでの3年間ねんかんけんより支出ししゅつ)、そう工費こうひ 6まん7せん60えん63ぜに6りん巨額きょがく建設けんせつとうじられ、福島ふくしままちがわ北詰きたづめ)には西にしおやばしらづる ひがしおやばしらかめ彫刻ちょうこくなど豪華ごうか装飾そうしょくほどこされた。現在げんざいづる彫刻ちょうこく行方ゆくえ不明ふめいだが、かめ彫刻ちょうこくのち発見はっけんされ近隣きんりん民家みんか保存ほぞんされている。また、当時とうじおやばしら北側きたがわたもとの公園こうえんや、福島ふくしま市立しりつ福島ふくしまだいいち小学校しょうがっこうなどに移築いちく保存ほぞんされている。そのうつくしさから信夫しのぶきょうひがし錦帯橋きんたいきょうしょうされていたほどのきょうであった。しかし架橋かきょうから6ねん1891ねん明治めいじ24ねん6がつ荒川あらかわ記録きろくてき増水ぞうすいおそい落橋。眼鏡橋めがねばし河川かせん流域りゅういきせばめていたためであった。

1897ねん明治めいじ30ねん)にえがおこなわれ、3代目だいめ信夫しのぶきょう竣工しゅんこうした。洪水こうずいによる流失りゅうしつけるために、てつ混交こんこうしきトラスきょうとして架設かせつされた。全長ぜんちょうは191m、幅員ふくいんは5m[4]橋脚きょうきゃくなどには2代目だいめ信夫しのぶきょう使用しようしていたいしさい利用りようしていた。現在げんざいでも橋梁きょうりょう下部かぶに3代目だいめ信夫しのぶきょう橋脚きょうきゃくあとることができる。しかし木製もくせいトラス部分ぶぶん腐朽ふきゅうはじまり、10ねん1907ねん明治めいじ40ねん)に、この部分ぶぶん鋼鉄こうてつえられている[5]

1932ねん昭和しょうわ7ねん12月現在げんざい利用りようされている4代目だいめ信夫しのぶきょう竣工しゅんこうした[6]。2代目だいめ彷彿ほうふつとさせる鉄筋てっきんコンクリートみやつこ7みちあいだオープンスパンドレルアーチきょうはしである。欄干らんかんだい世界せかい大戦たいせんなか金属きんぞく資源しげんとして供出きょうしゅつされたが、1952ねん昭和しょうわ27ねん)の福島ふくしま国体こくたい開催かいさい平和へいわへのねがいをめてオリンピックの五輪ごりんしたデザインでつくられた。1984ねんはしだい規模きぼ改修かいしゅうされ、おやばしら照明しょうめいえなどがおこなわれたさい高欄こうらん全面ぜんめんてき模様替もようがえも検討けんとうされたが、はし歴史れきし尊重そんちょうする意見いけんおおかったためにのこされた経緯けいいがある。当時とうじ国道こくどう4ごうはしであり車道しゃどう歩道ほどう一体いったいだったが、交通こうつうりょういちじるしく増大ぞうだいしてきたため車道しゃどう拡幅かくふくする必要ひつようてきた。1971ねん昭和しょうわ46ねん)に歩道ほどうようはしされ現在げんざいかたちになっている。この工事こうじにより拡幅かくふくされた橋脚きょうきゃくにはかつての信夫しのぶきょう彷彿ほうふつとさせる石組いしぐみの模様もようがあしらわれている。その1972ねん昭和しょうわ47ねん)の国道こくどう4ごう福島ふくしまみなみバイパス開通かいつうにより、1988ねん昭和しょうわ63ねん)まで国道こくどう115ごうはしとして使つかわれ、国道こくどう115ごう福島ふくしま西にしバイパス全線ぜんせん開通かいつう国道こくどう指定していはずれ、福島ふくしまけんどう148ごう水原みずはら福島ふくしませんはしとなり現在げんざいいたる。

年表ねんぴょう

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となりはし

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上流じょうりゅう) - あづまきょう - 東北新幹線とうほくしんかんせん須川すがわ橋梁きょうりょう - 東北本線とうほくほんせん須川すがわ橋梁きょうりょう - 信夫しのぶきょう - (阿武隈川あぶくまがわへ)

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 信夫しのぶきょう1933-1-26 - 土木どぼく学会がっかい附属ふぞく図書館としょかん
  2. ^ 信夫しのぶきょう(須川すがわきょう)1874-8-28 - 土木どぼく学会がっかい附属ふぞく図書館としょかん
  3. ^ 信夫しのぶきょう1885-6-1 - 土木どぼく学会がっかい附属ふぞく図書館としょかん
  4. ^ 信夫しのぶきょう1897-3-3 - 土木どぼく学会がっかい附属ふぞく図書館としょかん
  5. ^ 福島ふくしまけん土木どぼく へん 『うつくしま土木どぼく建築けんちく歴史れきし発見はっけん』(1995ねん) 58ぺーじだい1ぎょう-だい7ぎょう
  6. ^ 福島ふくしま統計とうけいしょ 平成へいせい24ねんばん 福島ふくしま年表ねんぴょう 1ページ

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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座標ざひょう: 北緯ほくい3744ふん39.5びょう 東経とうけい14027ふん48.0びょう / 北緯ほくい37.744306 東経とうけい140.463333 / 37.744306; 140.463333