(Translated by https://www.hiragana.jp/)
児玉作左衛門 - Wikipedia コンテンツにスキップ

児玉こだまさく左衛門さえもん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

児玉こだま さく左衛門さえもん(こだま さくざえもん、1895ねん明治めいじ28ねん12月3にち - 1970ねん昭和しょうわ45ねん12月26にち)は、日本にっぽん解剖かいぼう学者がくしゃ人類じんるい学者がくしゃ北海道大学ほっかいどうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅアイヌ研究けんきゅうられる。秋田あきたけん鹿角かづのぐんまれ。

経歴けいれき

[編集へんしゅう]

1895ねん秋田あきたけん鹿角かづのぐん柴平しばひらむらげん鹿角かづの)にまれる[1]。1900ねんちち眼科がんか医院いいん開業かいぎょうとクリスチャンとしての宗教しゅうきょう教育きょういく目的もくてきとして、一家いっか函館はこだて移住いじゅう[2]函館はこだて中学校ちゅうがっこうだい高等こうとう学校がっこう東北とうほく帝国ていこく大学だいがく医学部いがくぶ進学しんがく[2]解剖かいぼうがく専攻せんこうし、スイス留学りゅうがくの1928ねんに「中枢ちゅうすう神経しんけい解剖かいぼうがくてき研究けんきゅう」で博士はかせ学位がくい取得しゅとく[2]翌年よくねん北海道ほっかいどう帝国ていこく大学だいがく医学部いがくぶ解剖かいぼうがくだい教室きょうしつ教授きょうじゅにんじられる[2]在任ざいにんちゅうにはのう医学いがく研究けんきゅうかたわら、アイヌ民族みんぞく人類じんるいがくてき研究けんきゅう関心かんしんち、和人わじんとアイヌの脳髄のうずい比較ひかく研究けんきゅう頭骨とうこつ比較ひかく研究けんきゅうなどをおこなう、そのもアイヌ文化ぶんかめぐ民俗みんぞくがく、アイヌの起源きげんさぐ考古学こうこがくへと研究けんきゅう対象たいしょうひろげ、学者がくしゃ生活せいかつ大半たいはんをアイヌ研究けんきゅうついやした。私財しざいとうじて蒐集しゅうしゅうしたアイヌにかんする膨大ぼうだい史料しりょうぐんは「児玉こだまコレクション」とばれる[2]

児玉こだま自身じしん広範こうはん関心かんしんにより、児玉こだま研究けんきゅうしつ業績ぎょうせきすうひゃくテーマにもおよび、医学部いがくぶせい以外いがい理学部りがくぶ文学部ぶんがくぶなどの学生がくせい薫陶くんとうけたといわれ、100めい弟子でし研究けんきゅうしゃとして輩出はいしゅつしている[1]。また、日本にっぽん解剖かいぼう学会がっかい日本人にっぽんじんるい学会がっかい重鎮じゅうちんとして役員やくいん歴任れきにん。1948ねん北海道新聞ほっかいどうしんぶん文化ぶんかしょう、1965ねん北海道ほっかいどう文化ぶんかしょう、1966ねんにはくんとう旭日重光章きょくじつじゅうこうしょう受章じゅしょうしている[1]

児玉こだまとアイヌ人骨じんこつ問題もんだい

[編集へんしゅう]

かつて、北海道大学ほっかいどうだいがく医学部いがくぶ標本ひょうほん陳列ちんれつだなには、動物どうぶつ標本ひょうほんならんで1000たい以上いじょうのアイヌ人骨じんこつ陳列ちんれつされていた。これら人骨じんこつ大半たいはんは、児玉こだま1933ねんころから北海道大学ほっかいどうだいがく医学部いがくぶ解剖かいぼう教室きょうしつちょうとして、その教室きょうしついんとともに蒐集しゅうしゅうしたものである[3]

アイヌ民族みんぞく明治めいじ以来いらい国内外こくないがい人類じんるい学者がくしゃ注目ちゅうもくあつめてきた。児玉こだまはアイヌの人類じんるいがくてき特徴とくちょう着目ちゃくもくし、純粋じゅんすい学術がくじゅつてき関心かんしんからアイヌ研究けんきゅう出発しゅっぱつさせた。そのなかで、近代きんだいによってアイヌと和人わじん混血こんけつがすすみ、純粋じゅんすいなアイヌがそのかずげんじつつあることに危機ききかんいた児玉こだまは、「純粋じゅんすいなアイヌの骨格こっかく蒐集しゅうしゅう」を急務きゅうむ課題かだいとすることとなった[4][5]

純粋じゅんすいなアイヌ人骨じんこつ入手にゅうしゅするために児玉こだまをつけたのは、アイヌの墓地ぼちこすことであった[6]。1930年代ねんだい北海道ほっかいどうもり八雲やくもだい規模きぼ墓地ぼち発掘はっくつおこなわれ[注釈ちゅうしゃく 1]戦後せんご静内しずないなどでアイヌ墓地ぼちかえす「調査ちょうさ」がおこなわれている[8]1934ねん昭和しょうわ9ねん)の八雲やくもでの発掘はっくつ皮切かわきりに、1939ねん昭和しょうわ14ねん)までのあいだに、北海道ほっかいどう樺太からふと千島ちしまでアイヌのはか発掘はっくつおこない、500以上いじょうのアイヌの人骨じんこつ収集しゅうしゅうした[8]児玉こだま自身じしん発掘はっくつすう以外いがいの「調査ちょうさ」の内容ないようあきらかにしておらず[2]わずかの金品きんぴんわたがたばかりの慰霊いれいおこなって強行きょうこうした事例じれい[注釈ちゅうしゃく 2]存在そんざいする。だが、当時とうじのマスコミや研究けんきゅう機関きかんからの批判ひはんされていない[10]。そのも、北海道新聞ほっかいどうしんぶん当初とうしょから児玉こだま業績ぎょうせきたたえる報道ほうどうおこなったため、児玉こだま動向どうこうほうずる記事きじは「偉大いだい児玉こだま教授きょうじゅのその」を広報こうほうする性格せいかくのものになっている[11]新聞しんぶん報道ほうどうにおいては児玉こだまとアイヌ人骨じんこつならべた写真しゃしんおおられ、児玉こだまにとって、頭蓋骨ずがいこつにした姿すがた敬遠けいえんするどころか、わざわざこのんでってもらいたかった構図こうずだったと推測すいそくされる[11]

その、アイヌや市民しみん団体だんたいからの再三さいさん指摘してきにより、1982ねんになって北海道大学ほっかいどうだいがく医学部いがくぶ標本ひょうほん保管ほかんされているアイヌ人骨じんこつ1004たい存在そんざい公表こうひょうした[注釈ちゅうしゃく 3]ウタリ協会きょうかい人骨じんこつ慰霊いれい追悼ついとうおこなうことをもとめ、世間せけん批判ひはんにもさらされた北大ほくだい医学部いがくぶは、1984ねん医学部いがくぶ構内こうないに「アイヌ納骨のうこつどう」を建立こんりゅうし、以来いらい毎年まいとし北大ほくだい関係かんけいしゃ参列さんれつしてアイヌ慰霊いれいさい(イチャルパ)がおこなわれている。しかし、北大ほくだい医学部いがくぶ現在げんざいも「人骨じんこつ標本ひょうほん」の学術がくじゅつてき成果せいかだてに、その蒐集しゅうしゅう過程かてい倫理りんりてき問題もんだいがあったことをみとめていない。

児玉こだまコレクション

[編集へんしゅう]

児玉こだまコレクションの全容ぜんようは『児玉こだま資料しりょう目録もくろく 1・2』(アイヌ民族みんぞく博物館はくぶつかん 1991ねん)『児玉こだまコレクション目録もくろく』(市立しりつ函館はこだて博物館はくぶつかん 1987ねんとう目録もくろくることができ、考古こうこ資料しりょう7157けん民族みんぞく資料しりょう5105けん合計ごうけい12262 けん児玉こだま教授きょうじゅ収集しゅうしゅう資料しりょうについては1014たいぶん人骨じんこつられている[2]。しかし、目録もくろく掲載けいさい資料しりょうもあり、その全体ぜんたいぞうはいまだ不明瞭ふめいりょうである[2]。コレクションの大半たいはんは、1998ねん平成へいせい10ねん)に市立しりつ函館はこだて博物館はくぶつかん一般いっぱん財団ざいだん法人ほうじんアイヌ民族みんぞく博物館はくぶつかん寄託きたく寄贈きぞうされている[2]

前述ぜんじゅつ人骨じんこつ問題もんだいからみ、コレクション自体じたい人骨じんこつ副葬品ふくそうひんであったり、盗掘とうくつ強引ごういん収奪しゅうだつによってあつめられたものではないかとの疑念ぎねんがあり[注釈ちゅうしゃく 4]、その学術がくじゅつてき評価ひょうかとはべつ批判ひはんにもさらされている[注釈ちゅうしゃく 5]

著書ちょしょ

[編集へんしゅう]
  • 中枢ちゅうすう神経しんけいけい小川おがわかなえさん共著きょうちょ 金原かなはら書店しょてん 1942 人体じんたい解剖かいぼう図譜ずふ
  • 人体じんたい解剖かいぼう図譜ずふ だい5かん (中樞ちゅうすう神経しんけいけい)』西成にしなりはじめ,小川おがわかなえさん共編きょうへん 日本にっぽん医書いしょ出版しゅっぱん 1948
  • 『モヨロ貝塚かいづか北海道ほっかいどう原始げんし文化ぶんか研究けんきゅうかい出版しゅっぱん 1948
  • 明治めいじぜん日本人にっぽんじんるいがく先史せんしがく アイヌ民族みんぞく研究けんきゅう(黎明れいめい)』明治めいじぜん日本にっぽん科学かがく刊行かんこうかいへん 日本にっぽん学術がくじゅつ振興しんこうかい 1971

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ アイヌ民族みんぞく運動うんどう結城ゆうき庄司しょうじ八雲やくもまち郷土きょうど資料しりょうかん学芸がくげいいんから、児玉こだま落部おちべのアイヌ墓地ぼち発掘はっくつしてた「研究けんきゅう資料しりょう」をイギリスに「輸出ゆしゅつ」し、それにたい落部おちべアイヌのべんひらきだこ次郎じろう抗議こうぎをした、というはなしを1982ねんいている[7]
  2. ^ しいひさけんは『北海道新聞ほっかいどうしんぶん』1982ねん10がつ10日とおかにおいて、児玉こだま発掘はっくつ慰霊いれいてる約束やくそくをしていたが墓標ぼひょうてただけですまし、くなったばかりの遺体いたいってってしまったとかたっている[9]
  3. ^ 2013ねん3がつ公表こうひょうされた『北海道大学ほっかいどうだいがく医学部いがくぶアイヌ人骨じんこつ収蔵しゅうぞう経緯けいいかんする調査ちょうさ報告ほうこくしょ』の巻末かんまつ資料しりょう3『北海道ほっかいどう帝国ていこく大学だいがく北海道大学ほっかいどうだいがく医学部いがくぶだい1講座こうざ解剖かいぼうがくだい2講座こうざ収蔵しゅうぞうアイヌ人骨じんこつ一覧いちらん(2012ねん12月4にち現在げんざい)』によれば、1049たいのうち35たい地域ちいきり、1004たいとなる。これには頭骨とうこつ一体いったいできなかったからだこつ484たいぶんはふくまれていない[12]
  4. ^ 北海道新聞ほっかいどうしんぶん』1969ねん7がつ30にちにおいて、児玉こだま八雲やくもまちから1936ねんに「アイヌめいきざんだ石碑せきひ」をして私蔵しぞうしていたために、返還へんかん要求ようきゅうけたことが報道ほうどうされている[13]
  5. ^ その死後しごにさえ、児玉こだまがある女性じょせい分娩ぶんべんをアイヌしきにやらせてその様子ようすをフィルムにおさめた、という証言しょうげんのこっていた[14]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b c 児玉こだま さく左衛門さえもん函館はこだてゆかりの人物じんぶつでん - 函館はこだて文化ぶんか・スポーツ振興しんこう財団ざいだん”. www.zaidan-hakodate.com. 2020ねん7がつ11にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f g h i 大矢おおやきょうみぎ児玉こだまコレクションの収集しゅうしゅう経過けいかとその周辺しゅうへん」『市立しりつ函館はこだて博物館はくぶつかん研究けんきゅう紀要きようだい27かん市立しりつ函館はこだて博物館はくぶつかん、2017ねん3がつ、1-40ぺーじ 
  3. ^ 伊藤いとう昌一しょういち日本人にっぽんじんるい学会がっかい日本にっぽん民族みんぞくがく協会きょうかい連合れんごう大会たいかい だい8かいごと日本人にっぽんじんるい学会がっかい日本にっぽん民族みんぞくがく協会きょうかい連合れんごう大会たいかい事務所じむしょ、1955ねん、P.89ぺーじ 
  4. ^ 植木うえき哲也てつや学問がくもん暴力ぼうりょく春風しゅんぷうしゃ、2008ねん、P.96ぺーじ 
  5. ^ 児玉こだまさく左衛門さえもん「アイヌ民族みんぞく生態せいたい」『日本にっぽん農村のうそん学会がっかい雑誌ざっしだい3かんだい4ごう日本にっぽん農村のうそん学会がっかい、1955ねん、1-6ぺーじdoi:10.2185/jjrm.3.4_1 
  6. ^ 小笠原おがさわら信之のぶゆき『アイヌきん現代げんだい読本とくほん緑風りょくふう出版しゅっぱん、2001ねん、P.220ぺーじ 
  7. ^ 結城ゆうき庄司しょうじ遺稿いこうチャランケ』くさふうかん、1997ねん、P.130ぺーじ 
  8. ^ a b 渡辺わたなべ左武郎さぶろう北海道ほっかいどう文化ぶんか21』北海道ほっかいどう文化財ぶんかざい保護ほご協会きょうかい、1971ねん、P.3ぺーじ 
  9. ^ 三木みきひかる『アイヌ民族みんぞく遺骨いこつ告発こくはつする』4大学だいがく合同ごうどう全国ぜんこく集会しゅうかい実行じっこう委員いいんかい、2019ねん、P.22-23ぺーじ 
  10. ^ 植木うえき哲也てつや学問がくもん暴力ぼうりょく春風しゅんぷうしゃ、2008ねん、P.200ぺーじ 
  11. ^ a b 東村あずまむらたけし「アイヌの頭蓋骨ずがいこつ写真しゃしん報道ほうどう意味いみするもの : 過去かこの「露頭ろとう」の発見はっけん発掘はっくつ」『国際こくさい開発かいはつ研究けんきゅうフォーラム』だい43かん名古屋大学なごやだいがく大学院だいがくいん国際こくさい開発かいはつ研究けんきゅう、2013ねん3がつ、1-16ぺーじdoi:10.18999/forids.43.1 
  12. ^ 三木みきひかる『アイヌ民族みんぞく遺骨いこつ告発こくはつする』4大学だいがく合同ごうどう全国ぜんこく集会しゅうかい実行じっこう委員いいんかい、2019ねん、P.6ぺーじ 
  13. ^ 三木みきひかる『アイヌ民族みんぞく遺骨いこつ告発こくはつする』4大学だいがく合同ごうどう全国ぜんこく集会しゅうかい実行じっこう委員いいんかい、2019ねん、P.25ぺーじ 
  14. ^ 新谷しんたにこう『コタンにきるひとびと』さんいち書房しょぼう、1979ねん、P.63ぺーじ 

関連かんれん文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 植木うえき哲也てつや学問がくもん暴力ぼうりょく アイヌのはかはなぜあばかれたか』春風しゅんぷうしゃ、2008ねん