(Translated by https://www.hiragana.jp/)
劉敞 - Wikipedia コンテンツにスキップ

りゅうたかし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

りゅう たかし(りゅう しょう、てん3ねん1019ねん)- 熙寧元年がんねん4がつ8にち1068ねん5月11にち))は、中国ちゅうごくきたそうじんむね時期じき後半こうはんえいむね時期じき活躍かつやくした経学けいがくもの歴史れきし学者がくしゃ政治せいじ官僚かんりょう)・文人ぶんじん文章ぶんしょう)で、当時とうじにおいて無類むるい博学はくがくほこった。げんちちわたしごうしておおやけ先生せんせいともばれた。きたそう中期ちゅうき代表だいひょうてき大夫たいふしゅとして経学けいがくしゃとしてられ、そうだい経学けいがくしん機軸きじくひらいた代表だいひょうてき学者がくしゃ一人ひとりおとうとりゅうりゅうたてまつとともにさんりゅうしんたとえさんりゅう)とばれた。

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

臨江ぐんしんたとえけんおぎはすほんぬきとするりゅう一族いちぞくなかもっと著名ちょめい人物じんぶつ

祖父そふりゅうしきちちりゅうたてこれち、おとうとりゅう攽、りゅうたてまつがいる。祖父そふりゅうしきふとしむね時期じきみがけかんこうとしてられた官僚かんりょうで、りゅう一族いちぞく出世しゅっせ気運きうんつくった。りゅうたてこれも5にん兄弟きょうだいとも科挙かきょとうだいし、りゅう一族いちぞく繁栄はんえい基礎きそかためをした。りゅうたかしりゅうりつ三男さんなんあに2にん早世そうせい)としてまれ、無類むるい博学はくがくによって当時とうじ著名ちょめい学者がくしゃとなった。

科挙かきょとうだい以前いぜんに、祖父そふちち関係かんけいから、すでおうおさむうめ堯臣といった著名ちょめい学者がくしゃ知遇ちぐうていたりゅうたかしは、けいれき6ねん1046ねん)に科挙かきょとうだいする(本来ほんらい首席しゅせきであったが、姻戚いんせき関係かんけいのあるおう堯臣が科挙かきょ試験しけん監督かんとく関与かんよしていたことから、嫌疑けんぎけてばんとなった)。以後いご、スピード出世しゅっせげ、8ねんいたり元年がんねん1054ねん)にはせいにまでいたる。翌年よくねんりょう使つかいしたが、このときのエピソードはよくられている。

従来じゅうらいりょうかうそう官僚かんりょうたいして、りょうしん僚はその版図はんとおおきさをしめためにわざと遠回とおまわりをすることがあった。そしてりゅうたかしのときにもおなじようにわざわざ遠回とおまわりをしてみせたのであった。ところが博識はくしきほこりゅうたかしりょう地理ちり熟知じゅくちしており、りょう官僚かんりょうかって、何故なぜ遠回とおまわりをするのかをぎゃくにききかえした。これにはりょう官僚かんりょうおどろくばかりであった。またりょう人々ひとびとさえもらぬ不思議ふしぎ動物どうぶつについても、りゅうたかし躊躇ためらうことなく説明せつめいし、りょうじんおおいにおどろかせたとわれている。

りょうより帰還きかんおう堯臣のまいり政事せいじ就任しゅうにんにともない開封かいふうより地方ちほうるが、数カ月すうかげつ召還しょうかんされた。このり、よしみゆう4ねん1059ねん)の科挙かきょにも関与かんよしている。

以後いごりゅうたかしななねんにわたりせい誥をつとめ、翰林かんりん学士がくし候補こうほとして期待きたいされながらも、宰相さいしょうとの衝突しょうとつ自身じしん病気びょうきなどのために永興りょうごぐん長安ながやす周辺しゅうへん地区ちく)の知事ちじとして地方ちほうまらざるをなくなった。じんむねさいすえねんよしみゆう8ねん1063ねん)、つい召還しょうかんされ、おうおさむ宰相さいしょうかんとのけいらいで翰林かんりん学士がくしへの昇格しょうかく期待きたいされたが、ひとしむね崩御ほうぎょによって延期えんきとなる。つづえいむねからは期待きたいされたようだが、りゅうたかし病気びょうきおもくなり、ふたた地方ちほうざるをなくなった。治平じへい3ねん1066ねん)に一旦いったん召還しょうかんされるも、翌年よくねんかみはじめ即位そくいとし、つまり熙寧元年がんねん(1068ねん)4がつ8にち官舎かんしゃにてそつした。享年きょうねん50。

りゅうたかしとその家系かけい

[編集へんしゅう]

りゅうたかし家系かけいてきめぐまれていた。祖父そふりゅうしきは、みなみとう遺臣いしんであったため、ふとし時期じきつかえるために開封かいふうがり、そこを根拠地こんきょちとした。しかしみなみとう遺臣いしんであることがネックになってか、有能ゆうのう官僚かんりょうとしてのしょうさんあたえられながらも、それほどの栄達えいたつ出来できなかった。しかしりゅうしきつまちんは、おっと死後しごもその蔵書ぞうしょぼくそう)をまもり、にん子供こどもたち勉学べんがくさづけた。これはみなみそう以後いごぼくそうりゅうばれる契機けいきあたえた。

りゅうしきにん息子むすこたちは、いずれも科挙かきょとうだいすると同時どうじに、往々おうおうにして名家めいかとの姻戚いんせき関係かんけいち、りゅう繁栄はんえい基礎きそきずいた。そのなかでもりゅうりつは、おうおさむうめ堯臣といった当時とうじ著名ちょめい学者がくしゃ文章ぶんしょう交遊こうゆうち、有力ゆうりょく人脈じんみゃくきずくことに成功せいこうした。

りゅうりつりゅうたかしりゅう攽は、祖父そふちちだいきずかれた地縁ちえん血縁けつえん利用りようしながらも、自身じしん科挙かきょとうだいし、経学けいがくしゃ文章ぶんしょう歴史れきしなどといった多様たよう才能さいのう開花かいかさせ、そうだい史上しじょう有数ゆうすう大夫たいふとしてめることになった。なおりゅうたかしりゅうたてまつくじしょ枢密院すうみついんごとにまでのぼったのが最高さいこうであった。

りゅうたかし以後いごりゅう一族いちぞくあまかんばしくなかった。りゅうたてまつもとゆう年間ねんかんさい末期まっきには有力ゆうりょく政治せいじとして活躍かつやくしていたが、げんゆう時代じだい旧法きゅうほうとう勢力せいりょくささえていた宣仁のぶひとふとしきさき崩御ほうぎょによって一挙いっきょ形成けいせい不利ふりになる。あきらむね親政しんせいによって開始かいしされた新法しんぽうにしたりゅうたてまつしょく辞任じにんするが、あきらそう時期じきおこなわれた旧法きゅうほうとう排除はいじょ政争せいそうため以後いご政和まさかず3ねん1113ねん)に73でそっするまで、地方ちほうめられたままであった。

きむ進撃しんげきによるきたそう政権せいけん壊滅かいめつやすしやすしへん)をけ、華北かほく展開てんかいしていたりゅう一族いちぞくふたた南方なんぽう本拠地ほんきょちうつす。とくほんぬきの臨江ぐん中心ちゅうしんとしつつ、なでしゅう金鶏きんけいなどにも一族いちぞく拡散かくさんさせる。みなみそう中頃なかごろには、しゅ交遊こうゆうしたことで著名ちょめいりゅう清之きよゆきりゅうたかし直系ちょっけいではなく、りゅうりつおとうとりゅう立徳りっとくいえだし)などがまれている。ただ全体ぜんたいとして、朝廷ちょうてい高官こうかんつらねるような学者がくしゃまれず、現在げんざいいたっている。ただ清朝せいちょう初期しょきにはみず西にししんたとえけん地名ちめい付近ふきんにはりゅうたかし末裔まつえいたちが居住きょじゅうしており、『さんりゅう全集ぜんしゅう』などを編纂へんさんしている。またその子孫しそんいまでもしんたとえけん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくになってしん余市よいち渝水改称かいしょう)にいるとされる。

著作ちょさく

[編集へんしゅう]

りゅうたかし経学けいがくしゃ歴史れきし学者がくしゃ文学ぶんがくしゃなどのかおがあるが、当時とうじいてもっとげたのは経学けいがくたいしてである。とくに『ななけい小伝しょうでん』は、そうだい経学けいがく先駆せんくてき役割やくわりたした書物しょもつとして当時とうじ人々ひとびとからも重視じゅうしされた。ただかれ本領ほんりょう春秋しゅんじゅうがくにある。かれは『春秋しゅんじゅう権衡けんこう』『春秋しゅんじゅうりん』『春秋しゅんじゅうりゅうでん』『春秋しゅんじゅうせつれい』『春秋しゅんじゅうぶんけん』なるいつつのしょあらわし、総合そうごうてき春秋しゅんじゅう研究けんきゅうおこなった。これらはそうだい春秋しゅんじゅうがく史上しじょう屈指くっし研究けんきゅうしょされている。

歴史れきしとしての業績ぎょうせきには、おとうとりゅう攽・りゅうたてまつとともに編纂へんさんした『三劉漢書刊誤』がられている。これは従来じゅうらいただかおいにしえちゅうにのみ依拠いきょしてまれていた『漢書かんしょ』を、全書ぜんしょわたる綿密めんみつみと、史書ししょとの総合そうごうてき関係かんけいから、はじめて独自どくじみの可能かのうせいしめしたものである。このような研究けんきゅうそうだい史学しがく研究けんきゅうおおきい影響えいきょうあたえたが、直接的ちょくせつてきにはこのしょぞうていをなしたひとしすぐるの『漢書かんしょかんあやま補遺ほい』などにがれた。原書げんしょすでに佚したが、現在げんざいでもあかりみなみかんほん漢書かんしょ』やそれを定本ていほんとしてつくられたおうさきけん漢書かんしょ補注ほちゅう』のなか見出みいだすことができる。

文学ぶんがくしゃとしてのりゅうたかしなかもっと特徴とくちょうてきなエピソードは、文章ぶんしょうつづるスピードがはやかったことである。当直とうちょくえる寸前すんぜんきゅうにんせいしょ依頼いらいされたりゅうたかしは、たちどころにここのつのせいしょ仕上しあげたが、どれも文章ぶんしょう典雅てんがで、各々おのおの相応ふさわしいものであったという。また当時とうじ名文めいぶんは、報酬ほうしゅうのこともあり、既知きち未知みちわず墓誌ぼしめい神道しんとうなどの故人こじん業績ぎょうせきたたえる文章ぶんしょうくのをつねとしたが、りゅうたかし親族しんぞくしたしい友人ゆうじんのためにしかそれらをかなかった。先輩せんぱいうめ堯臣の死後しご貧窮ひんきゅうあえ遺族いぞくために、うめ堯臣の依頼いらいされていた墓誌ぼしめい代筆だいひつしたことがあったが、依頼いらいぬし他人たにんためぶんかないりゅうたかしったことに、ぎゃくよろこんだといわれている。ただかれ文集ぶんしゅう雑文ざつぶん政治せいじ論文ろんぶんなどをあつめたもの)には『おおやけしゅう』なるものがあるが、当時とうじはそれほど流通りゅうつうしなかったとわれている。現在げんざいのものは、清朝せいちょうに『永楽えいらく大典たいてん』からさい編集へんしゅうしたものである。

りゅうたかし著作ちょさくとして、『おおやけ先生せんせい弟子でし』(『おおやけ弟子でし』)もある。これは当時とうじ学者がくしゃあいだ問題もんだいとなっていたトピックスを問答もんどうたいろんじたものである。また『南北なんぼくあさ雑記ざっき』『きょくぼつよう緊』などのしょもあるが、これらはりゅうたかし自著じちょであるかあきらかにしがたい。とく後者こうしゃ偽作ぎさくわれている。

伝記でんき史料しりょう

[編集へんしゅう]
  • りゅう攽「あさ散大さんだいおっときゅうごとちゅうしゅうけん学士がくしけんばん南京なんきん留守るすだいりゅうこう行状ぎょうじょう」(『彭城しゅうまき35)
  • おうおさむあつまりけんいん学士がくしりゅうこう墓誌ぼしめい」(『おう文忠ふみただおおやけ全集ぜんしゅうまき35)
  • だつだっとう奉勅ほうちょくせんそうふみまき319「りゅうたかしでん
  • おうしょう東都とうとことりゃくまき76「りゅうたかしでん
  • しゅへん三朝みささめいしん言行げんこうろく』(まき4・しゅうけん学士がくしりゅうこうたかし
  • ちょうしょうえいりゅうたかし年譜ねんぷ」(『そうじん年譜ねんぷくさむらかんだい4さつ四川しせん大学だいがく出版しゅっぱんしゃ