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加藤かとう時次郎ときじろう

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加藤かとう 時次郎ときじろう(かとう ときじろう、安政あんせい5ねん1がつ1にち1858ねん2がつ14にち)- 昭和しょうわ5ねん1930ねん5月30にち)は、日本にっぽん医師いし社会しゃかい運動うんどう

豊前ぶぜんこく田川たがわぐん香春かわらげん福岡ふくおかけん香春かわらまちまれ。吉松よしまつせい名乗なのっていたが、幼少ようしょう時代じだい加治かじ改姓かいせい大正たいしょう9ねん1920ねん)に加治かじ復姓ふくせいしており、ほん項目こうもくもちいられている加藤かとうせいであったのは加藤かとう婿養子むこようしはいった明治めいじ16ねん1883ねん)から37年間ねんかん期間きかんである(ただし、縁組えんぐみ自体じたい明治めいじ26ねん1893ねん)の離婚りこんによって破綻はたんしている)。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

明治めいじ8ねん1875ねん)、医師いしであったちちあとぐべく叔父おじたよって上京じょうきょう、ドイツ医学いがくなどをまなんで明治めいじ16ねん1883ねん)に医師いし開業かいぎょう試験しけん合格ごうかくして京橋きょうばし採用さいようされて医療いりょう防疫ぼうえき活動かつどうにあたる。明治めいじ19ねん1886ねん)、千住せんじゅまち病院びょういん開業かいぎょうする。明治めいじ21ねん1888ねん)からドイツ留学りゅうがくして学位がくい取得しゅとくする。このとき社会しゃかい主義しゅぎ思想しそうせっした。明治めいじ23ねん1890ねん)に帰国きこくすると、京橋きょうばしにてさい開業かいぎょうしている。

明治めいじ34ねん1901ねん)、われて東京とうきょうかい議員ぎいん補欠ほけつ選挙せんきょ出馬しゅつばして落選らくせん、この選挙せんきょをきっかけに矢野やの竜渓りゅうけい片山かたやません幸徳こうとく秋水しゅうすいらと関係かんけいち、矢野やの社会しゃかい問題もんだい講究こうきゅうかいさかい幸徳こうとく社会しゃかい主義しゅぎ研究けんきゅうかい参加さんかした。その幸徳こうとくさかい利彦としひことともに平民へいみん新聞しんぶん日本にっぽん社会党しゃかいとう結成けっせいしたときにはその有力ゆうりょく資金しきん提供ていきょうしゃになるとともに、どう活動かつどう支援しえんする「直行ちょっこうだん」や消費しょうひ組合くみあい共同きょうどうかい」を結成けっせいした。だが、こうした活動かつどう当局とうきょくからにらまれたことから、明治めいじ39ねん1906ねん)ヨーロッパの医療いりょう事情じじょう視察しさつ名目めいもく日本にっぽんはなれた。途中とちゅうシュトゥットガルト開催かいさいちゅうであっただいインターナショナル日本にっぽん代表だいひょうとして参加さんか現実げんじつてき社会しゃかい改良かいりょう主義しゅぎ必要ひつようせい痛感つうかんして帰国きこくした。明治めいじ41ねん1908ねん)の帰国きこく幸徳こうとくらとの関係かんけいつづいたが、幸徳こうとく直接ちょくせつ行動こうどうろんには同調どうちょうしなかったために大逆だいぎゃく事件じけんにおいてもつみわれることはかった。

大逆だいぎゃく事件じけん政府せいふによる済生会さいせいかい構想こうそうあきらかになると、加藤かとう当時とうじ医師いしかい主導しゅどう決定けっていされた高額こうがく診療しんりょう報酬ほうしゅうもとづく医療いりょうではなく、もっと安価あんかてい所得しょとくしゃでも医療いりょうけられる仕組しくみ民間みんかんでもつくるべきだとかんがえ、かつて旅行りょこうさき議論ぎろんおこない、立場たちばちがうものの社会しゃかい改良かいりょう必要ひつようせいについては意見いけん一致いっちした王子製紙おうじせいしもと専務せんむ鈴木すずきうめ四郎しろうたずねて相談そうだんちかけた。鈴木すずき加藤かとう計画けいかくによって安価あんかでかつ採算さいさんせいれる医療いりょう可能かのうであるとかんがえて協力きょうりょく約束やくそく明治めいじ44ねん1911ねん社団しゃだん法人ほうじん実費じっぴ診療しんりょうしょ開設かいせつして、鈴木すずき理事りじちょう加藤かとう医務いむちょうとなり、だいいちごう医院いいん加藤かとう病院びょういんない開設かいせつした。

加藤かとう大正たいしょう3ねん1914ねん)に『生活せいかつちから』(のちに『平民へいみん』)を創刊そうかん翌年よくねんには自己じこ病院びょういん改組かいそして平民へいみん病院びょういん開設かいせつして実費じっぴ診療しんりょうしょ理念りねん拡大かくだいつとめるとともに、「平民へいみん食堂しょくどう」「平民へいみん法律ほうりつしょ」などちゅうてい所得しょとくしゃたいする社会しゃかい事業じぎょうくした。また、晩年ばんねんせん運動うんどう産児さんじ制限せいげん運動うんどうでも活躍かつやくした。墓所はかしょ池上本門寺いけがみほんもんじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 藤井ふじい松一しょういち加藤かとう時次郎ときじろう」(『国史こくしだい辞典じてん 3』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1983ねんISBN 978-4-642-00503-6
  • 成田なりた龍一りゅういち加藤かとう時次郎ときじろう」(『日本にっぽん歴史れきしだい事典じてん 1』(小学館しょうがくかん、2000ねんISBN 978-4-09-523001-6
  • 青柳あおやぎ精一せいいち診療しんりょう報酬ほうしゅう歴史れきし思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、1996ねんISBN 978-4-7842-0896-8 P348-349

関連かんれん書籍しょせき[編集へんしゅう]

  • だい牟田むた太朗たろう加治かじ時次郎ときじろう生涯しょうがいとその時代じだいとりかげしゃ、2014ねん
  • 多賀たが須幸おとこ加治かじ時次郎ときじろうについて」『日本にっぽん史学しがく雑誌ざっしだい60かんだい4ごう日本にっぽん学会がっかい、417-419ぺーじ、2014ねんhttp://jsmh.umin.jp/journal/60-4/index.html 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]