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厨子ずし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
壺屋つぼやしょう厨子ずし、19世紀せいき琉球りゅうきゅう王国おうこくだいしょう時代じだいさく東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん所蔵しょぞう

厨子ずし(ずしがめ、かたおん:ジーシガーミ)は、沖縄おきなわけん中心ちゅうしんとした南西諸島なんせいしょとう地域ちいきられるぞうこつほねつぼ

概要がいよう

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沖縄おきなわでは、古来こらいより死者ししゃがけ洞窟どうくつはこんで風葬ふうそうにする風習ふうしゅうがあった。これがのちに風葬ふうそうあらいこつばれる遺体いたいほねあらって、遺骨いこつぞうこつおさめる風習ふうしゅうへと発展はってんする。このぞうこつ厨子ずしである。沖縄おきなわでは、戦前せんぜんまで火葬かそう仏教ぶっきょう僧侶そうりょ以外いがい一般いっぱんてきではなかった。

厨子ずしは、あらいこつ遺骨いこつをまるごとおさめる容器ようきであるため、日本にっぽん本土ほんど一般いっぱんられる火葬かそうようほねつぼ比較ひかくすると、かなり大型おおがたである。また、かつては夫婦ふうふごうそう親子おやこごうそうなども一般いっぱんてきであったため、二人ふたりぶんほねおさめるおおきさが必要ひつようであった。戦後せんごは、沖縄おきなわけんでも火葬かそう普及ふきゅうしたため、今日きょうでは火葬かそうよう小型こがた厨子ずし販売はんばいされている。

厨子ずしは、遺骨いこつおさめるというその性質せいしつじょう元来がんらい人目ひとめれるようなものではなかったが、廃藩置県はいはんちけん、まずバジル・ホール・チェンバレンによって、その芸術げいじゅつてき民俗みんぞくがくてき価値かちたか評価ひょうかされた。また、昭和しょうわはいると、やなぎ宗悦むねよし濱田はまだ庄司しょうじひとし民藝みんげい運動うんどうとおして、厨子ずし沖縄おきなわ陶器とうき代表だいひょうするジャンルのひとつとして、その芸術げいじゅつてき価値かちみとめられるようになった。

戦後せんごは、火葬かそう普及ふきゅうとともに、本来ほんらいぞうこつほねつぼ)としての需要じゅよう減少げんしょう傾向けいこうにあり、厨子ずし制作せいさくできる陶工とうこうすくなくなってきている。しかし、その一方いっぽうで、上江洲うえず茂生しげおとうのように厨子ずし伝統でんとうてき芸術げいじゅつてき価値かち重要じゅうようせい認識にんしきし、厨子ずし制作せいさくにこだわりつづける陶工とうこうもいる。また、近年きんねんでは本来ほんらい用途ようとちがった、インテリアの一種いっしゅとして厨子ずしもとめるひとあらわれてきている。

分類ぶんるい

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厨子ずし素材そざいとしては、木製もくせいいしせい陶製とうせいとうがあり、それぞれのタイプの出現しゅつげん時期じきおおむねこの順番じゅんばんである。またかくタイプの厨子ずし材質ざいしつかたかたちによってさらにこまかく分類ぶんるいされる。

いた厨子ずし

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いた厨子ずし複製ふくせい

いわゆるかんである。しゅとうかんに6~10ほんそとあしく。本体ほんたい唐櫃からびつによくかたちをしており、ぶた屋根やねかたちをしている。ひゃく按司今帰仁なきじんむら)に、金色きんいろともえもんかざられた弘治こうじ13ねん(1500ねんめいりのいた厨子ずしがあったという(『中山なかやまならびに『たま』のなおちゅうおうじょう)。また、初期しょき浦添うらぞえようどれなおともえこころざしおうだい改修かいしゅうまえ)の遺構いこうからの出土しゅつどれいもある。

いし厨子ずし

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  • 閃緑がん
浦添うらぞえようどれの1ごうせき厨子ずし(閃緑岩石がんせき厨子ずし
中国ちゅうごく福建ふっけんしょうさん閃緑がん使用しようしたいし厨子ずしで、だいしょうおうみつるだい3だいなおおう時代じだい集中しゅうちゅうする。完成かんせいがた浦添うらぞえようどれ4たまりょう4伊是名いぜなだまりょう2小禄ころくはか1がある。てん山陵さんりょうなおともえこころざし)にもいし厨子ずし基壇きだん台座だいざ)の部分ぶぶんだけ残存ざんそんしている。本体ほんたいには法師ほうしぞう蓮華れんげ動物どうぶつとう高度こうど技法ぎほう彫刻ちょうこくされ、宝珠ほうしゅいただ屋根やねかわらんだよせとう入母屋いりもや屋根やねく。
  • 石灰岩せっかいがん
石灰岩せっかいがんせいせき厨子ずしかんひろし33ねん(1694ねんめい
たまりょうにあるなおおうだい4だいなお清王せいおういし厨子ずし石灰岩せっかいがんせいで、そのだい5だいなおもとおうだい6だいなおながおうだい8だいなおゆたかおうだい9だいなおけんおうだい10代なおしつおうだい11だいなおさだおうだい12だいなおえきおうまでのやく200年間ねんかんにわたる歴代れきだい国王こくおうとそのなおえき王妃おうひのぞく)のいし厨子ずしもすべて石灰岩せっかいがんせいである(だい7だいなおやすしおう厨子ずし浦添うらぞえようどれ)。
屋根やね入母屋いりもやで、本体ほんたいはごく一部いちぶのぞいて彫刻ちょうこくき、立派りっぱ彫刻ちょうこくきざんだなおえんおうの閃緑がんせいせき厨子ずしくらべると、全体ぜんたい簡素かんそつくりで見劣みおとりする。そのわり、なおもとと、なおゆたかからなおえきまでのかく国王こくおういし厨子ずしには、地蔵じぞうぞう瑞雲ずいうんひとし彩色さいしきえがかれている。
  • 凝灰岩ぎょうかいがん
鹿児島かごしまから輸入ゆにゅうされたとみられる凝灰岩ぎょうかいがんせいいし厨子ずしで、かずおおくない。1609ねん薩摩さつま侵攻しんこう以降いこうのものと推定すいていされている。1800年代ねんだい以降いこう確認かくにんされていない。
  • サンゴ石灰岩せっかいがん
一般いっぱんにはうみせきとも軽石かるいしともわれるが、そのとお乾燥かんそうするとかるい。このいし中城なかぐすくむら北中城きたなかぐすくむらひとし沖縄おきなわ本島ほんとう中部ちゅうぶ東海岸ひがしかいがん地域ちいきおお採取さいしゅされることから、サンゴ石灰岩せっかいがんせいいし厨子ずしもこの地域ちいきおおられる。元来がんらい支配しはいしゃそういし厨子ずしられるが、のちに庶民しょみんそうにも普及ふきゅうした。17世紀せいきせいのものは入母屋いりもやたんそう屋根やね装飾そうしょくすくなく簡素かんそであるが、18世紀せいきなか以降いこうのものは屋根やね重層じゅうそうになり、しゃちほこくものがえてくる。20世紀せいき前半ぜんはんまでつくられた。

がた

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ボージャー厨子ずしかんひろし9ねん(1670ねんめいり。
  • ボージャー厨子ずし
17世紀せいき後半こうはんになると陶製とうせい厨子ずし出現しゅつげんしはじめるが、ボージャー厨子ずしはその嚆矢こうしかざるものである。かんひろし9ねん1670ねん)のめいはいった喜名きなしょうボージャー厨子ずし発掘はっくつされている。ボージャー厨子ずしは、全体ぜんたい装飾そうしょくすくなくまるみをびた簡素かんそ姿すがたが「禿坊主ぼうず」を想起そうきさせることから、このいたとおもわれる。どうにはかわら屋根やねきの入口いりくちけがある以外いがい、ほかは蓮華れんげなどのせんりがある程度ていど全体ぜんたい印象いんしょう素朴そぼくである。ぶたかさじょう頂上ちょうじょう宝珠ほうしゅやそれを扁平へんぺいにしたようなかたちのつまみがく。1730年代ねんだい以降いこうになると、あかっぽいおおくなり、全体ぜんたいあつぼったく、せんりもすくなくなる。1770年代ねんだい以降いこうあまりられなくなる。
  • マンガン厨子ずし
ボージャー厨子ずしわるように、1770年代ねんだいから出現しゅつげんしはじめ、戦後せんごまでつくられた。マンガンけのしょう厨子ずしである。マンガンをけると、全体ぜんたいくろっぽいいろになる。このタイプは陶製とうせい厨子ずしのうちでもかずうえでもっともおおく、初期しょきには上流じょうりゅうけもつくられたが、のちにはもっぱら庶民しょみんけのものとなった。時代じだいくだるにつれて、どうくちおおきくなり全体ぜんたいのシルエットも細身ほそみになる。ぶたはボージャー厨子ずしのように、宝珠ほうしゅやつまみがいただき上部じょうぶき、ぶたたかさはのちになると次第しだいたかくなる傾向けいこうがある。装飾そうしょくけとせんりを適当てきとうぜたものがおおい。
  • マンガンひさしつき厨子ずし
マンガン厨子ずしよりすこおくれて登場とうじょうする。どうまわりにかわら屋根やねひさしもうけ、さらに蓮華れんげ法師ほうしぞう普通ふつうはな装飾そうしょくどうけ、ぶたひさしうえにはりゅう獅子ししける。非常ひじょう装飾そうしょくゆたかでっているが、ものによってはグロテスクにかんじられるほど装飾そうしょく過多かたもある。このタイプは18世紀せいきまつから昭和しょうわ10年代ねんだいまでつくられた。制作せいさくかるため、おも中流ちゅうりゅう以上いじょうけの厨子ずしである。

御殿ごてんがた

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  • あかしょう御殿ごてんがた厨子ずし
あかしょう御殿ごてんがた厨子ずし(1776ねん
いえがたをした陶製とうせい厨子ずし御殿ごてん(うどぅん)がたぶが、あかしょう御殿ごてんがた厨子ずし御殿ごてんがた最初さいしょ出現しゅつげんするタイプである。時期じきは18世紀せいき前半ぜんはんからで、それ以前いぜんいし厨子ずしをそのまま陶製とうせいにしたようなかたちをしている。ぶた屋根やねかたちをしていて初期しょきのものは入母屋いりもやで、どう前面ぜんめんに2たい法師ほうしぞうけられている。屋根やねにはかわらきざまれておらず、しゃちほこもちいさめでかたち姿すがた稚拙ちせつである。
ぶたよせとうかたちをしたタイプはいぬいたかし年間ねんかんの1770年代ねんだい集中しゅうちゅうし、かわらまれしゃちほこのしたには獅子頭ししがしら鬼瓦おにがわらき、どうには法師ほうしぞうが2ないし4たいけられている。正面しょうめん中央ちゅうおうには入口いりくちをかたどったあな穿うがたれている。全面ぜんめん石灰せっかい塗装とそうほどこし、そのうえから蓮華れんげ幾何きかがく紋様もんようしゅすみえがいている。
  • あらしょう御殿ごてんがた厨子ずし
あかしょう御殿ごてんがたつぎ登場とうじょうするタイプである。全面ぜんめんにマンガンをくろっぽくしょうしている。屋根やねのしゃちほこにはうろこをつけ、どうには法師ほうしぞう蓮華れんげけるなど、前代ぜんだいよりかたちととのった、よりんだ仕上しあがりとなっている。屋根やねそうになったものがおおく、かわらえがき、入母屋いりもやもしくは切妻きりづま変形へんけいおもわれるかたちをしている。時期じきは19世紀せいき前半ぜんはんから中頃なかごろ集中しゅうちゅうしている。
  • うえしょうほん御殿ごてんがた厨子ずし
うえしょうほん御殿ごてんがた厨子ずし
釉薬をけたタイプである。化粧けしょうけのうえに、あめ釉(飴色あめいろ)、みどり釉(緑色みどりいろ)、呉須ごす(コバルトしょく)をもちいた色彩しきさいゆたかなものがおおい。屋根やねよせとう重層じゅうそうになった入母屋いりもや変形へんけいで、しゃちほこをせ、獅子ししりゅう屋根やねうえはいしている。どうには蓮華れんげべんはなける。
たまりょうにあるなおけいおう以降いこう歴代れきだい国王こくおう厨子ずしはこのタイプで、屋根やねなおけいおう入母屋いりもや、それ以降いこうよせとうでいずれもたんそうである。しゃちほこは大型おおがたかわら丹念たんねんまれている。全体ぜんたいあめ釉をけ、どうには蓮華れんげけ、正面しょうめん中央ちゅうおう国王こくおうめい金箔きんぱくしている。このタイプの厨子ずし厨子ずしちゅう白眉はくびである。
  • うえしょうツノがた厨子ずし
ほん御殿ごてんがたよりすこおくれて登場とうじょうする。みちこう12ねん(1832ねん)のめいのものがふるく、明治めいじ8、9ねんごろからきゅうおおくなり、昭和しょうわ14、15ねんまでつくられた。このタイプはぞくに「ソーベー」とばれた。ソーベーとは商売しょうばいようつくったものので、てんじてやすっぽいもののことをいう。しろ化粧けしょうけのうえに、コバルトやあめ釉、みどり釉などで着色ちゃくしょくし、には色彩しきさいゆたかでうつくしい。
ぶた重層じゅうそう屋根やねかたちをしていてたかさは極端きょくたんたかくなり、屋根やね各部かくぶには釉でツノじょう突起とっきがある。ツノは3ほん1くみのものがおおく、じゅうすうくみある。かまないでこのツノのうえさらわんせて、かぎられたスペースを最大限さいだいげん活用かつようしてたくさんの作品さくひんくためのものである。これによって厨子ずしのコストがやすくなる。
  • コバルト厨子ずし
西洋せいようコバルトを全面ぜんめんけたもので、あざやかな青色あおいろをしている。これに一部いちぶあめ釉をけてしょく彩色さいしきしているものもある。時期じき西洋せいようコバルトが大量たいりょう日本にっぽん輸入ゆにゅうされるようになった明治めいじ以降いこうで、明治めいじ34、5ねんから戦後せんごまでつくられた。とく大正たいしょうおおい。かたちはツノがたているが、ツノはなくこちらのほうが高価こうかである。しゃちほこ、獅子しし龍頭りゅうずとうけもおお装飾そうしょくゆたかである。

その

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厨子ずしとして最初さいしょから製作せいさくされたもの以外いがいに、はなばち水甕みずがめあぶらなど日常にちじょうざつ厨子ずしだい用品ようひんとして使つかわれたりもした。またてら和尚おしょう火葬かそうののち、小型こがたほねつぼのこはいおさめた。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 上江洲うえずひとし沖縄おきなわらしとみんけいぶんしゃ 1982ねん
  • 沖縄おきなわ県立けんりつ博物館はくぶつかん美術館びじゅつかんへん『ずしがめの世界せかい沖縄おきなわ県立けんりつ博物館はくぶつかん美術館びじゅつかん 2008ねん

関連かんれん項目こうもく

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