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井垣いがきたけし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
井垣いがき たけし
毎日まいにちオリオンズ時代じだい(1950ねん撮影さつえい
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 鳥取とっとりけん米子よなご
生年月日せいねんがっぴ (1921-07-01) 1921ねん7がつ1にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1999-01-25) 1999ねん1がつ25にち(77さいぼつ
身長しんちょう
体重たいじゅう
164 cm
64 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうみぎ
ポジション 捕手ほしゅ一塁いちるいしゅ三塁手さんるいしゅ外野がいやしゅ
プロ 1940ねん
はつ出場しゅつじょう 1940ねん
最終さいしゅう出場しゅつじょう 1957ねん
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
選手せんしゅれき
コーチれき

井垣いがき たけし(どいがき たけし、1921ねん7がつ1にち - 1999ねん1がつ25にち)は、鳥取とっとりけん米子よなご出身しゅっしんプロ野球やきゅう選手せんしゅ捕手ほしゅ)・コーチ解説かいせつしゃ評論ひょうろん

のち若松わかまつ(わかまつ)と改姓かいせい。なお、せいみはどいがきではなくただしくはどいかいとむとうが、なかなかまさしくんでもらえず、そのまま「どいがき」でとおしたと[1]

りょうリーグ分立ぶんりつ前後ぜんこう代表だいひょうする捕手ほしゅで、1947ねんから1952ねんまで6ねん連続れんぞくベストナイン獲得かくとく熱血ねっけつてき性格せいかくからニューヨーク・ヤンキース往年おうねんめい捕手ほしゅにあやかって和製わせいヨギ・ベラばれた。末弟ばっていパシフィック・リーグ審判しんぱんながらくつとめた井垣いがき幸男ゆきおがいる。

経歴けいれき

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おさなころから大阪おおさか鉄道てつどうきょく米子よなご野球やきゅうのマスコットてき存在そんざいとして可愛かわいがられていた。旧制きゅうせい米子よなご中学校ちゅうがっこうでは下級生かきゅうせいときから主軸しゅじくち、5年生ねんせい1939ねんなつ甲子園こうしえん主将しゅしょうとしてベスト8に進出しんしゅつしたが、しま清一せいいち真田さなだ重蔵しげぞうようする海草かいそうちゅうやぶれた(このときおもゆうげきまもっていたのが、1後輩こうはい長谷川はせがわよしさん)。下級生かきゅうせいときは、2先輩せんぱい木下きのしたいさむともバッテリーをんでいた。

1940ねん大阪おおさかタイガース契約けいやくきん500えん入団にゅうだんせい捕手ほしゅ田中たなか義雄よしおひかえとして一塁いちるい三塁さんるいまもった。戦後せんご1946ねんにシーズン安打あんだすう2[2]打率だりつ.325でリーグ3かがや活躍かつやくせ、「ダイナマイト打線だせん」とばれた大阪おおさか打撃だげきじんなかで、3ばん別当べっとうかおる、4ばん藤村ふじむら富美男ふみおクリーンナップ構成こうせいし5ばんった。1948ねん打率だりつ.285でリーグ8はいると、1949ねんには打率だりつ.328(リーグ4)、本塁打ほんるいだ16ほん打点だてん86と自己じこ最高さいこう成績せいせき記録きろく。また、当時とうじ大阪おおさか投手とうしゅじん若林わかばやし忠志ただし園生えんせい崇男たかおらエースきゅう投手とうしゅをリードして、屋台骨やたいぼねささえた。

1949ねんオフに毎日まいにちオリオンズ移籍いせき。この移籍いせき10ねん選手せんしゅ制度せいどによるもので、移籍いせき理由りゆう大阪おおさかフロントにたいする不信ふしんかんであり、土井どいかきは「先輩せんぱい選手せんしゅへの球団きゅうだんつめたい対応たいおう不信ふしんかんった。新生しんせい球団きゅうだん捕手ほしゅ生命せいめいけたい」とかたっている[3]。この移籍いせきについて、若林わかばやし別当べっとうあきらせい本堂ほんどう保次やすじ大館おおだてくんらと同調どうちょうしたとされることがあるが、移籍いせき決定けってい時期じきとき系列けいれつてき若林わかばやしらよりまえで、移籍いせき土井どいかき単独たんどくめたことであり、若林わかばやし土井どいかき移籍いせきまった予期よきしていなかった。なお、この大量たいりょう移籍いせきさいして大阪おおさか残留ざんりゅう要請ようせいをしたのは土井どいかきだけだったという[3]

移籍いせきした1950ねん打率だりつ.322でリーグ5はい活躍かつやくせ、日本にっぽんシリーズでは松竹しょうちくロビンスやぶ初代しょだい日本一にっぽんいち貢献こうけんした(このとき監督かんとくべい子中こなか先輩せんぱいにあたる湯浅ゆあさ禎夫さだお)。そのばんって1952ねんまで6ねん連続れんぞくでベストナイン捕手ほしゅ獲得かくとくつづける。1953ねんに92試合しあい出場しゅつじょうとどまって打率だりつ.264と成績せいせきとすと、1954ねん毎日まいにちハワイからチャーリー・ルイス獲得かくとくしたことから、土井どいかき東映とうえいフライヤーズ移籍いせきする。東映とうえいでは鈴木すずきけい一郎いちろうからせい捕手ほしゅうばよんばんはいってチームトップの打率だりつ.289(リーグ11)と復活ふっかつするが、よく1955ねん鈴木すずき併用へいようされるようになって、オフには自由じゆう契約けいやくとなる。1956ねんから阪急はんきゅうブレーブスでプレーし、1958ねんかぎりで現役げんえき引退いんたい

引退いんたいPL教団きょうだんコーチをつとめ、野田のだただしみのる米田よねだけい三郎さぶろう指導しどう朝日放送あさひほうそう解説かいせつしゃ報知ほうち新聞しんぶん運動うんどう記者きしゃて、阪神はんしんぐんバッテリーコーチ(1963ねん)・一軍いちぐん打撃だげきコーチ(1964ねん)をつとめた。

その京都きょうと西陣にしじん西陣織にしじんおりあつかう「若松わかまつ創業そうぎょうしゃ染色せんしょく図案ずあんである、初代しょだい若松わかまつはなよう(わかまつ かよう)のむすめ舞踊ぶようげん;2代目だいめ若松わかまつはなよう)と結婚けっこん同時どうじ若松わかまつ養子ようし縁組えんぐみし、その若松わかまつ」の3代目だいめ社長しゃちょうつとめた。また並行へいこうして近畿放送きんきほうそうげん京都きょうと放送ほうそう解説かいせつしゃつとめていた時期じきもあったが、1999ねん1がつ25にち肺炎はいえん死去しきょまん77さいぼつ

選手せんしゅとしての特徴とくちょう

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強肩きょうけん強打きょうだつよ捕手ほしゅとして、戦前せんぜん巨人きょじん捕手ほしゅであった吉原よしはら正喜まさよし再来さいらいしょうされる。本人ほんにんも、手本てほんにしたのは吉原よしはらであり、すべて吉原よしわら技術ぎじゅつからまなんだとべている[4]

ファーストミットみのうすミット愛用あいようし、リード・キャッチング・スローイングのいずれにもすぐれた。また、ややバットをかせ気味ぎみにしたフォームからの右中間うちゅうかんねらいのバッティングでこう打率だりつのこした[5]

詳細しょうさい情報じょうほう

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年度ねんどべつ打撃だげき成績せいせき

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とし

たま

だん
ためし

ごう


せき


かず
とく

てん
やす


るい
さん
るい
ほん
るい
るい



てん
ぬすめ

るい
ぬすめ
るい




よん

たま
けい

とお


たま
さん


ころせ


りつ

るい
りつ
なが

りつ
O
P
S
1940 阪神はんしん
大阪おおさか
22 47 41 0 8 1 0 0 9 7 0 -- 0 0 6 -- 0 2 -- .195 .298 .220 .517
1941 71 219 194 13 44 8 0 1 55 18 0 -- 3 -- 22 -- 0 11 -- .227 .306 .284 .589
1942 72 311 277 37 69 6 8 1 94 23 9 0 0 -- 34 -- 0 11 -- .249 .331 .339 .670
1946 99 449 412 70 134 16 10 4 182 70 8 5 0 -- 37 -- 0 19 -- .325 .381 .442 .823
1947 116 493 429 50 111 17 8 2 150 47 16 7 2 -- 59 -- 3 25 -- .259 .352 .350 .702
1948 138 586 544 56 155 38 5 4 215 70 14 9 2 -- 39 -- 1 29 -- .285 .334 .395 .729
1949 126 517 473 78 155 26 7 16 243 86 4 11 0 -- 41 -- 3 18 -- .328 .385 .514 .899
1950 毎日まいにち 112 473 428 64 138 18 2 15 205 72 16 6 0 -- 44 -- 1 20 9 .322 .387 .479 .866
1951 103 416 370 39 99 13 2 8 140 60 6 8 1 -- 43 -- 2 24 9 .268 .347 .378 .725
1952 119 479 422 55 125 25 5 13 199 72 7 7 3 -- 50 -- 4 34 18 .296 .376 .472 .848
1953 92 334 314 19 83 14 1 6 117 43 0 5 3 -- 16 -- 1 21 4 .264 .302 .373 .675
1954 東映とうえい 139 529 464 52 134 26 4 7 189 56 6 7 2 4 57 -- 2 37 14 .289 .366 .407 .774
1955 115 321 286 13 73 8 0 1 84 21 0 2 5 4 25 2 1 28 10 .255 .313 .294 .607
1956 阪急はんきゅう 78 129 118 5 22 4 0 1 29 8 1 0 2 0 8 1 1 14 3 .186 .244 .246 .490
1957 11 12 11 0 1 0 0 0 1 1 0 0 0 0 1 0 0 5 0 .091 .167 .091 .258
通算つうさん:15ねん 1413 5315 4783 551 1351 220 52 79 1912 654 87 67 23 8 482 3 19 298 67 .282 .350 .400 .750
  • かく年度ねんど太字ふとじはリーグ最高さいこう
  • 阪神はんしん阪神はんしんぐん)は、1946ねん大阪おおさか大阪おおさかタイガース)に球団きゅうだんめい変更へんこう

表彰ひょうしょう

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  • ベストナイン:6かい捕手ほしゅ部門ぶもん:1947ねん - 1952ねん

記録きろく

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節目ふしめ記録きろく
  • 1000試合しあい出場しゅつじょう:1953ねん4がつ29にち史上しじょう18にん
その記録きろく
  • 捕手ほしゅシーズン補殺ほさつ:119(1954ねん) ※パ・リーグ記録きろく
  • オールスターゲーム出場しゅつじょう:2かい (1951ねん、1952ねん

背番号せばんごう

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  • 19 (1940ねん - 1942ねん、1946ねん - 1953ねん
  • 23 (1954ねん - 1955ねん
  • 25 (1956ねん - 1958ねん
  • 60 (1963ねん - 1964ねん

関連かんれん情報じょうほう

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出演しゅつえん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 週刊しゅうかんベースボール』2012ねん3がつ26にちごう P72
  2. ^ 阪神はんしん中野なかの 初回しょかい先頭せんとう先制せんせいてん膳立ぜんだきんほん最多さいた安打あんだあらそうリーグ2111ほん”. デイリースポーツ online (2022ねん7がつ24にち). 2022ねん7がつ24にち閲覧えつらん
  3. ^ a b 日本にっぽんプロ野球やきゅうトレード大鑑たいかん』74ぺーじ
  4. ^ 巨人軍きょじんぐん最強さいきょう捕手ほしゅ晶文社しょうぶんしゃ さわみやゆう 2003P110
  5. ^ 日本にっぽんプロ野球やきゅう 歴代れきだいめい選手せんしゅ名鑑めいかん』147ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 日本にっぽんプロ野球やきゅうトレード大鑑たいかんベースボールマガジンしゃ、2001ねん
  • 日本にっぽんプロ野球やきゅう 歴代れきだいめい選手せんしゅ名鑑めいかん恒文社こうぶんしゃ、1976ねん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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