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ざいコロンビア ドミニカ共和国どみにかきょうわこく大使館たいしかん占拠せんきょ事件じけん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ざいコロンビア・ドミニカ共和国どみにかきょうわこく大使館たいしかん占拠せんきょ事件じけん
場所ばしょ コロンビアボゴタ
標的ひょうてき コロンビアのドミニカ共和国どみにかきょうわこく大使館たいしかん
日付ひづけ 1980ねん2がつ27にち4がつ27にち
概要がいよう 人質ひとじちてこもり
武器ぶき ショットガン
死亡しぼうしゃ 1めい銃撃じゅうげきせん死亡しぼうした犯人はんにん
犯人はんにん 4がつ19にち運動うんどう
対処たいしょ 2ヵ月かげつにわたる交渉こうしょう結果けっか犯人はんにんグループはキューバ出国しゅっこく。61にちぶりに無血むけつ解決かいけつした。
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ざいコロンビア・ドミニカ共和国どみにかきょうわこく大使館たいしかん占拠せんきょ事件じけん(ざいコロンビア・ドミニカきょうわこくたいしかんせんきょじけん)は、1980ねん2がつ27にちコロンビアドミニカ共和国どみにかきょうわこく大使館たいしかん4がつ19にち運動うんどう(M-19)に占拠せんきょされた事件じけん

背景はいけい[編集へんしゅう]

コロンビアでは1953ねんから1958ねんまで軍事ぐんじ政権せいけんつづき、1970ねん大統領だいとうりょうせんでは軍政ぐんせい時代じだい指導しどうしゃグスタボ・ロハス・ピニージャ将軍しょうぐん優勢ゆうせいつも不正ふせい選挙せんきょ敗退はいたい1974ねん国民こくみん戦線せんせん(FN)体制たいせい終了しゅうりょう民政みんせい移管いかんしたが、抗議こうぎしゃゲリラ組織そしきM-19を結成けっせい反米はんべい民族みんぞく主義しゅぎかかはげしい武力ぶりょく闘争とうそう展開てんかいしたが、おや西側にしがわ路線ろせん政府せいふ弾圧だんあつけた。

M-19は1978ねん12月31にち、「あおいクジラ作戦さくせん」を展開てんかい。ボゴタの国防省こくぼうしょう地下ちかトンネル掘削くっさくし、5700ちょうにのぼるライフルぬすした。フリオ・セサル・トゥルバイ・アヤラ大統領だいとうりょう悪名あくめいたか治安ちあんほう発動はつどう作戦さくせん参加さんかしたメンバーのおおくは逮捕たいほされ、ぬすまれた武器ぶき回収かいしゅうした。M-19にたいする弾圧だんあつ深刻しんこく人権じんけん侵害しんがいこした。

ボゴタのドミニカ共和国どみにかきょうわこく大使館たいしかんは、大使館たいしかんとして利用りようされるまえはグスタボ・ロハス・ピニージャ将軍しょうぐん邸宅ていたくだった。このいえには秘密ひみつのトンネルがあるとうわさされており、ゲリラが人質ひとじちとも脱出だっしゅつすることを計画けいかくしていたが、発見はっけんされなかった。

経過けいか[編集へんしゅう]

1980ねん2がつ27にち午後ごご1210ふん、ボゴタのドミニカ共和国どみにかきょうわこく大使館たいしかんでは、ドミニカ共和国どみにかきょうわこく独立記念日どくりつきねんび祝賀しゅくがするパーティーが開催かいさいされ、アメリカエジプトオーストリアブラジルコスタリカエルサルバドルグアテマラハイチイスラエルメキシコドミニカ共和国どみにかきょうわこくスイスウルグアイベネズエラなど16かこく大使たいし出席しゅっせきしていた。ソビエト連邦れんぽう大使たいし襲撃しゅうげき直前ちょくぜん大使館たいしかんはなれた。

M-19の当初とうしょ目標もくひょうはボゴタの日本にっぽん大使館たいしかんであった。かれらは1975ねん8がつ4にち日本にっぽん赤軍せきぐんこしたクアラルンプール事件じけん参考さんこうざいボゴタの日本にっぽん大使館たいしかん占拠せんきょし、日本にっぽん大使たいし人質ひとじちにとる計画けいかくてていたが、当時とうじ日本にっぽん大使館たいしかん高層こうそうビルの最上階さいじょうかいにあり、長期ちょうき籠城ろうじょうには不向ふむきと判断はんだん平屋ひらやてのドミニカ共和国どみにかきょうわこく大使館たいしかん変更へんこうしたという。事件じけん当日とうじつ日本にっぽん大使たいしはパーティーに出席しゅっせきせず、なんのがれた。

ローゼンベルグ・パボン(コマンダンテ・ウノ)ひきいるM-19の決死けっしたいは4にん1くみからる4つのグループで構成こうせいされていた。パボン自身じしん声明せいめいによれば、攻撃こうげきの1にちまえまで、かれのメンバーもドミニカ共和国どみにかきょうわこく大使館たいしかん場所ばしょらなかったという。パーティーの招待客しょうたいきゃくよそおって大使館たいしかん侵入しんにゅうしたパボンは、大使館たいしかん1かい正面しょうめん玄関げんかんかがみうつった自分じぶんかおにおびえてピストル発砲はっぽうした。

その発砲はっぽうおん合図あいずに16にんのゲリラが大使館たいしかん侵入しんにゅうした。かれらは全員ぜんいん緑色みどりいろトレーニングウエア着用ちゃくようし、ショットガン所持しょじしていた。大使館たいしかんまえサッカーきょうじる学生がくせいグループをよそおい、警備けいび誤魔化ごまかしていた。襲撃しゅうげき銃撃じゅうげきせん犯人はんにん女性じょせい1にん死亡しぼうした。

この銃撃じゅうげきせんでベネズエラ大使たいし負傷ふしょうし、ゲリラの女性じょせい1にんあたま負傷ふしょうして医師いし治療ちりょうけた。ゲリラは人道的じんどうてき措置そちとして、負傷ふしょうしたパラグアイふく領事りょうじ子供こども大使たいしつま人質ひとじち女性じょせい全員ぜんいん解放かいほうした。女性じょせい解放かいほうしたのは、トイレ男女だんじょべつける必要ひつようがあり、監視かんし手間取てまどるからという理由りゆうであった。

コロンビアぐん大使館たいしかん包囲ほういし、周辺しゅうへん建物たてもの狙撃そげきしゅ配置はいちした。ウルグアイの大使たいし自力じりき大使館たいしかん2かいまどから脱出だっしゅつした。

交渉こうしょう[編集へんしゅう]

事件じけんから4にちの3がつ2にち、コロンビア政府せいふ大使館たいしかん占拠せんきょしたゲリラ・グループとの直接ちょくせつ交渉こうしょうはじまった。ゲリラがわ代表だいひょうカルメンサ・カルドナ・ロンドニョ(ラ・チキ)は政府せいふがわ代表だいひょうラミロ・ザンブラノ・カルデナス、カミロ・ヒメネス・ビジャルバと大使館たいしかんまえ駐車ちゅうしゃされた黄色きいろバンなか交渉こうしょうし、メキシコ大使たいしリカルド・ガランも証人しょうにんおよび調停ちょうていしゃとして同席どうせきした。

4がつ21にち米州べいしゅう機構きこう(OAS)人権じんけん委員いいんかい代表だいひょうがコロンビア大統領だいとうりょうおよび閣僚かくりょう会談かいだんし、コロンビアの人権じんけん問題もんだいについて意見いけん交換こうかんした。政府せいふ当局とうきょくしゃはこれまでにゲリラがわと16かい交渉こうしょうおこなわれたことをあきらかにした。

52にちおよんだ交渉こうしょう結果けっか、4がつ25にち、ゲリラは人質ひとじちれてキューバ出国しゅっこくすること、100まんドルから200まんドルの身代金みのしろきんはイスラエル政府せいふ支払しはらうこと、ゲリラがわ要求ようきゅうしていた315にん以上いじょう政治せいじはん釈放しゃくほうにはおうじないことで合意ごういし、わりに政治せいじはんには恩赦おんしゃ適用てきようされることがまった。

余波よは[編集へんしゅう]

4がつ27にち午前ごぜん6大使館たいしかん占拠せんきょしたゲリラは最後さいご人質ひとじち18にんれて大使館たいしかん退去たいきょし、クバーナ航空こうくう特別とくべつでキューバの首都しゅとハバナ到着とうちゃく人質ひとじち現地げんち全員ぜんいん解放かいほうされた。

ローゼンベルグ・パボンは1981ねん3がつまでキューバに滞在たいざいし、80にんのゲリラをれてコロンビアにさい上陸じょうりくしたが、ナリーニョけん逮捕たいほされた。1982ねん12月、かれ恩赦おんしゃにより300にん以上いじょう政治せいじはんとともに釈放しゃくほうされた。かれは「トゥルバイ・アヤラ大統領だいとうりょう交渉こうしょうによる解決かいけつ選択せんたくせず、軍事ぐんじてき解決かいけつ選択せんたくしていた場合ばあい、ドミニカ大使館たいしかん事件じけん結末けつまつはより悲劇ひげきてきなものにわっていただろう」とかたった。

カルメンサ・カルドナ・ロンドニョは1981ねん4がつ19にち、コロンビアのチョコけんのジャングルでコロンビア国軍こくぐんとの戦闘せんとう死亡しぼうしたとみられる。

事件じけんから20周年しゅうねんとなる2000ねんドミニカ共和国どみにかきょうわこく大使館たいしかん占拠せんきょ事件じけんえがいたコロンビア、メキシコ、ベネズエラ合作がっさく映画えいが大使館たいしかん奪取だっしゅ』が公開こうかいされた。