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塚本つかもとやすし

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塚本つかもと やすし
人物じんぶつ情報じょうほう
生誕せいたん (1869-03-27) 1869ねん3月27にち
日本の旗 日本にっぽん京都きょうと
死没しぼつ 1937ねん8がつ9にち(1937-08-09)(68さいぼつ
出身しゅっしんこう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく
学問がくもん
研究けんきゅう分野ぶんや 建築けんちくがく
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塚本つかもと やすし(つかもと やすし、1869ねん3月27にち明治めいじ2ねん2がつ15にち) - 1937ねん昭和しょうわ12ねん8がつ9にち)は、日本にっぽん建築けんちく東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくにおいて建築けんちく意匠いしょう装飾そうしょく工芸こうげい研究けんきゅう指導しどうたった。ごうは「じゅんてい」。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

1869ねん京都きょうとまれ。1893ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく工科こうか大学だいがくみやつこ学科がっか卒業そつぎょうし、明治めいじ美術びじゅつ学校がっこう講師こうし嘱託しょくたくとなった。

1899ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく工科こうか大学だいがく助教授じょきょうじゅ採用さいよう採用さいよう、1899ねんから1902ねんにかけてヨーロッパへ研究けんきゅう留学りゅうがくした。そのも、1906ねんから1908ねんにかけての工芸こうげいひん意匠いしょう調査ちょうさのため清国きよくに出張しゅっちょう、1909ねんにはにちえい博覧はくらんかいのためのイギリスに派遣はけんされている。1920ねん同校どうこう教授きょうじゅ昇進しょうしん。1920ねんより工学部こうがくぶ部長ぶちょうつとめたのち、1929ねん退官たいかんし、名誉めいよ教授きょうじゅとなった。1937ねん帝国ていこく芸術げいじゅついん新設しんせつされると会員かいいん選出せんしゅつされたが、同年どうねん死去しきょした。享年きょうねん68。墓所はかしょ多磨たま霊園れいえん121しゅ10がわ

研究けんきゅう内容ないよう業績ぎょうせき[編集へんしゅう]

受賞じゅしょう栄典えいてん[編集へんしゅう]

作品さくひん[編集へんしゅう]

ソウルえききゅう駅舎えきしゃ
  • 渡辺わたなべ和太郎わたろう別邸べってい(1903ねん
  • 御料ごりょう車内しゃない外部がいぶ装飾そうしょく(1897ねん
  • てんようまるようまる船内せんない装飾そうしょく(1908ねん[3]
  • 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく工学部こうがくぶ講堂こうどう教室きょうしつ(1919ねん
  • きょうしろ停車場ていしゃじょう本屋ほんやソウルえききゅう駅舎えきしゃ、1925ねん史跡しせき284ごう

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • 塚本つかもとやすし大澤おおさわ三之さんのすけ日光にっこうびょう建築けんちくろん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく紀要きよう 工科こうかだい1さつだい2ごう〉、1903ねん5がつ 
  • 塚本つかもと, やすし伊東いとう, ただし関野せきの, さだ へんささえ建築けんちく 世界せかい建築けんちく集成しゅうせい上巻じょうかん建築けんちく学会がっかい、1928ねん4がつ 
  • 塚本つかもとやすし伊東いとう忠太ちゅうた関野せきのさだ へんささえ建築けんちく 世界せかい建築けんちく集成しゅうせい上巻じょうかん解説かいせつ建築けんちく学会がっかい、1929ねん6がつ 
  • 塚本つかもとやすし伊東いとう忠太ちゅうた関野せきのさだ へんささえ建築けんちく 世界せかい建築けんちく集成しゅうせい下巻げかん建築けんちく学会がっかい、1929ねん7がつ 
  • 塚本つかもとやすし伊東いとう忠太ちゅうた関野せきのさだ へんささえ建築けんちく 世界せかい建築けんちく集成しゅうせい下巻げかん解説かいせつ建築けんちく学会がっかい、1932ねん7がつ 
  • 天目てんもく茶碗ぢゃわんこう学芸がくげい書院しょいん、1935ねん9がつ 

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 官報かんぽうだい3026ごう叙任じょにん及辞れい」1922ねん9がつ1にち
  2. ^ 官報かんぽうだい4016ごう叙任じょにん及辞れい」1926ねん1がつ16にち
  3. ^ 帝国ていこく工芸こうげい』3-11。doi:10.11501/1547490

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]