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大澤おおさわ三之さんのすけ

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大澤おおさわ 三之さんのすけ(おおさわ さんのすけ、1867ねん7がつ22にち慶応けいおう3ねん6月21にち) - 1945ねん昭和しょうわ20ねん7がつ26にち)は、日本にっぽん建築けんちく東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこうとう後進こうしん指導しどうした。

経歴けいれき

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江戸えどげん東京とうきょう麻布まふまれ[1]ちち大沢おおさわあきらとく町医者まちいしゃで、維新いしん陸軍りくぐん薬剤やくざいかんとなる。18さいとき尾崎おざき紅葉こうようらの硯友社けんゆうしゃ創刊そうかんした「わがたのし文庫ぶんこ」の挿絵さしええがいた。1891ねん第一高等学校だいちこうとうがっこう卒業そつぎょう東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく工科こうか大学だいがくづくり学科がっかすすみ、1894ねん卒業そつぎょう卒業そつぎょう、1ねん志願しがんへいとして兵役へいえきく。

1897ねん3がつ東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう図案ずあん講師こうし、1902ねん12月、図案ずあん建築けんちく装飾そうしょく)の教授きょうじゅ就任しゅうにん。また、1899ねん - 1904ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく講師こうしつとめたほか、1905ねんには陸軍りくぐん歩兵ほへい大尉たいいとなる。

1906ねん文部省もんぶしょう留学生りゅうがくせいとしてイギリス留学りゅうがく。1909ねんフランスイタリアまわる。1910ねんロンドン開催かいさいされる「にちえい博覧はくらんかい」のため滞欧たいおう期間きかん延長えんちょう同年どうねん10がつ帰国きこく

1914ねんかた山東さんとうぐま後任こうにんとしてみや内省ないせい内匠たくみりょう技師ぎしになる。1915ねん学位がくい工学こうがく博士はかせ)を授与じゅよされる。1920ねん内匠たくみりょう工務こうむ課長かちょう東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう講師こうし嘱託しょくたく)。1924ねんみや内省ないせい免職めんしょく

1927ねん新設しんせつ東京とうきょう高等こうとうこうしょう学校がっこうげん芝浦工業大学しばうらこうぎょうだいがく建築けんちく学科がっかちょう。1935ねん中央工学校ちゅうおうこうがっこう校長こうちょう戦時せんじちゅうの1945ねん7がつ疎開そかいさき鎌倉かまくら逝去せいきょ

栄典えいてん

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作品さくひん

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  • 東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう図案ずあん教室きょうしつ(1914ねん):現存げんそんしない
  • ローマ日本にっぽん美術びじゅつてん会場かいじょう(1930ねん):現存げんそんしない
住宅じゅうたく

論文ろんぶん

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  • 日光にっこうびょう建築けんちくろん」(1903ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく紀要きよう):塚本つかもとやすし共著きょうちょ
  • じょうに就て」(1904ねん、『建築けんちく雑誌ざっし連載れんさい
  • 「ガーデン・シチーにいて」(1912ねん、『建築けんちく工芸こうげいくさむら連載れんさい):田園でんえん都市とし紹介しょうかいした初期しょき論考ろんこうとしてられる。

家族かぞく

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あねさだ)は化学かがくしゃ宇都宮うつのみや三郎さぶろうと、いもうといと)は福澤ふくさわ一太郎いちたろう福澤ふくさわ諭吉ゆきち長男ちょうなん)と結婚けっこん

つま(みよ)は長谷部はせべたつれん貴族きぞくいん議員ぎいん)の長女ちょうじょで、建築けんちく長谷部はせべするどよしあね長男ちょうなん健吉けんきち)、三男さんなん三郎さぶろう)は建築けんちく次男じなん大沢おおさわあきらすけ)は洋画ようが[3]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 以下いか経歴けいれきおもに『大沢おおさわあきらすけちち三之さんのすけてん』P143-152年譜ねんぷによる。
  2. ^ 官報かんぽうだい1773ごう叙任じょにん及辞れい」1918ねん7がつ1にち
  3. ^ 前掲ぜんけい年譜ねんぷ

参考さんこう文献ぶんけん

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