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増山ますやま正利まさとし

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増山ますやま正利まさとし
時代じだい 江戸えど時代じだい前期ぜんき
生誕せいたん 元和がんわ9ねん1623ねん
死没しぼつ 寛文ひろふみ2ねん7がつ28にち1662ねん9がつ10日とおか
官位かんい したがえ弾正だんじょうしょう
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ家光いえみつ家綱いえつな
はん 三河みかわ西尾にしおはんあるじ
氏族しぞく 青木あおき増山ますやま
父母ちちはは 青木あおき利長としなが増山ますやま
兄弟きょうだい たからいつきいん品川しながわだか継室けいしつ正利まさとし須資わたる
つま 松平まつだいらじょう寿ことぶきむすめ
ひめ
正弥まさや
テンプレートを表示ひょうじ

増山ますやま 正利まさとし(ましやま まさとし)は、江戸えど時代じだい前期ぜんき大名だいみょう三河みかわ西尾にしおはん初代しょだい藩主はんしゅ長島ながしまはん増山ますやま初代しょだい官位かんいしたがえ弾正だんじょうしょう

生涯しょうがい

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青木あおき利長としなが長男ちょうなんとして下野げやこく都賀つがぐん高島たかしまむらげん栃木とちぎけん栃木とちぎ大平おおひら地域ちいき)に誕生たんじょうした。ははむらさき増山ますやまちち青木あおき三太郎さんたろう利長としながは、同村どうそん農民のうみんとしてまれたが、江戸えど旗本はたもと朝倉あさくら仕官しかんする。しかし、主君しゅくんかね使つかみが発覚はっかくし、江戸えどわれ鹿しかむら蟄居ちっきょとなり、のち禁猟きんりょうとされていたづるったため死罪しざいとなった。ははむらさきは、古河ふるかわ藩主はんしゅ永井ながいしょうせい屋敷やしきつか女中じょちゅうあたまとなり、もと永井ながい家臣かしん古着ふるぎしょう七沢ななさわきよししゅう再婚さいこんした。あねのおらん(のちのたからいつきいん)は、ははしたが同居どうきょしていたが、13さいときみせ手伝てつだいをしていたところを浅草あさくさまいりからの帰路きろにあった春日局かすがのつぼねにとまり、大奥おおおくがった。あね・おらん(おらくほう改名かいめい)は、徳川とくがわ家綱いえつな生母せいぼとなり、正利まさとしは、そのえんされた。寛永かんえい20ねん1643ねん)8がつ3にち、3だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつ目見まみする。以後いご増山ますやませいしょうする。正保まさやす2ねん12月2にち1646ねん)、蔵米くらまい2000ひょう支給しきゅうされる。正保しょうほう3ねん12月晦日みそか1647ねん)、したがえ弾正だんじょうちゅう叙任じょにんする。

正保しょうほう4ねん(1647ねん)12月5にち相模さがみこく高座こうざぐんうち新知しんち1まんせきあたえられた。蔵米くらまい2000ひょう実弟じってい須資わたるあたえられた。慶安けいあん4ねん1651ねん)6がつ13にち奏者そうしゃばん就任しゅうにんする。万治まんじ2ねん1659ねん)2がつ3にち三河みかわ西尾にしお2まんせきうつりふうされた。また、奏者そうしゃばん解任かいにんされて、つめしゅくわえられる。

寛文ひろふみ2ねん1662ねん)に40さい死去しきょした。おとうと須資わたる長男ちょうなんせんぶく増山ますやま正弥まさや養子ようしとしてあとぎ、子孫しそん伊勢いせこく長島ながしま藩主はんしゅとして代々だいだいつづいた。

系譜けいふ

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父母ちちはは

正室せいしつ

子女しじょ

養子ようし

脚注きゃくちゅう

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