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松平まつだいらじょうかん

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松平まつだいらじょうかん
時代じだい 江戸えど時代じだい中期ちゅうき
生誕せいたん たかられき2ねん3月21にち1752ねん5月4にち
死没しぼつ 寛政かんせい5ねん8がつ19にち1793ねん9月23にち
改名かいめい 恆三郎つねさぶろうみなもと二郎じろう幼名ようみょう)→じょうかん
別名べつめい つるしましょうおのれどうごう
戒名かいみょう みなもといさおいん殿どのさびほまれ諦觀ていかんりょうむなしだい居士こじ
墓所はかしょ しば西久保にしくぼ天徳寺てんとくじ東京とうきょう府中ふちゅう多磨たままち多磨たま霊園れいえん
官位かんい したがえよん和泉いずみまもる侍従じじゅう
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ寺社じしゃ奉行ぶぎょう京都きょうと所司代しょしだい老中ろうじゅう
主君しゅくん 徳川とくがわ家治いえはる家斉いえなり
はん 三河みかわ西尾にしおはんあるじ
氏族しぞく 大給おぎゅう松平まつだいら
父母ちちはは ちち松平まつだいらじょうゆうはは堀口ほりぐち
兄弟きょうだい こう乗用じょうようぼうかん西郷さいごういんしょう
ほりただしおこりまもりあつし土井どいとし忠順ただまさじょうほうさとひめ牧野まきのさだちょう正室せいしつ三浦みうらのり正室せいしつ
松平まつだいらきん正室せいしつ岩城いわきたかしじょ正室せいしつ
永井ながい尚志ひさし正室せいしつ岡部おかべもりしんしつ
やしなえ兄弟きょうだい井上いのうえただしじょう正室せいしつ
つま 正室せいしつ諏訪すわただしりんむすめ
継室けいしつ松平まつだいらたけしもとむすめぼうひめ
ひろし義長よしなが諏訪すわただし正室せいしつ
松平まつだいらじょうふゆしつ松平まつだいらまもるまこと正室せいしつ
小笠原おがさわらちょう養女ようじょ
テンプレートを表示ひょうじ

松平まつだいら じょうかん(まつだいら のりさだ)は、江戸えど時代じだい中期ちゅうき大名だいみょう老中ろうじゅう三河みかわこく西尾にしおはん2だい藩主はんしゅ大給おぎゅう松平まつだいら宗家そうけ12だい官位かんいしたがえよん和泉いずみまもる侍従じじゅう

略歴りゃくれき

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西尾にしおはん初代はつよ藩主はんしゅ松平まつだいらじょうゆうおとことして誕生たんじょうあにこう早世そうせいにより嫡子ちゃくしとなり、明和めいわ6ねん1770ねん)に家督かとく相続そうぞくする。幕府ばくふでは寺社じしゃ奉行ぶぎょう京都きょうと所司代しょしだい歴任れきにんし、松平まつだいら定信さだのぶ老中ろうじゅう首座しゅざ将軍しょうぐん補佐ほさやくくと、御三家ごさんけ推挙すいきょにより老中ろうじゅうむかえられ、寛政かんせい改革かいかく一翼いちよくになった。

はん財政ざいせい窮乏きゅうぼうしていたため、倹約けんやくれいしたほか、藩士はんしうえまい町人ちょうにん用金ようきん賦課ふか農民のうみん年貢ねんぐさきおさめ強制きょうせいした。和歌わか俳諧はいかい絵画かいがしょたしなむなど多芸たげいであった。

寛政かんせい5ねん1793ねん死去しきょし、あと長男ちょうなんひろしいだ。

経歴けいれき

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系譜けいふ

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父母ちちはは

正室せいしつ継室けいしつ

子女しじょ

養女ようじょ