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多利たりおもえ

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多利たりおもえきた(たりしひこ)は、『ずいしょ』「まきはちじゅういち 列傳れつでんだいよんじゅうろく 東夷あずまえびす 俀國」で記述きじゅつされる倭国わのくにおうである。『ずいしょ』では中国ちゅうごく史書ししょが「やまと」としている文字もじを「」と記述きじゅつしている[1]。『きた』にもしるされている。

概要がいよう

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ひらきすめらぎ20ねん600ねん)と大業おおわざ3ねん607ねん)にずい使者ししゃずい使)をおくったという。

俀王せいおもねまい多利たりおもえきた ごうおもねやから雞彌」とあり、せいおもねまい多利たりおもえきたごうおもねやから雞彌という[2]

妻子さいし

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おうつまごう雞彌 後宮こうきゅうゆうおんなろくななひゃくにん めい太子たいしためわたるどる」とあり、つまは雞彌、後宮こうきゅうに600-700にんおんながおり、太子たいしわたるどるという。

領地りょうち

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えびすじん不知ふち里數りすうただしけい以日 其國境こっきょう東西とうざい五月行南北三月行各至於海 其地ぜいひがしだか西下にししも於邪靡堆 そくこころざし所謂いわゆるよこしまだいしゃ」とあり、里数りすうらず距離きょりはかる。国境こっきょう東西とうざいたびするのにヶ月かげつ南北なんぼくたびするのにさんヶ月かげつかかり、それぞれうみく。「よこしま靡堆」をとしておりこころざしよこしまだいであるとする。

ゆう阿蘇山あそさん 其石おこりせってんしゃぞく以爲いんぎょういのりさい」とあり、阿蘇山あそさんがあり理由りゆうなくてんせっし、いのりさいする。

ずい使つかい裴世きよしらの道程どうていは「けい斯麻こく迥在大海たいかいちゅう またひがしいたり一支國又至竹斯國又東至秦王國 其人どう於華なつ 以爲えびすしゅううたぐ不能ふのう明也あきや またけい十餘國達於海岸 たけ斯國以東いとうみないさお於俀」とあり、大海たいかい斯麻こく対馬つしま)、ひがしいちささえこくたけ斯国筑紫つくし)、ひがしはた王国おうこく10あまりこくをへて海岸かいがんについたという。たけ斯国からひがしはすべて俀であるという。

政治せいじ

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使者ししゃげん俀王以天爲てんいけい 以日ためおとうと てん未明みめい聽政 跏趺坐 日出にっしゅつ便びんとまつとむ うんわがおとうと 高祖こうそ曰 此太義理ぎり 於是訓令くんれいあらため」とあり、てんあにとし、おとうととした。てんけぬうちてあぐらをかいてすわ政務せいむし、にちると政務せいむをやめおとうとにゆだねた。ずい高祖こうそ義理ぎりがないとしてこれをあらためさせたという。

また、「うち官有かんゆうじゅうとう いち大德だいとく しょうとく 大仁おおひと しょうじん 大義たいぎ しょう 大禮たいれい しょうれい 大智たいち 小智しょうち 大信たいしん しょうしん いん定數ていすう」とあり、12のかんかんむりじゅうかい制度せいどがあるという[3]

にち出處しゅっしょ天子てんし

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大業おおわざ3ねん(607ねん)の国書こくしょに「聞海西にし菩薩ぼさつ天子てんしじゅうきょう佛法ぶっぽう朝拜ちょうはいけん沙門しゃもんすうじゅうにんらいがく佛法ぶっぽう 其國しょ出處しゅっしょ天子てんし致書日沒にちぼつしょ天子てんし云云うんぬん」とあり、仏教ぶっきょうまなぶための使者ししゃ国書こくしょ有名ゆうめいな「にち出處しゅっしょ天子てんし致書日沒にちぼつしょ天子てんし云云うんぬん」であり、ひらきすめらぎ11ねん(591ねん菩薩戒ぼさつかいによりそう菩薩ぼさつとなったぶんみかど楊堅)の煬帝おこらせた(「みかどらんえつ いいおおとり臚卿曰 蠻夷ばんいしょ有無うむ禮者れいしゃ 勿復以聞」)。ぶんみかど、煬帝の即位そくいやまとらなかった。「にち出處しゅっしょ」「日沒にちぼつしょ」は当時とうじ仏典ぶってん(『訶般わか波羅蜜はらみつけい』の注釈ちゅうしゃくしょ大智たいちろん』など)に「にち出処しゅっしょ東方とうほう 日没にちぼつしょ西方せいほう」とあり東西とうざい方角ほうがくあらわ表現ひょうげんでもある。

ここで、ずいしょには過去かこやまとさずかっていた、朝鮮半島ちょうせんはんとう将軍しょうぐん倭国わのくにおうへの任命にんめい称号しょうごう日本にっぽんがわからもとめたり、ずい印綬いんじゅ多利たりおもえ支給しきゅうする記述きじゅつ出現しゅつげんしない[4]。このことからたんなる方角ほうがくあらわ表現ひょうげん断定だんていはできない。

煬帝はおこったが、高句麗こうくり背後はいごにあるやまと重視じゅうしし、裴世きよしやまと派遣はけんした。『日本書紀にほんしょき』は裴世せい持参じさんした返書へんしょせており、「皇帝こうていといやまとすめらぎ」からはじまっている。やまとすめらぎは「やまとおう」を改竄かいざんしたものとする論者ろんしゃおおいが、煬帝から「すめらぎ」をあたえられたと改竄かいざんしても皇国こうこく史観しかん補強ほきょうにはならず、なか皮肉ひにくめてやまとおう無礼ぶれいれたともかんがえられる。『日本書紀にほんしょき』では日本にっぽんがわはこの「すめらぎ」をれて「天皇てんのう」を名乗なのったようにかれている。

解釈かいしゃく

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ずいしょ』や『きた』はこのおうつまのいる男性だんせいとしており、この時期じき男性だんせい大王だいおうは『日本書紀にほんしょき』、『古事記こじき』には登場とうじょうしない。『きゅうとうしょまき199じょう 列傳れつでんだい149じょう 東夷あずまえびす 倭國わのくに においても倭国わのくにおうせいおもねまいであるとしている。『しんとうしょまき220列傳れつでんだい145 東夷あずまえびす 日本にっぽんに「もちいあきら また曰目多利たりおもえちょくずいひらきすめらぎまつ はじめあずか中國ちゅうごくどおり」とあり多利たりおもえきた多利たりおもえとしよう明天めいてんすめらぎとしている。

日本にっぽんでは直木なおき孝次郎こうじろうによる多利たりおもえきた多利たりおもえあやまりとするせつ通説つうせつとなっている。また、推古天皇すいこてんのう厩戸皇子うまやどのおうじ聖徳太子しょうとくたいしよう明天めいてんすめらぎ嫡子ちゃくし)のことだとする論者ろんしゃもいる。また、多利たりおもえきつねの「きつね」(ひこ)は男性だんせいおもわれるので、推古天皇すいこてんのうではなく当時とうじ有力ゆうりょくしゃである蘇我馬子そがのうまこ聖徳太子しょうとくたいしであるというせつもある。600ねん使者ししゃも607ねんおな小野妹子おののいもこであったと推定すいていし、その先祖せんぞとされる孝昭たかあき天皇てんのう皇子おうじてんあし彦国押人いのち名前なまえとするせつもある[5][6]。『しゃく日本にっぽん』にかれた『筑前ちくぜんこく風土記ふどき逸文いつぶんではアメノヒボコを「こううららくにりょやまてんよりらいたりし桙」としるしていることも留意りゅういされる。

太子たいしめい固有名詞こゆうめいしせつ普通ふつう名詞めいしせつがある)のうちあやまりとするせつがある。古来こらい大和言葉やまとことばでは、原則げんそくとして「らぎょうおと語頭ごとうたない(万葉仮名まんようがなでは語頭ごとうにrおとない)ことから、「」を「」のあやまりとして「わたるどる」を「和歌わかわたるどる」とする。また、「和歌わかわたるどる」を源氏物語げんじものがたりひとしにもあらわれる「わかんどほり(皇室こうしつ血統けっとう皇族こうぞく)」とするせつもある[5]。なお、『翰苑』には「おう長子ながこごう哥彌どるはなげん太子たいし。」とある。

中国ちゅうごくふうせい分割ぶんかつされているが、タラ(リ)シヒコは人名じんめいではなく、日本語にほんご意味いみ理解りかいしていなかった中国人ちゅうごくじん誤解ごかいしたものというせつがある[7][8]文献ぶんけんでは、せいはアメ、はタラシヒコと記述きじゅつされている[9]が、日本語にほんごでは、「てんらし彦」になり、てんからしだれた(りた)男子だんしというであり[10][11]、つまり「天孫てんそん」という意味いみになる。中国ちゅうごくでは「天子てんし」(『つうてん』では「てん」)がこれにたるが、中国ちゅうごく天子てんしとは意味いみことなる[12]一方いっぽうで、熊谷くまがい公男きみおは『万葉集まんようしゅう』の「てんげん (さ)けみれば 大王だいおう寿ことぶき(みいのち)はながてんあしらしたり」(まきからいちよんなな)のうたなどを参考さんこうに、「てんりた男子だんし」という意味いみ尊称そんしょう解釈かいしゃくしている[13](このせつ森田もりた支持しじしている[14])。森田もりた悌は邪馬台国やまたいこく時代じだいでは、「てんらし彦」の称号しょうごうがあったとはかんがえがたいとし[15]以後いご時代じだい大陸たいりく思想しそう影響えいきょうから芽生めばえたとみている[16](また、「天子てんし」というかたり反感はんかんけたのにたいし、「てんらし彦」の反応はんのうひくかったことに注目ちゅうもくしている)。王仲殊おうちゅうしゅおもねまい多利たりおもえは「てんあし彦(てんりた男子だんし)」とした(てんらし彦説もあると紹介しょうかいした)じょうで、このかたりなかにはすでに「天子てんし」「天皇てんのう」といった意味いみふくまれており、これは最初さいしょ国書こくしょにちちゅう両国りょうこく君主くんしゅともに「天子てんし」としょうしたため、中国ちゅうごくがわ不快ふかいかんをあおったところから、それぞれ天子てんしを「皇帝こうてい」と「天皇てんのう」とえて区別くべつしめしたとする[17]

やまとおうてん兄弟きょうだいであるという説明せつめい記紀きき神話しんわとは一致いっちしないが、兄弟きょうだい順序じゅんじょかみじゅうきょうにしばしばきざまれる「天王てんのう日月じつげつ」と一致いっちする。『日本書紀にほんしょき神代かみよじょう本文ほんぶんでは弉諾みこと弉冉みことが「いかにぞ天下てんかおもしゃなままざらむ」とってにちしんつきしん兄弟きょうだいあねおとうと)をんだとされ、いちしょでは弉諾みことしろ銅鏡どうきょうってつきんだとされる。熊谷くまがい高句麗こうくり王権おうけん思想しそう借用しゃくようかとしている[18]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 日本にっぽんでは通常つうじょう、「くに」は「倭國わのくに」のあやまりとされる。
  2. ^ 大王だいおう (ヤマト王権おうけん)参照さんしょう
  3. ^ 日本書紀にほんしょき』、『上宮かみみや聖徳せいとく法王ほうおうみかどせつ』の記述きじゅつとは順序じゅんじょことなっている。
  4. ^ 吉村よしむら武彦たけひこ古代こだい天皇てんのう誕生たんじょう』p.110 角川書店かどかわしょてん ISBN 978-4047032972
  5. ^ a b 石原いしはらみちはく (へんやく)『しんてい こころざし倭人わじんでんこう漢書かんしょやまとでんそうしょ倭国わのくにでんずいしょ倭国わのくにでん 中国ちゅうごく正史せいし日本にっぽんでん (1)』 (岩波書店いわなみしょてん、1985ねん
  6. ^ てんあし彦国押人いのちむすめ押媛おとうと孝安たかやす天皇てんのうきさきとなりおいまごこうれい天皇てんのうんだとされ、女系じょけいでは以後いご皇室こうしつ先祖せんぞともされる。
  7. ^ もりこうあきら日本にっぽん時代じだい3 倭国わのくにから日本にっぽんへ』 吉川弘文館よしかわこうぶんかん 2002ねん ISBN 4-642-00803-9 p.8.
  8. ^ 編集へんしゅう白石しらいし太一郎たいちろう 吉村よしむら武彦たけひこしん視点してん 日本にっぽん歴史れきし2 古代こだいへん古代こだい飛鳥ひちょう時代じだい新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ 1993ねん ISBN 4-404-02002-3 pp.313 - 314.
  9. ^ 吉田よしだたかし岩波いわなみ新書しんしょ日本にっぽん誕生たんじょう』で「中国ちゅうごく役人やくにんは、やまとおうにも当然とうぜんせいはあるはずとかんがえていたので(中略ちゅうりゃくめられたやまと使者ししゃが、くるしまぎれに「せいはアメ」とこたえたのかもしれない」と推測すいそくしている。
  10. ^ 熊谷くまがい公男きみお日本にっぽん歴史れきし03 大王だいおうから天皇てんのうへ』 講談社こうだんしゃ 2001ねん ISBN 4-06-268903-0 p.237.
  11. ^ きし俊男としお日本にっぽん古代こだい6 王権おうけんをめぐるたたかい』 中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ 1986ねん ISBN 4-12-402539-4 p.53.
  12. ^ しん視点してん 日本にっぽん歴史れきし2 古代こだいへんⅠ』 p.314.
  13. ^ どう日本にっぽん歴史れきし03 大王だいおうから天皇てんのうへ』 p.237.
  14. ^ 森田もりた 『推古あさ聖徳太子しょうとくたいし岩田いわた書院しょいん 2005ねん ISBN 4-87294-391-0 p.145.
  15. ^ どう『推古あさ聖徳太子しょうとくたいし』 p.145.
  16. ^ どう『推古あさ聖徳太子しょうとくたいし』 p.146.
  17. ^ 王仲殊おうちゅうしゅ 西嶋にしじまじょうせい監訳かんやく 桐本きりもとあずまふとしわけ中国ちゅうごくからみた古代こだい日本にっぽん学生がくせいしゃ 1992ねん ISBN 4-311-20181-8 p.145.
  18. ^ 熊谷くまがい公男きみお日本にっぽん歴史れきし03 大王だいおうから天皇てんのうへ』 p.235.

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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