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だいオルダ

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だいオルダ
Uluğ Orda

ジョチ・ウルス
1433ねんごろ - 1502ねん
大オルダの位置
だいオルダの領域りょういき(1389ねんごろ)
公用こうよう キプチャク
首都しゅと サライ
元首げんしゅとう
1465ねん? - 1481ねん アフマド・ハン
xxxxねん - xxxxねんクチュク・ムハンマド
1499ねん? - xxxxねんシャイフ・アフマド
変遷へんせん
だいオルダ成立せいりつ 1433ねん
だいオルダの消滅しょうめつ1502ねん
通貨つうかディルハム
現在げんざいロシアの旗 ロシア, カザフスタンの旗 カザフスタン

だいオルダ(だいオルダ、1466ねん - 1502ねん)は、黄金おうごんのオルダジョチ・ウルス後継こうけい国家こっかぐん崩壊ほうかいに13世紀せいきごろにみなみロシアのサライ首都しゅととして存在そんざいしたジョチいえ当主とうしゅ政権せいけんで、ジョチ・ウルス裔の国家こっか歴史れきしがくてき呼称こしょう。またのは、黄金おうごんのオルドといい、ジョチ・ウルスの系譜けいふいだ政権せいけんであった。領域りょういきは、みなみロシアキプチャク草原そうげんステップいたった。

先代せんだいのジョチ・ウルスの支配しはい地域ちいきだいオルダの支配しはい領域りょういき現在げんざいカスピ海かすぴかいみなみロシア付近ふきんにあたり、ほとんどジョチ・ウルスの中核ちゅうかくとなる領域りょういき踏襲とうしゅうしているとえる。

だいオルダは、カスピ海かすぴかいジョージアなどのコーカサス山脈さんみゃくきた、シベリアやカザフスタンの西にし、ルーシのみなみはくロシアやクリミアのひがしたる、草原そうげん地帯ちたい位置いちし、存在そんざいした。つまりは、現在げんざいロシア南部なんぶ連邦れんぽう管区かんく相当そうとうする地域ちいきである。しかし、その領域りょういきは、ジョチ・ウルスの支配しはい地域ちいきくらべて大幅おおはば減少げんしょうしていた。

また、サライはふたつあり、ひとつはいまアストラハンちかく、ふたは、いまレニンスク付近ふきんにあった。前者ぜんしゃバトゥサライ後者こうしゃニューサライ、またはベルケ建設けんせつしたためにベルケサライといってべつものであった。

おもむろな成立せいりつ前史ぜんし

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トカ・テムルあさのジョチ・ウルス。まだこのころは、クリミア・ハンこくや、アストラハン・ハンこく独立どくりつしておらず、ジョチ・ウルスの解体かいたい初期しょき段階だんかいである。しかし、キエフリトアニア奪取だっしゅされているし、東部とうぶおおくの地域ちいき支配しはいけんうしなっている。この地図ちずでは、ノヴゴロドこくまでもがジョチ・ウルスの支配しはい地域ちいきになっている。このやくひゃくねんには、だいオルダは成立せいりつする。
だいオルダの帝国ていこく国旗こっき
タタールのくびき。このでは、ルーシ領主りょうしゅが、ハンまえてられている。

チンギス・カン家系かけい(ジョチ)は代々だいだいみなみロシアを「ジョチ・ウルス」として支配しはいしてきた。みなみロシアの諸国しょこく領主りょうしゅたちにみつげおさめ請求せいきゅうし、間接かんせつ支配しはいつづけて、これをみなみロシアでは、タタールのくびきんだ。また、ジョチ・ウルスの支配しはいそうであったタタールじん(ここでは、じゅんモンゴルけい人々ひとびとのことをさす)たちは、やがて言語げんごまとにはテュルクかたりけい変化へんかし、宗教しゅうきょうまとにはイスラム教いすらむきょうしていった。15世紀せいきごろには、弱体じゃくたいにより、ジョチ・ウルスは解体かいたいさい編成へんせい進行しんこうした。後継こうけい政権せいけんにはカザフ・ハンこくクリミア・ハンこくシビル・ハンこく、そして、だいオルダなどのしょ政権せいけんであった。この各地かくち林立りんりつしたしょ政権せいけんロシア帝国ていこく編入へんにゅうされるまで中央ちゅうおうアジアひとし地域ちいきでジョチ・ウルスの命脈めいみゃくたもった。

しかし、もりえたジョチ・ウルスも衰退すいたいし、のであった。しかし、そのなかでもだいオルダはジョチ裔の正当せいとう家系かけいとしての地位ちいたもつづけたのであった。

近代きんだいタタールじん女性じょせい。タタールじんばれている民族みんぞくたちはだいオルダじゅんモンゴルぞくけい住民じゅうみん祖先そせんであり、現在げんざいでもだいオルダの支配しはい地域ちいきひろ分布ぶんぷし、生活せいかつしている。そのうちひとつの民族みんぞくクリミア・タタールじんであり、かれらはだいオルダ消滅しょうめつ形成けいせいされていったクリミア・ハンこく住民じゅうみん現地げんちテュルクけい民族みんぞくとの混血こんけつともわれている。かれらは、迫害はくがいけながらもクリミアでくらしつづけている。

そのだいオルダの帝国ていこくは、ジョチ・ウルスの命脈めいみゃく1502ねんまでたもった。しかし、アフマド・ハン死後しごこった兄弟きょうだいたちの帝位ていい継承けいしょうあらそとうにより急速きゅうそく弱体じゃくたいしていった。クリミア・ハンこく首都しゅとのサライを陥落かんらくさせられ滅亡めつぼうしたのち、滅亡めつぼうさせたクリミア・ハンこくながくサライを領土りょうどみこむことはなく、サライはタタールじんもどることはなかった。また、だいオルダ消滅しょうめつだいハン保持ほじしたクリミア・ハンこくのちオスマン帝国ていこく属国ぞっこくになり、つい1783ねんにはロシア帝国ていこく編入へんにゅうされた。

タタールじん行方ゆくえ

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チンギス・カン祖先そせんにもつ、モルダヴィア(ルーマニア)まれの文人ぶんじん学者がくしゃで、モルダヴィアこうディミトリエ・カンテミール姿すがたえがかれたソ連それん切手きって

ジョチ・ウルス後継こうけい政権せいけんがたてられた、とものである。リトアニアポーランドひとし移住いじゅうし、の民族みんぞく(ロシア帝国ていこく貴族きぞく)、(チンギス・カンのちをく、ディミトリエ・カンテミールひとし貴族きぞく領主りょうしゅついにはモルダヴィア公国こうこく公爵こうしゃくとなるものもあった名門めいもん貴族きぞくとう代表だいひょうされるように、現地げんちのとなるもの(ボヤール)もあらわれた。

タタールじん政権せいけん完全かんぜん崩壊ほうかい

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その後継こうけい政権せいけん次々つぎつぎとロシア帝国ていこく合併がっぺい併合へいごうされてった。だいハンの君主くんしゅをいただいて存続そんぞくしていた、クリミア・ハンこく弱体じゃくたいし、つい滅亡めつぼうした。

文化ぶんか国政こくせい

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ロシアにおけるイスラム教いすらむきょう分布ぶんぷだいオルダ支配しはい地域ちいきおおい。

基本きほんてきには、ジョチ・ウルスの命脈めいみゃくたもった政権せいけんのため、ジョチ・ウルスの文化ぶんか国政こくせいいだ。宗教しゅうきょうてきにはイスラム教いすらむきょうがほぼ完了かんりょうし、ついには王族おうぞく文化ぶんかが(かつてのモンゴルけい文化ぶんかぎながらも)イスラム教いすらむきょうするにいたった。しかし、領内りょうないにはロシア正教会せいきょうかい信仰しんこうする人々ひとびとや、モンゴルけいシャーマニズムしんつづけた人々ひとびと存在そんざいした。つまり、領内りょうないにはおも

  • イスラム教いすらむきょう
  • キリスト教きりすときょう
  • シャーマニスム
  • その小規模しょうきぼ宗教しゅうきょう

があった。

また、前述ぜんじゅつしたように、言語げんごてきにもテュルクげ、行政ぎょうせい命令めいれい文書ぶんしょ以前いぜんのモンゴルから、地元じもとしょ民族みんぞく影響えいきょうけてテュルクけい変化へんかした。

みかどけい家系かけい

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ジョチからだいオルダまでの系図けいず

参考さんこう資料しりょう

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関連かんれん項目こうもく

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クリミア・タタールじん