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畿内きないこころざし

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大和やまとこころざしから転送てんそう
畿内きない5かこく

畿内きないこころざし』(ごきないし)、正式せいしきには『日本にっぽん輿地よちどおりこころざし畿内きない』(にほんよちつうしきないぶ)とは、江戸えど時代じだいとおる年間ねんかん編纂へんさんされた畿内きない5かこく地誌ちし、すなわち『河内かわうちこころざし』『和泉いずみこころざし』『摂津せっつこころざし』『山城やましろこころざし』『大和やまとこころざし』をす。江戸えど幕府ばくふによる最初さいしょまくせん地誌ちしなされ、近世きんせい地誌ちし編纂へんさん事業じぎょうおおくの影響えいきょうあたえた。

解題かいだい

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畿内きないこころざし』とは、せき並河なみかわまことしょ企画きかくし、せき死後しご並河なみかわ中心ちゅうしんとして編纂へんさんされた『日本にっぽん輿地よちどおりこころざし畿内きない』の略称りゃくしょうである。編纂へんさんたって、日本にっぽん全国ぜんこく地誌ちし網羅もうらすることが念頭ねんとうかれていたが、実現じつげんしたのが畿内きないのみであったことから、もっぱら『畿内きないこころざし』の略称りゃくしょうばれる[1]とおる19ねん1734ねんづけ巻首かんしゅ上書うわがきによれば、編纂へんさんとおる14ねん1729ねん)から5ねんをかけておこなわれたとあり、とおる20ねんから21ねんにかけて大阪おおさか京都きょうと江戸えど出版しゅっぱんされた[2]

全体ぜんたい漢文かんぶんしるされた[3]61かんからなり、あきらによって編纂へんさんされた地誌ちし大明だいめい一統いっとうこころざし』にならった構成こうせいをとっている[1][2][3]各国かっこくこころざし最初さいしょには山岳さんがく主要しゅよう交通こうつう河川かせんおよびぐんめいしるした絵図えずしめし、ついでけんおけ沿革えんかく範囲はんい道路どうろ景勝けいしょう風俗ふうぞくさちことぐんごとにはさと村里むらざと山川やまかわ物産ぶっさん寺社じしゃ古跡こせき陵墓りょうぼ氏族しぞくといった項目こうもく記載きさいする。

編纂へんさんさいして並河なみかわらは、各地かくちをみずから探訪たんぼうして古文書こもんじょ古記こきろく伝承でんしょうなどを採録さいろくし、それら資料しりょうをもとに記述きじゅつすすめた[1][2]。そうした手法しゅほうにより、かく項目こうもく記述きじゅつ詳細しょうさい精密せいみつであり、後世こうせい畿内きない地誌ちし名所めいしょ図会ずえるいさかんに引用いんようされ、の『新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう』『新編しんぺん相模さがみ風土記ふどき稿こう』といった地誌ちし編纂へんさん事業じぎょうにも影響えいきょうあたえた[2]だけでなく、当時とうじ畿内きない事情じじょうつたえる資料しりょうとして今日きょうでもなお価値かちたかいものとして評価ひょうかされている[2][3]

編纂へんさん

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前史ぜんし

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畿内きないこころざし編纂へんさん前史ぜんしとなる元禄げんろく年間ねんかん1688ねん - 1703ねん)からとおる1716ねん - 1735ねん)にかけて、すなわち17世紀せいきまつから18世紀せいきはつにかけての時期じきは、中国ちゅうごく大陸たいりくにおけるあかりからきよしへの王朝おうちょう交代こうたい(「はなえびす変態へんたい」)を前提ぜんていとして、日本にっぽん地理ちりたいするさい認識にんしきしょうじていた時代じだいであった。[4]

17世紀せいきなかばにあかり滅亡めつぼうし、中原なかはら支配しはいする王朝おうちょうきよし交代こうたいした。だが、この時点じてんでは徳川とくがわ政権せいけん知識ちしきそうあかり復活ふっかつ希望きぼうてていなかった。[5]その希望きぼうどころとなったのは、台湾たいわん拠点きょてんあかり復興ふっこうしようとはかてい政権せいけんや、きよし覇業はぎょうくみしたさんかつらあかり漢人かんど武将ぶしょう勲功くんこうによりふうじられていたはん独立どくりつ王国おうこくさんはん)の存在そんざいであり、たとえば儒学じゅがくしゃはやし鵞峯がほう著書ちょしょはなえびす変態へんたい』(のべたから2ねん1674ねん〉)に、あかり復活ふっかつへの期待きたいきしていた[5]。しかし、さんはんらん1673ねん - 1681ねん)で漢人かんど武将ぶしょう排除はいじょされ、つづ1683ねん台湾たいわんてい政権せいけんほろぼされ、中国ちゅうごく大陸たいりくにおける漢人かんど王朝おうちょう決定的けっていてきほろぼされるにおよんで、徳川とくがわ政権せいけん知識ちしきそうは、ひがしアジアの安定あんてい秩序ちつじょが、はな文明ぶんめい漢人かんどによる王朝おうちょう)のしたでのものからえびす野蛮やばん遊牧ゆうぼく騎馬きば民族みんぞくたるおんなしんによるきよし)のしたでのものに移行いこうしたことが決定けっていけられた[6]ものとして事態じたい認識にんしきした[7]だけでなく、中国ちゅうごく大陸たいりくにおけるはな世界せかい消滅しょうめつとしてもけとめられた[7]さんはんらんがまさに終焉しゅうえんむかえたとし天和てんわ元年がんねん〈1681ねん〉)に就任しゅうにんした徳川とくがわ綱吉つなよし政権せいけんは、この衝撃しょうげきてき事態じたいをうけて徳川とくがわ政権せいけんのありかたかんがえることをせまられ、知識ちしきじんたちもまた同様どうよう衝撃しょうげきけた。たとえば山鹿やまが素行そこう日本にっぽんを「本朝ほんちょう」「中華ちゅうか」としょうしたのも、熊沢くまさわ蕃山ばんざん北狄ほくてき脅威きょういいたのも、綱吉つなよし政権せいけん成立せいりつ前後ぜんごする年代ねんだいのことである[7]綱吉つなよし政権せいけんもまた、そうした状況じょうきょうそくして、人民じんみん教化きょうか保護ほごすることをつとめとするはな自任じにんしたのだった[8]

こうしたはなえびす変態へんたい衝撃しょうげきがもたらした国家こっか意識いしき上昇じょうしょう日本にっぽん地理ちりへのさい認識にんしきのありさまは、綱吉つなよし政権せいけんでの『元禄げんろくこく絵図えず作成さくせい事業じぎょうつうじててとることが出来でき[9]くに絵図えず作成さくせい事業じぎょうとは、きゅうれいせいこく単位たんい絵図えずさとちょう作成さくせいさせ、中央ちゅうおう集成しゅうせいする事業じぎょう[10]で、17世紀せいき以降いこうでは慶長けいちょう9ねん1604ねん前後ぜんこう寛永かんえい15ねん1638ねん)、正保まさやす元年がんねん1644ねん)、元禄げんろく9ねん1696ねん)、天保てんぽう2ねん1831ねん)のものがられており、このうち寛永かんえい正保まさやす元禄げんろくさいには日本にっぽん作成さくせいされた[11]。これらのうち、綱吉つなよし政権せいけんによって実施じっしされた元禄げんろく9ねん(1696ねん)の『元禄げんろくこく絵図えず』の特色とくしょくは、それ以前いぜんたとえば領分りょうぶん石高こくだか記載きさいおもきをいた正保まさやすくに絵図えず作成さくせい事業じぎょう[12]ことなり、大名だいみょうなどの領分りょうぶん記載きさい払拭ふっしょくし、くに同士どうしさかいである国境こっきょう全国ぜんこくてき一貫いっかんして確定かくていせしめたてんにある[13]。このことは、個々ここ領主りょうしゅごとの領分りょうぶん、すなわち知行ちぎょう媒介ばいかいとした将軍しょうぐん領主りょうしゅとの人的じんてき結合けつごうと、個別こべつ具体ぐたいてきなコンテクストや人間にんげん関係かんけいからはなれた自律じりつてき抽象ちゅうしょうされた領域りょういき把握はあくとの機能きのう分化ぶんかはかられていたことを意味いみしている[14]きゅうれいせいこく中世ちゅうせいつうじて、すで行政ぎょうせい単位たんいとしては形骸けいがいしていた。しかし、『元禄げんろくこく絵図えず』での「くに」は、かかる自律じりつてき抽象ちゅうしょうてき領域りょういき把握はあく全国ぜんこくレベルで措定そてい把握はあくする単位たんいとなっている[15]。こうした「くに概念がいねんは、近世きんせい成立せいりつまでにられてきた「くに概念がいねんとは異質いしつな、あたらしい概念がいねんであった[16]

そうした「くに」の集積しゅうせきによってつくられた[15]元禄げんろくくに絵図えず作成さくせい事業じぎょうにおける日本にっぽん(「日本にっぽんいちえん」)で注目ちゅうもくされるのは、まくせん日本にっぽんとしてははじめて琉球りゅうきゅう諸島しょとうふくめられたことである[17]琉球りゅうきゅうあかりさつふうけてきたが、同時どうじ1609ねん慶長けいちょう元年がんねん)の薩摩さつまはん侵攻しんこう以来いらい薩摩さつまはん支配しはいをもけており、二元にげんてきりょうぞく体制たいせいをとっていた。そのため、きよし干渉かんしょう琉球りゅうきゅうおよんださい対処たいしょ問題もんだいとなり、薩摩さつまはんの伺をけた幕府ばくふは、軍事ぐんじ侵攻しんこういかぎり琉球りゅうきゅうきよししたがわせてかまわないとした[18]。しかしながら、幕府ばくふ琉球りゅうきゅうの「背後はいご」にあるきよし存在そんざいかん懸念けねんし、綱吉つなよしへの将軍しょうぐん代替だいがわりにさいし、琉球りゅうきゅう幕府ばくふに叛したとしても琉球りゅうきゅうくみしないよう、薩摩さつまはんたいあらためて誓約せいやくもとめただけでなく、にち関係かんけい体制たいせいてき意図いとてき隠蔽いんぺいする方針ほうしんられた[18]。こうした事情じじょうまえ、琉球りゅうきゅうくに絵図えず担当たんとうした薩摩さつまはんは、「異国いこく絵図えず」というあつかいで琉球りゅうきゅうくに絵図えず作成さくせいした[19]が、琉球りゅうきゅうこく絵図えず元禄げんろく日本にっぽん一部いちぶとして収載しゅうさいされた[17]。こうした経緯けいいは、17世紀せいきまつ日本にっぽんにおける国家こっか意識いしき上昇じょうしょうしめすものとかんがえられている[20]。こうしたてんてゆくならば、17世紀せいきまつから18世紀せいきはつにかけての「泰平たいへいのなかの転換てんかん[21]においてしょうじた日本にっぽん地理ちりたいするさい認識にんしきは、「日本にっぽん」という枠組わくぐみを意識いしきした国家こっか意識いしき上昇じょうしょう相即そうそくしたものだったのである。

18世紀せいき初頭しょとう日本にっぽんにおける地誌ちし編纂へんさん思想しそう

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こうした背景はいけいのもとで、17世紀せいきまつから18世紀せいきはつにかけて地誌ちし編纂へんさん思想しそうはいかなる展開てんかいしめしたのか、2人ふたり儒学じゅがくしゃ著作ちょさくとおしてることができる[22]

儒学じゅがくしゃ太宰だざい春台しゅんだいは、とおる14ねん(1729ねん)の『経済けいざいろくまきよん地理ちり」のなかで「地理ちりルハ、天下てんかほん也」としるして、地誌ちし地図ちず統治とうちたいしてもつ重要じゅうようせい強調きょうちょうした。春台しゅんだいはさらに『大明だいめい一統いっとうこころざし』をはじめとして中国ちゅうごくでは地誌ちし編纂へんさんとどいていることを賛嘆さんたんする一方いっぽうで、風土記ふどき散逸さんいつ以後いご地誌ちし編纂へんさん不在ふざいである日本にっぽん状況じょうきょうなげく。かかる状況じょうきょうのゆえに、江戸えど幕府ばくふひらかれてから100ねんえっするいまでも国境こっきょう論争ろんそうがしばしばきているばかりか裁許さいきょむずかしい現状げんじょう指摘してきし、地誌ちしいたぎょうして流布るふさせることを提案ていあんする。そして、元禄げんろくこく絵図えず非公開ひこうかいとなったことにれつつ、地誌ちし流布るふすれば裁許さいきょ容易よういになるとし、「こころざし天下でんか道具どうぐズヤ」と主張しゅちょうした。ここでられる春台しゅんだい思想しそうは、日本にっぽん中国ちゅうごく歴史れきし比較ひかくから、日本にっぽんにおける地誌ちし編纂へんさん欠如けつじょ問題もんだいとして摘出てきしゅつし、地誌ちし編纂へんさん統治とうち必須ひっすであるばかりか、さらには国家こっか繁栄はんえいをももたらすとするてんにおいて、近世きんせい地誌ちし嚆矢こうしたる『会津あいづ風土記ふどき』(寛文ひろふみ6ねん1666ねん〉)において確立かくりつした思想しそう踏襲とうしゅうされている[9]。さらに注目ちゅうもくすべきは、地誌ちし編纂へんさん国境こっきょう裁許さいきょとの関係かんけいにおいて、くに絵図えず対比たいひされつつ主張しゅちょうされているてんである。春台しゅんだい念頭ねんとうにおいていた元禄げんろくこく絵図えずは「公儀こうぎ権力けんりょく編成へんせい原理げんりであるくにぐん全国ぜんこくレベルで一貫いっかんさせたもの[13]評価ひょうかされていることをかんがえるならば、春台しゅんだい主張しゅちょうは、地誌ちし政治せいじてき機能きのうへの期待きたいいたぎょうによる普及ふきゅう提唱ていしょうである[9]

一方いっぽうたに泰山たいざん自著じちょ泰山たいざんしゅう』の一節いっせつで、風土記ふどき散逸さんいつをむしろ「神慮しんりょ」とひょうした。というのも、きよしあかり滅亡めつぼうさせたさいに『大明だいめい一統いっとうこころざし』を参照さんしょうしたように、地誌ちしは「国之くにゆき」であって、かかる地誌ちしあらためて編纂へんさんすることは否定ひていされなければならないというのである[9]泰山たいざん主張しゅちょう結論けつろんこそ春台しゅんだいぎゃくであるとはいえ、注目ちゅうもくすべきは、その主張しゅちょうあかりきよし交代こうたいという国際こくさい環境かんきょう激変げきへん念頭ねんとういているというてんである。前述ぜんじゅつのように、元禄げんろくこく絵図えず作成さくせいが、あきらしん交代こうたいとそれにともな徳川とくがわ綱吉つなよし政権せいけん国家こっか意識いしき表出ひょうしゅつとしての意味いみ[8][21]ことをかんがえるならば、17世紀せいきまつにおける対外たいがい関係かんけい変化へんかが18世紀せいき初頭しょとう地誌ちし編纂へんさんをめぐる思想しそう議論ぎろん背景はいけいにあったとうことができる[9]

こうした日本にっぽん地理ちりさい認識にんしきは、べつかたちではあるが、民間みんかんにおいてもはじまっていた。たとえば、「りゅうせん日本にっぽん」と通称つうしょうされる『日本にっぽん海山みやまうしおりく』(元禄げんろく4ねん1691ねん〉)の著者ちょしゃである絵師えし石川いしかわりゅうせんは、ほかにも地理ちりしょ出版しゅっぱんして好評こうひょうていた。また、日本にっぽん全土ぜんど網羅もうらしたもっと初期しょきみんせん地理ちりしょの『日本にっぽん鹿子かのこ』(元禄げんろく4ねん〈1691ねん〉)には、りゅうせんの『本朝ほんちょうどおりかん綱目こうもく』の項目こうもくれられている[23]。こうした日本にっぽん全土ぜんど網羅もうらするという体裁ていさい地理ちりしょ事例じれいほかにもられ、17世紀せいきまつ以降いこうには、民間みんかんにおいても「日本にっぽん」という枠組わくぐみを意識いしきする地理ちりさい認識にんしきひろがっていたとかんがえられている[24]どう時期じき畿内きないでも、みんせん地誌ちし刊行かんこう活発かっぱつおこなわれていたが、それらの地誌ちしれいせいこくくにぐん単位たんいとして編纂へんさんされており、くにぐんせいそくしたかたちでの地理ちり認識にんしき一般いっぱんしたことをしめしており、こうした地理ちり認識にんしきへの関心かんしん上昇じょうしょういつにするように、知識ちしきじんあいだでも風土記ふどきたいする関心かんしんたかまっていた[24]。『畿内きないこころざし編纂へんさん企画きかくしたせき衡もまた、そうした研究けんきゅうたずさわった一人ひとりであり、18世紀せいき初頭しょとう多数たすう出現しゅつげんした近世きんせい偽作ぎさく風土記ふどき[25]真贋しんがん判定はんてい論争ろんそうくわわっていた。こうしたてんからえば、『畿内きないこころざし編纂へんさん前提ぜんていとなる18世紀せいき初頭しょとうにおける地誌ちし編纂へんさん思想しそうは、17世紀せいきまつ以来いらい日本にっぽん地理ちりたいするさい認識にんしきまえたものだったのである[26]

徳川とくがわ吉宗よしむね政権せいけん文化ぶんか政策せいさく

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畿内きないこころざし』の編纂へんさんにおいて、もうひとつの背景はいけいとなるのは、徳川とくがわ吉宗よしむね政権せいけんにおける文化ぶんか政策せいさく地誌ちし編纂へんさんとの関係かんけいである[22]吉宗よしむね各種かくしゅ実用じつようてき学問がくもん関心かんしんしめ[27]書物しょもつ収集しゅうしゅう熱心ねっしんっただけでなく、紅葉山もみじやま文庫ぶんこ所蔵しょぞうされた書物しょもつ政策せいさく遂行すいこうふか関連かんれんして利用りようした[28]

書物しょもつ収集しゅうしゅうは、吉宗よしむね政権せいけんちゅうかえめいじられており、各種かくしゅ古文書こもんじょ探索たんさく収集しゅうしゅう書写しょしゃ収蔵しゅうぞう吉宗よしむね政権せいけん末期まっきまで継続けいぞくてきつづけられたが、たん典籍てんせき収集しゅうしゅうというにとどまるものではなかった。とくとおる20ねん1735ねん前後ぜんこう以降いこうの、青木あおき昆陽こんよう中心ちゅうしんとした広範こうはん古文書こもんじょ調査ちょうさでは、徳川とくがわ幕府ばくふ成立せいりつにまつわる資料しりょう調査ちょうさ収集しゅうしゅうへの関心かんしんくわわった[29]青木あおき中心ちゅうしんとする書物しょもつ収集しゅうしゅう事業じぎょうでは、たん収集しゅうしゅうするというだけでなく、家康いえやす神格しんかく不都合ふつごう記述きじゅつ削除さくじょさせるなど、意図いとてき訂正ていせいくわえることを前提ぜんていとしていた[30]。この時期じき吉宗よしむねは、綱吉つなよし編纂へんさんさせた『武徳ぶとく大成たいせい』をおおくの誤謬ごびゅうふくむとして批判ひはんする一方いっぽうで、林家はやしやめいじて史料しりょう収集しゅうしゅうさせ、『御撰ぎょせん大坂おおさか軍記ぐんき』(のべとおる2ねん1745ねん〉)を編纂へんさんさせていた。このことにられるように、とおる20ねん以降いこう古文書こもんじょ調査ちょうさ徳川とくがわ幕府ばくふ成立せいりつあらたな叙述じょじゅつ目指めざした事業じぎょう一環いっかんであった[29][31]

よしはじめはまた、地誌ちし政治せいじじょう実用じつようせいたか評価ひょうかあたえており、収集しゅうしゅうした書籍しょせきなかでも地誌ちしおおきな比率ひりつめている[32]。このうち、中国ちゅうごくかたこころざしでは、とおる6ねん1721ねんごろから収集しゅうしゅう輸入ゆにゅうがはじまり、どう10ねん1725ねん)から13ねん1728ねん)に大量たいりょう輸入ゆにゅうられたことが注目ちゅうもくされる[33]が、この背景はいけいにあったのは薬草やくそう見分けんぶん中心ちゅうしんとする全国ぜんこく産物さんぶつ調査ちょうさであった。薬草やくそう見分けんぶん輸入ゆにゅう開始かいしされるのと前後ぜんごするとおる5ねん1720ねん)に開始かいしされ[34]同年どうねんからたかられき3ねん1753ねん)まで途切とぎれることなく、なおかつ幕府ばくふりょう寺社じしゃりょうはんりょうべつかかわりなくおこなわれた全国ぜんこくてき政策せいさくであった[35]。しかしながら、その事前じぜん準備じゅんび段階だんかいで、調査ちょうさにあたって植物しょくぶつめい比定ひてい参考さんこうとなりうる日本にっぽん地誌ちしいことが発見はっけんされたとかんがえられている[36]前述ぜんじゅつ中国ちゅうごくかたこころざし輸入ゆにゅう増加ぞうか時期じきには、中国ちゅうごく本草ほんぞう全集ぜんしゅうともうべき『庶物しょぶつ類纂るいさん』の増補ぞうほ作業さぎょうめいじられ[37]たが、そのさいには中国ちゅうごくかたこころざし所載しょさい植物しょくぶつめい和名わみょう比定ひていする作業さぎょうおこなわれていた[36]。これらのことから、吉宗よしむね政権せいけん地誌ちし収集しゅうしゅうは、植物しょくぶつ見分けんぶんにあたって参照さんしょうすべき典拠てんきょとして中国ちゅうごくかたこころざし利用りようするためのものとかんがえられている[38]注目ちゅうもくされるのは、薬草やくそう見分けんぶん遂行すいこうたずさわった本草学ほんぞうがくもの野呂のろ元丈げんじょうが『畿内きないこころざし』の編纂へんさん終始しゅうし関与かんよしていることであり[39]、『畿内きないこころざし編纂へんさん薬草やくそう見分けんぶんをその一部いちぶとする薬草やくそう政策せいさく[40]との関連かんれん指摘してきされている[36][39]

編纂へんさんいたぎょう

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こうした背景はいけいのもと、『畿内きないこころざし』の編纂へんさん開始かいしされた。本書ほんしょはもともとせき衡が企画きかくしたものだったが、実現じつげんることなく死去しきょしたため、その遺稿いこういだ並河なみかわまことしょ事業じぎょうすすめた[41]本書ほんしょ編纂へんさん関係かんけいする史料しりょう初出しょしゅつは、とおる14ねん1729ねん)3がつ大岡おおおか忠相ただすけより老中ろうじゅう水野みずの忠之ただゆき提出ていしゅつされた上申じょうしんしょおよび、それにえられた並河なみかわ願書がんしょである。上申じょうしんしょ記述きじゅつから、この時点じてん幕府ばくふ並河なみかわ編纂へんさんすでめいじていたとえ、それにおうじて並河なみかわ草稿そうこう12さつ提出ていしゅつくわえ、まわりむら調査ちょうさ実施じっし願出ねがいで調査ちょうさたいする諸種しょしゅ支援しえん要望ようぼう願書がんしょしるしている[42]まわりむら調査ちょうさ同年どうねん4がつ20日はつか許可きょかされ、勘定かんじょう奉行ぶぎょうおよび寺社じしゃ奉行ぶぎょうれんしるしによる書付かきつけあたえられるとともに、書付かきつけうつし関係かんけいする領主りょうしゅ役所やくしょ回付かいふされた[43]。こうした所領しょりょうをまたがる調査ちょうさたいする幕府ばくふ許可きょかはこれがはじめてではなく、前述ぜんじゅつ青木あおき昆陽こんようらの調査ちょうささいおな形式けいしき踏襲とうしゅうされている[44]調査ちょうさとおる16ねん1731ねんごろまでおこなわれ、その重点じゅうてんは、神社じんじゃ墓地ぼち地名ちめいにおかれていたとられる[45]。こののち並河なみかわは『畿内きないこころざし』の編纂へんさん着手ちゃくしゅするが、調査ちょうさ結果けっかにもとづき並河なみかわおこなったのはそれだけではない。並河なみかわはまた、畿内きない各地かくち顕彰けんしょう建立こんりゅうすることを幕府ばくふねがて、摂津せっつこくうち延喜えんぎ式内しきないしゃ20しゃかぎ許可きょかたが、そのにも忠臣ちゅうしん墓所はかしょ顕彰けんしょう建碑けんぴつづけた[46]

編纂へんさんはまず『河内かわうちこころざし』『和泉いずみこころざし』『摂津せっつこころざし』の3さつ完了かんりょうし、とおる18ねん1733ねん)に幕府ばくふ献上けんじょうされた。のこりの『山城やましろこころざし』『大和やまとこころざし』はよくとおる19ねん1734ねん)3がつ5にち完成かんせいし、同年どうねんの7がつには吉宗よしむねからぎん10まい下賜かしされて、編纂へんさんろうねぎらわれた[47]並河なみかわまわりむら調査ちょうさおなとおる14ねん(1729ねん)にいたぎょう許可きょかていた。そこで、とおる20ねん1735ねんうるう3がつにさっそく『河内かわうちこころざし』をいたぎょうし、板本はんぽん幕府ばくふ献上けんじょうしたが、ここでひとつの問題もんだいきた。板本はんぽん献上けんじょうほん比較ひかくしたところ異同いどうがあり、徳川とくがわ家康いえやす登場とうじょうする箇所かしょ板本はんぽんからは削除さくじょされていたのである[48]幕府ばくふとおる7ねん1722ねん)の触書ふれがきしん板書ばんしょぶつ規制きせいおこなっていたが、そのなかで「人々ひとびと家筋いえすじ先祖せんぞこととく家康いえやすふく徳川とくがわかんする書物しょもつ一切いっさい出版しゅっぱんきんじられていた。そのため、並河なみかわもこの規制きせいしたがい、板本はんぽんから家康いえやすかんする部分ぶぶん削除さくじょしていたのである。この異同いどうたいする対処たいしょ指示しじもとめた大岡おおおか忠相ただすけたいし、幕府ばくふとおる7ねん触書ふれがきから方針ほうしんてんじ、興味きょうみ本位ほんいあつかいでないかぎ徳川とくがわかんする出版しゅっぱん規制きせいしないとの方針ほうしんしめした。こうした方針ほうしん転換てんかんと、とおる20ねん前後ぜんこうからの徳川とくがわによる徳川とくがわ幕府ばくふ成立せいりつへの関心かんしんとは無関係むかんけいではなく、吉宗よしむねは『畿内きないこころざし』に産物さんぶつ調査ちょうさだけでなく、徳川とくがわ幕府ばくふ成立せいりつ史料しりょうとしての機能きのうをも期待きたいしたのである[49]。こうした経緯けいい帰結きけつとして、歴史れきし地域ちいきとの関係かんけい物語ものがた書物しょもつという、あらたな性格せいかく地誌ちししょうじてることになった[50]。また、前述ぜんじゅつとおる20ねん(1735ねん以降いこう古文書こもんじょ調査ちょうさ特質とくしつとあわせてかんがえるならば、この方針ほうしん転換てんかんは、家康いえやすを「あずまあきら神君しんくん」として特定とくてい仕方しかた利用りようする、吉宗よしむね政権せいけんあずまあきら神君しんくんイデオロギー活用かつようむすいたものであった[31]

いたぎょうよくとおる21ねん1736ねん)にわたってつづけられ、完成かんせいした板本はんぽん紅葉山もみじやま文庫ぶんこ収蔵しゅうぞうされる一方いっぽう幕府ばくふ当初とうしょ献上けんじょうされた稿本こうほん並河なみかわ返還へんかんされたことにより、板本はんぽん正本しょうほんとすることが明確めいかくにされた[49]

畿内きないこころざし』の思想しそう影響えいきょう

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完成かんせいした『畿内きないこころざし』、正式せいしきには『日本にっぽん輿地よちどおりこころざし畿内きない』のまきだいいちには「山城やましろ国之くにゆきいち」(『山城やましろこころざし』)がおさめられており、その冒頭ぼうとうには「日本にっぽん輿地よちどおりこころざし凡例はんれい」と「うえ ぬの政所まんどころしょ」の2へん収載しゅうさいされている。「うえ ぬの政所まんどころしょ」は、幕府ばくふへの上申じょうしんしょ体裁ていさいかれた序文じょぶんであり、編纂へんさん経緯けいいべられている。神武じんむ東征とうせい以来いらい国土こくど掌握しょうあく歴史れきし念頭ねんとうに、風土記ふどき散逸さんいつなげいたせき衡が地誌ちし編纂へんさんんだが、こころざしなかばにしてった。そこで、その遺志いしいで編纂へんさんおこなったと並河なみかわしるしている。国土こくど掌握しょうあく統治とうち)との関係かんけい地誌ちし必要ひつようせいかたるこの序文じょぶんは、太宰だざい春台しゅんだいや、『会津あいづ風土記ふどき』(寛文ひろふみ6ねん〈1666ねん〉)の思想しそういだものである。だが、『会津あいづ風土記ふどき』が編纂へんさんされた17世紀せいきはんにおける地誌ちし編纂へんさんは、儒教じゅきょうへのつよ傾倒けいとうしめ一部いちぶはんにおける領国りょうごく地誌ちしかぎられており、地誌ちし編纂へんさん思想しそう全国ぜんこくてき影響えいきょうをもつのは18世紀せいきたなければならなかった[51]並河なみかわ独自どくじせいは、本書ほんしょを『日本にっぽん輿地よちどおりこころざし』と命名めいめいし、実際じっさいには畿内きない5かこくにしかおよばなかったにせよ、全国ぜんこくおよ地誌ちし編纂へんさん射程しゃていおさめたところにある。たしかに日本にっぽん全国ぜんこく地誌ちし構想こうそうかたった知識ちしきじんは、本書ほんしょ以前いぜんにもはやし鵞峯がほう太宰だざい春台しゅんだいらがられる。だが、それらの知識ちしきじんは、具体ぐたいてき方法ほうほうろんしめすにいたらず、地誌ちし編纂へんさんたいする理解りかい抽象ちゅうしょうてき水準すいじゅんにとどまっていた[52]。そうした意味いみで、自分じぶん自身じしん幾許ここらなりとも実践じっせんこころみ、のみならずその成果せいかいたぎょう普及ふきゅうをも実現じつげんさせた知識ちしきじん並河なみかわ嚆矢こうしであろう[53]

本文ほんぶんは『大明だいめい一統いっとうこころざし』にならった構成こうせいをとり、漢文かんぶんしるされている。『大明だいめい一統いっとうこころざし』は17世紀せいきまつから18世紀せいきはつにかけて紀州きしゅうはん藩儒はんじゅ翻刻ほんこくされたことにより、かつてとはことなって入手にゅうしゅ容易よういになっていた。前述ぜんじゅつした17世紀せいきまつから18世紀せいきはつにかけての畿内きないでのみんせん地誌ちしでも中国ちゅうごくかたこころざしならった構成こうせいをとるものがあり、『畿内きないこころざし』もそうしたみんせん地誌ちしおおきくはおなながれに位置いちしている。しかしながら、地誌ちしとはことなって本書ほんしょただちに広範こうはん影響えいきょうこし、『畿内きないこころざし』にならった構成こうせい項目こうもく漢文かんぶん使用しようなどを地誌ちし多数たすうあらわれた[54]。ここまでてきたように、本書ほんしょ並河なみかわせき企画きかく幕府ばくふ公認こうにん支援しえんあたえたものではあるが、幕府ばくふいのちによって編纂へんさんされたものではないと意味いみまくせん地誌ちしとはえない[55]。にもかかわらず、並河なみかわ死後しごに『河内かわうちこころざし訂正ていせいねがいがされたさいまくかく吉宗よしむね判断はんだんあおいだ。すでいたぎょう流布るふされた書物しょもつ訂正ていせいするのは容易よういではないから放置ほうちするのか、あるいは『河内かわうちこころざし』を公事こうじ証拠しょうことうもちいないようあらためてさわすのか。判断はんだんもとめられた吉宗よしむねは、『畿内きないこころざし』は並河なみかわ個人こじん著作ちょさくであって、訂正ていせいする必要ひつようはないと回答かいとうした[56]。こうした経緯けいいるに、吉宗よしむね自身じしん認識にんしきはさておき、まくかくふくめた一般いっぱん認識にんしきにおいては、その編纂へんさん事業じぎょうおおくの便宜べんぎ費用ひようあたえられた『畿内きないこころざし』はまくせん地誌ちしであるとの認識にんしき存在そんざいしていたとえよう[57]並河なみかわいたぎょうねがたとき、そのねらいを「他国たこく地理ちりこころざし編集へんしゅうつかまつこうしゃ」が容易ようい入手にゅうしゅ閲読えつどくできるよう普及ふきゅうさせることをげていた[58]が、そうした企図きとは、『畿内きないこころざし』が地誌ちし編纂へんさんのテキストとなされ、ながくにわたって参照さんしょうされつづけたことによって実現じつげんたのであった[50]

研究けんきゅう

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畿内きないこころざし研究けんきゅう嚆矢こうしは、幸田こうだ成友しげとも大阪おおさか朝日新聞あさひしんぶん紙上しじょう連載れんさいした「並河なみかわまことしょ畿内きないこころざし」(1903)[59]で、いで室賀むろが信夫しのぶの「並河なみかわまことしょ畿内きないこころざしいて」(1936)[60]により、並河なみかわ本書ほんしょかんする事実じじつ関係かんけい紹介しょうかいがなされた。しかしながら、阿部あべ真琴まこと論考ろんこう江戸えど時代じだい地理ちりがく」(1932)[61]以来いらい通説つうせつてきになされてきた近世きんせい日本にっぽん地誌ちしたいする理解りかいでは、まくはん領主りょうしゅによる地誌ちし編纂へんさん政治せいじせい指摘してきされつつも、その内容ないよう否定ひていてき評価ひょうかくわえられてきた[62]ため、研究けんきゅう途絶とだえ、田代たしろ善吉ぜんきち並河なみかわいちおきなはかおよ伝記でんき」(1920)[63]高橋たかはしさとしたかられき明和めいわ地方ちほう文化ぶんかろん」(1985)[64]などのわずかな文献ぶんけんげられるにとどまった。

だい世界せかい大戦たいせん地方ちほう研究けんきゅう進展しんてんとともに、地方ちほう地域ちいき先行せんこう研究けんきゅうとして近世きんせい地誌ちしさい評価ひょうかはじまり[65]藤田ふじたさとし[66]地誌ちしふくむ19世紀せいき前半ぜんはん書物しょもつ編纂へんさん歴史れきし意識いしきにまつわるイデオロギー操作そうさ着目ちゃくもくすることを提唱ていしょうし、この提唱ていしょうけた研究けんきゅうてきている。しかしながら、白井しらい哲哉てつや埼玉さいたま県立けんりつ博物館はくぶつかん学芸がくげいいん)の指摘してきするところによれば、これらの研究けんきゅうには、史書ししょ歴史れきし意識いしき)と地誌ちし地理ちり意識いしき)を無造作むぞうさ一体いったいあつかっていることや、近世きんせい地誌ちし歴史れきし全体ぜんたいぞう解明かいめい着目ちゃくもくがない、といった問題もんだいてん[67]があるほか、個々ここ地誌ちし具体ぐたいてき成立せいりつ過程かていあきらかにされず、地理ちりがくにおいても積極せっきょくてき評価ひょうかあたえられてこなかった[68]。こうした状況じょうきょうのもと、『畿内きないこころざし研究けんきゅうもほとんどすすんでこなかった。関連かんれんする研究けんきゅう主題しゅだいとしてくに絵図えず研究けんきゅうがあり、1970年代ねんだいくに絵図えずとおして国家こっかろんあさまく関係かんけい身分みぶん編成へんせいなどのしょ分野ぶんや研究けんきゅう活性かっせいされて以来いらい、1980年代ねんだいから1990年代ねんだい川村かわむらひろしただし黒田くろだ日出男ひでお藤田ふじたさとしらのにより成果せいかげられたてきた[69]が、『畿内きないこころざし編纂へんさんへの言及げんきゅうられない[70]本書ほんしょ編纂へんさん背景はいけいとなる17世紀せいきまつから18世紀せいきはつにかけての近世きんせい研究けんきゅう活発かっぱつしているが、そのなかでも研究けんきゅうすすめられておらず、白井しらい哲哉てつや[71]井上いのうえ智勝ともかつ[46]らの業績ぎょうせきにより、ようやく本格ほんかくてき研究けんきゅういとぐちについた状況じょうきょうである[72]

書誌しょし

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  • 版元はんもと - 松村まつむらきゅう兵衛ひょうえ大坂おおさか)、茨城いばらき衛門えもん京都きょうと)、小川おがわ彦九郎ひこくろう江戸えど[73]
  • 刊行かんこうねん - とおる20ねんから21ねん
  • ぜん61かん
    • まきいちからまきじゅう - 山城やましろこころざし
    • まきじゅういちからまきじゅうろく - 大和やまとこころざし
    • まきじゅうななからまきよんじゅうさん - 河内かわうちこころざし
    • まきよんじゅうよんからまきよんじゅうはち - 和泉いずみこころざし
    • まきよんじゅうきゅうからまきろくじゅういち - 摂津せっつこころざし

活字かつじほん翻刻ほんこく

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  • 並河なみかわ ひさし正宗まさむね 敦夫あつお編纂へんさん校訂こうてい、1929-1930、『畿内きないこころざし』(うえなかした)、日本にっぽん古典こてん全集ぜんしゅう刊行かんこうかい → 1978、現代げんだい思潮しちょうしゃ覆刻ふっこく 日本にっぽん古典こてん全集ぜんしゅう
  • あし じんへん、1929、『だい日本にっぽん地誌ちし大系たいけい だい18かん』、雄山閣ゆうざんかく

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c 西村にしむら[1956]
  2. ^ a b c d e 藤本ふじもと[1985]
  3. ^ a b c 和田わだ[1993]
  4. ^ 白井しらい[2004: 65]
  5. ^ a b 塚本つかもと[1982: 46]
  6. ^ こう埜[1994: 5]
  7. ^ a b c 塚本つかもと[1982: 47]
  8. ^ a b 塚本つかもと[1982]
  9. ^ a b c d e 白井しらい[2004: 67]
  10. ^ 杉本すぎもと[1999: 153]
  11. ^ 杉本すぎもと[1999: 168]
  12. ^ 杉本すぎもと[1999: 190-191]
  13. ^ a b 杉本すぎもと史子ふみこ元禄げんろくこく絵図えず作成さくせい事業じぎょう歴史れきしてき位置いち」[1999: 168-195]
  14. ^ 杉本すぎもと[1999: 191-192]
  15. ^ a b 杉本すぎもと[1999: 192-193]
  16. ^ 杉本すぎもと[1999: 270-271]。ここで近世きんせい成立せいりつまでの「くに概念がいねんとは、(1)古代こだいれいせいこく由来ゆらいする領域りょういき概念がいねん、(2)戦国せんごく大名だいみょう封建ほうけんてき領有りょうゆうたる「ぶんこく」「領国りょうごく」、(3)豊臣とよとみ徳川とくがわによる天下てんか統一とういつのもとで大名だいみょう領国りょうごく古代こだい中国ちゅうごく諸侯しょこうなぞらえたもの、(4)職人しょくにん編成へんせい軍事ぐんじ徴発ちょうはつ単位たんい、と整理せいりされるが[杉本すぎもと 1999: 261-262]、(1)も特定とくてい主体しゅたいはなされた近代きんだいてき意味いみでの領域りょういき概念がいねんではなく[杉本すぎもと 1999: 284-285]、概念がいねんもまたたんなる客体かくたいではなく、一種いっしゅ自然しぜん法的ほうてき存在そんざいとしてとらえられるものであった[杉本すぎもと 1999: 262]。
  17. ^ a b 川村かわむら[1990: 226]
  18. ^ a b 紙屋かみや[1990]
  19. ^ 杉本すぎもと[1999: 194]
  20. ^ こう埜[1994]、杉本すぎもと[1999: 192-193、194]
  21. ^ a b こう埜[1994]
  22. ^ a b 白井しらい[2004: 65]
  23. ^ 白井しらい[2004: 67-68]
  24. ^ a b 白井しらい[2004: 68]
  25. ^ 谷沢たにさわ[1985]
  26. ^ 白井しらい[2004: 69]
  27. ^ 大石おおいし[2001 :68-69]
  28. ^ 大石おおいし[2001: 68-75]など
  29. ^ a b 白井しらい[2004: 73]
  30. ^ 白井しらい[1997: 102][2004: 72-73]
  31. ^ a b 白井しらい[1997: 103]
  32. ^ 日比野ひびの 丈夫たけお [1977]「徳川とくがわ幕府ばくふによる中国ちゅうごく地方ちほうこころざし蒐集しゅうしゅう」(日比野ひびの、『中国ちゅうごく歴史れきし地理ちり研究けんきゅう』、同朋どうほうしゃ出版しゅっぱん 所収しょしゅう)、大庭おおば おさむ [1984]『江戸えど時代じだいにおける中国ちゅうごく文化ぶんか受容じゅよう研究けんきゅう』(同朋どうほうしゃ出版しゅっぱん)。
  33. ^ 白井しらい[2004: 74]
  34. ^ 大石おおいし[2001: 159]
  35. ^ 大石おおいし[2001: 166-169]
  36. ^ a b c 白井しらい[2004: 78]
  37. ^ 大石おおいし[2001: 74]
  38. ^ 白井しらい[2004: 78]
  39. ^ a b 白井しらい[1997: 102]
  40. ^ 大石おおいし[2001: 159-180]
  41. ^ 白井しらい[2004: 79]
  42. ^ 白井しらい[2004: 80]
  43. ^ 白井しらい[2004: 81-82]
  44. ^ 白井しらい[2004: 71-72]
  45. ^ 白井しらい[2004: 86]
  46. ^ a b 井上いのうえ[2000]
  47. ^ 白井しらい[2004: 88]
  48. ^ 白井しらい[2004: 90]
  49. ^ a b 白井しらい[2004: 92]
  50. ^ a b 白井しらい[2004: 95]
  51. ^ 白井しらい[2004: 60]
  52. ^ 白井しらい[1997: 101]
  53. ^ 白井しらい[2004: 93]
  54. ^ 白井しらい[2004: 94]
  55. ^ 白井しらい[2004: 97]
  56. ^ 白井しらい[2004: 96-97]
  57. ^ 白井しらい[2004: 97]。今日きょう歴史れきし学事がくじ辞典じてんるいでもそうした認識にんしきられ、西村にしむら[1956]、藤本ふじもと[1985]は幕府ばくふによる「かんせん」であるとしている。
  58. ^ 白井しらい[2004: 89]
  59. ^ 幸田こうだ[1972]所収しょしゅう
  60. ^ 室賀むろが[1936]
  61. ^ 阿部あべ[1932]
  62. ^ 白井しらい[1997: 99]
  63. ^ 田代たしろ
  64. ^ 高橋たかはし[1998]所収しょしゅう
  65. ^ 塚本つかもと まなぶ [1976]「地域ちいき研究けんきゅう課題かだい」(『日本にっぽん研究けんきゅう方法ほうほう』、岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ講座こうざ日本にっぽん歴史れきし 別巻べっかん2〉)、山本やまもと英二えいじ [1990]「浪人ろうにん由緒ゆいしょ偽文書ぎぶんしょ苗字みょうじ帯刀たいとう」(『関東かんとう近世きんせい研究けんきゅう』28 所収しょしゅう)など。
  66. ^ 藤田ふじた さとし、1989、『天保てんぽう改革かいかく』、吉川弘文館よしかわこうぶんかん日本にっぽん歴史れきし叢書そうしょISBN 4-6420-6538-5
  67. ^ 白井しらい[1997: 100]
  68. ^ 白井しらい[2004: 4]
  69. ^ 杉本すぎもと[1999: 154-155]
  70. ^ 白井しらい[2004: 64]。たとえば川村かわむら[1990]や杉本すぎもと[1999]。
  71. ^ 白井しらい[1997][2004]など
  72. ^ 以上いじょう研究けんきゅうかんして白井しらい[1997: 99-100][2004: 64]による。
  73. ^ 本節ほんぶし記述きじゅつ藤本ふじもと[1985]による。

文献ぶんけん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 大石おおいし まなぶ、2001、『吉宗よしむねとおる改革かいかく』、東京とうきょうどう出版しゅっぱん ISBN 4-4902-0427-2
  • 紙屋かみや あつしこれ、1990、『まくはんせい国家こっか琉球りゅうきゅう支配しはい』、校倉あぜくら書房しょぼう歴史れきし科学かがく叢書そうしょ〉 ISBN 4-751-71990-4
  • 川村かわむら ひろしただし、1990、『くに絵図えず』、吉川弘文館よしかわこうぶんかん日本にっぽん歴史れきし叢書そうしょ〉 ISBN 4-642-06646-2
  • 白井しらい 哲哉てつや、1997、「近世きんせい政治せいじ権力けんりょく地誌ちし編纂へんさん」、『歴史れきしがく研究けんきゅう』703かん青木あおき書店しょてんNAID 40003814153 pp. 99-106
  • —、2004、『日本にっぽん近世きんせい地誌ちし編纂へんさん研究けんきゅう』、おもえぶんかくおもえぶんかく史学しがく叢書そうしょ〉 ISBN 4-7842-1180-2
  • 杉本すぎもと 史子ふみこ、1999、『領域りょういき支配しはい展開てんかい近世きんせい』、山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ ISBN 4-634-52030-3
  • こう利彦としひこ、1994、「いちはち世紀せいき前半ぜんはん日本にっぽん - 泰平たいへいのなかの転換てんかん」、『近世きんせい3』、岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ講座こうざ日本にっぽん通史つうし13〉 ISBN 4-00-010563-9
  • 谷沢たにさわ おさむ、1985、「畿内きないこく風土記ふどき成立せいりつ - 逸文いつぶんぐん年代ねんだいかん中心ちゅうしんとした『諸国しょこく風土記ふどき成立せいりつかんする研究けんきゅう』の序章じょしょう」、『駿台すんだい史学しがく』(64)、NAID 40002010329 pp. 95-148
  • 塚本つかもと まなぶ、1982、「綱吉つなよし政権せいけん歴史れきしてき位置いちをめぐって」、『日本にっぽん研究けんきゅう』236かん(1982.4)、NAID 40002929542 pp. 38-56
  • 西村にしむら 睦男むつお、1956、「畿内きないこころざし」、河出かわで書房しょぼうへん)『日本にっぽん歴史れきしだい辞典じてん4』、河出かわで書房しょぼう p. 466
  • 藤本ふじもと あつし、1985、「畿内きないこころざし」、国史こくしだい辞典じてん編集へんしゅう委員いいんかいへんへん)『国史こくしだい辞典じてん5』、吉川弘文館よしかわこうぶんかん ISBN 4-642-00505-6 pp. p.602
  • 和田わだ 萃、1993、「畿内きないこころざし」、『日本にっぽんだい事典じてん3』、平凡社へいぼんしゃ ISBN 4-582-13103-4 p. 202

関連かんれん文献ぶんけん

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  • 幸田こうだ 成友しげとも、1972、『幸田こうだ成友しげとも著作ちょさくしゅう』6、中央公論ちゅうおうこうろん
  • 高橋たかはし さとし、1998、『民衆みんしゅう豪農ごうのう - 幕末ばくまつ明治めいじ村落そんらく社会しゃかい』、未來社みらいしゃ ISBN 4-6241-1088-9
  • 室賀むろが 信夫しのぶ、1936、「並河なみかわまことしょ畿内きないこころざしいて」、『りん』21かん3・4ごう京都きょうと帝国ていこく大学だいがく文学部ぶんがくぶ
  • 阿部あべ 真琴まこと、1932、「江戸えど時代じだい地理ちりがく」、『歴史れきし地理ちり』60かん5・6ごう
  • 田代たしろ 善吉ぜんきち、1920、「並河なみかわいちおきなはかおよ伝記でんき」、『歴史れきし地理ちり』36かん6ごう

関連かんれん項目こうもく

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  • 椿井つばい文書ぶんしょ - 偽文書ぎぶんしょとしてられる椿井つばい文書ぶんしょは、1800ねん前後ぜんこう畿内きない影響えいきょうりょくのあった畿内きないこころざし典拠てんきょであると錯覚さっかくさせるような形式けいしきをとって作成さくせいされた。

外部がいぶリンク

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