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太田おおたさとしねむり

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太田おおた さとしねむり(おおた かくみん、1866ねん10月24にち慶応けいおう2ねん9月16にち) - 1944ねん昭和しょうわ19ねん11月30にち)は、明治めいじ時代じだいから昭和しょうわ時代じだい戦前せんぜん)のそう伊勢いせこく三重みえけん四日市よっかいち出身しゅっしん東京とうきょう外国がいこく学校がっこう現在げんざい東京外国語大学とうきょうがいこくごだいがく卒業そつぎょう

年譜ねんぷ[編集へんしゅう]

浄土真宗じょうどしんしゅう本願寺ほんがんじ法泉寺ほうせんじ四日市よっかいち京町きょうまち建立こんりゅう)の16せい僧侶そうりょ[1]。その生涯しょうがいロシアこうむふるモンゴル)での布教ふきょう活動かつどうささげた近代きんだい傑僧けっそうである[2]

にち戦争せんそう前年ぜんねん1903ねん明治めいじ36ねん)、ひらききょう使としてロシアのウラジオストクうらしお本願寺ほんがんじ駐在ちゅうざいとなる。開戦かいせん直前ちょくぜん1904ねん明治めいじ37ねん)2がつ渡航とこうしていたおおくの日本人にっぽんじん日本にっぽん政府せいふからの引揚ひきあ命令めいれいされ、各地かくち赴任ふにんしていたひとがウラジオストクに集結しゅうけつした。しかし遠隔えんかくゆえに最終さいしゅう引揚ひきあせんわず、多数たすう残留ざんりゅうしゃた。そのさい、ウラジオストク日本にっぽん貿易ぼうえき事務じむかん川上かわかみ俊彦としひこからの即時そくじ帰国きこく勧告かんこく退しりぞけ、本尊ほんぞん阿弥陀如来あみだにょらいぞう背負せおい、シベリアを横断おうだんして、ロシア帝国ていこく政府せいふにより、ウラル山脈さんみゃく山中さんちゅう監禁かんきん抑留よくりゅうされていた800にんほどの日本人にっぽんじん救出きゅうしゅつし、日本にっぽん送還そうかんした。講和こうわにシベリアにもどり、布教ふきょう再開さいかいした。1934ねん昭和しょうわ9ねん帰国きこく1936ねん昭和しょうわ11ねん)ラマそう指導しどうするためうちモンゴルにはいり、ラマそう補導ほどう育成いくせいつとめた。1944ねん昭和しょうわ19ねん11月30にちラマ教らまきょう寺院じいん死去しきょ享年きょうねん79[3]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • のびゆく四日よっか
  • 四日市よっかいち市制しせい111周年しゅうねん記念きねん出版しゅっぱんほん四日市よっかいちいしずえ111にんのドラマとその横顔よこがお
  • 大樹たいじゅそだひゃくねん四日市よっかいち市制しせい100周年しゅうねん記念きねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 大樹たいじゅそだつ』117ぺーじ1ぎょう
  2. ^ 大樹たいじゅそだつ』117ぺーじ2ぎょう-3ぎょう
  3. ^ 四日市よっかいちいしずえ111にんのドラマとその横顔よこがお」52ぺーじ-53ぺーじ